指導医の条件と一つの提案

平成129月に神戸で開催された「臨床研修指導医養成講習会」において、ワークショップ形式で行った卒後臨床教育を改善するための最重要課題として、2グループが臨床指導医の問題をあげた。私も同意見である。

「誰が指導医であるか(あるべきか)?」この簡単な質問に明確に答えられる人はいない。各専門診療科の部長が指導医であろうか?科(部)の長としての雑用が多くあるなかで、研修医を指導する時間をどうやって作れるだろうか?まして、大学医局に在籍し研究室を主導した見返り人事として赴任した人間であれば、彼らが臨床医学を教えられるわけがない(と、私は思っている)。

研修医以外の全ての医員が指導医であろうか?それなら、研修医指導は業務であろうか?私は、臨床をきちんとやってきた卒後10年前後の医師が指導医として最も適しており、彼らが、上級研修医を用いて下級研修医や学生を指導するシステムをつくることがベストであると考えている。臨床をきちんとやるためには、現状の卒前教育では、どこかの(教育)病院で最低5年以上の臨床研修を受けなければならない。大学を経由して赴任した各科の医員が例え卒後10年目であっても、臨床2年、研究8年であれば臨床を指導できるわけがない。むしろ臨床に関しては若い研修医に指導してもらう状態である。

日本の病院では、指導医はボランテイアとして研修医指導を行っている。人を教育することは時間を要し、教育した効果が形として現れにくい。教育に対して、何をもって評価ができるのであろうか?私自身がいままで情熱をもってボランテイア教育を行ってきた理由は、そうすることで若い医師が臨床能力に長けて、誰かを事前に助けられた等があれば教師冥利につきると思っているからである。その満足感は、研究者にとって自分の研究が一流雑誌に掲載され世界に注目されることに等しい。

今回の研修に参加された30代から40代前半の実際に研修医を指導している人たち(遠藤さん、小幡さん、國吉さん、平岡さん、石丸さん;他の人とは話していないので同じような人がいるかもしれない)が、体力がおちてくる10年後でも同じ条件で指導医として活躍できるだろうか?参加された副院長や部長は、研修システム全体の評価は可能であるが、研修医に対する個別の形成的評価をできるとは思わない。

私は過去10年間、天理よろづ相談所病院で主に循環器疾患を指導してきた。これが可能であったのは、私の情熱もさることながら、私が平(ひら)の循環器内科医員であり、管理部門に時間がとられる必要がないからである。しかし、この年(満47歳)になると、研修医と同じ数である月に4−5回のCCU当直をこなすことは体力的に難しく、このままの状態でいくと完全に消耗してしまう。消耗すれば、ボランテイアである研修医教育をやめることしか方策がない。本院の院長が、私の研修医に対する活動を評価するなら、なぜCCU当番回数の減少を循環器部長に具申できないのか、またはそれなりのポストを私に与えて、いそがしい通常業務の減少や指導医としての対外的評価を高めようとしないのか。自己評価では、私が教育から抜けるとかなり影響があるように思うが、病院からの私に対する評価が低いからかもしれない。

日野原先生が講演の中でいわれたように、よい臨床医を排出するためには、大学の内にはいり、大学を改革しなければならない。私は、指導医を評価してその地位をあげることと、生涯教育・研修医教育を大きな目標として総合診療部の教授になりたかったが、密室の投票では外部の臨床のみ行ってきた学位無しの人間が大学にはいりこむのは不可能であった。

私は来年春に天理よろづ相談所病院を辞めて開業する。過去にもあったごとく、教育に対して情熱を持っていた多くの人間が、一定の年齢になっていくとこのようになっていくという現実を多くのみなさまに知っていただきたい。明確な将来構想をもったどこかの病院において、指導医に対する適切な評価をまず行い、それを一つの手本とすれば、改革の第一歩となるように思う。

今後は部外者(いち開業医)として、医学教育に微力ながら貢献したい。新しいことにチャレンジする楽しみと不安が交錯する毎日である。

 

2000-9-25