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拾遺集(37) Aus meinem Papierkorb, Nr. 37


用語の改変 'airbrushing'

先ごろ新聞で、
「チョコレート工場の秘密」の英作家作品、容姿の表現を出版社が改変
と題して、
英紙テレグラフ(電子版)は17日、「チョコレート工場の秘密」などで知られる英作家ロアルド・ダール(1916~90年)の作品中の表現が、出版社側の判断で改変されていると伝えた。「太った」「醜い」など容姿を形容する言葉のほか、ジェンダーや肌の色に関する表現が対象となっている。一方、改変についてはスナク首相が「加工すべきでない」と述べるなど問題視する声も出ている。
とはじまる記事が掲載されていた。(毎日新聞 2023/2/22)

「英紙テレグラフ」の日本語版を覗いてみた。

「チャーリーとチョコレート工場」に登場するオーガスタス・グループの容姿は「巨大」(enormous)と表現され、全ての本から「太った」(fat)という言葉が削除された。
「The Twits」(邦題「アッホ夫婦」)では、ミセス・ツィット(アッホ夫人)についての「醜くて野獣のよう」という描写から「醜くて」(ugly)が削除され、シンプルに「野獣のよう」となった。「変なアフリカの言語」という表現からは「変な」(weird)が削除された。
ビッグ・フレンドリー・ジャイアント BFG が着ているコートの色は黒ではなくなり、メアリーに関する「white as a sheet」(顔が真っ青、シーツのように白い)という表現は「still as a statue」(じっとしている)に変更された。
また、メンタルヘルスを重視した結果、「クレイジー」や「狂っている」(mad)という言葉も削除されたと、テレグラフは伝えている。

これには賛否両論の声が多く上がった。「より面白くなった」「作品を見直すのは非常に良いこと」との意見がある一方で、「馬鹿げた検閲だ」「不快なら、風化するがままにすべきだ」「不快な思いをするなら、絶版にすればいい」などの批判が相次いだ。

ダール氏の作品の見直しは「ロアルド・ダール・ストーリー・カンパニー」RDSC と出版社「パフィン・ブックス」Puffin と、そして児童文学における包括性とアクセシビリティを目指す団体 Inclusive Minds が連携して行った。
変更した出版元、RDSCの広報担当者は、
「ロアルド・ダールの素晴らしい物語とキャラクターが、確実に現代のすべての子どもたちに愛され続けるようにしたい」とした。
「何年も前に書かれた本を新たに出版する場合に、本のカバーやページのレイアウトといった他の細かい部分を更新すると同時に、使用されている言葉を見直すことは珍しいことではない」
さらに、「私たちの基本理念は、ストーリーやキャラクター、もともとの文が持つ不敬で鋭い精神を維持することだ」と付け加えた。

と主張しているが、それに対してスナク首相が「文学作品は元のかたちで残すべきで、現在の感覚に合うよう《エアーブラシをかける》ものではない」と反対の声をあげたこともあり、大きなニュースになったようだ。
Deploying language from The BFG, one of Dahl’s most beloved stories, the Prime Minister said works of literature should be preserved in their original form and not “airbrushed” for modern sensibilities. (telegraph.co.uk/politics/2023/02/20
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これは、実は文学作品を翻訳・評論する者が、日ごろ直面している問題である。はばかりながら私のことで言えば、最近フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーの "Robinien" について解説文のようなもの(ニセアカシア Robinien)を書いたが、この作品は流浪の民ジプシーが登場して、さまざまな姿で描かれている。さて、このテキストの Zigeuner をどう訳すべきか。

そこでも書いたが、20世紀の後半になり、「民族差別のニュアンスが含まれるジプシーという呼称はやめて、彼らが自らを指す名称「ロマ」(Roma) を用いるようになった。ドイツ語圏ではこの漂泊民族に二つの流れがある。15世紀頃から定住したシンティ (Sinti) と、19世紀後半に流入してきた系統だ。だから現在ドイツでは Sinti und Roma と併記して呼ばれるのが一般」である、と。だが私は、この作品原文の Zigeuner は、あえてそのままジプシーと翻訳した。

「ジプシー」という語は日本語のなかでも使用されなくなりつつある。けれども、別の語におきかえると、元のテキストの文脈の中での意味を伝えられないし、ロマとかシンティという呼び方が本当にいいのか(*)、という疑問もある。

これも上のエッセィで書いたが、わが国では音楽、ドラマ、文学を通じてジプシーを知るようになった。シューマンの歌曲「流浪の民」Zigeunerleben をはじめとして、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」Zigeunerweisen、さらにはメリメの小説をもとにした歌劇「カルメン」などである。こうした作品の影響を受けて内田百閒は「サラサーテの盤」(1947年) という不思議な短篇小説を書き、これをもとに鈴木清順によって映画「ツィゴイネルワイゼン」(1980年) が撮られた。

ユンガーの作品にはここかしこでジプシーが登場する。例えば、『アスパラガスの季節』末尾は印象的だ。北から湿原の上を渡ってきたツル、青い秋の空にくっきりと見える。「我々の頭上にくると、二人のジプシー娘は腕を振り上げ、合図をし、群れに向かって私が理解できない言葉を叫んだ。スカートをつまみ、両手で持ち上げ、道に沿って踊って行った」 娘たちはツルのダンスを真似ていたのだった。「ツルはきっとそのダンスを見ただろう、と思った。私は湿原へ向かいながら内に幸福感がこみ上げてきた・・・湿原を吹き渡る風は秋の涼しさであった」(アスパラガスの季節 Spargelzeit)の一文で物語は閉じられる。

ジプシーという民族名の他に、少し古いドイツの小説などを読んでいると、今では使用しない方がいいのではと思われる言い回しが出てくる。これを翻訳するとき、頭を悩ませることがある。前項で扱った『ベルーガ』でも、サモエードの女性が登場する。その場面で、登場する若い男性が、
彼は何か指輪かネックレスか、あるいはガラスの数珠をプレゼントしたかった、未開のあるいは半未開の民族の娘たちに贈るようなものを。しかし何も持ち合わせてはいなかった。
Er hätte ihr gern etwas geschenkt, einen Ring, eine Kette oder auch Glasperlen, wie man sie den Mädchen wilder und halbwilder Völker schenkt, aber er hatte nichts bei sich. (S.112)
wild という形容詞は辞書では「未開の、野蛮な、野性的な」、そして wilde Völker は「未開民族」「蛮族」という訳語が与えられている。「野蛮」という語を避けて「未開」ならいいとも言えまい。これもあくまでも西洋文明を基準とした評価であろう。

いまの時代に書く文章で、放浪者や路上生活者を「ジプシー」と譬えることはやめることができる、やめた方がいい。だが、昔の作品の場合は、さまざまなケースがあるようだ。例えば、美しいジプシーの踊り子エスメラルダ(Esmeralda)をヒロインとするヴィクトル・ユーゴーの小説 Notre-Dame de Paris, 1833 は、英語では "The Hunchback of Notre-Dame" 日本語では『ノートルダムのせむし男』と訳された。いまはオリジナル直訳の『ノートルダム・ド・パリ』というタイトルになっている。

最近ではこんな例もある。これは書籍ではなく、舞台のミュージカルのタイトル。Gypsy Rose Lee (born Rose Louise Hovick, 1911-1970) の回想録をもとに、1959 年にブロードウェイのミュージカル Gypsy: A Musical Fable となった。これをこのたび日本語で公演するにあたって、《Musical『GYPSY』》というタイトルになっている(**)。なるほど、英語の綴りそのまま使うのか。発音しない『』だけが日本語(?)か。

翻訳ではなく、もともと日本語の書物でも、五十年、百年以上の時間が経った古い時代のものは様々な表現上の問題がある。書き換えられたものも散見されるが、多くは事情を説明してそのままに出版されている。例えば、
南方熊楠『十二支考』岩波文庫
 1994年1月17日 第 1 刷発行
 1997年10月6日 第 10 刷発行
[編集付記]
本書中に、地域・民族・階層・身体・精神的資質などに関して不適当な表現が見られるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした。(岩波文庫編集部)
翻訳では、
レマルク『西部戦線異状なし』新潮文庫
 昭和三十年九月二十五日 発行
 平成十九年一月二十五日 六十六刷改版、平成二十年五月十日 六十七刷
「あとがき」のうしろ
本作品中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また訳者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(新潮文庫編集部)
というような断り書きが付けられている。妥当な対処と言うべきか。
* コラム No.48 フランスの「ジプシー」と「ロマ」
左地亮子(国立民族学博物館)
https://nichifutsu-socio.com/column/column-48/
** Musical『GYPSY』
2023年4月 東京、5月大阪などで公演
主催・製作:TBS/サンライズプロモーション東京
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[追記]
2/28(火) 18:58 配信の BBC News に掲載された記事。
 英作家ロアルド・ダール氏の作品、オリジナルのまま出版継続へ
  修正に批判殺到で

出版社 Puffin の親会社ペンギンブックスの決断らしい。
パフィンを所有する英ペンギンブックスのフランチェスカ・ダウ編集長は、「我々はこの1週間の議論に耳を傾け、ロアルド・ダールの本が持つ並外れた力を再確認すると共に、別時代の物語が新しい世代にとって意味あるものであり続けるにはどうしたらよいのかという、きわめて現実的な問題を再確認した」と説明した。

ネスチューキン Nestjukin

――『ベルーガ』続き/"Beluga" Forts. ――

前々項でフリードリヒ・ゲオルク・ユンガーの『ベルーガ』を取り上げ、アメリカの蒸気船《ミルウォーキー》号が機関の故障のため極地の島に停泊した数日間の出来事を辿りつつ、船長ホッグス、その甥のウィリアム、操舵士のミケルセンと、ロシア領ノヴァヤ・セムリャ島に駐在する皮革・毛皮の仲買人ネスチューキン、家事を担っているサモエードの女性トゥーガという登場人物を眺めていった。

5人の登場人物のそれぞれ平凡でない思考と振舞いに驚きを覚えながら、特に不思議なネスチューキンなる人物の人間像に改めて焦点を当てた。一見、極北の生活になじんで生きているように見えるが、実は、代理人として扱う品物以外に私的に集めた高級な皮革をうまく売りさばいてまとまった金額を入手し、極地を脱出して都市の雑踏の中に戻りたい、と熱烈に願っているのである。

物語の結末部分で、機関の故障を修復した《ミルウォーキー》がノヴァヤ・セムリャ島を離れて行くとき、手元の毛皮を首尾よく売りさばいたネスチューキンが、島の最も高い岩の先端に現れ、
身じろぎもせずに、急な傾きで海へ落ちる斜面に立って、蒸気船を見送っていた。いつも以上に彼はクマに似ていた。だが彼は灰色や茶色や黒や白のクマではなかった;彼は降りかかる日の光に魔法をかけられ、どこからどこまでも黄金のクマであった。(S.129)
と、人を驚愕させる不思議な姿を見せたのである。

黄金のクマとは何だろう。ここで思い出したのは、この作品を含む最初の短編集「ダルマチアの夜」(1950年) について、アンドレアス・ガイアーが、ユンガーの神話研究・哲学研究と機械文明批判との関連で論じていた(*)ことだ。ガイヤーは短編集8作のうち、『ダルマチアの夜』を《神話の勝利 Triumph des Mythos》、『ベルーガ』を《神話対技術 Mythos versus Technik》、『壁と壁の間で』を《技術対自然 Technik versus Natur》と、それぞれの切り口を設定して分析 (Geyer S.164f.) していた。すなわち Mythos と Technik と Natur という、当時のユンガーの思索のテーマと関連付けて読んでいるのである。

ユンガーは第二次大戦中、神話・哲学研究に打ちこんでいた。その時期に出版された著作をリストアップすると、
『ギリシャの神々ーーアポロ、パン、ディオニュソス』
 -- Griechische Götter. Apollon - Pan - Dionysos. 1943
『ティターネン(ティターン神族)』
 -- Die Titanen. 1944
『技術の完成』
 -- Die Perfektion der Technik (1939 執筆, 1946 出版)
『ギリシャ神話』
 -- Griechische Myten. 1947
『ニーチェ』
 -- Nietsche. 1949
このような思索の流れの中での執筆であることを考えると、崖の上で黄金のクマとなって踊るネスチューキンは確かにディオニュソスである。だがこの場面に至るまで、彼にディオニュソス的なところがあっただろうか。農耕と酒と踊りのうち農耕を漁労と置き換え、豪華な食事、上等の酒に注目すれば、ネスチューキンは酒神になるだろうか。

短篇集の表題作『ダルマチアの夜』(ダルマチアの夜 Dalmatinische Nacht 参照)のアレキサンダーは、最初に登場する時からディオニュソスである。物語の冒頭、主役である〈語り手〉がモンテ・ヴィペラから下山して、宿所としているブドウ園に向かう。その家は、
海に突き出た小高い丘の明るい果樹林の中にある。階段までアレキサンダーが迎えに出てくれていた。その姿は沈み行く夕日の中で赤々と燃えていて、まるで炎の柱のように、まるで赤い斑岩でできた記念碑のように光の中に立っていた。人間とは見えず、ぎざぎざに縁取られた火炎で出来ているようだった。(S.64f.)
『ダルマチアの夜』は地中海(アドリア海)を、『ベルーガ』は極地を舞台としている。ギリシャ神話になぞらえるなら、地中海の方が有利だろう。アレキサンダーはブドウを栽培し、ワインを醸造する人間で、紛れもなくディオニュソスの属性を備えている。一方、極地では農耕やワインは無理で、代わりにネスチューキンは極上の水産物と蒸留酒(ウォッカであろう)を持っている。強靭でかつしなやかな身体の持ち主だから、ダンスはできる。このように対比すれば、両者はパラレルに見えないこともない。

ガイアーは、『ベルーガ』が『ダルマチアの夜』とは物語の舞台が地中海と北極と著しく変わるが、――「よく見ると」auf den zweiten Blick と断って――諸状況 Konstelationen はそっくりである、『ダルマチアの夜』ではユンガー独特の神話の援用が前面から退くことはないが、『ベルーガ』ではユンガーの技術批評への歩みも、明確に進行している、と言う。 (Geyer S.167)

『ベルーガ』は技術批判が主題になっているというわけである。たしかに『ダルマチアの夜』と比べると、《ミルウォーキー》の乗組員のうち、ホッグス船長は、正確を重んじ曖昧を許さない技術人間だ。あとの二人は船長ほどは徹底せず、操舵士は少し外れ、ウィリアムはかなり外れて、だが技術側にはいる。この布置はノヴァヤ・セムリャのネスチューキンが反技術、サモエードの女性トゥーガは『ダルマチアの夜』のブドウ園で料理役として働くソフィアに相当し、操舵士のミケルセンは下働きのパウリッチュに、該当すると見なせるだろう。

だが、ネスチューキンが極地を脱出して都市の雑踏の中に戻りたい、と熱烈に願うのはどうしてなのか。極地の生活を送ってきて「時間などもはや存在しなかった、少なくとも計測できる時間は」「今日と明日を誰が決めたいと思うだろうか? 疲れたら寝る、空腹で喉が渇けば食べて飲む」という暮らしになっていた。この地での真夜中の太陽、終わらない昼のせいで、日常生活に時間の区切りを置くことが無意味になってしまっている。
一日の、正確な、いつも繰り返す――正確さは繰り返しである――割り振りというものは彼にはもう無かった。時間はなにか重要でないもので、重要でないということは空間がより大きくなったことでもう示されていた。ここはすべて空間で、この空間では時間はかろうじて細い細い流れ、わずかな滴の落下、内なる耳にかろうじて聞き取れるだけになった。時間は消え、空間がやたらと大きく現れる、長い冬のまばゆい氷と雪の空間が、短い夏の土、石、水の空間が。(S.100)
時計の針をいっさい気にしない生活、正確な繰り返す時間はもうない。時間は消え、やたらと大きく現れる空間。ここを逃れたいと思うのはなぜか。

ホッグスには、最初の出会いからネスチューキンがまったく相性の悪い人間だった。何をするか分からない人間に見えた。
肉体的にはこの男は確かにすごい強さがある、それに柔軟さが合わさってすべての力を倍にしている。狡猾でもある、キツネかイタチのように狡猾だ、そしてクマのような肉体に、いかにしてか小さな動物の魂が入り込んでいる。それが奴のうちで休みなくうろついている。逞しくて狡い、節度のない人間だ。これこそホッグスがこの地上で一番の不快を感じる混淆だ。彼の中核は――彼はどちらにも偏しない人間だから――そのような人間には我慢がならない。だがそれはどのような中核だろう? それは人間をはっきりわかる動機によって判断する中核、人間を透明に、具体的に、測定でき、計算できることを求めるものだ。ホッグスのような、明確な命令語を話すことに慣れた、二重の意味とか二義的なものを身の回りで見たくない男は、計算にたよるのだ。いったい一人の人間、理解できる計算に従っていないそんな人間と仕事の話が決められるのか? (S.106f.)
サモエードの娘、トゥーガについて、じろじろ見るのは良くないだろうと、ホッグスもウィリアムもネスチューキンに対して気を使ったが、
ネスチューキンは嫉妬に悩まされたことはなかった。人がどう思おうと、彼は充足した人間だった、ここらでよく言われるような男女の事において、彼には「名誉にかかわること」point d'honneur(**) はなかった。そしてそれ以外には? ホッグスが彼について異質に感じるのもこの充足であって、それはホッグスの思う、目に見え、把握でき感じられる、果物かごと豊穣の角で描かれるものではなく、可能性と同時に不可能性の充足を包み込んでいる充足だった。 (S.110f.)
「果物かごと豊穣の角」とは、ギリシャ・ローマ世界で、花や果実を収穫する時に用いられた角型の籠を指し、豊かさの象徴である。

明確な基準によって判断する技術側の人間から見ると、充足しているくせに空っぽであるようなネスチューキンは、異質なものでしかあり得ない。「クマのような肉体に、キツネかイタチの魂が入り込んでいる」存在としか見えない。だが最初の出会いで、このような観察と評価ができるのは、ホッグスも凡庸な人間ではない。

極地の、時間のない空間だけの世界を脱出したい、氷の世界を脱出して都市の雑踏の中に戻りたい、とのネスチューキンの願いはどこからくるのか。それは神話世界から人間世界への移行なのか? ガイアーはこう見る、
一見したところネスチューキンの将来の理想はディオニュソスからの離反、ディオニュソスの属性の売り尽しに見える。だが、よく見ると、底意のある帰結が露わになる。大衆教育はユンガーの構想では技術のさらなる進歩と不可分に結びついている。技術の完成はまたも――たとえユンガーが明確に述ることはめったにないにしても――人類の没落へと不可避的に向かわせるのである。
Auf den ersten Blick erscheint Nestjukins Zukunftsideal als Abfall von Dionysos, als Ausverkauf dionysischer Attribute. Erst der zweite Blick enthüllt eine perfide Konsequenz. Die Massenbildung ist in Jüngers Konzeption untrennbar mit dem zunehmenden Fortschritt der Technik verknüpft. Die Perfektion der Technik wiederum steuert -- auch wenn Jünger das nur selten so explizit formuliert -- unweigerlich auf den Untergang der menschlichen Gattung hin. (Geyer S.170)
さて、このガイアーの読みは妥当なのか。技術批判がテーマであることは認めるとしても、ネスチューキンの都市回帰の願いに、そこまでの意味を担わせているのだろうか。人間の雑踏の中に戻りたいという希望は何を意味するのか。ユンガーは大都会の人々の動きについて、ベルリンのシーンであるが、「休むことのない行進を見ていると、それが正確な時計に従っていることに気づいた。そしてそれが従属する力学に注意を引かれた。この忙し気な動きは何のためなのか?」(『年月の鏡』Spiegel der Jahre, S.15) と自問する。ユンガーは、個を失い大衆と化した人間の群れ、これを技術・産業の進展が生み出したものとみる。

物語はクジラ漁の情景から始まる。組織化されたチーム、帆船とボートと網、多くの漁師たちがクジラを追い込んでゆく。これは人間の技術が自然のクジラを捕獲し、殺戮する場面である。ガイアーも指摘しているが、『技術の完成』に捕鯨について書かれた箇所がある。ユンガーは人間が資源を入手する時、すなわち鉱物・動物・植物の採掘・狩猟・収穫には資源を枯渇させないための規制を行う組織が必要となると言う。
ここで捕鯨を例に選んだのは、これが特に不快なケースであるからに他ならない。というのも人間が大量の海の哺乳動物を、水という自然の、その力と豊富と快活を具体化した動物を、石鹼や鯨油に加工するために追い回すのは、不快なものがある。
Wir haben den Walfang nur deshalb als Beispiel gewählt, weil er einen besonders widrigen Fall darstellt. Denn es hat etwas Widriges, daß der Mensch die ungeheuren Meeressäugetiere, welche die Macht, den Überfluß und die Heiterkeit des Elements verkörpern, nur mit dem Gedanken verfolgt, sie zu Seife und Tran zu verkochen. (Perfktion S.25)
《ミルウォーキー》から小舟に乗り移って、上陸しようとした三人はその「不快な」捕鯨シーン、残酷な殺戮の現場を目の当たりにする。「浅瀬に、岸辺の砂と砂利に乗り上げ、絶望的に筋肉をばたつかせ、らせん状に進んで行きながら、自分の肉体を破滅に向かわせ」浅瀬に乗り上げる。
その時始まっていたのは殺戮の狂宴で、湾が畜殺場に変わった、純然たる殺意の発揚だった。勝ち誇った「ベルーガ! ベルーガ!」の叫びは止んだ、漁師たちはみな岸に殺到し、急いで仕事に取り掛かったからだ。長い鋭いナイフでクジラに向かい、熱い湯気の立つ血潮が岸辺にまき散らされ、白いベルーガをどぎつい赤の旗々で染めた。
[・・・]
ベルーガは魚のように黙って死ぬのではなく、死にあっても哺乳動物であることを示した。死との戦いにあって、あえぎ、ため息、うめきを漏らし、痛みを遠くまで感じさせる振舞いをした。いたる所からこのうめきが聞こえてきて、それが次第に小さくなり、息のように空中に消えていった。もっと驚くべきことはそのとき多くの涙を流すことだ;ベルーガの眼は涙に溢れ、大きな粒が丸い頭部を流れて砂に落ちた。(S.97f.)
残酷な殺戮シーンである。ホッグスは興奮して一種の酩酊状態がこみ上げてくる。操舵士に「このクジラはどれほどの値打ちなのだ?」と尋ねた。ミケルセンは「十五ドルは確実で、二十ドルになるかも知れません」と答える。ウィリアムは打ち上げられたクジラのところへ走って、ベルーガの眼から溢れ流れる涙を見る。

資源化のために自然を殺戮する人間組織の暴虐、それに対する批判の眼ははっきりとある。だが、《ミルウォーキー》の先端技術、そして技術側に居るとされるホッグス船長は、読者にとって否定的に映るだろうか。最新式蒸気船の細かい描写、ホッグス船長が、クジラの値段を気にするところ、時間に厳密なところ、「金は時なり」であるような人柄は読者の反感を呼ぶような描写になっているだろうか。物語の結末でシベリア猫と過ごす場面などは、むしろ親しみを覚える描き方ではないか。
ホッグスは自分の船室に座って、背を曲げて立っている大きなシベリア猫を見ていた。ウィリアムはこの猫に《ベルーガ》という名を与えたが、その名が長すぎるように思えたホッグスは、今は《ルクス》と名付けることに決めた。船長は両手を組み合わせて親指をぐるぐると回した、ぐるぐると、ぐるぐると。そしてミケルセンは上甲板をあちらこちらと歩いた、あちらこちらと、あちらこちらと。(S.131)
当時ユンガーが本格的に取り組んでいたニーチェの《永遠回帰》"ewigen Wiederkehr" ないしは《回帰の輪》"Ring der Wiederkunft"の教説とどう関係するのだろうか。ユンガーの神話論のテキストを直接読めていないので、この問題をこれ以上追及するのは無理なようだ。
[使用テキスト]
Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 1 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.90-131]
Ders.: Die Perfektion der Technik. (Vittorio Klostermann GmbH. 1944 / 8., um ein Nachwort vermehrte Auflage 2010)
Ders.: Spiegel der Jahre, Erinnerungen. (Carl Hanser Verlag, 1958)
[註]
* Geyer, Andreas: Friedrich Georg Jünger : Werk und Leben (Wien ; Leipzig : Karolinger, 2007)
** point d'honneur: 名誉(面目)にかかわること、Punkt der Ehre とドイツ語で言うより、恋情に関わる問題はフランス語の方が適切なのだろう。