拾遺集(36) Aus meinem Papierkorb, Nr. 36修道僧の生涯 Mönchsleben『修道僧の生涯』はユンガーの第二短篇集「クジャクとそのほかの物語」(Die Pfauen und andere Erzählungen, 1952) の、最後から二番目に収められた作品である。副題に示されるように、司書ヴァレーシ Bibliothekar Varesi から高齢の神父 Vater V. に生涯の出来事を綴って欲しいと懇請された手紙への返信という体裁になっている。実在の人物が実際に書いた手紙という見掛けだが、手紙はおそらく創作で、神父も司書も架空の人物であろう。書き出しで、神父の健康不安を伝える報道に接した司書の、健康状態を気遣う質問に答えて、自分はすこぶる健やかだ、長い人生で一日たりとも病に倒れたことはない、と伝えるところから返信が始まっている。 きょうは私の八十歳の誕生日です。老修道士が自分の独居房を清掃するに相応しいときでしょう。真冬には遠くまで景色が見渡せます、木々が葉を落とすからです。それゆえ遠い昔のことを考えます。過ぎ去ったものは平穏です、音が無くなります。過ぎ去ったものは寡黙です、沈黙は心を明るくし、その平穏にはどこか明るいところがあります。(S.115)生涯の出来事を語るようにと促されても、自分の人生にはこれといった出来事・事件は無かったし、語るべきことはないのだが、若い時のことだけに限るということで折り合いをつけようと述べて、幼少期のことから始め、そして修道院に入ることを決めた経緯について詳しく語る。 トリノで生まれ育ち、一人っ子で両親の愛情をたっぷり受けて成長したこと。身体も丈夫で球技やフェンシングにも秀でた「ダンディと呼ばれるような若者」であった。学業も特に苦労することなく身につけていった。優れた先生方にも恵まれ、ラテン語がよく分かり、ギリシャ語がしっかりできるようになった、と述べる。 そうした若者がなぜ修道士になろうとしたのか。それには不思議な体験がきっかけとなっている。十八歳の夏の、とても暑い日のこと、サッカーの試合を終えて帰宅し、渇きをうるおすためキッチンでコップにジュース注ぎ、廊下に出て自室に向かうが、壁にかかる大きな鏡に映る姿を目にしてがく然とする。 コップを持って、大きな壁鏡のある廊下に出ました。通りすがりに鏡を見ました。鏡に見えたものが何かは分かりませんが、驚きが私を捕らえ、振り向き立ち止まって自分の鏡像を見ました。ジュースの入ったコップを手に立っている姿――私はコップをしっかり持ち続けていました――突然自分にこう言ったのです:あれはお前ではない、お前であるわけがない。鏡からこちらを見ているほてった顔が見知らぬものに見え、どうにも見覚えが無く、見知らぬ他人、何のかかわりもない他人の顔に見えた。近づいてみた、だがそれでも知った顔にはならなかったので、こう自問した:あれがお前なら、お前は誰なのだ? 私はコップをテーブルに置き、自室に入って椅子に座った。(S.117)鏡に映った自分の姿が自分でない、自分の鏡像が自分でない、何の前触れもなくこんな不思議が生起したのである。そのまま自室に入って椅子に座った。大きな脱力感が襲ってきた。「私はいまこの瞬間に死ぬのだ、死がもうここまできている、という揺るぎない確信」があった。 どれくらい座っていたのか、言うことはできません、なにしろ時間の感覚がなく、もはや何も見ず、聞かず、匂わず、自分の人生は終わるのだ、間もなく砂時計の最後の砂一粒が落ちるのだという確信にとらえられていました。しかし私は死にませんでした、私のなかで何かが死に、破滅し、戻ることはありませんでした。(S.118)不思議な現象である。歴史をさかのぼれば鏡にまつわる不思議は古くから人々を惑わせている。ドイツの民俗学では、家で死者が出ると、死者の魂が家に残らないように鏡に覆いをかぶせるという記録が伝えられている。民衆の鏡に対する不思議の感覚、畏怖の念、これはもちろんドイツやヨーロッパにかぎったことではなく、おそらく全世界でみられるだろう。我が国でも〈神鏡 しんきょう〉や〈八咫鏡 やたのかがみ〉などがある。 ものを映すという働き自体がそもそも不思議なのだ。姿を映す、姿を二重化する鏡の、その鏡像を人類はどう受容してきたのか。ギリシア神話の水面に映った像に惑わされたナルシス。そして童話『白雪姫』(1810) の鏡の不思議はよく知られている。『鏡の国のアリス』(1871) は不思議の国を冒険した少女アリスが鏡を通り抜けて異世界に迷い込む物語。ドイツは魑魅魍魎、百鬼夜行の国で、童話のみならず文学作品にも鏡の不思議は頻出する。この類の物語を〈鏡影奇譚〉と分類して、怪奇物語中の一分野に位置づけることもあるようだ。現在のように鮮明に姿を映す鏡ができたのはガラス面に金属のめっきを施す製造法が確立された19世紀半ばのこと。それまでの多く鏡が映す像は鮮明さに欠けたものだった。それ以前の鏡が作家のイメージに反映していたことだろう。 例えばユンガーも愛読したロマン派の作家E・T・A・ホフマンの『廃屋』では手鏡が重要なモチーフになっている。主人公は行商人から小さな円い手鏡を買う。それを使っていると、子供のころ父の部屋の大きな鏡に自分を映していると、「子供が夜に鏡をのぞき込んだりすると、鏡の中から見知らぬ怖いにらみつけて、二度と鏡から目を離せなくなる」と乳母に脅されてベッドに追われたことを思い出す(この挿話は『砂男』でも、主人公の妹の乳母の言葉として、少し変奏されて、出てくる)。そして、新しく買った手鏡で廃屋の窓辺に立つ美しい女性を映し見ると、燃えるような目がこちらを見つめていて心を刺し貫くのである。 ホフマンはまたこのモチーフを逆転させて、鏡に姿が映らなくなった男の話『大晦日の夜の冒険』を書いている。これはナポレオン戦争が終わってベルリンの大審院に復帰したホフマンが、敬愛するシャミッソーの評判作『ペーター・シュレミールの不思議な物語』に触発された作品で、すなわち日射しの作る影、その<影を失くした男>に対して<鏡像を失くした男>の物語を仕立てたのであった。オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」ジュリエッタの幕の題材となったのでよく知られるようになった物語であろう。 さて、学校の成績もよく球技やフェンシングにも秀でた、十八歳の「ダンディと呼ばれるような若者」がこれほどの衝撃を受けて、「私はいまこの瞬間に死ぬのだ、死がもうここまできている、という揺るぎない確信」を持たせたものは何か。スポーツに汗を流し、若い生命が充実した瞬間に、「あれはお前ではない、お前であるわけがない。鏡からこちらを見ているほてった顔が見知らぬものに見え、どうにも見覚えが無く、見知らぬ他人、何のかかわりもない他人の顔に見えた」「あれがお前なら、お前は誰なのだ?」と、こうした反応を引き起こした現象とは何か。これまでに民話や文学で語られた鏡像現象とはいささか異なったものに見える。 見覚えの無い鏡像を見たために、通常の市民の生活を棄てて、修道士としてしか生きられないと思ったのはなぜか。トリノ大学の物理学教授であった父親の懸命の説得、修道士として貧者、病者を助けるのもいいが、大学で医学を修めて医師に成れ、「医師として、お前は彼らをもっとよく助けることができるだろう」という説得を振り切って修道院に入ったのはなぜか。 この短篇で、自分でない自分の鏡像をどう解釈し、評価すればよいのか。ほとんどお手上げというしかないが、一つこじつければ、ユンガーの個人的な経歴が連動しているとみるのはどうか。志願兵として従軍した第一次大戦のフランドル戦線での、前後あるいは左右数十センチの差で生死を分ける苛酷な体験。戦後、家族は住み慣れた故郷を離れ、彼はライプツィヒ大学で法学を学び、司法官としての経歴を始めたものの、第一次大戦後の混乱した日々の係争のなかに投げ込まれ、自分は裁判官にも弁護士にも成れないと思い知った。法律そのものが、自分が真っ直ぐに関与できる秩序ではない、自分が情熱をもって献身できるものではないと思い知って司法官の道を放棄したのであった。 この間の目まぐるしい生の変転は自分が自分にとって「見知らぬ fremd」ものとなる経験の連続だったと想像されるが、それがこの短篇での鏡像と結びつくと、決めてかかることはできない。作中でこの不可思議を体験した老修道士みずからがこう言う、「このことをどう説明すればいいのか?」「冷静な観察者なら幻覚と呼ぶだろう、だが人間をすっかり別の人間に変えてしまった現象を幻覚ということはできない」と。われわれがどんな解釈を持ち出しても、「説明のつかないものを説明する」(S.119) 無謀な、まと外れな試みになるのかも知れない。 まと外れを恐れず、他の短篇の関連の有りそうな個所と比較して、解釈案をつけ加えてみよう。
老修道僧の手紙は、もう一つのエピソードで締めくくられる。 修道院入りを成し遂げてさほど時が経たない頃、路上で少女二人に悪ふざけを仕掛けられたことがあった。若い修道士にとって難しい状況だった。そんなやんちゃないたずらに対してどう振舞えばいいのか? 説教を聞かせる? 不機嫌に、不愛想に接する? それとも口のきけないロバのように歩き続ける? そのいずれでもなく、彼はこみ上げる笑いを押さえきれず身体をゆすって笑ったのである。少女たちは呆気に取られたが、この瞬間、少女の一人の顔が異常に明るいことに気付いた。「透視能力が働いて」彼女が眼病を患っていることに気付いた。盲人の顔が明るいのはなぜか、「自分自身が目であるから、そしてもし光を失っても、晴眼者よりもっと目になるから」で、盲人は「目の光の感覚でものを触るのではなく、その人自身が触覚になるのです」と。 修道士は二人の少女に挟まれて、道行く人が目を丸くするなか、高らかに歌を歌いながら病院に行った。 そして後に、彼は失明した少女のもとを訪れた。 私が近づいて行くと、足音で私だと分かった。頭を上げ、耳を傾け、突然笑い始めた。私も笑わずにはいられなかった。対面するとわれわれは笑った。長く続く楽しさだった。この幕切れのエピソードも場面に温かみを与えつつ、読者を不可思議な空間に導き出して宙づりにするものであろう。 [使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 2 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.115-130] 青い石 Der blaue Stein「若く愛すべきジチー伯爵令嬢の空想のひとつは、透明な青い石のなかで生きることであった」と、この短い物語は始まる。令嬢の名はアレキサンドリーネ、石は透きとおっていて、その中へ入ることを想像すると、心地良いのである。令嬢を知る者は、彼女が入っても石が曇ることはあるまいと付け加えたいほどで、それほど明るく優美な少女だった。令嬢の立居振舞の思わぬところで、優美さは不意に現れる。 それは見る者を喜ばせるのだが、時として、それ以外の一切を許容しない美の厳密さゆえに、喜びの中に何か痛々しさがあった。美しいのは、と痛みを覚えた者は自分に言いきかすかも知れない、一瞬の間だけだ。持続するものは何もない、それがすべて美しいものの前提だ。小鳥は決していつまでも歌い続けることはない。バラが年中咲いていれば、春という季節もないだろう。若い娘の花盛りは小鳥やバラより長く続くように見える。しかしつぼみはつぼみのままだとしおれる;しおれないためには、開花しなければならない。(S.131)美の厳密さ、ごく僅かでもずれたら美でなくなる、というぎりぎりの美とは、どのような美しさなのか。本人がそれを意識して振舞っているのではない。 アレキサンドリーネは軽さを求めなかった;彼女は軽やかであった、彼女の幸福はすべて明るいもの、透明なもの、浮遊しているものによって高められた。青い石は彼女には牢獄とは思えなかった;天空を仰ぐ人と変わることなく、閉ざされているとは思わなかった。ひょっとしたらこの青い石の住居は彼女自身の処女性に他ならなかった。ひょっとしたら年を取らない予感があったのかもしれない。(S.131)青い石の中も、青い空の下も彼女には異なることなく自由で軽やかだった。 青への偏愛となればわれわれはドイツ・ロマン派を思い浮かべる。特にノヴァーリス。この夭折の詩人の小説『青い花』はロマン派を代表する作品に、そして「青 blau」はロマン的な色彩の代表となった。 『青い花』(*)(ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン)の冒頭、主人公ハインリヒは、窓の外で風がざわつき、ときどき月の光が射すベッドで寝付かれずにもんもんとしている。ようやく明け方、戸外に薄明かりが兆すころになって、彼は夢の中へ入ってゆく。 彼は泉のほとりの柔らかい芝生の上にいた。その泉は空中に噴き上がって、そこで消え失せてしまうようだった。少し離れた所には、まだらな条紋の浮き出た青黒い岩山がそびえていた。彼を包んでいる日光は、普段のよりも明るく柔らかで、空は濃青色にどこまでも澄み渡っていた。しかし、彼の心をもっと強く惹きつけたのは、泉のすぐほとりに立って、その巾広い輝く葉を彼に触れていた一輪の背丈の高い淡青色の花だった。その花の周りには色とりどりの無数の花が咲いていて、芳香が大気を満たしていた。彼は青い花以外のものには目もくれず、言いようもない優しさをこめて、長い間じっとそれを見つめていた。(『青い花』薗田訳 18、19頁)ここでは「青黒い dunkelblau」「濃青色の schwarzblau」「淡青色の lichtblau の」と、青色が3通りのニュアンスで描写されている。『青い花』の草稿にこんな一行もある。
ハインリヒをこれほど惹きつけた「青い花」だが、そもそも人々は「青」をどのように見ていたのだろう。ドイツ語ウィキペディアで "blau" を検索するとヨーロッパでの青色の歴史にも触れて、様々な絵画と文学の例を引き解説している:
『青い花』に先立って時代に大きな影響を与えたのはゲーテの書簡体小説『若きヴェルテルの悩み』 Die Leiden des jungen Werthers, 1774 である。主人公ヴェルテルは失恋の末に自殺するが、この本を読みヴェルテルをまねて自殺するものが多数現れ、彼が身につけていた《青い燕尾服に黄色いチョッキとズボン》というファッションが一世を風靡したのである。 ゲーテは色彩について深い関心を持っていた。近代科学の機械論的世界観に批判的で、色彩についての議論では光を波長によって物理的にのみ把握するニュートン光学は許容できない理論であった。同じくドイツ語ウィキペディアによると、 ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに由来する色彩論は彼の著作「色彩論」に含まれている。その中で色彩の本質についての長年にわたる考察、文献研究、実験を叙述している。ゲーテは色彩という現象を物理的な一面だけで、あるいは単に美学的とか実際的な見地からだけで判断したり説明しようとはせず、それを全体として把握し叙述しようとした。 『色彩論』(1810) に付された図版 ゲーテの色彩環は、赤を頂点としながら黄と青を両端とする三角形に、緑を下の頂点としながら橙と紫を両端とする逆向きの三角形が重ね合わされたものである。赤と黄の間に橙、赤と青の間に紫が配置される。この六角形では赤に対しては緑、黄に対しては紫、青に対しては橙が反対の所に位置している。 書き込み: (内側の輪) [rot] "schön" [orange] "edel" [gelb] "gut" [grün] "nützlich" [blau] "gemein" [violett] "unnöthig" (外側の輪) [rot-orange] "Vernunft" [gelb-grün] "Verstand" [grün-blau] "Sinnlichkeit" [violet-rot] "Phantasie" [https://ja.wikipedia.org/wiki/] ミシェル・パストゥロー『青の歴史』(**)はこの色彩の歴史を、広い視野と長いスパンで跡付け、ギリシャ・ローマあるいはキリスト教中世からの青色の受容・使用を詳細に分析記述している。古代社会の基本の三色は「赤・白・黒」であって、染色が始まっても染めるのは「赤と黄色」であった。西洋の青色の使用について、この書の「まえがき」で、こう述べている。 古代の人々にとって、この色はあまり重要ではなく、ローマ人にとっては不快で卑しい色でさえある。野蛮人の色なのだ。ところが今日、緑と赤にはるかに勝り、青は全てのヨーロッパ人が最も好む色である。つまり何世紀にもわたる間に、価値の完全な逆転が起こったのである。(パストゥロー 7頁)青色の歴史を、第1章・起源から12世紀まで、第2章・14世紀まで、第3章・15~17世紀、第4章・18~20世紀と辿ってゆく。ロマン派の前段階とロマン派の時代については第4章で書かれている。天然染料「インジゴ」indigo の自由な使用、人工顔料「プルシアン・ブルー」Prussian Blue の発見、そして青に筆頭の地位を与える色彩象徴体系の定着、これにロマン主義運動が果たした役割を指摘する。 十八世紀に、染色と絵画において新しい色合いの青が流行したことにより、ヨーロッパ各地でついに青がお気に入りの色となった。それはとくにドイツ、英国、フランスで顕著であった。この三国ではとくに宮廷と都市において、早くも一七四〇年代以後、流行の服飾のなかで青は最も多く使われる三色のひとつ(ほかは灰色と黒)となった。(パストゥロー 148頁) さて、『青い石』のジチー伯爵令嬢に戻ろう。 ある日のこと両親の邸でパーティーがあり、多くの客が招かれた。彼女は客の一人と庭園を散歩した。それが誰なのかわからないし、名前すら知らなかった。暖かい六月の夏の日で、池には白いスイレンが咲いていた。彼女は知らない男性と言葉も交わさないでここまでやってきたことに驚いた。池を取り巻くカシの木の上をきらきら光る小鳥が猛スピードで飛び交っていた。 「きらきら光る鳥がいるね」と傍の男が言った、「光に当たって宝石のように光るからあの鳥を輝き鳥とも呼ぶんだ」彼女は奇妙な衝撃を受けたように思った。いずれの出会いも再会じゃないの? どうして驚いたのかわからず、彼の顔を確かめつつ見た。彼は立ち止まって、彼女の視線に応えて言った。私たちも再会なのです。そして指から、美しいサファイアが嵌め込まれていた指輪を外し、彼女の指に挿した。 彼女は震え頬を赤く染めたが、言葉は出なかった。私は婚約したのだわ、と思った。指輪は、突然に結ばれた予期せぬ婚約のしるし以外の何だろう。何度も何度も思い描いていた青い石が、いま自分の手にある。彼女はあたかも透明の青い石から抜け出してきた気がして、泣きながら見知らぬ男の胸に倒れこんだ。彼は腕に抱きとめた。そして手を取り合って来た道を引き返した。その夜、彼女は病に倒れ、名医が呼び集められたが、三日後に、苦しむことなく、幸せに、何もやり残したことはないと感じつつ亡くなった。(S.133)アレキサンドリーネは、いきなりサファイアの指輪が指に嵌まり婚約が結ばれて、青い夢の中から出てきた。そして病に倒れ、死んでしまった。少女を間近に見る者が感じていた感懐、「ひょっとしたらこの青い石の住居は彼女自身の処女性に他ならなかった。ひょっとしたら年を取らない予感があったのかもしれない」、この予感がこんな形で実現したのか。ここで我々はドイツ・ロマン派の特異な死生観を想起することになる。例えばフリードリヒ・シュレーゲルの雑誌「アテネウム」に発表されたノヴァーリスのアフォリズム≪花粉≫ の15番。 生は死の始まりである。生は、死のためにある。死は、終焉であると同時に始原であり――別離であると同時に、いっそう密接な自己結合である。死によって還元が完成される。(『花粉』Nr.15 薗田訳 296頁)『青い石』はユンガーの第二短篇集「クジャクとそのほかの物語」(Die Pfauen und andere Erzählungen, 1952) の巻末に収められた、すなわち前項で取り上げた『修道僧の生涯』の後ろに置かれた、短編集を締めくくる原文2ページ半ほどのごく短い作品である。 使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 2 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.131-133) 橋 Die Brücke『橋』はユンガーの第四集で最後となる短篇集「帰還。四つの物語」(Wiederkehr. Vier Erzählungen, 1965) に収められたなかの一篇である。もう一つの『黒いゼニアオイ』についてはずいぶん昔に、「夏にお勧めのドイツの小説」として簡単に取り上げた(「黒いゼニアオイ」参照)ことがある。物語の舞台はドイツのある都市。街はずれに川を隔てて軍の駐屯地があり、市街地へは川に架かる橋を渡ってゆく。この駐屯地の士官、士官候補生たちが主たる登場人物。主人公ランセルトをはじめ、その同僚、先輩などの軍人、そして川向こうの市街地のスザンネはじめ自然博物店舗の人たち、店主も少年も、すべて独自のスタイルを持って生きている。みな風変わりな人間に見える。戦争が始まって三年目、ランセルトが小さな班のリーダーとして西部戦線に投入され、街を離れるが、やがて膝に銃弾を受けて戦傷者として戻って来る。かくて物語の舞台は大部分がこの町となる。 士官候補生のランセルトと同僚の友人ブレドウが街を歩きながら、戦死した駐屯地の仲間たちの話をするところから物語は始まる。 ベルマンは九月十五日に没した。その一週間後、二十二日にクルジウスとリヴィエールが没した。ベルマンは内向的な人間でわずかな者しか、もしかすると誰も付き合いがなく、彼の死は悲しみよりもさまざまな思いを残した。「彼は一人で死ぬことが」とブレドウは言った、「似合いだった、夜、塹壕の通路で。そして朝になってようやく発見されるのが彼らしかった」 そう言って、塹壕と墓との類縁を言い足した。ランセルトはその話し方から、ブレドウはベルマンを尊敬していたのだと感じ取った。ランセルトはこの士官と会ったことはなく、噂で耳にしていただけだった、名前は影に過ぎない、いやそれ以下だろう、なぜなら影はともかくその本体との繋がりを辿ることができるからだ。クルジウスとリヴィエールらとは面識があった。クルジウスは音楽の才能があり、さまざまなモチーフやメロディーを口笛で吹いたり、歌ったり、身振りを交えて演じたりした。そのようにして周囲の人を、特に友人のリヴィエールを楽しませた、クルジウスは彼の無二の親友だった。(S.166)戦死した仲間の思い出話から始まるが、駐屯地で士官候補生として教育を受けているランセルトと士官ズーダーとの印象的な出会いが物語の展開点となる。士官にも変人が多くて、中でも飛び切り奇矯な言動で目立つのがズーダーである。立居振舞、歩き方、発する言葉の端々にそれが出てくる。部隊の上官からも常に睨まれている。ある朝、カフェの前でたまたまランセルトはズーダーとすれ違う。その時はおざなりの仕草で形だけのあいさつを交わす。「我々は挨拶に気付くが、挨拶する人には気づいていない」 それから一時間ほどして、その仕官と二度目に出会った。散歩の途中、市の森を乗馬道に沿った小径を歩いていて、乗馬道を馬でやってくるズーダーと出会ったのだ。時は秋で、もう木の葉が落ち、ドングリが音を立てて葉の間を落下していた。細かい雨がパラパラと降っていて、木の葉の強い香りが空中にただよっていた。ズーダーは栗毛に乗っていて、タバコに火を点けようと外套のポケットのマッチを取るため右手袋を外して、それを落としてしまった。ちょうどランセルトの近くまで来ていて、手で合図して身を屈めた。「おや、なんと。士官候補生だな。しかも同じ連隊だ。手袋を拾ってくれ」(S.172)ランセルトはその、依頼というより命令調の要求に反発を覚えて、「私は手袋が見えません」と答えた。このやり取りを再度繰り返して、ズーダーは相手の意思を読み取り、名前を確認して馬を駆ってその場を立ち去った。士官の姿が見えなくなってから、命令ではなく自分の意思で、と自らに確認して、取得物として届けようと手袋を拾い上げた。 ところがその翌日、ランセルトが兵士に銃剣の訓練をしている場所に、ズーダーが現れた。ランセルトは士官の前に進んで任務の報告をした。 「よろしい、候補生、訓練については何もない。連中に訓練を続けさせなさい。こちらへ来てくれ」 二人は少し脇へよけて葉の落ちた一本のマロニエの下に立って、顔を見合わせた。「昨日のことは規律に外れていた」とズーダーは言った、「私は君に謝罪するため来たのだ。あれは無礼だったとためらわずに詫びる。これで事が済んだと納得して、忘れてくれるか? これで解決した?」(S.174)ランセルトは「まだ残りがあります」と言って、外套のポケットから手袋を取り出し渡した。ズーダーはびっくりし、そして驚きが感銘に変わる表情を浮かべた。「一つの教えだ、違うかい? もっと言えば範例だ。模範だ。さようなら、候補生」と手を差し出し、握手して去って行った。この出来事でランセルトはズーダーに共感を持つことになった。それは二度と失われることがなかった。 その次の日のこと、士官会議があり、名指しで少佐の叱責を受けたズーダーは剣に手をかけるような、激しく反抗的な態度をとって、自室で一週間の禁足という処分を受けた。それからしばらく後のこと、ランセルトは散歩から街の周辺まで戻って、ある庭園のレストランに入ったとき、思いがけずズーダー少尉に声を掛けられた。一週間の禁足が終わっていたのだ。連れの女性とテーブルに座っていた。「今日はこの駐屯地での最後の日だ。私の未来のために、一口飲んでくれ。今晩にも前線へ出る」 ちょうどシャンパンを注文したところだった。 このときズーダーと共にいた女性こそスザンネであった。ズーダーの突飛な物言いに、たじろぐことなく応答する彼女はランセルトに深い印象を与える。大きな目の持ち主で優美な佇まいであった。ズーダーがポケットから赤い宝石のついた指輪を取り出し、「別れのプレゼントだ」とそれを彼女の薬指にはめた。彼女は驚きと戸惑いを隠せなかったが、そのあと二本目のシャンパンを開けて、ランセルトは二人と別れた。 翌日、ランセルトは同じ時間に庭園のレストランに行った。昨日の秋の日の明るさはなく、風は速く冷たく、人気のない索漠とした庭を吹き抜けていた。 秋が深まったころ、周囲に信頼されていたガルセンが戦場で没した。これは中隊にとって大きな損失であった。彼は仕事に情熱をもつ建築家であった。誠実であって、非情に見えるところもあった。それゆえに信頼できる士官であった。ランセルトとブレドウは士官に昇進し、連隊司令官に報告に上がった際、司令官室に通じる長い廊下でガルセンの若い未亡人とすれ違った。ブレドウは言った。「彼女の表情が見えたか? 彼女はとても若く、黒いヴェールの奥ではさらに若く見える」 その三日後、二人はそろって前線へ発った。心地よく設えられた世界から、泥まみれの地下壕に潜って戦況をうかがう生活に一変した。秋は過ぎ、雪が降り、銃声と照明弾と地雷の世界。そんな中でズーダーの戦死を知る。そしてランセルト自身が膝に銃弾を受けて倒れる。ブレドウに助けられて陣地へ戻され、野戦病院を経て駐屯地へ戻った。 病院を出た後、旧市街に借りていた部屋で関節をもみほぐしたり、足を引きずって街路を歩き回り、膝のけがの回復に努めた。川沿いの道を歩き、橋の上に立って黒い水を見下ろした。旧市街と新市街の境界あたり、自然博物店舗の前で立ち止まって店内を覗いた。中で水槽や小鳥の世話をする娘が、あのスザンネであった。店に入って再会を果たしたが、戦死したズーダーについては触れることがなかった。 やがて、ランセルトの属している第二大隊が挟み撃ちの攻撃に遭って全滅したとの報が入る。親友のブレドウも、前線で親しくなった情報士官、天文学者で天文台の助手だったサンディも戦死した。戦傷で前線を離れていたランセルトは激しい衝撃を受け、生きているか死んでいるかはっきりしない夢見の状態に陥った。そんな中でスザンネとの距離が縮まってゆく。しかしそれもいつまでも続くわけではない。膝の怪我の状態が改善され、再び前線に出ることになった。その朝、雪の降る中、二人は橋の上で別れる。 ズーダー少尉の変人ぶりの一端は上で紹介したが、物語の冒頭で名が挙がった戦死者、ベルマン、クルジウス、リヴィエールもいずれも変わり者だった。駐屯地の士官たち、街の住民も、『橋』の登場人物のほとんどが風変わりな、あるいは奇矯な意見・行動の持ち主と言えるのではないか。 師団司令官の少佐は、背の高い立派な体格の男で、いまや年配の士官にだけ見られる丸く切りそろえた顎髭を生やしていた。その身のこなしにはどこか弾力があった;彼は歩兵部隊の士官ではなく、騎馬士官のように見えた。ランセルトには、騎士が自分の馬を轡と手綱で引きしめるように、自分の力を溜めているように見えた。剣に手をかけ上官に詰め寄るというズーダーの反抗に対して、一週間の禁足という穏やかな形に収めたのも彼の意思であった。 熱烈な釣り好きで「ケッヒァーフリーゲ」(Köcherfliege トビケラ、渓流釣りで餌として使われる)とあだ名され、普仏戦争で負傷した足を引きずって歩く古参の大尉も、奇妙な発言を連発して、ズーダー少尉に劣らず異彩を放っている。クラブハウスでの昼食前の会話で、軍医士官がその朝、射撃訓練場で事故が起きて、死者が出た話題を持ち出すと、「食事前にふさわしくない話題だ」と言うところまでは真っ当な意見だろうが、「それに何の益もない。死は長くも短くもない、高くも無ければ低くもない。そしてまた青くも緑でもない」「死ぬことについては、短いか長いか、軽いか重いかが語れる。死ぬこと (das Sterben) は生だが、死 (der Tod) はそうではない」と不可解な言い回しをする。 ランセルト、ブレドウが士官に昇進して、数日中に前線へ出立というときに、この大尉は二人を旧市街の居酒屋へ招待する。話題は司令官室の戦場地図に刺してあった針のことになって、それが境界を示しているという話から、「境界は至るところにある」「それをすべて知っている人間はいない。もし知っていたらもう一歩も進めないだろう。知らなければ滅亡する」と言う。鉄道の駅について語ると、「駅は待つところだ。来るのが早過ぎた旅行者は待つ、遅れてきた者は次の列車を待つ。彼は列車を待たねばならない、というのは列車は彼を待たないからだ。駅の時計は駅に合わせない、駅が時計に合わせる」と結論は謎めいている。 ランセルトが戦傷で町に戻ってきた後、この大尉と釣りに出かけた。ランセルトが舟の漕ぎ手となり、大尉が竿を使う川釣りだ。ウグイ、カワマスと釣り上げながらの大尉の発言にも特異なところがある。「自然への回帰に対して何も異論はない。私はその際、われわれは植物でも動物でもなく、人間の自然に帰るとの前提を置く」「釣りも自然回帰なのだ、サカナの生ではなく、釣り人の生への回帰、同時に芸術なのだ」と語る。大隊を指揮する少佐のことに話題を移して、司令部の将官と君たちとは年齢差と地位の差がある、二十年たてば前の世紀生まれの、刻印を押された硬貨のような士官はいなくなり、二度と出現しないので、少佐をしっかり観察せよと忠告して言うには; 「高貴さ Vornehmheit を見て取るのは容易だ」と大尉は言った、「だが高貴さとは何かを言うのは容易でない。それが目論んだもの Vorgenommenes でないことは確かだ。そこには上品ぶり Vornehmtun が生じる。少佐は高貴な vornehm 人間だ。自分の周りに空間を持ち、時間を持つ。それが距離をつくり、それがないと高貴さはない。それは相続したものだ。貴公がいま向きを変えれば、橋を見ることができる」自然博物店舗のスザンネ、叔父の店主、店に入りびたりの近所の子供マティアス、みな独特の感覚で生きている。マティアスは他のことには知恵遅れの子供なのだが、数字の計算に関しては驚くべき能力を発揮する。「16掛ける16はいくつ?」と質問すると、「256」と即座に返ってくる。桁を大きくしても同様で、ランセルトは「これは天才だ」と思った。本人は褒美にオレンジ風味の果糖を与えられて喜んでいる。 そして街には「時計は時間を示すだけではない」という格言を掲げた時計店もあれば、窓の中に掲示された新聞を見て戦死者の名前を確かめている老婦人もいる。どなたかお探しですかとランセルトが尋ねると、身内の者の名を探しているわけではない、探す人はない、自分は独りきり、心配する者がいなくなるのは辛いことだ、とつぶやいて歩み去る。 『橋』では駐屯地の演習場、中庭、兵舎など、また旧市街の街中と街外れ、川岸、水の流れなどが描かれる。そこには作者ユンガーが新兵時代を過ごし、訓練を受けたハノーファーを思わせるところがある。街並みや市の森、川の流れの様子など、物語のところどころに特徴的な風景描写があるが、この町がモデルとなっているのかどうか、確かめてみたいと思った。 1895年のHannover市 (wikipedia.de) Meyers Konversations-Lexikon 5. Auflage 物語の時代は1910年代の半ばで、上の地図のほぼ20年後である。現在のニーダーザクセンの州都ハノーファーは、ライネ川 (die Leine) の水流を調整する堰が設けられた小さな村から発している。中世にはハンザ同盟都市のメンバーとして発展し、城塞が築かれていた。中世以降大きな変貌を遂げるが、1900年ころからは、第二次大戦中に繰り返された空襲で街の中心部の90%が破壊されるまで、さほど大きな変化はないと思われる。すなわちこの地図はユンガーが滞在した第一次大戦の頃の街並みを示していると見てよかろう。 1731年のHannover市 (wikipedia.de) 1731年のハノーファーは上の図に見るごとく、ヨーロッパの他の城塞都市と同じく、堀といくつかの稜堡に囲まれた、星形の要塞都市であった。この時は要塞の中をライネ川が貫流しているが、川の東側から建設が始まり、後に西側にも拡がって、東が旧市街 Altstadt、西が新市街 Neustadt と呼ばれるようになった。城塞は市域の拡張と共に19世紀の半ばには撤去され、1895年の地図で痕跡を見るのは困難だが、B4、C4の区画あたり。 1800年のHannover市 (wikipedia.de) 1800年のハノーファーは上に見るごとく、要塞の周囲に都市が拡大してきている。リンデン Linden という村、大庭園 der Große Garten (4つの庭園から成る Herrenhäuser Gärten の中心のバロック庭園) などが見える。庭園はB2の区画あたりになる。土を盛った土塁のように見えるのが、この都市に特徴的な、複雑に分岐して北流するライネ川である。 19世紀の始めハノーファー市の北に接する Steintor-Gartengemeinde という地域が Königsworth, Schloßwende, Nordfeld, Fernrode, Vorort, Ostwende, Bütersworth, Westwende に編成され、これらが Aegidientor-Gartengemeinde (Kirchwende, Bult, Kleefeld, Heidorn, Tiefenriede, Emmerberg) とともに1843年にハノーファー郊外市となり、1859年にハノーファー市に編入された。 『橋』の描写の中で、地形と街並みを表現した個所をピックアップすると、 ○ 兵営を出たところに大きな広場。広場の右手は円錐形の石を並べた境界。 ○ 広場を後にして、将軍の記念像の横を通り・・・ ○ 市の森と、乗馬道に沿った小径。 ○ 壁で囲まれた兵営の小さな中庭で銃剣の訓練。そこはマロニエの庭。 ○ 散歩から街の周辺まで戻って、ある庭園のレストランに入る。 ○ 施設内を足を引きずって歩き、金色に輝く役場の建物の尖塔を見上げた。 ○ 二人は川岸に通じる階段を降りて水辺の草地まで行った。 ○ ボートは川がカーブするところに、柳とアシが密生する岸辺近くにいた。 「いま振り向けば、橋を見ることができる」 などなど。 登場人物の動きを追って1895年の地図と対比してみるが、足取りがうまく辿れない。例えば駐屯地。兵舎 Kaserne は市の北部、1895年の地図ではB2、B3、C2、D2あたりに数箇所ある。またB3、C3の南側に広がるウォータールー広場 Waterlooplatz も考えられる。 ユンガーは自伝的著書『緑の枝』で志願兵として入隊した前後の経緯や同期の入隊者について(「緑の枝 -8-」参照)語っている。ここでは『緑の枝』から訓練地、兵舎と街の中の住居の記述を調べてみる。あわせて、ウルリッヒ・フレッシュレの研究書(*) は、ユンガーの入隊前後の状況を、兄エルンストによるデータを含め、さまざまな史料で示しているので、これも参考にする。 川は分流しているライネ川のどの流れか、繰り返し出てくる橋はどれか、いろいろな可能性を探るが、これと決まらない。ハノーファーのライネ川は街を貫き北流する。街の南で東流、西流の二手に分かれ、北で合流する。街の中を流れる細い方の流れが長さ1キロに足りない小さな中之島を作っている。 「市の森」というのは Stadtwald Eilenriede か。ここには乗馬道 Reitweg と小径 Fußweg が並行して走っていた。これは東側だが北西にも森がある。 ハノーファーの兵舎、駐屯地を列挙すれば、まずは Ulanen-Kaserne で、1895年の地図ではB2、B3になる。演習場は市外の野原に造られ、19世紀には兵舎と訓練場を備えた駐屯地になった。Welfenplatz や Königsworther Platz と同じ事情である。これらはすべて市門の外だったが、市壁は1763年以降、市域の拡大と共に取り払われた。 「兵営を出たところに大きな広場、広場の右手は円錐形の石を並べた境界、広場を後にして、将軍の記念像の横を通って・・・」とある。ハノーファーにある将軍の記念像といえば Carl von Alten だろうか。となるとウォータールー広場の可能性が高まる。そこは19世紀初めに三棟の歩兵部隊兵舎が建てられた。その兵舎に付属する演習場、パレードのための広場が、1834年に Waterlooplatz と命名された。ナポレオン戦争で勝利に貢献したこの将軍の宮殿が王宮 Leineschloss の向かいに新設され、ブロンズ像(**)が建てられた。 「私は第73歩兵連隊の兵士として入隊、プロイセン軍に属する同連隊の士官候補生であった。兄のエルンストも同じ連隊に属していた。兵舎に出頭し入隊検査を受けたのは夏の日の朝だった・・・」(Grüne Zweige, S.147) 彼は兵士としての基礎訓練は1916年7月16日から10月27日までハノーファーにある Bultkaserne の第一連隊で受けた。(Fröschle, S.140f.) 初めは他の四人の候補生と同室であって、それぞれ個性的で面白い仲間ではあったが、自分が思うように使える時間がないことが苦痛であった。だがやがて彼は兵舎外の街中で住む許可を得た。そのとき負傷して後方に送られていた兄エルンストとともに旧市街に二部屋を借りた。 (Grüne Zweige, S.150) 入隊を志願したユンガーは兄エルンストと同じく Bultkaserne の Füsilier-Regiment Nr.73 に配属された、初めは他の4人の候補生と共に兵舎に住んだが、やがて町に住むことが許され、Siegesstraße 9(1895年の地図E4)に部屋を借りた。(Fröschle, S.140ff.) Bultkaserne は市街西に広がる森 Eilenriede に接していた。東に射撃場、木々で覆われた防弾壁、大きな騎馬兵の馬場もあった。南には鉄道の線路が走っていて、二つの大きな営庭の家畜小屋のために設えられていた。1895年の地図ではE4あたりになる。 ほぼ1年にわたり演習場と教練規定と野戦勤務の訓練を受け、実戦訓練として西部戦線の塹壕を経験し、士官候補生の教育にあてられていたデベリッツ (Döberitz) の大規模な演習に参加したあと、いったんハノーファーに戻ってベルリン近郊の演習場に行く。さまざまな演習をして、春に終わる。一連の演習課程が終わって、休暇を貰い家に帰る。(Grüne Zweige, S.166) そのあと「1917年の夏、前線へ出る前に、ウォータールー広場のすぐ近くに一部屋を借りて」そこへ引っ越してゆくと、何と、兵舎で一緒だった同僚がいた。強欲な家主は二重貸しをしていたのだが、どうせ短い期間だからとそのまま二人で住んだ。(Grüne Zweige, S.164f.) そして、前線へ出征するさいの儀式について、「1917年の7月。Waterlooplatz 兵舎の奥の、塀に囲まれた小さな中庭に彼らは立っていた。マロニエの木が夏の暑い日差しを遮ってくれていた。前線へ出征する連隊の士官・士官候補生の特別儀式ばった制服点呼が行われた」(Grüne Zweige, S.167) とある。 物語の主人公ランセルトの行動と、ユンガーの実体験を突き合わせてみたが、どうだろう。一番知りたかったのは、物語『橋』の舞台がハノーファーの駐屯地と旧市街をイメージしているならば、物語のタイトルでもあり、さまざまの重要なシーンの場となる、駐屯地と市街地の間の川に架かる橋は、ライネ川のどの分流にかかるどの橋を想定しているのかということだったが、右往左往して結局わからないというお粗末な結果に終わった。 使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 3 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.166-218) ニセアカシア Robinienこの作品はフリードリヒ・ゲオルク・ユンガー Friedrich Georg Jünger (1898-1977) の六篇から成る第三短篇集「十字路」(Kreuzwege, 1961) の冒頭に収録されている。他の五篇のうち、『十字路』『ルシタニアの夜』『チェス』についてはすでにこのサイトで紹介した。この短篇集はさまざまな傾向の作品が集められていて、本編も特異な、あるいは異色の短篇であると言えるかも知れない。タイトルの Robinien は植物分類の属名でマメ科ハリエンジュ属のこと。葉柄の基部に針状の棘が発達するのでこの名がある。もともと北アメリカに分布していたが、欧米で交配種が作出され、庭園樹や公園樹に用いられている。ドイツ語ウイキペディアによると「ヨーロッパでは北アメリカから渡来した一般的なハリエンジュ (Robinia pseudoacacia) がよく見られる」とのこと、この短篇の Robinien もそれに該当すると思われるので、本短篇の翻訳タイトルを「ニセアカシア」とした。 ニセアカシアは私がいま住んでいる風景の中には、庭園にも野生としてもめったに見かけない。生えてはくるのだろうが、ここの人々はこの樹を好まないのだ。この樹は堅い材質で垣根には、考えうる最良のものだった。腐って朽ちたりしないのだが、逆に生長するにつれ刈り込まねばならない。だが私はそのことを話そうとしているのではない。それではなく、こんにち街の公園で花盛りのニセアカシアを目にして花の香りをかぐとき記憶によみがえる、遠い昔の六月の日のことを話したい。一夏を過ごした野営地のことを思わずにはいられないのだ。そこで訓練を受けたが、それは我々には、猛暑の夏だったので厳しい時間だった。暑さで斟酌されることもなかった。これ以上に惨めな場所は考えにくいのだ。そこは砂しかなかった、黄ばんだ、赤みを帯びた、また往々にして恐らくは純粋な石英から成る白い砂であった。風が吹くと、砂はいたる所にまき散らされた、首筋に入り、下着の中に、太ももの間に、靴に入った。我々が宿所としているレンガ小屋に吹き込んで、食事のときには歯がじゃりじゃりと鳴り、ベッドのなかでは背を刺した。(S.134)風が吹けば人は全身砂まみれになる、砂丘のような砂地に設営された野営地で「遠い昔」に兵士として訓練を受けた「私」が語り手だ。 砂地にはナイフのように鋭く切れる固い草より生えていなかった;それを引き抜こうとして何回か手を切った。演習で伏せの姿勢となり草を見ると、葉緑素より珪酸が多くあるように思えた。数多くのニセアカシアがあり、これには砂は何の妨げにもなっていないように見えた;砂など何ら意に介さずに生育し、それにまたぐんぐん増えて行くので、木々の周りに、誰も通り抜けられない棘の茂みが形成された。六月に花が咲き始めた;白い花の房が垂れ下がり、思いがけず野営地にうっとりするような甘い芳香が漂った。風が西から吹くと、そちらに広がる大きな牧草地で刈り取られた乾草の匂いも運んでくる。(S.134f.)牧草の刈り入れの時期になると、ニセアカシアの甘い香りとともに一群の娘たちが牧草地に現れて草刈りの仕事を始めた。若い兵士たちにとっては心が浮き立つ時期である。ああだこうだと話題になり、何とか近づきになろうと、さまざまな計画が練られた。娘たちが長期間留まることはないとあらかじめ分かっていたので、知り合いになろうと思う者は、このチャンスに懸けなければならなかった。 野営地から外へ出ることは、日曜日を除いて、簡単ではなかった。終日、任務のこと以外に考えられず、夜九時にはみな小屋に入っていなければならなかった。たいていの者はとても疲れていたので、ひたすら眠ることだけ、それに朝四時にまた起床しなければならないことしか考えられなかった。しばしば夜間訓練もあった。しかし二十歳の若者にとっては、夜の時間をもうしばらく楽しむことには何ら妨げにならなかった。週日に夜更けまでの外出許可は滅多に貰えなかった。非行を働くだけだ、くたびれて任務に戻るだけ、というのが大方の見方だった。しかし私はこの許可を得ずに二度外出して村へ出かけ、娘たちの一人とお喋りしたことがあった。彼女はティリーという名で、農業学校から牧草刈りに来ていて、私はまた彼女と会いたいと思った。(S.135f.)許可を得られなくても野営地から出ようと、若い兵士たちが知恵を働かせ、創意工夫が凝らされる。野営地を囲む有刺鉄線に秘密の扉を拵えて、夜ごとに数名ずつ忍び出る方法が生み出された。二人一組で行動するが、目立たないように人数を調整するルールを兵士たち自らが作りあげていた。そして秘密の出入り口を見張る自前の番人まで仕立てられ、この番人は仲間の出入りに目をつむるたびに、紙巻きタバコを一箱獲得するのだ。 その夜、秘密の外出に選ばれた「私」の相方はマルクスだった。マルクスは生粋のジプシーで外見もそうであった。髪が黒く目も黒く、肌はオリーブ色、身のこなしも猫のような敏捷さでジプシーそのものだった。 彼は他人に親しもうとしなかったので人受けは良くなかった、ゆえにまた恐れられていたと思う、なぜなら彼の行動、怒りの発作が予測しがたく、判断しがたかったからだ。強いというより、機敏であった、しぶとい男でその上ナイフ投げに熟練していた。彼はその技を我々にしばしば披露したが、その時私はナイフの握りが独特で恐らく相当な重量があると見た。それを確認することはできなかった、彼はナイフを他人に仔細に見せることはなく他人が触れること許さなかったからだ。この技は彼の評価を高めることはなく、むしろ損なった。彼が熟練の技を見せると、皆は喜んで見物したが、大半が農家と職人の息子である我々の中隊のメンバーは、ナイフは争いの中で使用が許されない低級な武器と見なしていたからだ。(S.136f.)「私」の目的はみなと同じく草刈りの娘だった。すでに二度外出して村へ出かけ、娘たちの一人とお喋りしたことがあった。彼女はティリーという名で、農業学校から牧草刈りに来ていて、また彼女と会いたいと思ったので、その夜秘密の外出に挑んだ。マルクスもその夜熱心に外出を望んでいたが、農家の娘たちが目的ではなかった。農家の娘たちはジプシーと関りになろうとしない。「私」と一緒にどこか居酒屋へ行ってワインを飲みたいということで、多くある居酒屋から、士官の集まるような店は避けて、ティリーと行ったことのある店へ入った。 店も心得たもので、外出許可証を持つ客かどうかを確かめ、無ければ目立たない奥まった部屋に案内する。ここでマルクスはワインを振舞うと言い、君を案内するから一緒に来ないか、と提案する。もちろん断るが、窓の外を見ていると、目当てのティリーら四人の娘グループが、三人の下士官に声を掛けられ、ダンスに向かったらしいのを目にして、マルクスの申し出に乗ることにした。 闇の中の砂地を歩いて行くと、いたるところにニセアカシアが、立木として、また藪となって、立っていた。そしてその間に一つの灯りが浮かび上がってきて、それに向かって進んでいった。近づくと、三台の車両、馬蹄型の移動住宅が見えた。その間の平らな地面にはたき火が燃えていて、人々が周りに座っていた。彼の仲間たちであった。マルクスは家族か一族に熱狂的に歓待され、そのあと「私」は車両の中を見せて貰った。内部は清潔でエレガントですらあり、ベッドには小さな子供が眠っていた。ついで食事の席に招かれる。豪勢な食材とワインの食事、極上の料理がきちんとていねいに給された。 食事のあとは余興。座り方は全員が一緒ではなく、グループに分かれていた。女性は女性で、結婚した男性は男性で座っていた。マルクスと私は三人の少女との組になった。三人はキキ、チチ、ボアと呼ばれていた。それは短縮形かあだ名だったろうが「私」には鳥のさえずりのように思われた。膝と膝が接するような座り方で、次第に密着の度が上がって行った。みなパントマイム、歌を披露し、マルクスも見事に演じた。「私」が一番気に入ったキキは、「顔つきがアーモンドのようで、長く黒いまつ毛の持ち主」だったが、心を揺さぶる歌を歌った。一フレーズを歌うと叫びに移行し、それに皆が声を合わせ、特に「私」が大声で叫んだ。 宴が盛り上がる中、突然みなが首を伸ばし、夜の闇に聞き耳を立てた。しばらくすると「私」にもエンジン音が空中に響き近づいてくるのが聞こえた。灯りが見え、次第に明るくなっていった。そして三台の車が近づいてきた、どっしりと重量のある居住車両で、こちらのはそれに比べると小ぶりで卵のようだった。大騒ぎとなった。対立する二つの家族のぶつかり合い、それがどうエスカレートしてゆくのかの不安、それ以上に「私」はマルクスを時間までに野営地へ連れて戻れるかが心配になった。首領の落ち着いたはからいでマルクスを騒動から引き離すことができたが、なにしろ泥酔して意識のないありさま。絶望的な状況であったが、キキの助けを得て何とか夜明けまでに野営地に戻ることができた。途中、娘に、「また会いたい」と告げると、 彼女はまたニセアカシアの枝を噛み、黙っていた。それから言った:「私はここにいるわよ」彼女は長々と身体を伸ばし、草の中を丘から転がって行った。もう彼女の姿は見えず、笑い声が聞こえるだけだった。(S.150)有刺鉄線のところまで来て、キキは「私がどこに居るかはいつもマルクスが知っています」と言い残して去って行った。マルクスは後に一族の首領の地位を引き継いだ。物語の末尾はこうである: さらに付け加えておかねばならない。この夜、マルクスと私との間の友情が築かれ、それは長く続いた。私は彼と再会した、一番最近ではバルセロナで。兵隊時代は痩せていつも空腹そうに見えたが、先代とまったく同じように太って肉付きの良い首領となり、ピカピカの新しい車で各地を旅していた。ボアも、彼の妻、太ったジプシー女性となっていた。キキとは再び会うことはなかった;彼女は私と知り合って間もなくのこと、肺炎で亡くなった。(S.152) この物語では流浪の民ジプシーについて、さまざまな姿が描かれている。ジプシーはインド起源の民族でイランを経てギリシャに長く滞在してから15世紀初めにヨーロッパに姿を現した。シリアから北アフリカを経てスペインに渡ったルートもあるとされる。この民族は各地の言葉で名づけられた。ドイツでは Zigeuner、フランスでは Tzigane, Bohémien、イギリスでは Gypsy などである。日本では英語名を使ってジプシーと呼ばれた。 黒い大きな瞳、褐色の肌、軽快な身のこなし、歌と踊りが好き、占いをする、物乞いをする、盗みを働く・・・というのがジプシーに対する一般的な印象ではないか。私自身も、もう何十年も昔のことだが、旅行中パリのある広場でジプシーの子供数名に取り囲まれたことがあった。荷物をしっかり抱いて、追い払ったのだった。 わが国では音楽、ドラマ、文学を通じてジプシーを知るようになった。シューマンの歌曲「流浪の民」Zigeunerleben をはじめとして、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」Zigeunerweisen、ブラームスの「ハンガリー舞曲」等々の器楽曲、さらにはメリメの小説をもとにした歌劇「カルメン」などである。こうした作品の影響を受けて内田百閒は「サラサーテの盤」(1947年) という不思議な短篇小説を書き、これをもとに鈴木清順によって映画「ツィゴイネルワイゼン」(1980年) が撮られた。 ヨーロッパでは数世紀にわたり、この異質な少数民族に対して排斥と受容のうごきがあったが、近年になって、定住を強いるような一方的な同化政策ではなく、既成の社会と平等のパートナーとして共存する試みが広がっている。第二次大戦後、民族差別のニュアンスが含まれるジプシーという呼称はやめて、彼らが自らを指す名称「ロマ」(Roma)を用いるようになった。ドイツ語圏ではこの漂泊民族に二つの流れがある。15世紀頃から定住したシンティ (Sinti) と、19世紀後半に流入してきた系統だ。だから現在ドイツでは Sinti und Roma と併記して呼ばれるのが一般だ。 本編中のジプシーの描かれ方について拾い上げてみよう。まずマルクスが兵役に服している、ということは定住地があるということになる。本来は流浪の民だが早くから一部に定住する者がいた。また定住・放浪の区分はあいまいで冬の間は定住しているが、春になると放浪に出るというケースもあった。移動には独特な形をした家馬車を使っていたが、いまでは多くがキャンピングカーに変わっている。この物語でも移動住宅は自動車でけん引している。 身体的特徴として、「マルクスは生粋のジプシーで外見もそうであった。髪が黒く目も黒く、肌はオリーブ色、身のこなしも猫のような敏捷さでジプシーそのものだった」(S.136) と書かれている。マルクスの一族の首領は「太った肉付きの良い男」で、ベッドで眠っている子供は、「小さな女の子は髪を真ん中で分け、その黒いお下げは結び目が頭と並んで枕にあった」。若いジプシーの少女たちは「辺りを駆け回って、口にはニセアカシアの花をくわえ、花柄を噛んで」いた。キキは、先にも触れたように「顔つきがアーモンドのようで、長く黒いまつ毛の持ち主」で、まつ毛を下げると「二つの黒い扇が開いたように」見えた、とする。そして対立する家族間の紛争から逃れようとしたとき、「一人の老婆が車に取り付けられたステップを降りてきた。痩せていてまさに猛禽類の顔」をしていた。 夕食は、食前酒としてプラムの味のシュナップス、スープ、豆料理、鶏肉のライス添え、デザートにはパイナップルの缶詰。赤ワイン、白ワインである。ハリネズミの肉などは出ず、一般の裕福な市民の食卓と変わることのないメニューである。食後の座興は、パントマイム、音楽、歌、その種の出し物で、皆は大声をあげて笑い、手拍子を打ち、休みなくワインを飲む。強く苦いコーヒーが運ばれ、それで酔いを和らげる。 もともと自然に対する感性において、ユンガーはジプシーに共感するところがあった。そして彼には文明に対する切実な懐疑があった。だがこの短篇のジプシーの描き方には総じて、どこか遠慮があるように見える。少し美化しているのではないかとすら感じられる。例えばこんなところ: マルクスが私を伴って三台の車両に入り、中を見せてくれた。内部は清潔でエレガントですらあった。窓の折り重ねられたカーテン、化粧張りをした家具、花々、子供たちが眠っている小さなベッド、そしてさっぱりと清潔なシーツがかかった大きなベッド。子供の時よく見た、馬に乗ったジプシーとは違っていた;この人たちはエンジンのついた重い車で各地を移動し、明かりと電気を自前で作り出すようになっていた。鍋の修理とかその類の技ではこれは賄えない。車両はみな裕福さの香りがし、この中とそしてこの背後に財産が隠れていることを示していた。どこから金銭が入るのか、どんな具合に回っているのか、私は知らなかったし、尋ねようとも思わなかった。(S.142)こうした描写には作者の痛切な罪の感覚、あるいは一般のドイツ人のあいまいな姿勢に対する批判が働いているように思われてならない。すなわちドイツ第三帝国のナチスによる迫害のことである。ナチスのホロコーストといえば、一般にはユダヤ人虐殺を考えるだろうが、実はジプシーも30万人~50万人が殺害されたとされる。「ドイツ人の血とドイツ人の名誉を守るため」(ニュルンベルク法)ユダヤ人のみならず、全ヨーロッパのジプシー人口の三分の一から二分の一に近い人数が計画的に殺された。戦後の被害者・遺族への補償はユダヤ人に対するものとは大いに異なった。定住していない、文字を持たないので記録は無い、なお残る人種的偏見もあって、充分な補償が行われたとは言い難いであろう。 [使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 2 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.134-152] ベルーガ Belugaこの作品はフリードリヒ・ゲオルク・ユンガー Friedrich Georg Jünger (1898-1977) の最初の短編集、1950年刊行の「ダルマチアの夜」に収録された。物語の冒頭はこうである: グッシーナヤ・セムリャはガチョウ島だ;ノヴァヤ・セムリャの延々と凹凸が続く西海岸がそう呼ばれている。我々は北氷洋にいる。ノヴァヤ・セムリャの短い夏の、ある青く晴れた暖かい日に、フィヨルドのように切り刻まれた湾の中に、漁をしている一隻のロシアの帆船がいた、そして海から――北方では頻繁には目にすることのない――蒸気船、アメリカの船《ミルウォーキー》が近づいて来た。(S.90)この短篇小説の舞台は北極圏で、また時代は「十九世紀の九十年代」とある。タイトルの「ベルーガ」Beluga は北極圏に生息するクジラ目の哺乳類。Weißwal シロイルカ とも Zahnwal ハクジラ(歯鯨)とも呼ばれる。シャチ(鯱)Butzkopf (ちっぽけ頭) とも呼ばれる、と言及する箇所 (S.98) もあるが、これはイルカ属としての名称。クジラの分類は複雑。ウィキペディアの項目「ハクジラ類」などを参照されたし。[註:カスピ海や黒海に生息するチョウザメの一種にも「ベルーガ」と呼ばれるものがあるが、こちらはキャビアとして珍重されている卵を産む魚類である] 《ミルウォーキー》が機関の故障でやむなく滞留することになったのは北氷洋の、ロシア領のノヴァヤ・セムリャ、ロシア語で Новая Земля (新しい土地)と呼ばれるおよそ900kmの長さの島である。狭い海峡 Matotschkin Schar ([独]Matotschkinstraße,[英]Matochkin Strait) で南北に分かれている。その南の島にグッシーナヤ・セムリャ Gussinaja Semlja と呼ばれる半島がある。 物語ではその名称には触れられていないが、錨を下ろした湾は恐らくはグッシーナヤ・セムリャ半島の Beluschja Guba 湾(赤色の印をつけたあたり)ではないかと推測される。ここは早くから入植が進んだ場所で、流氷も比較的少なく、船舶の出入りが容易で、漁業、皮革のためのクジラ漁、ホッキョクキツネ猟が盛んだった。 この物語も同じ短編集の巻末に置かれた『壁と壁の間で』と同様、章節の区切り記号・番号は付けられていない(「壁と壁の間で」参照)が、1行分の空行によって8つの部分に分けられている。ここでも仮にナンバリングして1パートずつ粗筋を辿ってゆく。 - - 1 - - ノヴァヤ・セムリャの西海岸のある湾にアメリカの蒸気船《ミルウォーキー》が錨を下ろした。機関の故障でやむなく停泊することになったのだ。ホッグス船長は甥のウィリアムと操舵士のミケルセンを伴に、小舟で岸に向かった。そのとき湾ではちょうどロシアの帆船が大掛かりなベルーガ漁を繰り広げているところ、多くの小舟で大きな漁網を引いて、ベルーガを漁網に取り込むか、岸へ追い上げている真っ最中だった。三人は青い海、明るい陽光のもとで、網に捕らわれ、また岸に打ち上げられた大量のクジラの殺戮現場を呆然と眺めていた。 - - 2 - - ホッグス船長が会わねばならない人間は毛皮取引・代理人のネスチューキンで、機関修理の手配も依頼することになったようだ。岸で待機しているはずが、遅れてやってきた。この地に暮らして生活で時間をまったく気にしない生活になり、身なりも気にしない、髭剃りは出産より楽ではないというロシアの諺(*)を信奉していた。やってくるや、待たせた船長のもとに飛ぶように近づいて行き、肉付きの良い身体で激しく抱擁して、《ミルウォーキー》の到着を熱烈に歓迎していることを示す。船長は他人と身体が接触するのを嫌う人間だった。やむを得ない握手すら、手を預けるだけで相手の手を握ることはしない男だった。操舵士のミケルセンを通訳にやりとりして、ネスチューキンの自宅を訪れることに。 - - 3 - - ネスチューキンの小さな、粗末な石の家に招き入れられる。床にはクマの皮が敷かれ、壁にはキツネの毛皮が掛けてあった。とても大きな赤黄色のシベリア猫が、皮の上に喉をゴロゴロ鳴らしながら丸まっていた。ホッグスは、独身男性というだけでなく、猫好きでもあって、これは素晴らしい船の猫になるとミケルセンに言った。仕事の話は早々に片付いて、とびきり上等の酒と繊細で美味な食事で歓待される。給仕役にあたったのがサモエード(**)の女性、トゥーガ。ホッグス船長もしっかり飲んで食べて心地よく黙りこくっていた。皆が酔って盛り上がっている中、まだ素面であったウィリアムは部屋を出る。廊下でトゥーガと出会って、彼女が親し気に近寄ってきて、小鳥の鳴き声のような言葉をかけてきたので、手を取って引き寄せようとすると、身をよじって逃れ、声に出さない笑いとともにふいと姿を消した。 - - 4 - - 建物を出ると、目の前にオーロラが空一杯に広がっていてウィリアムは圧倒される。極北の光線と円形の切片の形で残った暗い空との対比、そこに深い不安と動揺を感じる。彼は海岸から離れ、内陸へと歩き始める。円錐形の山が見えて、それに登ろうと、表面は苔と地衣類で覆われた凍りついてツンドラの上を大股で歩いてゆく。ここかしこに背の低いヤナギとヒメカンバなどの植生が見えた。シギ、タシギ、チドリが飛び立った。またオオハクチョウとコハクチョウの一団が陸上すれすれを飛び、ガチョウとカモの楔形の隊列が空を飛ぶのを見た。寒さに抵抗して生きている植物、それを食べて生きている小鳥たち。頂上に達して、極海を見ながら物思いにふける。空虚な、白い、無時間の空間があった。生命なく、純粋で、手つかずで、すべてが夜の降雪の後のようだった。吹雪や、霧や、オーロラや、海の波や、磁気嵐、結晶などは諸元素が自ら繰り返す遊戯だと思う。山の南斜面を下りると、そこは驚くほど多彩な植物相が育つ小さな谷で、しばらく庭園にいるような気分を味わって、引き返した。 - - 5 - - ミケルセンにとっては充足した日々であった。船長と代理人の通訳を務めること以外、彼は生涯の趣味の釣りに集中した。釣りの腕は熟練の域に達していた。愛読書はアイザック・ウォルトンの《完全な釣り人》(***)だった。機関の修理が終わるまでの時間、湾内でサケを狙った。代理人は一番いいポイントを教え、並んで釣りに付き合った。無口な釣り人であっても、ミケルセンは自分の意志、希望をホッグス船長に伝える唯一の伝声管だった。実はネスチューキンは極地の生活にほとほと飽きていたのだ。そこで、他の品物とは別枠で集めた高級な皮革、「彼の在庫」を売りさばいて一財産を作り、今の生活から脱して、モスクワで豊かな生活を送りたいという激しい願いがあった。《ミルウォーキー》の到来はこれを実現する絶好のチャンスと見えたのだった。 - - 6 - - 機関の修復の見通しが立ち、船長は猟銃を持って、ウィリアムに漕がせて小舟で上陸し、陸の中に入っていった。ウィリアムはしばらく船長の猟を見たあと、あの円錐形の山を回りこんで、心地よかった庭園のような谷へ行ってみた。いつかまたこの場所を目にすることがあるとは思えない、と彼はつぶやいた。どんな再会にも別れが潜んでいた。やがて、あっという間に、この白、赤、青の花々は氷と雪に覆われてしまうだろう。谷の窪地はすっかり雪に埋もれ、冬の嵐が塞いでしまうだろう。帰途、代理人の家を目にして、そちらに向かった。中は無人だったが、歩き疲れた彼は毛皮の上で眠り込む。目を覚ますとトゥーガが床に座って黙って彼を見ていた。言葉では理解し合うことができないので、彼が微笑むと、彼女もそれに応えて単調なメロディの歌を口ずさんだ。ウィリアムはポケットから銀線がらせん状に巻かれてヘビに編まれた腕輪を取り出した。それを彼女の腕に嵌め、彼女を固く抱きしめた。 - - 7 - - 《ミルウォーキー》の修理は終わった。ホッグスは朝食の席で上機嫌でネスチューキンの「在庫」一覧なるものを眺めている。買う気は毛頭ない。叔父が買わないと聞いて、ウィリアムは自分が買うと言い出し、叔父を驚かせる。彼本人にとっても突然生まれた考えだった。代理人はミケルセンと甲板にいる、ウィリアムは自分が買うと通訳させた。ネスチューキンは思いがけずに買い手として現れた若者を見た。アメリカ的豊かさの想像は膨らんだ。彼はウィリアムに歩み寄って抱擁した。ホッグス船長の気に入っていたシベリア猫をおまけにつける、という条件も受け入れた。猫の一ダースだってくれてやっただろう。 - - 8 - - 《ミルウォーキー》は軽快な機関の音を響かせてゆっくりと湾から滑り出た。湾の最も高い岩の先端に一人の人間が現れ、離れ行く蒸気船を見ていた。代理人ネスチューキンであることは容易に見て取れた。降りかかる日の光に魔法をかけられ、黄金のクマのように見えた。そして岩の上で左右の足を交互に投げ出すコサック・ダンスのようなものを始めた。踊りに合わせて歌も歌っているようだった。それは自由の歌だった。理解できる言葉に誰かが翻訳すれば、こんな風になるだろう:「私イワン・カルロヴィッチ・ネスチューキンは自由な人間だ、岩の上で踊る。私は賢明だ、私は強い、そして上手なダンサーだ。私は自由だ、まもなくこの島を去るだろう。 くさりはちぎれる、 諸君、光の中へ」 岩の先端で踊るネスチューキンの姿を遠望した蒸気船の三人の男は、それぞれの感慨を胸に島を離れて行く。 この短篇は極地の短い夏の出来事を描いている。主たる登場人物はアメリカの蒸気船《ミルウォーキー》号の船長ホッグス、その甥のウィリアム、操舵士のミケルセンの三名と、ロシア領ノヴァヤ・セムリャ島に駐在する皮革・毛皮の仲買人ネスチューキン、そしてそこで家事を担っているトゥーガという名のサモエードの女性である。 物語の中で語られる男たちの月並みでない風変わりな発想・生き方は、この短篇が読者を魅する一番のポイントだろう。だが、その思想は、上のようにあらすじを辿っただけでは、明瞭には見えてこない。そして唯一の女性登場人物トゥーガの振舞いから読み取り得るもの、それを示すこともできない。 船の機関の故障した後、三人と島の仲買人が対面するに至ったのは、どういった経緯によるのかについては物語中には書かれていない。背景を想像すると、アメリカの《ミルウォーキー》の運行会社は毛皮を買い付けて運搬する仕事も営んでいるのだろう。一方、ロシアの皮革会社に委託されてノヴァヤ・セムリャ島にネスチューキンが代理人として滞在していたのだろう。その関係から、両方の会社を通して故障した機関の修理の手配などの連絡が《ミルウォーキー》と代理人とに届いたという筋道が考えられる。 男四名と女一名のうち、一番の主役は誰なのだろう。ここではロシア人のネスチューキンに焦点を当ててみたい。代理人としてこの島に滞在して数年は経っているようだ。彼にとって極地の生活を送ってきて「時間などもはや存在しなかった、少なくとも計測できる時間は」「今日と明日を誰が決めたいと思うだろうか? ネスチューキンは疲れたら寝る、空腹で喉が渇けば食べて飲む」 という暮らしになっていた。この地での真夜中の太陽、終わらない昼のせいで、日常生活に時間の区切りを置くことが無意味になってしまっている。《ミルウォーキー》が到着したときも、彼はぐっすりと眠っていた。 だがネスチューキンには蒸気船の到着は喜ばしいものだった。実は彼は極地の生活にほとほと飽きていたのだ。もう一度島で冬を越す気はなかった。ここの冬の恐ろしい厳しさ、荒涼、孤独に苦しんだからだ。ネスチューキンは世捨て人なんかではなかった。自由な環境を、人との交際を、都会の生活を望んだ。寝ても覚めても、多くの人が押し寄せる賑わった街路や広場、照明の明るい駅、店舗、劇場を夢見ていた。人波と一緒に歩きたい、人波に潜り込みたい、人波に混じってクワジンスカラ Kuajinskara とサドワーヤ Ssadowaja の回転路(****)を歩きたいと熱烈に思っていた。そこで、手元に集めた高級な皮革の「彼の在庫」を売りさばいて一財産を作り、モスクワで豊かな生活を送りたいという激しい願望があったのだ。 サモエードの娘に対してネスチューキンは深い関係にあるのではと、ウィリアムも ホッグスも思ったが、この点は二人とも間違っていた。ネスチューキンは男女の事において「名誉にかかわること」point d'honneur を持ってはいなかった。人がどう思おうと、彼は満ち足りた人間だった。この充足はホッグスから見ると、可能性と同時に不可能性の充足を包み込んでいる充足だった。いつも in petto 腹に目論見があって、そしておそらくは、いきなり客たちに襲い掛かるか、あるいは涙を流して客たちを抱擁するか、見て取れないのだ。 《ミルウォーキー》の修理に目途が立った。ホッグスが上陸して鳥を撃つあいだに、ウィリアムは先日歩いて心地よかった牧草の谷に行ってみた。しばし休憩してから帰途に就くが、代理人の家を目にして入って見る。無人であった、彼は毛皮に腰を下ろし、ここ数日の疲れで眠り込んだ。ふと気づいて目を開けると、サモエードの娘が床に座って黙って彼を見ていた。トゥーガはしなやかに身体を揺すりながら、その動きに合わせて小声で歌い始めた、同じ言葉とメロディーが同じ抑揚で繰り返される、どこか単調な、訴えるようなところがあった。「笑いは彼女の顔から消え去って、目は期待に満ちた真面目な表情を浮かべていた。その目は確かめるような、ほとんど険しいものだった。そしてとつぜん閉じた;まぶたがカーテンのように降りてきた」 ネスチューキンの品物を、ホッグスはまったく買う気が無い。抜け目ない、ずる賢い野郎だ、と思うばかり。ところがウィリアムは自分が買うと言い出し、叔父を驚かせる。彼本人にとっても突然生まれた考えだった。ウィリアムは自分が買うと代理人に通訳させた。「彼の在庫」を買って貰えると分かったときのネスチューキンの喜び、彼は思いがけずに買い手として現れた若者を見た。アメリカ的豊かさの想像は膨らんだ。彼はウィリアムに歩み寄って抱擁した。その顔は満足した狡猾さ、愉快なずる賢さで輝いていた、そして指でウィリアムを指して、叫んだ:「トゥーガよろしい」 この物語には様々な謎があるが、「トゥーガよろしい」は読者を惑わす大きな謎の一つだろう。ネスチューキンのこの言葉はどういう意味なのだろう? この個所の原文を引用しておく。 ... indem er mit dem Finger auf William deutete, rief er: »Tuga gut.« ネスチューキンのロシア語を »Tuga gut« と訳したのは誰か? 文中に何の断りもないが、物語の語り手たる作者がミケルセン的「伝声管」を通し、舌足らずに翻訳したものだろう。 ネスチューキンの思いはどこにあるのか。トゥーガがウィリアムの心を動かして、毛皮の売却に功労あった、という意味なら、「トゥーガ、よくやった」と訳せるだろう。ウィリアムとトゥーガの二人だけの場面での彼女のそぶり・振舞は、非西洋的、東洋的なたたずまいに思える。控え目なのか、奔放なのか、どう解釈すればいいのか、ミステリアスであるが、ネスチューキンはトゥーガがウィリアムに心惹かれているのを承知していて、あの娘と懇ろになるといいぞ、と言っているなら、「トゥーガ、いい娘だぞ」と訳せるだろうか。 物語の結末部分を引用しておこう。 ホッグスは自分の船室に座って、背を曲げて立っている大きなシベリア猫を見ていた。ウィリアムはこの猫に《ベルーガ》という名を与えたが、その名が長すぎるように思えたホッグスは、いま《ルクス》と名付けることに決めた。船長は両手を組み合わせて親指をぐるぐると回した、ぐるぐると、ぐるぐると。そしてミケルセンは上甲板をあちらこちらと歩いた、あちらこちらと、あちらこちらと。この終結部、短篇小説というより、神話伝承か、あるいは一篇の叙事詩を読んだような読後感を与えてくれる。珍しい読書体験であった。 * 髭剃りは出産より楽ではないというロシアの諺、このような諺が本当にあるのかどうか、未確認 |