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<December>

MOVIE・2006年映画ベスト10

MOVIE・鉄コン筋クリート


◆12月23日◆MOVIE◆鉄コン筋クリート

 「個性的」とはこういう事を言うのだと、松本大洋の「鉄コン筋クリート」の 絵を見た瞬間に思った。
マンガという白と黒しか存在しない世界で、宝町という町が作者の目線で描かれ動いていく。だから独特なアングルも、普通ではアンバランスに見えてしまうようなデフォルメも、彼の世界ではちゃんと成立している。そして古いのか新しいのか分からない、しかし普遍性を持つ彼独自のリアリティを持った物語は、彼の創り出す世界でちゃんと成立している。
 舞台となる「宝町」のもつ、雑多な魅力、何とも言えない肌合い、そして匂い。 少女マンガのような繊細なタッチで描かれるマンガだけを読んでいる読者には、その強烈な個性を持つ絵が苦手という人もきっと多い事だろう。また、この物語が理解出来ないという人も多いかもしれない。しかしこの物語に「出会ってしまった」人はこの世界に引き込まれていく。

 そんな「鉄コン筋クリート」に人生を変えられた人が居る。アメリカ人、マイケル・アリアス。ハリウッドの特殊効果を手掛けていた彼は、12年前この作品に出会いそれを機に日本に移り住み、3年の製作期間を経て2006年、漸くこの作品の映画版を世界に送り出すことに成功した。構想10年の歳月を経た今、彼は日本語を自由に操る監督になった。

 この絵をそのまま映画にするのは不可能だろうと原作を読んだ時から思っていたが、想像通り映画の世界の宝町は、同じように雑多でありながら美しい色を持ち、古いのだが新しい、魅力的な異空間として存在している。
宝町であって、宝町でない。しかし、根本を流れるテイストは変わっていないし、登場人物も原作のイメージ通りに動き、この町で生きているという「絶妙な バランス感覚」にある種の奇跡を感じるような作品なのだ。

 映画は原作よりも親切に作られている。じっちゃが「火」について語る所から この物語が始まるのもそうだし、シロが印象的に「この町の平和は今日も僕が 守りました」と繰り返す台詞もそうだ。原作でもシロはこの台詞を言っているが 改めて音になって耳に届いた「僕が守りました」という言葉は、非常に意味を持つ 言葉となって存在している。
 原作は色んな風に読むことが出きると思うが、映画は『鉄コン筋クリート』の一つの読み方を(原作を知らない人にも分かるように)丁寧に示している。

 それにしても、この作品は驚きに満ちている。まず、わざと手ブレ感を出した カメラワーク。いや、実写ではないからカメラワークという言葉は正確では ないかもしれないが、作り出された手ブレは見るものにシンクロしている感覚を生み出している。
 冒頭の鳥が飛ぶシーンでは、我々は鳥の目になりこの町を見ているし、朝と夜の兄弟とシロとクロが追いかけっこをするシーンでは、一緒に走っているような気分にさせられる。この揺らぎがとにかく斬新に感じられるのだ。
次に、宝町とシロの空想の世界。宝町も驚くべき書き込み量、何とも言えない色目、時計台や子供の城で見られるような摩訶不思議な世界観を持っている。 一方シロの空想の世界は色鉛筆で描かれたように柔らかなタッチで、本当に色鉛筆で描かれたとしか思えない絵が動いていくのである。

 そして、そんな世界に息を吹き込む声優陣がまた良い。まず、クロの二宮和也とシロの蒼井優。二人の声は表情豊かでその声から今、彼等がどんな心情なのかがダイレクトに伝わってくる。その会話からはお互いの絆が見えるのだが、実際には二宮がクロの声を先に全て録音し、後で蒼井優がシロの声を入れたらしい。
別々にとったとは思えない絶妙な会話を聞きながら、やはり二人は優れた役者なのだと再認識させられた。彼等には、声だけで観客の心を揺さぶるだけの力がある。 そんな二人の敵であり、同時にクロの事を理解しているヤクザ、ネズミの声を 演じたのは、舞踊家で最近では役者としても評価の高い田中泯。
彼の声を聞いた時、ああ、ネズミってこういう声でこういう物言いだったのだ と妙に納得してしまった。年の功というか、彼の声には人生の厚みを感じさせられ る。恐るべし、田中泯である。
 その舎弟である木村の声を演じる伊勢谷友介。彼の場合は絵まで彼に似ているように見えるほど、シンクロしていた。
 そして宝町の新開発を進める、クロとシロの敵、蛇の本木雅弘。クレジットを観なければ、彼が蛇の声を入れていると皆気づかないのではないかと思うぐらい、いつもの声音と違う。映画版の蛇は原作の蛇の持つうさんくささがダウンし、少々垢抜けているが、そんな蛇に彼の声はオーダーしたようにぴったり来ている。
 その他、じっちゃの声の納谷六郎もいい味だし、ヴァニラの岡田義徳も良い。 この映画をこよなく愛している製作者が選んだ人達は誰一人ミスキャストなく 思った通りの声音でこの映画に息を吹き込んでいる。そして声を担当した役者たち も、10年間何度も原作を読み返している二宮和也を筆頭に、この作品を愛している。

 イタチの登場からラストへの流れは私としては原作の方が好きだが、映画は映画で独自の、しかし意味するところは共通の世界を生み出している。

 シロとクロという名前に象徴されるように、松本大洋が生み出した「鉄コン筋ク リート」という世界は、その読み心地から発生する感覚とは裏腹に、案外単純、明確な構造を持っている。しかし、彼の目で見た宝町を前にして我々は俯瞰でこの街を見るのではなく、この街の住人に近い目を持ってしまうが為にこの街は極めて 特別な場所に見えて来る。

 ソコカラナニガミエル?と聞かれたら、シロトクロガイルマチガミエルヨと私は答える。
ココカラミンナガミエルヨとシロとクロに言われたら、ワタシタチハヤットツナガッタンダネと私は答える。

 シロとクロが住む宝町。この街に戻りたくなったら、また私は単行本を開く事になるだろう。そしてDVDになったこの映画を観るだろう。そして、また一から始めるのだ。彼等と繋がる為に。この物語の最初から。


・2006年映画ベスト10・Byなつむ

父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙
ゆれる
クラッシュ
鉄コン筋クリート
マッチポイント
王の男
トランスアメリカ
ブロークバックマウンテン
花よりもなほ
10
かもめ食堂
次点
グッドナイト&グットラック
番外
木更津キャッツアイワールドシリーズ

●MEMO●

1・父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙
 まず『父親たちの星条旗』を観終わった時、「戦争ってこういう事だったんだ」と思ったのは未だに忘れられません。クリント・イーストウッド監督のたぐい稀なバランス感覚と戦後これだけの時間が経った事、そして未だ世界から戦争が無くなっていない事。その全てからこの映画が生み出されました。実際に出兵し戦った人からすれば、映画を観て分かったと思う事は分かった内に入らないと思いますが、それでもそう思わせる映画の誕生というのは、意味のあるものだと思います。
 今年は、テロや戦争、暴力について度々考えさせられる年でした。村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み、その中に登場する第二次世界大戦の頃の満州とシベリアについての記述を期せずして読む事になり、また、今は亡き祖父のシベリア抑留について考える中でこの作品を観た私にとっては、やはり今年の1位とせざるを得ませんでした。
第二次大戦中のアメリカってこんな風だったのかという驚き。そしてそれと同じように『硫黄島からの手紙』を観て、日本はこうだったのかと驚いているであろうアメリカ人。互いが他国側から描いた作品にこそ評価が高くなる。それ故に、この映画は二つで一つ。という事で、この二本を一つの作品として、一位に選びたいと思います。

2・ゆれる
 観終わった後、一番揺すぶられ続けた映画はこの『ゆれる』でした。邦画ではダントツ1位です。西川監督、オダギリジョー、そして香川照之。とにかく、観て下さいとしか言えません。

3・クラッシュ
 これを観たら、アメリカはある意味戦時下なんじゃないかと思ってしまいます。ロスのある2日間の物語。人種問題、生活格差など様々な問題を描きながら物語は進んでいきます。絶望的な世界の中で、しかし希望が持てるエピソードもあり…一度見始めたら目がそらせなくなる力強い作品です。

4・鉄コン筋クリート
 万人に受けるとは思いませんが、とにかく奇跡的な作品です。まず、この物語の舞台となる宝町が素晴らしい。ここまで描き切るとは、驚き以外ありません。日本の高い技術力、芸術的センスに脱帽です。そして、この作品に対するスタッフの愛情が作品全体から溢れ出ています。どこを切り取っても、額に入れておきたいような絵が動いているこの驚き。そしてその町を好きなように撮影しているかのように感じる絶妙なアングルと揺らぎ。
 声優もこれ以上のキャスティングは無いと思えるフィット感です。一人ずつバラバラに録音しているとは思えない見事な関係の構築。会話の絶妙さ。二宮と蒼井二人ともある種の天才なんでしょうね。
 ただ、改めて原作を読み返すと、細かいディテールやラストの持っていき方などは原作に軍配をあげてしまいます。故に、4位かなという感じです。作品として見事な出来ですが、原作者の松本大洋はやっぱり天才なのだと改めて思わされました。しかし、あの作品を映画にしようと考え、ここまでの物にしてしまうとは。本当にこの映画は凄いです。

5・マッチポイント
 大人の映画です。洒落ています。そして、ブラックなウィットです。ジョナサン・リースマイヤースとスカーレット・ヨハンセンが光っていました。そしてもちろんウディ・アレンも。NYを初めて離れたアレンというのも注目の一つでした。

6・王の男
 主要な登場人物、全ての役者が素晴らしい映画でした。繊細な心の動きもちゃんと描かれていますし、全員が魅力的です。映画『さらば我が愛〜覇王別姫』の京劇の役者二人の関係と、この物語の芸人二人の関係にどこか同じものを感じる、そんな「相棒」というか「相方」という関係が繊細に描かれた作品でした。そう多くは観ていませんが、韓国映画の中で今のところ一番好きな作品です。

7・トランスアメリカ
 観終わった後、何だか幸福感がある作品でした。性転換手術を受けた男性を演じている女優が素晴らしいし、その息子も素晴らしい。愛しい人たちが出て来る。そんな作品でした。

8・ブロークバックマウンテン
 せつない映画です。誰も幸せな人が出て来ないのですから。『ウェディングバンケット』で注目を浴びてから、私のチェックリストに入っているアン・リー監督ですが、途中色々疑問が残る映画も撮りつつ、やっと軌道修正して帰って来た感があったのがこの作品です。長い年月の物語ですし、原作は短編小説なので、そう深いところまで迫ったとは言いがたい面もありますが、観終わった後しばらく心に残り続ける作品でした。

9・花よりもなほ
 人をゆるす事。これはとても難かしい事です。それが出来ればこの世の中から争いごとは無くなるのですから。その「人をゆるす」事について描かれた物語。それが本作でした。 全員がいい芝居をしているし、作品の出来もいいのに何で観客動員数がのびないのかと、非常に残念です。是枝監督だし、岡田准一に宮沢りえも出ているのに。不思議です。

10・かもめ食堂
 ロハスがブームになり、丁寧に生きる事について皆が考え始めた今年にぴったりの一本というか、時代を象徴した作品だったと思います。という訳で、10位にランクイン。個人的には、空港で荷物が出て来ないのを待ちつづけるもたいまさこさんが頭から離れないという(笑)ある意味インパクトの強い作品でした。

次点・グッドナイト&グットラック
 ジャーナリストが取るべき行動とは?を考えさせられる一本です。映画ではアメリカのレッドパージ(赤狩り)を描いていますが、ジョージ・クルーニーを含むこの映画の制作者達は過去の話しだけをしている訳ではもちろんなく・・・非常に政治的な色合いの濃い作品で、アメリカに住む人が観るともっと色々感じるところがあるのだと思います。報道について様々な事を考えさせられる一本です。

番外・木更津キャッツアイワールドシリーズ
 映画、として考えた場合正直に言うと、色々問題点を言わざるを得ないところもあるのですが、私の木更津キャッツアイという作品に対する思い入れから考えると、番外にあげておきたいのです。やっぱり(笑)
 ぶっさんに、キャッツの皆にちゃんとバイバイが言えた作品でした。キャッツ、ありがとう。


<November>

MOVIE・父親たちの星条旗


◆11月11日◆MOVIE◆父親たちの星条旗◆

真実。
戦場から生きて帰れるのは運以外の何物でもない。

現実。
戦争を始めるのはいつも上層部の人間であり、彼らはそれがどういう現実を引き起こすのかを身を持って経験する事は無い。

事実。
勝敗に関わらず、戦争がいかに人々を傷つけるものであるのか、宣戦布告をする人達は、恐らく本当の意味でそれを理解していない。

 『父親たちの星条旗』はとても静かな目で戦争の現実を見つめ、そして戦争の実状をたんたんと描き、それをどう感じるのか、どう受けとめるのかは観客に委ね、作品を見終える頃には、戦争とはこういう事なのだと深く反戦の思いを抱かせるという、驚くべきバランスを持った力強い作品です。
そこには、ハリウッド映画にありがちな感動も、涙も、過剰な愛国心もありません。あるのは、「戦争」という人間が行う行為が、どれだけ人を傷つけるのか。それを描いている作品です。

 「本当に戦争に行った者は、戦争を語ろうとしない」という台詞が持つ重み。 そしてその意味。この映画は第2次世界大戦が終わって約60年経っている現在 から始まります。それでも未だ戦地の夢を見てうなされる元米軍兵士。彼はもう老人になっていますが、それでも未だ、生きるか死ぬかの境目にあった戦地での日々が彼の記憶の中にはしっかりと居座り、夜な夜なうなされているのです。

 この映画を見る少し前に、NHKで硫黄島の戦いについて、生き残った元日本兵 が語るというドキュメントを見ました。番組の冒頭、今まで硫黄島の戦いは余りにも辛く悲惨だった為、生き残った人は硬く口を閉ざして語らなかったが、生存者たちが自分たちの命も後いくらもないと思いはじめた今、語り継いでおかなくてはと思い今回の取材に応じてくれて、この番組が出来たという説明がありました。
 スクリーンに映る元米兵の苦しむ姿を見ながら私はそのドキュメンタリー番組を思い出し、出兵した経験のある人は、いつまでもその時の記憶に悩まされている、決して消える事のない逃れる事の出来ない過去を抱えて生きているのだという事を、物語の冒頭で既に認識させられる事になりました。

 本作は硫黄島の戦いをアメリカと日本、双方の立場から描いた二作のうちの一つです。両作とも、クリント・イーストウッド監督がメガフォンを取り、今後、ほぼ一月遅れで今度は日本サイドから描いた『硫黄島からの手紙』が公開になります。
 今回、このアメリカサイドから描いた『父親たちの星条旗』を見て感じた事。それは、アメリカ軍を迎え撃つ日本も命がけで戦っているという事でした。そこにあるのは勧善懲悪では無く、あるのはお互い生きるか死ぬかという日々を必死に生きているという姿です。とはいうものの、本作に日本兵の姿はほとんど出て来ません。米兵に対して放たれる弾や爆弾が「日本兵」の存在を認識させるものであり、意図的に「敵」である日本兵の姿は、この中で具体的には描かれていません。憎むべき対象が具体的に登場しないという事は、あの撃った人が悪い、あの攻撃してきた日本兵が憎いという、対象が明確化する事により強い感情が引き起こされるという自然の成り行きを回避し、観客に何故こんな「撃ち合い」が行われなければならないのかという事を客観的に考える状況を生み出しています。それと同時に実際に硫黄島で戦った米兵達は、姿の見えない敵の、見えないが為により強まる恐怖を伴う攻撃を実際に受けていたでしょうから、観客にも姿を見せないという撮り方は、ある種、米兵の恐怖とシンクロする非常にリアルな演出であるとも言えます。
 そのような、一瞬一瞬、次の一秒に何が起こるかまったく分からないという状況の中で、自分も怪我をしながら、弾が飛び交う中で必死に撃たれた仲間の治療を行い励まし続ける、米軍衛生兵、ジョン・”ドク”・ブラットベリー。そのドクの息子がこの映画の元になった『硫黄島の星条旗』という一冊の本を書きました。
 という訳で、この映画は衛生兵ドクを中心に描かれています。つまり戦闘シーンは米軍が攻撃を仕掛ける事よりも、次々に負傷していく仲間を助けに行く、傷つき命を落としていく米兵の姿を映し出す事によって描かれていくのです。
 激しい撃ち合いの中、自分の命も危険にさらされているにも関わらず、常に他者の命を救う事を考えて行動している彼の姿は強く心に残ります。もう死んでしまうと分かりながらも、仲間を励ます彼の姿は、戦地にあって非常に人間的であり、それが故により一層せつないのです。

 という事で、ドクが一番の主役という事になるのでしょうが、この物語の主役になるのは、硫黄島に星条旗を掲げた6人の兵士たちです。6人のうち3人は当時既に戦死していた為、実際には3人が急遽国の思惑に巻きこまれ、ヒーローに祭り上げられるのです。
 というのは、第2次世界大戦中、アメリカも実は戦費に苦しんでおり、どうしても資金を調達する必要があったのです。そこで大統領を含めた上層部が考え出したのが、戦争のヒーローに国債を買ってくれとアメリカ本土を周らせ、資金集めに一役かってもらうという事。急遽彼らは帰国させられ、国債セールスマンにされてしまうのです。しかも、3人のうちの1人は写真に写っていた訳ではない、無理やり連れてこられた兵士で、結果的に彼はその事に苦しみ、言ってみれば政府の犠牲となって、命を落としてしまうのです。

 この映画は今までの戦争映画とは、確実に一線を隔しています。その眼差しは、歳を重ねた人しか持ち得ない落着きがあり、思慮深く、温か味を持ったクリント・イーストウッド監督特有の物静かなものです。と同時に、気骨があり、非常に大きな力を感じさせられます。
 演じる俳優達は皆若く、そしてスターを起用している訳ではないので、(映画を見るにあたっては不用である彼らのプライベートといった無駄な情報は入っていないため)終始一兵士として見る事が出来るという、製作者の意図にぴたりとはまったキャスティングになっています。
 全員が余りにも自然に一兵士として存在している為、パンフレットを見るまで 一番若い米兵を演じていたのが、映画『リトルダンサー』のジェイミー・ベルだと気づかない程でした。

 第二次世界大戦後、平和憲法を掲げ現在に至る日本。
そして、第二次大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など名前のつく戦争をあげていくと枚挙に暇が無い程戦い続けているアメリカ。そしてアメリカは、現在もなお、休むことなく戦争を続けています。
 この映画を見た後で「戦後」がないアメリカを考える時、上層部の手足 として動かされているアメリカ人はずっと傷つきつづけているという現実が重くのしかかってきます。

 戦後60年が経ち、戦争を知る人が日本には少なくなって来ている現在。しかしそれは決して戦争が無くなったわけではなく、今も世界では休むことなく人々は戦い続けています。
戦争とは一体どういう事なのか。『父親たちの星条旗』は、アメリカと日本の戦いというだけではなく、「戦争」というものがどういうものなのかという事を我々に伝えてくる作品です。
 それは、現在76歳という年齢に達した監督から、国を問わず今を生きる人達全員に発せられたメッセージです。 そしてそのメッセージに押しつけは全く存在せず、反戦を声高に叫ばずして映画を見た人の心の中にいつの間にか深く入り込み、理解と認識を持たせるという非常に強い力を持ったものでした。

 今度は『硫黄島からの手紙』で日本から見た硫黄島の戦いが描かれます。戦後60年という時間が経過した今、日本人にとっては遠く離れた存在になりつつある「戦争」。戦争とは何なのかという事を改めて考えながら、今度は日本側から描いたこの作品を観に行こうと思います。


<October>

MOVIE・カポーティ/PLAY・オレステス/MOVIE・木更津キャッツアイ ワールドシリーズ


◆10月28日◆MOVIE◆木更津キャッツアイ ワールドシリーズ◆

 木更津キャッツアイの第1話をレンタルビデオからDVDを借りて来て初めて 見た時の衝撃は、未だに忘れられない。何となく流れる深夜放送の匂い(しかし実際にはゴールデンタイムに放送。しかも、低視聴率)と、小劇団系の匂い。
そして「表」と「裏」のスタイルに「クドカンって天才!」と唸らされたあの夜。 思わずDVDが壊れたのか?!というか、「私、巻き戻しボタン押した?」とごくごく標準的な反応をした「裏」はわくわくするぐらい、最高に面白かった。その後私がすっかり木更津ファンになったという事は、Feeling Note2005や「ワールドシリーズ」の映画紹介を読んでもらえばよーくお分かり頂けると思うが、とにかく。間違い無く私を含め木更津のファンは「木更津キャッツアイ」の中で「青春」を擬似体験していたのだと思う。あいつらバカだな〜って、愛情たっぷりにキャッツの5人を見ながら心の中で一緒に「ビールビール」って言いながら野球狂の詩に行ったり、野球やったり、ローズ姉さんの言葉にひっかかったり、うっちーの家を追跡調査したりしていたあの頃。現実ではないと思いっきり分かった上で、でもぶっさん、バンビ、マスター、アニ、うっちーと彼らを取り巻く人々は木更津に住んでる感を、キャッツを愛する人達は皆持っているというこの不思議な感覚。
 だから、キャッツが円陣を組むと「久しぶりだ〜」って皆のテンションが上がってしまうし、「3年ぶりだ〜」とまた同窓会のように懐かしんでしまうのだ。

 というぐらい、思い入れの強い「木更津キャッツアイ」が「ワールドシリーズ」をもって完結した2006年秋。見終わってまず思ったのは、「ああ、青春が終わっちゃったな」という事と「キャッツの4人はぶっさんにちゃんとばいばいが言えて、私はキャッツの5人にちゃんとばいばいが言えたな」という事だった。

 木更津キャッツアイは、そもそも「もって後半年」と医者に告げられた、ガンにおかされている主人公ぶっさんがその死までの短い時間をどう生きたのかというお話し。がしかし、彼が生き返ったり、無人島に行ったり、色々ありえない事をちりばめては、今までちゃんと彼の最期をクドカンは描いてこなかった。
生き返った時間と、本当に死んだという時間が点と点で存在していて、今回のこの映画で初めてそれは線で結ばれることになったのだ。

 ぶっさんが死んで3年経ったところから話しは始まる。木更津の市役所に勤めるバンビがぶっさんの声を聞いたと言い、バラバラになってたキャッツメンバーを集め、「それをつくれば彼はくる」という言葉を信じて野球場をつくりあげる。
 しかし、そこに至るまでがちょっと無駄に長い。映画『フィールドオブドリームス』のように野球場を作る、という発想が早い段階から出ているにも関わらず、映画サイズの長い物語にする為、わざと引き伸ばして回り道をしているのか、全く違う物を作っては、これでもない、あれでもないと続いていく。これが3年前ならこのバカな展開もありだったのかもしれない。現に「日本シリーズ」ではいきなり無人島という設定がまかり通っているのだし。しかし、キャッツのメンバーも大人になり、見た目もテンションもやはり大人になっている今、昔のばかだな〜というテイストが微妙に違って来ているが為に、時間稼ぎに見えてしまったのは残念だった。

 とはいうものの、この映画の本題であるぶっさんにちゃんとお別れする事は正面から向き合ってしっかりと描かれている。
入院中のぶっさんを見舞うメンバーと彼の会話には、その端々に寂しさとせつなさを感じさせられる。もう投薬はしなくていいとか、退院することになったとか、それは決して良くなったからではなく、もう間近に死期が迫っているからそうなのだと暗示させる台詞が語られる度、個人的に今年ガンが原因で永眠した愛犬の闘病生活を思いだし、急激な悲しみに襲われたりと、とにかく色々な思いが頭に渦巻いた。それと同時に、クドカン自身誰かの死期に、実際に立ち会った経験が恐らくあるのだろうと思った。そこには、家族の死を体験した人でしか分からないようなものが存在していたから。医者から手の施し様がなくなりましたと直接的ではなく間接的に日々段階を追って告げられるのは、非常に悲しい現実だ。

 この物語を思い返す時、頭に浮かぶシーンが3つある。それは、ぶっさんの父親が彼の最後を看取る明け方のシーンと、出来上がった野球場で、アニがぶっさんに「ぶっさんの時間と俺たちの時間はもう違うんだ」と告げるシーン。そして、3つ目は、バンビが投げたボールをぶっさんが追いかけていくシーンだ。

 この物語を見る人の誰もがちょっと不思議に、そしてほろ苦く、そして切なく思っているだろうと思われるのが、ぶっさんと父親公助の関係である。ぶっさんはドラマでも映画「日本シリーズ」でも、自分の父親を一度も「父さん」と呼ばず「公助」と呼んでいる。そして公介は息子の世界に無理矢理入ろうとは絶対せず、微妙な距離を保ちながら愛情を持って見つめている。ドラマで息子の死期が迫っていると息子本人ではなく友人から知らされた後、和田アキコの「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌う公助の姿は実に切なくて胸にくる。そんな親子二人の最後の時間を知った時、ああ、と。ただ、ああ、と思い、次に鼻の奥がツンと痛くなってスクリーンの絵が少しぼやけてきた。そしてこの親子の今迄が頭の中に走馬灯の様によぎった。岡田准一と小日向文世。この二人には本当にやられるなぁと思いながら。

 そして、いつも実は大事な台詞を言っているアニは今回も普通ではなかなか言えない言葉をぶっさんに告げる役目を背負わされた。ドラマではオジーの葬式からぶっさんを除くキャッツメンバーが野球狂の詩に帰って来た時、そこで待ってたぶっさんにアニが「オジーの事とかぶっさんの事とか、色々考えなきゃなんないし、もういっぱいいっぱいで。だからぶっさん、もう帰ってくんねーかな」と他のメンバーが思ってても言葉に出せなかった一言をきっぱりと言い放つシーンがある。
 そして今回。3年前に死んだのに、今、目に見える状態で彼等の前に現れたぶっさんに対してアニが「ぶっさんの時間と、生きてる俺たちの時間は違うんだよ」と、そこで時間が止まってしまった人間と、日々の生活があり生きていて成長していく、大人になっていく自分達はもう、同じ道を歩けないんだと言い渡す。だからここでさよならだと。そう言われてしまったぶっさんも、そして言ってるアニも、それを否定する事が出来ないキャッツメンバーも、全部が切ないシーンだ。これは頭が悪い悪いと自他ともに認めながらも実は確信を突く言葉を放ったり、ちゃらんぽらんでいいかげんでダメな奴だけど結構ナイーブで傷付きやすいという、アニというキャラクターを作り上げて来た塚本高史だからこそ言える台詞、納得出来る言葉だった。

 さてこの映画を締めくくる最後の野球の試合。心残りが無くなった時に人は成仏出来る、という考えの元で物語は進められていくのだが、試合で活躍した途端オジーがマウンドから消えるのが、これもまたちょっと切ない。オジー良かったね。と喜んだ顔を見せてくれたオジーに久しぶりに会えた幸せを感じながらも、やっぱりそんなに野球が好きだったんだねと、命を落とす事件に巻き込まれるきっかけになったのも、野球がやりたいからだったもんねと、またホロリとさせられてしまったのだが、何といってもこの試合でぐっと来るのはピッチャーであるバンビとキャッチャーであるぶっさんの、最後のマウンドである。
 オジーが消えたのを見て我が身の行く末を悟り、その上アニからさよならを告げられたぶっさんは、バンビから投げられるボールを受ける意味を十分理解している。これがバンビから受ける本当に最後のボールになる事を。そして、投げるバンビもこの一球でぶっさんと本当にお別れする事になるというのを痛いぐらい良く分かっている。このピッチャーとキャッチャー、二人の間にある空気が何とも言えずせつない。そこには、ぶっさんのサインが間違ってたから試合に負けて甲子園に行けなかったと根に持ち、ケンカしていた頃の子供のバンビの面影は全くなく、すっかり大人になったバンビがいた。皆の言うところの子鹿から鹿になったバンビが存在していた。人としての幅が出て、大人になった事がその表情から良く分かるバンビ。その顔を見た時、櫻井翔はいい大人になったなぁと思わされる表情だった。
 そしてそんな彼から投げられたボールをどこまでも追いかけていくぶっさん。彼は3年前で時が止まってしまい、成長したくても成長出来ないのだ。野球がずっとやりたくて、キャッツのメンバーと、昔の仲間と野球がずっとやりたくて、でもその夢が叶ったら、もう昔とは違うという現実を痛い程知らされてしまったぶっさん。その彼の悲しさを感じながら私はこう思った。ああ、青春が終わったんだと。

 バンビ、アニ、マスター、うっちー。この映画で、キャッツのメンバーはぶっさんにちゃんとばいばいを言った。そして私は大人になった彼等を見て、あの「ビール、ビール」と木更津を走っていたあの頃にノスタルジーを感じながら、キャッツ5人にちゃんとばいばいを言わせてもらったなと思うのだ。

 会いたくなったら、またドラマの1話目に戻ればいい。楽しそうに遊んでいる彼等がいつもそこに居る。でも、彼らのその後を知ってしまった今、リアルタイムに彼等と心の中で円陣を組む事は叶わなくなってしまった。彼等は木更津キャッツアイの住人から、木更津キャッツアイの住人だった5人になったのだ。

木更津キャッツアイ、ここに完結。


◆10月14日◆PLAY◆オレステス@シアタードラマシティ◆

 蜷川イヤーだったと言っても間違いではない2005年を『天保12年のシェイクスピア』で締めくくり、迎えた2006年。今年も既に彼の演出作品を4本、本作を入れると5本になる勢いで観ています。
 それだけ多くの作品を観ている私も観すぎのような気がしますが、それ以上に生み出している側の蜷川氏は、恐らく働きすぎです。

 さて、前回の『あわれ彼女は娼婦』は、これが蜷川演出作品?とちょっと首をかしげてしまう出来でしたが、今回の『オレステス』も更に首をかしげるような作品になっていました。既に上演が終わった作品なので、ネタバレもなにも無いだろうという判断で書きますと・・・
 まずオレステスという作品を取り上げた事自体がまず、不思議です。
ギリシャ悲劇『オレステス』は息子の母親殺しの物語で、暴力、復讐、報復といったものがテーマなのですが、全てはアポロンの神託により始まり、神託によって 終わるのです。
 蜷川氏が何故この作品を選んだのかというと、オレステスのテーマと、テロ や戦争といった復讐を伴う暴力がいたるところで見られる現代社会に共通点を見出し、それを舞台作品というもので客観的に観せる事によって、復讐、報復という事が、いかに互いを傷つけ合うだけで何も生み出さない悲惨なものであるのか、というメッセージを伝えたかったという事なのだと推測できるのですが、話しをこじらせるだけこじらせておいて、最後はアポロンの神託、つまり神の声が空から降ってきて、いがみ合う人間達をたった数分で丸くおさめてしまうという構造が、現代社会においては、びっくりするぐらいのご都合主義に見えてしまって肩透かしでした。ギリシャ悲劇だからそれはお定まりのパターンだといわれてしまえばその通りなのでしょうが、2時間半ノンストップで語られた物語の結末が神の声というのが現代に生きる私にとっては、どうも馴染めません。
 また、その神託が下った後、恐らく紛争が絶えない国の国旗と国の成り立ちが書かれたプリントが客席にばら撒かれたのですが(私の手元には降ってきませんでした)、『オレステス』の最後の解決方法が解決方法だけに、そこまで政治的、かつ 力強い作品だとは思えず、これにも違和感を覚えました。正直なところ、観客は蜷川氏にそんな政治的なものは求めていないような気がします。

 次に、蜷川氏がいつも重要視している物語の始まり、冒頭で観客に驚きを与えるような演出についてですが、これも今回成功していたとはちょっと思えませんでした。どういう演出だったのかというと、舞台に本物の水を使って雨を降らせていたのですが、舞台奥で降った雨は傾斜をつけた床を滑り落ちて舞台のヘリの水受けに流れ着くという仕掛けになっていました。という訳で、下り坂な舞台の上に立つだけでも演技者にとっては大変だと思うのですが、更に水で滑りやすくなるという、ちょっと過酷な舞台装置となっていたのです。
 脚本に「100人の〜」とあれば本当に舞台に100人、人を乗せてしまう蜷川氏ですから、『オレステス』に「雨」とあったので本当に雨を降らせたのかもしれませんが、この雨がなかなかの曲者で、ザーっという音にも役者達は本当に苦労していました。大きな声を張り上げなければ雨音で声が消されてしまうので、全員必死です。最前列に座った友人によると、前方の席は結構水がかかったらしく、更に 役者たちが声を消されまいと必死で演じているが故に・・・雨以外も飛んで来たと、まあそういう結構大変な状況だったそうです(苦笑)
 舞台の最後尾で観ていた私にとっては、やはり雨音の音量が思ったより大きく響き、台詞が明瞭に聞えないところもあり、本当は強弱をつけて台詞を語りたいのかもしれない役者たちはきっと複雑な心境だろうなぁと思いながら観ていました。

 前回の舞台『あわれ彼女は娼婦』では物語の最後、主人公のジョバンニが愛する妹の心臓を食べるというシーンがあり、今回は「プリントをばら撒く」という「驚きの演出」がラストにあった訳ですが、残念ながら2作品ともに、どうもしっくり来ない感じが残ります。正直なところ、物語と最後のサプライズとの繋ぎが上手く行っていない為、観劇後も奇抜さやけれん味といったものが強く残ってしまうという、恐らく演出家が意図した方向とは別の方向に観客は背中を押されてしまうように思えました。

 という訳で、色々思うところはある作品でしたが、次回の蜷川演出作品も、その次の作品も、キャストが白石加代子だったり、北村一輝&高橋洋といった、私にとっては注目の俳優だったりするのでやはり観に行ってしまうのでしょうね。次回はシェイクスピアの喜劇も入っていますので、楽しみにしたいと思います。


◆10月14日◆MOVIE◆カポーティ◆

 カポーティと言われて思い出すのは、私の場合半自伝的小説『遠い声、遠い部屋」であり、決して『ティファニーで朝食を』ではない。次に思い出すのは『カポーティとの対話』というカポーティーにインタビューをした一冊の本で、『冷血』は私のリストにない。
 一般的に見ると、片寄ったとも言えるカポーティへのアプローチが私の中にはあった訳で、何故か本作を観るまで、彼の代表作である『冷血』に興味を抱いた事はなかった。

 映画『カポーティ』は、作家トルーマン・カポーティがノンフィクション作品『冷血』を世に生み出すまでを追った物語である。ある日、彼はカンザスシティのある一家4人が惨殺されたニュースを新聞で読む。彼はその事件に興味を示し、雑誌ニューヨーカーをバックに取材すべく、現地にすぐさま乗り込んでいく。
 最初はその事件に興味を持って。次にはその犯人達に興味を持って彼はこの事件にのめりこんでいく。彼は犯人の一人と友人のような関係になり、この事件の真相を探ろうとする。当然のことながら、関係の構築と比例して彼の筆は進んでいく。そして次第に犯人の命と、作品の完成が微妙な関係になっていくのである。この事件の真相、彼らの動機、何故一家皆殺しに至ったのかを知るまでは彼らに死なれては困る。しかし、彼らが死ななければ作品は発表できない。裁判が長引けば長引くほど、作品発表のタイミングが先延ばしになっていく。そのジレンマにカポーティーは神経をゆすぶられていく。全体を通して本作では、物書きの残酷さ、非常に利己的に見えるカポーティという人間が描かれていくのである。と同時に、物書きの性(サガ)と(『冷血』を最後に彼は筆を折り、アルコールに溺れていくのだが)物書きといえど、カポーティといえど人間だったという彼のその後を予感させる「人間 カポーティ」も描いている。

 と書くと非常に人間の心の深い部分に入りこんだ作品のように聞えるが、不思議な事にこの作品からはこちらの胸が掻きむしられるような力は感じられない。当時のNYという街の雰囲気は良く出ていると思うし、カポーティの雰囲気をフィリップ・シーモア・ホフマンは見事に演じていたと思う。立ち姿も心の動きも、これぞ役者だと思わせる上手さがある。主演男優賞のオスカーもこの演技で貰い、彼のキャリアの中では非常に大きな役になったことは間違い無い。ホフマンに限らず、キャサリン・キーナー、クリス・クーパーといった他の役者もいい味を出していた。  しかし、役者たちがどんなに良い演技をしていても、もう一歩先に進めなかった感が私には残った。彼がこの『冷血』を書くきっかけとなった事件に、何故ここまで興味を示したのか、という部分の説得力が弱く感じられたのだ。
 彼は自分の次の作品の題材を探していただけなのか。それとも、強く弾きつけられる物がこの事件にはあったのか。その部分を説明した台詞は、この部分にしか感じられなかった。スペインまで彼を尋ねて来た友人でありこの時期の仕事のパートナーでもあったネルに、この事件の犯人の事を語った台詞である。正確には覚えていないが、内容としては次のようなものだった。「彼(殺人犯)と僕は同じなんだ。しかし、僕は玄関から表に出ていった。しかし彼は裏口から出ていったんだ」

   彼の半自伝的小説『遠い声、遠い部屋』は非常に孤独な少年の物語である。何も無いアメリカの片田舎。そこに父親を頼りに一人旅をして辿り着いた少年がいる。しかし彼は遠路はるばる旅をして来たのだが、歓迎されてはいない。交通手段もほとんどない、アメリカの片田舎の閉鎖性。
 この『カポーティ』という映画の中で、忘れることの出来ないショットがある。それは、殺人現場となった片田舎の家の映像だ。それは、叫んだところで誰にも聞えない、広い大地にぽつんとある一軒家の全景。この絵が全てを物語っているように思えるほど、上手く言葉には言い表せられないのだが、このスクリーンに映し出された風景は強い印象を残した。閉塞感と孤独。そして、叫んでも気づいてもらえない恐怖。それは、助けを求め口から発っせられる叫び声という物理的なものだけでなく、心の叫びも同様である・・・

 カポーティの複雑な生立ち。そして本人は全く気にした事は無いと語っていたそうだが、同性愛者であるというマイノリティーの立場。そして文壇での成功によるセレブな生活。色々な要素がこの中には含まれているが、彼の内面に迫るバックグラウンドは、表だっては描かれていない。それが為に、作品の厚みが少し狭まり、核心に迫るという所までには至らなかったという印象が私には残った。脚本の問題だろうか。監督の問題だろうか。役者が揃っているだけに残念に思う。

 しかし、本作を見た人がカポーティにより興味を持つであろう事は事実だし、作家という生きもの、「書く」という事がもたらす様々な現象や痛みについて考えさせられる事もまた事実。
そして恐らく近いうちに、私が『冷血』を手にする事も事実だろう。


<September>

MOVIE・トランスアメリカ/MOVIE・マッチポイント


◆9月9日◆MOVIE◆マッチポイント◆

 これは、人生の「運」にまつわるお話し。テニスの試合で、ネットの真上にテニスボールがのってしまった時、どちらのコートに落ちるのかで勝敗が決まる時がある。勝つのか負けるのか、そのボールがどちらに転がるのか。それはもう、人の力の及ぶところではなく、もし勝利するとしたら、それは偶然の賜物、運以外の何物でもない。それは人生も同じ事。人の一生は、運がどれだけあるかで決まるとも言える。努力ではどうしようもない、ツキがあるのか、ないのか。それで人生は大きく変わって来る。
 『マッチポイント』は、人生における「運」についてウディ・アレンが紡ぎ出した物語。この映画をまだ見てなくて、何も知らずに見たい!と思う人は、ここからは、絶対に読まないでください。 ※ここから下のブロックは、この物語の内容を網羅しています。結末まで書いていますのでずばり、ネタバレです。見る予定の方は、ここから下は読まずに後日、訪れてください。

 ざっとこの物語を紹介すると、アイルランド出身のテニスプレイーヤー、クリスが引退して高級テニスクラブのコーチに就職するところから話は始まります。そのテニスクラブの会員、大企業の御曹司、トム・ヒューットのコーチについたクリスは、彼と友達になります。ふとした事からクリスがオペラ好きと知り、父親がロイヤルオペラハウスのパトロンの一人でもあるトムは彼をオペラハウスにご招待。そこでクリスは彼の両親、そして妹のクロエに気に入られ、いつの間にかしっかり逆玉コースにのっかるのです。貧しい家に生まれ育ち、そこから抜け出す為にプロテニスプレーヤーになり、そして今度は上手く立ちまわりセレブな一家の一員になれるかもしれないという所まで来たクリス。しかし、ここで運命的な出会いがあります。トムの婚約者、アメリカ人の売れない女優ノラとの出会いです。恋人のクロエには無い魅了の持ち主、セクシーなノラにクリスは夢中になります。そんなある日、トムの母親の反対もあり、ノラとトムは婚約を解消。彼女は彼らの前から姿を消します。一方クリスはクロエと結婚し、エグゼクティブな日々を送るようになります。妻の父親の会社にそれなりのポジションで迎え入れられ、テムズ川が見下ろせる高級マンションに住み、公用車で移動するクリス。それでも彼はずっとノラの事が気になっています。
 そしてテートギャラリーでの偶然の再会。今やヒューイット家とは関係のなくなったノラに、クリスはのめりこんで行きます。そしていつしか、子供を欲しがる妻にではなく、皮肉にもノラにクリスの子供が宿るのです。自分と結婚してくれと離婚を迫るノラ。そして遂にクリスは彼女を殺す決断をします。物取りに見せかけて殺人を計画するクリス。抜かり無い彼は、本当らしく見せるためにまずは彼女の隣人を強盗殺人にみせかけて殺害。帰宅してきたノラが運悪く強盗と鉢合わせ、殺害されてしまったという状況を作り出し、物事は彼の目論見通りに報道されるのです。しかし、彼を疑う警察が一人。ノラの日記に繰り返しクリスの名前を発見した彼は、容疑者として彼に尋問をします。しかし、事態は急展開。物取りに見せかける為、ノラの隣人から取った結婚指輪。それをクリスは他の犯行の証拠となる物品とともに川に捨てていたのですが、まるでテニスのネットの上にのってしまったボールのように、結婚指輪は川のほとりの欄干にぶつかり、川に落ちるか、歩道に落ちるかの状態に陥ります。そして、その指輪は歩道に落下。しかしこれがクリスのツキとなります。彼が犯行に及んだ数日後、同じ地区で薬物中毒患者がからむ強盗事件が発生。殺されたジャンキーのポケットから、何とこの指輪が出てきたのです。これが物証となり、クリスの容疑は晴れ、ノラ殺しの犯人は死んだジャンキーとなったのでした。

という話しなのですが(ざっとの割りには長い説明。笑)、まず、ノラ役のスカー レット・ヨハンセン。何でしょう。この官能的な魅力というか、色っぽさは。男性がのめり込むタイプの女性だというのは一目見て分かります。登場シーンの卓球台の前に佇む彼女は、その存在だけでノラという女性を表現し、手に取るように分かりやすく、クリスの人生が彼女によって狂うのだろうという事をこちらに伝えて来ます。
 それにしても、これは面白いところで、トムの婚約者、つまり人のものである時ほど、ノラは魅力的に見えるのです。背徳って魅力的なんですね(笑)クリスに離婚を迫る頃には、見ているこちらまで魅力が半減して見えるのですから不思議なものです。つまり監督が欲しいと思う絵が確実に撮れる人なのではないでしょうか。まだ若い女優ですが、その堂々たる演技は既に貫禄が感じられます。

 、彼女にのめり込む男、クリスを演じるのは、ジョナサン・リース・メイヤース。彼が有名になるきっかけとなった映画「ベルベットゴールドマイン」では、その中性的な美しさで、男女を問わず翻弄してしまう魔性の青年を演じていましたが、それからそれなりに時が経った今、あの中性感は無くなり、20代後半の男性の魅力を持つ男優になっていました。まだ若いのでこの言葉はしっくりきませんが、上手く歳をとってきているのです。少年の華奢さはなくなり、背は低いので、恐らく体型的にはさほど恵まれている方ではない俳優でしょうが、常に何かを考えているように見える顔、どこかに闇を、怒りを感じる表情は、演じられる役の幅広さを予感させます。
 それにしても、BBCドラマ「ゴーメンガースト」のステアパイクといい、本作といい、自分の知力を駆使して貧しいところから這い上がる役が彼の場合多いという印象があります。つまり、坊ちゃん役は決して来ない顔なのです。

 さて、クリスという男。この男について我々は色々考えさせられることになります。彼の本質はどこにあるのかを。
 ドストエフスキーを読み、オペラを好む。彼は心からそれらを愛しているのか、それとも彼の上昇嗜好が、そういったものに興味を持たせる作用をひき起こしているのか。いくら相手がセレブだからって、奢ってもらう事に甘んじない態度は、彼のプライドなのか、金持ちと良い関係を築くテクニックなのか。一見したたかに見えるのに、ノラへ対する欲望に突っ走ったり、殺人という危ない橋を渡って見せるクリス。思慮深いのか、刹那的なのか、抑制が効く人間なのか、感情的なのか。とにかく、どこまでが計算でどこまでが本心なのか、このクリスという役には常に揺らぎが存在しています。そして一番大きなゆらぎは、奥さんと愛人の間で生じている訳ですが、とにかく利己的で混沌としている男がクリスなのです。アイルランド人のテニスプレーヤーというのは有り得ない設定(貧しい生活から抜け出す為に、アイルランド人がテニスを選ぶ訳がない)で、アメリカ人にしか思いつかない発想だと現場でジョークのネタになっていたそうですが、そういうちぐはぐはともかく、このクリスという男をジョナサンに演じさせると決めた監督の目は確かだったと思います。

 ところで、この映画。ロンドンの新しく出来たギャラリーやロイヤルオペラハウスなど、見ているだけでロンドンに行きたい!と思わされるシーンが続出します。街並みを見ながら、あの通りだとか思うのもまた楽しいのです。そして、ロンドンのセレブはこんな暮らしをしているのか!と垣間見るのもまた楽しい。こんな窓の大きなペントハウス、何だか居心地が悪くない?と思わなくもないのですが、一度ご招待を受けてみたいものです。
 とはいうものの、これは書いているのがアメリカ人のウディ・アレンなだけに、英国人が見ると、所々これは違うな・・・という所があるかもしれませんね。

 さて、どこの国でもある話しだと思うのは、血族優先の法則。あの階級社会イギリスで、娘婿は簡単に有名企業の重役になれてしまう。これってイギリスでもそうなんでしょうか?まあ、アメリカではありみたいな気がします。だってウディ・アレンが書いてるんだから(笑)

 この映画で特筆すべきは、やはり勧善懲悪ではないラストでしょう。あの人をくったようなひっくり返し方。実にウディ・アレンらしい展開です。
 セレブ社会に迎え入れられ、二人も人を殺したのに無罪となった強運の持ち主クリス。しかし彼は罪悪感からか、ノラと隣人の幽霊に自宅で遭遇します。自分はこの罪を一生背負っていくと幽霊に告げるクリス。自分の生活は守り抜くという固い意思のもと、罪の重荷に耐えてやると宣言する彼。
 嘘みたいな話し(実際、本当に嘘)だけど案外本当にこういう事ってあるかもしれないと思わなくもない運命のいたずら。世の中、殺人がばれないまま暮らしている人って、どれぐらいいるのかしらと本当に考えてしまいました。

 英国セレブの生活を垣間見し、魅力的な人達を愛で、展開の妙を楽しむ。10歳の子供に分かるように作るといわれるハリウッド映画に飽きたら、こんな捻りの効いた大人の作品を観に行ってみてください。きっと主役達の出ている他の作品が、そしてウディ・アレンの今までの作品が気になりだす事請け合いです。


◆9月9日◆MOVIE◆トランスアメリカ◆

 この物語の主人公、性同一性障害のブリーを演じた女優フェリシティ・ハフマンの、何とエレガントで魅力的な事か。そしてその息子役ケヴィン・ゼガーズの若さの、何と愛おしい事か。

 この物語は性転換手術を間近に控えた、性同一性障害と診断されているブリーが、息子と名乗る男の子からの突然の電話をとる所から始まります。それまで自分の息子の存在そのものを全く知らなかったブリーに、刑務所から電話をしてきたトビー。頭の中は性転換手術の事でいっぱのブリーに降って湧いた思いもかけない過去そして現実。何故今この時期に?!と己の運命を呪いつつ、ブリーは息子の保釈金(でもたった1ドル)を払いにNYへ向かいます。17歳の少年トビーは、女性に見えるブリーが自分の父親だとは思わず、若者の更生に尽力している教会の人だと思い違いをします。そんなトビーに自分が父親だと名乗るに名乗れず、しかしLAに行きたいという息子を放ってもおけず、ブリーはNYからLAまで、車での旅に一人息子と旅立つのです。

 さて、何といってもブリーを演じる「女優」フェリシティ・ハフマンです。低い声、そしてしっかりした骨格。どこから見ても男性が女装しているようにしか見えません。この人の他の芝居は見た事がないのですが、この演技力は本当に凄いです。
 押さえた演技の中にある凛とした美しさ。決して美人ではないのですが、見ているうちに観客は彼女の魅力にどんどん引き込まれていき、彼女に恋する男の子がいてもおかしくない!と思うまでになるのです。この感覚。この、凛とした心、佇まいの美しさに魅了される感覚は、ドラッグクイーン映画の名作『プリシラ』で男優テレン・スタンプに感じたものとちょっと似ています。
 そして、その息子役のケヴィン・ゼガーズ。小柄な彼を見ながら、いつの間にかリバー・フェニックスを思い出していたのですが、プレスを読むと「リバー・フェニックスの再来」の文字が。やはり皆もそう感じていたんだと思いましたが、彼よりはずっと神経質そうでなく、危うさ、脆さのようなものは感じられません。基本的に彼よりずっと明るい性格のように感じられます。きっとこれから途中でリバーのようにこの世から消えてしまうような事はなく、ちゃんと成長してくる、彼よりずっと生命力のある俳優だと思います。

 物語はロードムービーであり、その中で新しい出会い、過去と向かい合う瞬間、そして主題であるブリーとケヴィンの関係の変化が丁寧に描かれていきます。ハリウッド映画に慣れた観客にとっては、涙を流さずにはいられない大感動とか夢が叶うサクセスストーリーがある訳ではないのでちょっと肩すかしかもしれませんが、この映画は実に程の良さを良く知っており、見終わった後も静かな喜び、継続的な幸せが感じられる作品だと思います。
 そんなに物事簡単に劇的な変化は起こらないし、幸運が転がり込んでくる事もない。でも、人と人は歩み寄る事は出来るし、二人で変化していく事も出来る。そして二人で幸せを生み出す事も出来る。人を愛する事、思いやる事、優しくする事、守る事、そして尊重する事。全編に渡ってこの映画が我々に問いかけてくるのは、どう生きるのかという自分探しであり、そして人との関係を築きあげていく事の大切さです。

   フェリシティ・ハフマンという得難い女優と、ケヴィン・ゼガーズというこれからが楽しみな若手の俳優が生み出した、非常にセンシティブなある親子の物語。この作品の絶妙な軽やかさと幸福感は、いい時間を過ごしたと思わせてくれる、ちょっと幸せになれる映画でした。

  


<August>

MOVIE・インサイド・マン/PLAY・あわれ彼女は娼婦


◆8月12日◆PLAY◆あわれ彼女は娼婦◆

 蜷川幸雄演出の舞台である上に、三上博史、深津絵里、谷原章介の3人が出演。更にそれが、「あわれ彼女は娼婦」というインパクトのある名前を持つ作品であるという事を考えると、この作品が今夏注目を集めた舞台の一つであった事は間違い無い事でしょう。3時間近い上演時間の間、衝撃的な内容だけに飽きる事はありませんでしたが、残念ながら鑑賞後に残ったものは、蜷川演出作品にはめずらしい纏まりの悪さと、物語におけるリアリティーの希薄さでした。

 黒い衣装を身に纏った深津絵里を抱える裸体の三上博史、という構図が印象的なポスターと、題名の響きから現代劇なのだろうと勝手に思い込み、何の下調べもなく劇場へ。この物語がシェイクスピアと同時代の作家が書いたものであると知ったのは、舞台のインターバルでパンフレットを購入してからの事でした。

 あらすじを大まかに説明すると、物語の舞台は中世のイタリア、パルマ。兄(三上博史)と妹(深津絵里)が禁断の愛の世界を突き進み、遂には妹が子を宿してしまいます。未婚の上に兄の子を宿してしまった妹アナベラは、かねてより求婚していた貴族(谷原章介)ソランゾのもとに嫁ぐ決心をします。当然の事ながら夫となったソランゾは自分の子でない子供を妊娠しているアナベラを攻め、結婚は事実上破綻。嫁いだ後も妹に恋焦がれる兄は自分の子を宿しているアナベラを遂には殺害。狂気の世界に足を踏み入れた彼は妹の心臓を抉り出し、その心臓を食べ、その場に居た人々をも殺戮していく、という、まあ、めちゃくちゃと言えばめちゃくちゃな話しです。

 ところが、この大量殺戮な上にカニバリズム(この舞台が始まった当時はまだ心臓を食べるという事はなく、心臓を持って出て来ただけだったそうですが)にまで至る衝撃的な内容なのに、さほど凄惨、残酷には見えず、もっと言ってしまえば狂気も余り感じられないという、とても奇妙な代物に仕上がっています。
 というのは、この芝居全体が虚構の世界であり、発せられる台詞は宙に浮き、浮遊したまま回収される事はないという、つまり必要とされるリアリティーを欠いているからかもしれません。
 元来舞台の上で語られる物語がフィクションである事は周知の事実であり、元々が虚構の世界であるとも言えるのですが、その許容範囲を超えた現実味の希薄さは、全てを絵空事にしてしまうようです。

 かなり無理な設定に、どこまで説得力を持たせ成立させる事が出来るのか。それがこの芝居を演じる上での表現者の醍醐味であり、観客にとっても醍醐味であると思うのですが、私に言わせれば、残念ながら無理な物語は無理なまま、今回は幕を閉じてしまいました。
 それは、シェークスピアの紡ぎ出す言葉のような輝きを持たない台詞、全てを捨てても愛に突っ走り、熱に浮かされ憑き物に支配されたような、ある種の狂気が感じられるはずなのに、演技者同士のベクトルが微妙にずれているのか、ケミカルなものが生じているとは見受けられない兄と妹、タブーもしくは様々な愛の姿を描く事に重きを置いているはずなのに、当時の教会批判が急に入り込んでくる事により突然「社会派」の色を帯び(それはこの物語が書かれた時代では当たり前の事だったのかもしれませんが)、それにより、現代においては話しの軸がブレるように感じらる脚本。などなど、いくつもの理由が重なっています。パンフレットによると、シェークスピアに比べてジョン・フォードはインテリ的であるとありますが、それ故なのでしょうか。彼の生み出した言葉は詩的というより観念的であり、台詞らしい台詞、血と肉を伴わない言葉として私の耳に届き続けました。

 いつもはなるほど、と思わされる蜷川作品の美術も、今回は疑問が残る部分がありました。
舞台の天井から床までたらされた無数の赤い糸は兄妹の血の繋がりを表現したものだと思いますが、舞台を観る上でこれは案外邪魔であるだけでなく、糸を掻き分けながら演じる役者も居て、途中で撤収する方がいいように思えました。意図するところは良くわかりますが、途中からは無用の長物になったといいますか・・・
とは言うものの、効果的なセットももちろんあります。舞台正面全面が2階建ての扉になっているのですが、それが瞬時にカーテンに入れ替わるのです。カー テンと扉。特に風になびく白いカーテンは美しく、内と外、光りと影を描くのにこのセットは効果的に存在していました。

   ところで、最後の最後、兄であるジョバンニが妹の心臓を剣に突き刺し血まみれでパーティーに乱入して来た上に、その宴に集まる人を次々に刺し殺し、最後は自分も刺殺されるシーン。
 このシーンの殺陣が何とも奇妙です。片っ端からジョバンニは自分の剣で人を殺めていくのですが、スローモーションというには速く、殺陣というには遅すぎるゆるい動きになのです。そして、狂気の殺人者が乱入して来たら、普通その現場に居合せた人は、逃げ惑うはずなのですが、何故か彼らはジョバンニの剣に自ら刺されに来るとしか思えない動きをするのです・・・どう見ても自ら剣に飛びこんできて、やられた〜っ!のポーズを取ってるようにしか見えないんですよね。つまり、このシーンは殺戮ではなく、奇妙な集団自殺に見えてしまうという。観ているうちに、余りに多くの人がやられた〜、やられた〜と倒れていくので、ある一定量を過ぎた所から、何だか一種のコントのように感じられ、殺戮シーンなのに不謹慎にも笑ってしまいそうになりました。
 これは妹の心臓だと言ってそれを一口食べてしまうというジョバンニの行動に説得力を持たせられるのは、三上博史しか居ないと思いますが(役のリアリティではなく、役者のリアリティっていう所が、また何とも微妙ですが。笑)、その殺戮の場面は鬼気迫るものには成り得ず、口にした心臓も、一体何で出来てるんだろう。食べられる素材で赤い物・・・と、超現実的な事を考えてしまうほど、観ている方に余裕があるという、まあ、何だかゆるいラストシーンになっていました。
 死者の数では圧倒的にシェイクスピアの芝居の方が少ないのに、この作品より凄惨に感じられるのは何故なんだろう。そう友達が呟いていましたが、それは一重に現実味の希薄さに起因しているように、私には思えます。

 とまあ、色々書きましたが、蜷川さんだからって晴れの日ばかりじゃないさという、そんな感じの舞台でした。それにしても、ジョン・フォードを見てシェイクスピアの凄さを知る。今更ながら、シェイクスピアは偉大です。


◆8月6日◆MOVIE◆インサイド・マン◆

 はじめに。既に公開が終わっている映画である事を前提に書きますので、これから DVDなどで見る予定で、ネタバレが嫌な人、それから、この映画が大好きでとやか く言われたくない!という人は読まないでください(笑)

 さて、この映画。試写会で見たので、一般公開のずっと前に物語を知ってしまう事 になりました。(実際に見たのは5月です)
『インサイドマン』は監督、スパイク・リー、主演はデンゼル・ワシントン、ジョ ディ・フォスターとこの3人が揃っただけでも面白そうだと興味を持った作品でし た。また、犯人が映画『ベント〜堕ちた饗宴〜』の主役クライヴ・オーウェンと来てます。(これはまあ、分かる人だけ、おおっ!と思ってください)そしてウォレム・デフォーももれなくついてくる!
 という訳で、ご招待頂けるのなら(笑)絶対に見に行くべきだと思い、試写会に 行った訳です。そして試写会は宣伝のためのものですから、礼儀として公開が終わる まで黙っていたと、まあそんなところが今頃書いている理由です。(ただ単に書く時 間が無かったとも言う。そして、出しそびれていたとも言う。笑)

 書いて字の如しの「インサイド・マン」。まあ、これは簡単に言ってしまえば流血 の無い完全犯罪の銀行強盗の話しです。そして、「インサイド・マン」は直訳すれば 内側に居る男。つまり、銀行の中に居る男。犯人は事件の後、そこから逃げず、ほと ぼりが冷めるまでしばらく銀行の中に隠れて居たと、まあ、タイトル通りで捻りは・ ・・ここには無いです(笑)逆にストレートに言っておいて、そういう意味だったの か!と驚いてもらいたいという事ですね。

 とにかく試写が始る前から、脚本がすごい、脚本がすごいとMCの方が言われまし て、斬新で凄い脚本です!!と言われすぎていたせいか、見終わった時にはえっ?ま た?それオチ??みたいな感じになってしまって、脚本家がちょっと可愛そうでし た。では、はじめましょう。

   ある男がNYダウンタウンの銀行を襲う事を計画します。ある朝、彼らはメンテナ ンス業者を装い銀行に入り、アッという間に銀行を閉鎖。中に居る人全員を人質に取 ります。ここからがこの映画の、まあ斬新なところです。
 彼らは人質を一箇所に集め、全員犯人達と同じ洋服に着替えさせます。フード付き で顔もマスク覆わせる為、お互い誰が誰やら見分けがつかなくなるのです。
 そして人質を何部屋かに別けて収容。部屋を別けてしまったのです、人質全員の動きを把握 出来るのは犯人だけになりました。
 犯人も人質も同じ洋服なので見分けがつかない上に、部屋を別けているので「他の 部屋から移動させられて来た人質」という「演技」をすれば、犯人自身が被害者の中に上手く入り込めてしまう訳です。
 他の部屋でトラブルを起こした人質を別部屋につれてくる犯人役が1人どうしても 必要ですが、その一人以外はいつの間にか人質に紛れこませることが出来てしまう。 という訳で、いつの間にか共犯者が人質に紛れこむ事により、人質が解放される 時、共犯者は表向き被害者として正々堂々と正面玄関から出て行く事が出来るので す。
 そして、真犯人が狙ったのは表立った銀行のお金ではなく、頭取が大きな秘密とし て隠し持っていた書類と宝の数々。という訳で、この犯罪。誰も殺さず、傷つけず、 表向き何を持っていったのか分からないという、とても珍しいケースの事件となるの です。

 というのがこの物語の大枠です。その犯人との交渉人(ネゴシエーター)として登 場する警察官を演じるのはデンゼル・ワシントン。そしてこの銀行の頭取が抱える大 きな問題を秘密裏に処理する為に雇われた敏腕弁護士を演じるのがジョディ・フォス ター。

 この頭取の秘密というのが、今更もう使い古されたネタですが、第2次大戦中、ナ チがユダヤ人から取り上げた財産を元にこの銀行をおこしたというもの。それを裏付 ける書類、財宝などがこの銀行の金庫に眠っています。それを犯人は狙ったのです。
 こう言っては何ですが、この設定もう既に散々使い古されてますよね?ミステリー ファンにとってナチネタは既に驚きを持っては受け入れられない設定です。が、映画 では物凄いトップシークレット扱いをするだけに、その秘密を知った時、え?!それ オチ??みたいな感じになってしまいました。
 そして、更にここで問題です。この秘密をこの犯人達はどこで知ったのかが、全く 説明されていない!!と思うんですけど、説明できる方、いらっしゃいます?もしい らっしゃったらお手数ですが、メールで教えてください(笑)
 私が見落したのでしょうか?字幕が例の大御所〇〇 〇〇〇だったので、適当にそ の部分だけ端折られてしまったのでしょうか(笑)これねぇ。本当に説明できないと すると、物語の中にぽっかり開いた大きな穴ですよ。ほころびです。

 何故ならば!この話しのそもそもの始りがこの「秘密」であり、犯人がその「秘 密」を知ったからこそ完全犯罪を企て、成功した訳で・・・この秘密が降って沸いた とは言わせない!!!(笑)
 頭取が敏腕弁護士を使ってでも封じこめたがる秘密ですから、そう簡単に漏れてい たとも思えません。そして、犯人は最初からこの秘密を知っていたからこそこの銀行 に入った訳で、途中から偶然知ったという設定でもありません。また、犯人がユダヤ 人で個人的に頭取を怨んでいたという事も全くありません。
 因みに、この映画を見た知人は誰もこの質問に答えられませんでした・・・という か、言われて初めて「あ、そういえば、本当だ。どうやって知ったんだろうね」っと 返されちゃいました。全員に。私を含め、全員突然記憶喪失になったのかしら???

 さて、この映画。スパイクリーですからやっぱりリー監督のカラー(らしさ)」が 出てるのですが、でも、こんな娯楽作も撮れるようになったのか〜とちょっとしみじ み。
 外見を揃えたら誰が誰だか分からなくなるとか、NYは人種の坩堝だとか、アラブ 系は疑われやすいといった彼のテーマである偏見や差別にかかる素材を色々含みつ つ、また犯人は犯罪者にも関わらず、人質の中の子供が遊んでいる人を殺していく シューティングゲームを見て、酷いゲームだと嘆いたり、色々彼らしい要素が随所に 登場します。
 また、この映画。主犯の男が、「今自分がどこにいるかは言えない」と、狭い場所で 観客に語るシーンから始まります。つまり、時間軸を動かして作られています。人質 を解放し、一人主犯の男が銀行に残っているところから話しは始まり、時間は過去に 戻って銀行強盗の一部始終が描かれ、その合間に解放された人質が全員容疑者になっ た為、警察で尋問されている人質の人達の映像が何度も入ってくるのです。
 この時間軸のトリックというか、構造は良く考えられていると思いますが、私のようにヒネた ?観客にとってはパルプフィクションやジェイコブスラダーの時のような衝撃は無 く、なるほど。と思う程度で終わってしまいました。人質の証言をどんどん入れてい くことにより、観客に誰が人質のふりをしている犯人なのか考えさせるという構造も 面白いといえば面白いのですが、何なんでしょう。このノレない感じ。それは上映前 に期待させすぎたMCと、中味よりギミック(仕掛け)重視なスタンスに起因しているように思 えます。

 そしてジュディ・フォスターがさほど活かされていない。雑踏の中にいる彼女に ぱっと目が行くのを実感した時には、流石女優だな、輝いてるなと彼女自身には感 心しましたが、人物像が浅く感じられるのです。インパクトが何故か薄目に感じられ る。と、とにかく全体を通して役者は揃ったのに小さく纏まっちゃった感が漂ってま す。悪くはないけど、お金を払ってでも見に行くかと言われると、見に行かないかな と(笑)そんな感じです。

 エンディングに使っていたインド音楽も、耳新しさが本当ならあるのでしょうが、私は逆にミュージカル「ボンベイ・ドリーム」の曲をこんなところで聞こうとは・・・という事で,何だか使いまわし感が出てしまい、とことんこの映画と私の相性の悪さのようなものを感じてしまったのでした。
 でも、本当、悪い映画じゃないですよ。一般的にはきっとね(笑)しかし、何で犯人は秘密を知ったんでしょうかねぇ(しつこい)


<July>

MOVIE・ゆれる/MOVIE・ハチミツとクローバー


◆7月30日◆MOVIE◆ハチミツとクローバー◆

 5人全員が恋してる。そして5人全員が片思い。そんな物語が「ハチミツとクローバー」です。5人全員が主人公とも言えると思いますが、主役は竹本君という美大の3回生の男の子という事になっています。物語の冒頭、竹本君は油絵を描く天才少女はぐみちゃんにひと目ボレします。その瞬間に立ち会ってしまった竹本君の先輩、真山の台詞は、知ってる人も多いと思いますが、「人が恋に落ちる瞬間をはじめてみてしまった」なのです。

 絵を描いていたはぐみが振り向いた瞬間、竹本君は恋に落ちます。しかし!この映画の主演、櫻井翔の竹本君は、何故か恋に落ちない!!!(笑)というか、落ちたように見えない・・・(苦笑)驚いて彼女をただ見ているだけに見えてしまい、 私の目には恋の矢が彼のハートにトスッと刺さったようには、全く見えないのです。
うーん。困った(苦笑)・・・何で恋に落ちてくれないの、櫻井君!はぐみちゃんを演じる蒼井優ちゃんは私でもトキメクぐらいかわいいのに!ああ、不器用だなぁ・・・不器用でいいんだけど、もっとトキメく君が見たいんだよ。ぎこちなくてもいいから、トキメク顔が必要なんだよ・・・と、思ったのは私だけではないはずです。(私の周囲で見た人が全員口を揃えて同じ事を言っていたもので)
 そしてこれは本人の責任ではないので可愛そうだと思いましたが、髪を短く切られ過ぎて顔の輪郭と首のラインがはっきり出てしまい、どこから見ても大人に見える。大学生というより、社会人(笑)そして、しっかり大人な顔なのに短パンにリュック、時には首にタオル!なんですよね。ドラマ「よい子の見方 新米保育士物語」で太陽先生を演じていた頃なら、ビジュアル的にさぞかしぴったり、しっくりだっただろうに・・・そして、彼が一番かわいい表情をしていたのは、はぐちゃんと会っている時ではなく、朝、彼が目覚めて支度をして下宿を出ていく、一人だけで映っているシーンなんですよね。何故だ?!何故一人だとリラックスしていい表情してるのに、はぐちゃんが出てくると固いんだ、櫻井翔?!・・・竹本君のキャラクター的に必要とされる以上に固いと思えるんですけど。と、櫻井君話しはこれぐらいにして(笑)

 花本はぐみ役の蒼井優ちゃんは素晴らしい!本当にある種の天才だと思います。彼女は演じる役によって自由自在に変化するのですよね。という訳で、彼女は「はぐみ」という役を驚くほどのみずみずしさで演じていました。言葉少ななはぐちゃんですが、その間、その説得力のある演技の素晴らしさ。観客は「絵画の天才」のセンシティブな心を見つめ、この才能を大切に思い、その才能を壊す事なくのばしてあげる大切さと難しさを感じてしまう事になるのです。こう書くと、少しの台詞と後は演技力でここまで思わせてしまう蒼井優って本当に凄いですね(笑)
 そして次に印象的だったのは伊勢谷友介君演じる森田先輩。売れるアートと自分が真に作りたいと思う作品の間で彼は揺らぎます。はぐみと森田は才能のぶつかり合いがあり、同じ絵をジャズセッションのように作り上げるという、才能と才能のぶつかり合い!みたいなコミュニケーションのシーンもあり、二人の間には明かに化学反応が起こっていました。つまり、いつの間にかこの物語、主演の竹本君ではなく、はぐちゃんと森田先輩が主人公の映画に見えて来てしまうのです。かわいそうに、櫻井君。映画初主演ではりきってたのにね。アルバイトのシーンで犬の被り物まで被って頑張ったのにね。ああ、そういう意味ではせつないかも。(櫻井ファンに殺されそうなコメントですね。笑)

 さて、残る二人、真山巧役の加瀬亮君と山田あゆみ役の関めぐみちゃん。加瀬君は不思議な役者です。名脇役になっていくんだろうなぁと思ったら、周防監督久々の新作では主演していますし、結構カメレオン的な役者なのではないでしょうか。少なくとも、「花よりもなほ」で見た彼と真山役は全くの別人です。
 私は原作をほとんど読んだ事がない(1巻を立ち読みしたぐらい)ので、余りああだこうだ言える立場ではないのですが、真山の言ってみれば妙な日常を微妙な無機質感でさらりと演じている程の良さ、みたいなのを感じました。そして、関めぐみちゃん演じる山田さんの恋はせつないですね。

 という事で、とにかく、原作もアニメもちょっとだけ見たことがある私が見た映画「ハチミツとクローバー」は、胸がキュンとなる恋愛ものではなく、むしろ才能ある若きアーティストの苦悩&成長の物語という感じでした。優ちゃんと伊勢谷君が演じた、はぐちゃんと森田先輩が主人公だったのは、間違い無い(笑)


◆7月20日◆MOVIE◆ゆれる◆

 数年前、映画館で『蛇イチゴ』という作品の予告編を見た。蛇のようにうねった フォントと、宮迫演じるどうしようも無いヤクザな兄に翻弄され、困る家族を代表してたんたんと語る妹のナレーションと、家族が着てる喪服が実に印象的で、それは予告編の中でひときは目を引く存在だった。
 そして今。『蛇イチゴ』を撮った女性監督、西村和美は二作目となる映画『ゆれ る』を撮った。この作品はカンヌで上映され、評判となり、日本のメディアでも数多く取り上げられ、彼女は次第に広く知られる存在となってきた。そして、2006年7月。日本で『ゆれる』の上映が始まった。

 『ゆれる』はその名の通り、ゆれ動く人の心を目をそらす事なく描いていく。 物語はとある田舎を舞台に起こる。ある家族経営のガソリンスタンドに二人兄弟がいた。兄は家を継ぎ、家に関わる全てを背負い、弟は上京し、それなりに有名なカメラマンとして自由奔放に生きている。仲の良い兄弟だった二人だが、ある女性の死を巡り、奥底に眠っていた兄の思いが噴出する事となり、二人の関係は大きくゆれていく。
 兄弟を含む3人で訪れた渓谷でつり橋から転落死した女性。つり橋で彼女と一緒に居た兄。それを遠くから見ていた弟。それは事故だったのか、殺人だったのか。法廷で、そして拘置所の面会の場所で、観客はこの二人の兄弟の関係、心が「ゆれる」様を見ると同時に、彼女の転落死は何が原因だったのか、真実はどうなのかを考えさせられる事になる。

 その兄弟を、香川照之(兄・稔)とオダギリジョー(弟・猛)が演じている。ともに実生活では一人っ子の個性的な俳優二人は、本作の中でその容姿には全く共通点がないにも関わらず、間違いなく兄弟として存在している。しかも彼らは、逃れ様のない心の深い深い奥底で、切っても切れない絆で強固に結びついて存在しているのである。

 脚本を読んだ時に、これは自分だと感じたと語る香川照之。人目のうるさい田舎の町に住み、「働き者で善良、周りにいつも気配りをしている稔」という人間の人となりを、物語の初めで我々に印象付けた後の彼の変容。いや、変容ではなく彼の中に実はあった闇、やりきれなさと本音を取り出して次々に見せてくる香川照之には、スクリーンを通して見ているにも関わらず、観客である我々ですら思わず怯えてしまうような凄みがある。
 そして、そんな兄に愛情を持ち、甘え、寄りかかり、と同時に後ろめたさも感じている弟猛。彼の持っていた兄のイメージと現実が、この事件を通して乖離していく度に猛は傷つき、次第にそれは兄との闘いになっていく。  カメラマンとして成功し、女性に不自由せず、相手が本気で追ってくるとさっと逃げ出すようないい加減な男、猛。(監督によると、自分が今までつきあった男の悪い所を全部集結させたらしい)兄の稔とは対極にあるこの猛を、オダギリジョーは実に魅力的に、彼以外この役は演じられないだろうと思わせる存在感で演じている。

 この事件が起こってからの拘置所、そして裁判所で繰り広げられる兄弟対話のシーンは、本人達も言っているように、まるでボクシングの試合のようだ。各ラウンドで、相手の出方を互いに探り、心の激しいぶつかり合いを引き起こしていく。次々に繰り出される香川照之の、役者としての経験、テクニック(技巧的という意味ではなく)に支えられた揺ぎ無い演技。それをしっかりと受けとめ、反撃に出るオダギリジョー。
事件の真相を知る鍵がこの二人の会話に隠されているはずだという謎を解きたい好奇心と、役者二人の激しい化学反応が引き起こすスリリングな心のぶつかり合いから目が離せないという二つの理由から、我々はこの兄弟のぶつかり合いを固唾を飲んで見守る、というよりも「立ち会う」ことになる。

 役者の力もさることながら、脚本を書き監督もつとめた、つまりこの映画を生み出した西村監督には、驚きというよりも驚愕に近い圧倒的な力を感じさせられる。こんな目を持って生きていらたらさぞかし疲れるだろうと思わされるほど、彼女の視線は鋭く、多くを読み取っていく。その力強さと、女性ならではの視点、決して目をそらさない厳しさ。そして32歳とは思えない懐の深さ。
 女性が書いたとは思えないと主役の二人が声をそろえて語っていたほど、男性が演じる上で違和感を全く覚えない、非常に自然な稔と猛の台詞とその行動。しかし、同時に女性ならではの視線も、しっかりと存在している。
母親の一周忌の宴席で、猛に激怒した父親がひっくりかえしたお膳を、稔が急いで片付るというシーンが出てくる。倒れた徳利からこぼれた酒が、稔のズボンのすそにポタポタと零れ落ち染みを作っていくという、たった数秒間の映像で、稔の存在のあり方と、これから始まる物語を予感させる何とも印象的なカットを西村監督は出して見せる。言葉では説明しにくいのだが、非常に女性を感じさせるシーンである。その他にも、智恵子の部屋に猛が訪れた時に出てくる細かい小道具の設定や、命を落とした智恵子の母親が猛にガソリンスタンドの制服とお金を返す場面など、男性では出てこない、思いつかないであろうディテール、描き方がなされている。  つまり、この映画の母であると同時に父でもあるという西村監督は、私の目に非常に特異な存在として映る。そしてその奇跡的なバランス感覚が強さを生みだし、我々がこの物語から逃げ出すことを許さなくなっている。

 つり橋から女性(智恵子)が落ちるシーンで、決定的瞬間は西村監督により巧妙にカットされている。もみ合う稔と智恵子。そしてつり橋の上に一人残った稔。
 映画のラストシーンでは、7年の時を経て車が激しく往来する道を挟んで猛と稔が再会する。道の向こう側に居る猛に稔は気づき、彼は弟に笑顔を見せる。しかし、この兄弟が直接言葉を交わす事はなく、その笑顔だけで物語はさっと終わる。
 西村監督は絶妙なタイミングで観客に物語を投げてよこす。投げられたこちらは、与えられた情報と自分の感覚とを駆使してその切り取られた部分を、これからの成り行きをついつい考えてしまうようになるのだ。
 誰もが逃れることの出来ない家、家族。残された者と出て行った者。真実とは一体何なのか。人を理解するというのはどういう事なのか。西村監督は物語の中に居る者だけでなく、観客をもゆらしてくる。観終わった後に残るのは、心のゆらぎとひりっとした感覚。もう一度観たいような、逃げ出したいような、苦しいような、せつないような、不思議な余韻がいつまでも心の中でゆれて漂っていくのである。


<June>

MOVIE・花よりもなほ


◆6月16日◆MOVIE◆花よりもなほ◆

『俺、辞めてもいい』って思ってしまいました。『もうできないな、これ以上の芝居は』って。『花よりもなほ』を観終わったとき、そう思ったんですよ。

 本作の主演、岡田准一が2006年2月号の雑誌『CUT』でそう語った映画が、この『花よりもなほ』です。
カンヌ主演男優賞、最年少受賞で話題になった映画『誰も知らない』の監督、是枝裕和が受賞後初めて撮った作品が、この是枝流時代劇『花よりもなほ』でした。
 ドキュメンタリーから出発した監督の、余りにも自然な演出は、本作でも変わる事なく作品全体にしっとりとした時の流れと、あたたかみを生み出しています。

 物語をざっと説明すると、時は元禄15年。生類憐れみの令の時で、赤穂浪士討ち入りの1年前。父の仇討ちの為江戸にやってきた青木宗左衛門(岡田准一)が貧乏長屋に住むうちに、仇討ちをしない生き方もあるという結論に達し、そのまま長屋で暮らしていくという話しです。しかしこの男、貧乏長屋を守るために、大きな芝居を打つという、ちょっと大胆なところも実はあるのです。

  元々この宗さん。腕に覚えは全くなしで、まあ言ってみればへっぴり侍。争いごとは好まず、生活の為に始めた仕事も剣術の先生ではなく、読み書きそろばんを教える寺子屋の先生。体を使うより頭を使いたいタイプなのです。
 なのに長男であるが為に、親達からは仇討ち、仇討ちと追い立てられ江戸に出て来たという結構かわいそうな境遇。という訳で、社会のプレッシャーと現実との間で、何となくお茶を濁していたい日々を送っているのです。

 そんな宗さんに影響を与える長屋の人々。この人たちがまた個性的で魅力的。偽の仇情報を持って来ては宗さんにたかっている古田新太演じる貞四郎。武士だ武士だと主張するが、どこにも士官のあてはなく、年に一回竹みつでハラキリしては大騒ぎをする香川照之演じる平野次郎左衛門。働き者でしっかり者の田畑智子演じるおのぶ。暗い過去をしょってそうな男、加瀬亮演じるそで吉。ちょっと頭の足りないピュアで愛すべき男(木更津キャッツアイのオジーのような存在)孫三郎を演じるのは、木村祐一。そして、実は赤穂浪士だという医者、原田芳雄演じる小野寺十内。そして小野寺の家をアジトとして集まって来る赤穂浪士の面々。そして、何といっても、宗さんが思いを寄せる若き未亡人、宮沢りえ演じるおさえとその息子、進之助などなど。本当に崩れそうな貧乏長屋には、個性的で人間味あふれる人たちが住んでいて、日々の暮らしに追われながら、でもお互いをそれなりに思いやりながら生きているのです。

  この映画を観ていて感じるのは、全ての人に対するあたかかな眼差し。そして、これは人を許す物語なのです。仇である浅野忠信演じる金沢十兵衛と宗左衛門の、直接言葉には出さない「許した者」と「許された者」の描き方や、本当の和解が成立した時に生まれた宗さんの晴れやかな笑顔は実に秀逸です。心の機微が繊細に、しかし非常に印象深く描かれているのです。

 青木宗左衛門の心の揺れ。それを岡田准一は至極自然に演じています。是枝監督が起用の理由を「上手いから」と即答していましたが、彼のナイーブな所、物事に対する距離の置き方、反応の仕方が青木宗左衛門という役に見事に合致しているのです。あつらえたようにぴったり来ている。そして、彼の画面に映し出された時の人を引き付ける力、人としての魅力がスクリーンにしっかりと映し出されていて、いい男だな、いい役者だなと唸らせてくれるのです。得難い。実に得難い役者です。

 そして、宮沢りえ。最近私の注目の女優の一人ですが、30を過ぎていい味が出て来ました。実に魅力的です。かわいらしさと凛とした強さを合わせ持つ素敵な彼女は、おさえさんにぴったりでした。

 古田新太が「台本を読んで感じたのは、おきねえなあ、事件。という印象」と語っているように、ハリウッド映画なら必ず起こる事件は、最近の日本映画と同じく、この映画でも起こりません。そして、これもまた最近の日本映画の特徴だと私は思っているのですが、特別な世界ではなく日常を描き、人々の心が丁寧に描かれています。外界のプレッシャーを切り離し、自分が信じる生き方を貫く主人公が出てくる。そして、それを肯定している。

『花よりもなほ』は個性的で魅力的な俳優を沢山集めているにもかかわらず、驚くほど自然にさり気なく物語っていく作品です。そして、観終わるともう一度観たい。味わってみたいと思う。
是枝の描く江戸の人々に、是非他の人にも映画館で会ってみて欲しいと思う。そんな映画でした。


<May>

MOVIE・かもめ食堂/PLAY・ライフ・イン・ザ・シアター
PLAY・白夜の女騎士/MOVIE・間宮兄弟/PLAY・タイタス・アンドロニカス


◆5月20日◆PLAY◆タイタス・アンドロニカス@シアター ドラマシティ ◆

 最初この物語を知った時、シェイクスピアの作品だとは思えなかったシェイクスピアの悲劇。『タイタス・アンドロニカス』の衝撃的な内容は、日々様々な事件が起る今の世にあっても、残酷にして壮絶。初めてこの物語を知る事となったテイモア監督(舞台ライオン・キングの演出家)の映画『タイタス』の3時間を絶え抜いた時には、余りにショッキングな内容に極度の疲労感を引きずりながら現実の世界に戻った覚えがあります。

 さて、今年に入って既に2作目の蜷川演出作品は、蜷川では定番の吉田鋼太郎が主役のタイタス。妖婦であり毒婦であるゴート族の女王タモーラには麻実れい。そしてタモーラの愛人、ムーア人のエアロンには小栗旬という配役です。この作品はこの後、本拠地であるイギリス、しかもシェイクスピアの演劇祭に持っていくという事で、いつも以上に力の入った作品となっているのだろうと期待も高まります。
 一つ前の蜷川、シェークスピア、小栗&吉田作品は『間違いの喜劇』で本作と対 称的な喜劇だっただけに、タイタスのドスンとくるであろう重量級のギャップがある意味楽しみです。

 劇場に入ると、いつものようにエントランスから演出開始。通路に置かれたスチール棚とポールには、舞台衣装と思われるコートや武具がずらりと並んでいます。舞台美術の一部と思われる蓮の葉も置かれていますし、赤い糸が血のように巻かれた白い人形も、透明なアクリル板か何かで出来た棺の中に横たえられていました。
最初は特別に展示しているのかと思いましたが、実はこれ、全て本当に舞台で使われるものでした。つまり、着替えもここで行われるという事で、姿見の鏡だけでなく、ティッシュなども設置されていました。
 そして、劇場内だけでなく、その扉の外をも闊歩している役者たち。歩き回る、あるいはストレッチをする、あるいは発声練習をする俳優たちが、非現実的な衣装を身につけ、劇場ロビーという現実的な空間の中、日常的な様子で存在しています。
 開演時間が近づき自分の席に座っていると、何とタイタス役の吉田鋼太郎が観客にこんにちは、こんにちは、と挨拶しながらペットボトルの水を片手に私の横を歩いてきました。そしてそのまま扉の外へ。
 場内ではスタッフへ指示を出す館内放送が流れはじめます。照明チェック とか、スタンバイお願いします、とかその類のものです。次第に自分のポジションに着く役者たち。そして、場内の明かりが落とされ、舞台のライトが強烈に光り、物語は始りました。

 ここで物語りを説明しておきましょう。ご存知の方は、このブロックは飛ばしてください。
皇帝が亡くなったローマ。その息子二人が後継者争いをしている中、将軍タイタスが戦から帰還します。ローマ市民はゴート族との戦いに勝利した将軍タイタスを皇帝にと担ぎ出そうとしますが、タイタスはそれを拒否。皇帝にはご長男が就任されますようにと答えます。闘いに勝利したとはいえ、心も体も疲弊しているタイタス。なぜなら大きな戦で彼の息子2人は戦死。その屍を彼の息子達が運んでの帰還だったのです。そして彼はその敵方であるゴート族の女王と息子3人、そしてその女王のムーア人の奴隷も捕虜として連れて帰りました。血には血をという事で、女王の命乞いを聞き入れず、長男を処刑するタイタス。そして悲劇が始るのです。
 タイタスが皇帝になる事を拒み、タイタスが選んだ皇帝は、まずタイタスの娘、ラヴィニアを花嫁に所望します。しかし、ラヴィニアは新皇帝の弟と恋仲でそれは周知の事実。その二人を引き裂く形でタイタスは娘を差し出そうとします。しかし妹を守る為、その兄がタイタスに物申し、何とタイタスは自分の息子を殺めるのです。そんな様子を見ていた皇帝は、あっという間に妖婦、ゴート族の女王タモーラに心替わり。彼女を妃に決めてしまいます。そして、皇帝は思い通りにならないラヴィニアに立腹。他にも理由はあるのでしょうが、それにかこつけてタイタスを厄介払いしてしまいます。そして、王妃となったゴート族の女王は、長男を殺したタイタスに復讐を誓うのです。
 と、いうのがこの悲劇の幕開け。一言で言うなら、復讐の応酬劇です。タイタスを怨む女王達は、ラヴィニアの夫となった皇帝の弟をこっそり殺し、女王の二人の息子はラヴィニアに乱暴した挙句、犯人を告げられないように舌を切り、両腕を切り落としてしまいます。皇帝の弟殺しの罠にはめられたタイタスの二人の息子は皇帝に捕らえられます。息子たちの命と引き換えに、タイタスの片腕を差し出せとまたしても罠をしかけてくる王妃達。自らの腕を切り落とし、さし出した時にはもう息子達は処刑された後だったという事実を知るタイタス。
ローマの為に何人もの息子を失い、愛娘ラヴィニアはこんなにも傷つけられてしまった。そして今や自分の片腕も無くなってしまった。ラヴィニアから犯人はタモーラの息子達であると聞いたタイタスは、その復讐として二人のバカ息子を捕らえて殺害。その肉で料理を作り、皇帝と王妃を自宅に招いた晩餐で、人肉パイを振る舞うのです。自分の息子を食べてしまった事を知らされた王妃は半狂乱になり・・・

 とまあ、物語でしか成立しない(実際、舌、両腕を切られたら、間違いなく人は出血多量で亡くなりますから、現実的に考えるとこの話しは成り立ちません)部分もあり、ある意味非常に物語的な話しなのですが、血の繋がりというものに重きを置きながら、人の心の闇を非常に血生ぐさく描いていく実に重たい問題作なのです。
あらすじを読んだだけでも人によっては目を背けたくなるような内容ですが、今回もまたこの長い物語を蜷川は分かりやすく作り上げていました。それが喜劇であろうが悲劇であろうが、時代物であろうが何であろうが、蜷川の舞台は明瞭であり、それが故の安心感がそこには存在しています。70年という時間を生きてきた人間の経験でしょうか。彼の柔軟さと幅の広さを感じさせられるのです。

 さて、全体の印象はというと、シェークスピアなのに、どこか和 風。何でしょう。この和風な感じ。
 衣装も固有名詞も、セットも全て基本的には西洋なのに。それは、役者たちの台詞の響き、間の取り方に起因しているのかもしれません。言うまでもなく英語でなく日本語ですから、和風。。。
 という単純な話しではなく、台詞回しの中にある「ため」がどうも農耕民族、なんですよね。何それって言われそうですが(笑)とにかく、狩猟民族ではない。日本人は歌を歌うと自然にこぶしがまわる、みたいなものだと思ってください。
 そして、舞台に流れる空気もローマのあの、いくら水を飲んでも喉の乾きが癒えない纏わりつくような、逃れることが出来ないような力を感じるような暑さを持つものではなく、島国の湿気というか、粘着質なテイストが入り込んだ、ちょっと高温多湿な感じなのです。
 怒りという感情に対しても、「滾る血潮」ではなく「義理人情」をどこかに感じさせる空気が流れています。良し悪しを言っている訳ではなく、とにかく蜷川の生み出した舞台は「蜷川の舞台」なのです。だからこそ、原作者シェイクスピアの国であるイギリスにこの作品を持っていく意味があるのだと思える作品に仕上がっているのです。
 古典になっている作品をどう解釈し、どう見せるのか。演出家の色合いをどう出すのか。その点において、この蜷川版『タイタス・アンドロニカス』は個性的に仕上がり、蜷川ワールドが確立されていました。

 さて、もう一つこの作品を見る上で疑問に思った事。それはこの舞台の始り方で す。何故わざわざ役者への指示を出す館内放送が入ったのか。その答えは作品の中にありました。
 この痛ましい悲劇を役者たちは「演じている」のです。何を当たり前な事をと言われそうですが、間違い無く彼らは「演じている」と「公言」しながら演じています。それは彼らの台詞に現れています。
 シェイクスピア作品の特長の一つとして、自分の感情をひとり言のように全て語ってしまうというのがありますが、この『タイタス』では更に一歩先に進み、登場人物たちは、第三者に自分の考えるところを全て語って聞かせてくるのです。つまり、観客に自分の感情を全て口に出して説明していく、吐露していくのです。ひとり言ではなく彼らは常にどこかで第三者の目を意識し、認識した上でコンタクトを取ってくる。とくると、もうそれは「演じています」という枠が立派に組まれているという事。
 それをより明確にすべく、蜷川は物語の始る前に、ここは劇場です。ここで役者たちが今から物語を演じて見せます、という事を宣言する意味で「スタンバイしてください」というスチュエーションを入れて来たのではないでしょうか。
 そういえば、映画でも登場人物達は、明かにスクリーンの前の観客に語りかけてきていました。原作を読んだことは無いので推測になりますが、映画と舞台の共通点を考えると、戯曲そのものが観客を意識して書かれているとしか思えません。
観客を意識して物語を紡いでいくのは何故なのか。これは、『タイタス・アンドロニカス』という物語の内容が余りにも衝撃的すぎるが故にワンクッション置く為の、シェイクスピアなりの配慮なのでしょうか?

 役者陣について触れておきましょう。タモーラ役の麻実れいは明かに他の役者たちとは演じる事に対するアプローチが他の役者とは違う印象を受けましたが、彼 女の世界がちゃんと成立しています。吉田鋼太郎は言うまでもなく安定していて、どこまでも不幸が続くタイタスの心中を、その苦悩を観客にしっかりと伝えてきます。ラヴィニアを演じる真中瞳も、皇帝を演じる鶴見辰吾もその役を過不足なく演じてい ました。
 今回私が楽しみにしていたのは小栗旬。何をかというと、その声です。まだ発声がちゃんと出来ていない。それが彼の課題だったのですが、一つ前の舞台『間違いの喜劇』の公演中、ある日突然舞台で声が出て、これか!と思ったと雑誌で語っていたのです。私が見た舞台の後の話しです。
 学生時代音楽を専攻していた私は、声楽を学ぶ人がある日突然声の出し方が分かり生まれ変わったようになる、という瞬間を幾度か見てきました。それは本当に突然やって来ます。実は長い練習の延長線上にあるのですが、その変化が劇的なので「突然」に思えるのです。その変化は誰の耳にも明らかで、とっても感動的な瞬間でもあります。
 という訳で、「突然声が出た」という小栗旬の変化が一つの楽しみになっていました。さて、その「小栗旬」の「声」はどうだったのか。
 まだ成長過程ではあるものの、以前と違い彼の声は舞台用の声になっていました。他の役者と同じように劇場にちゃんと響いています。大きな課題を一つクリアー出来た訳です。
 長い公演中、生の声で演じきるには喉に負担をかけない正しい発声が、そして演技には劇場の隅々まで台詞が伝わる声が必要です。つまり、舞台の役者として、やっとスタートラインに立てたという事ですよね。おめでとうございます、と彼には全く届きませんが(笑)ここに書いておきましょう。 さて、声の話しはそれぐらいにして、小栗旬にしては珍しい悪党役エアロンはどうだったのか。女王の愛人、どうしようもない悪党、策略家のエアロン。ムーア人という設定だけに、ちゃんと日焼けをし、髪を金髪に近い色に染めたシャープな彼は、いつもの人の良さはすっかりなりを潜めて、尖った感じの悪役になっていました。演じられる役柄の幅が着実に広がっています。
 特に印象的だったのは、人を人とも思わないエアロンが人の親になった時、急に息子の命乞いをする人間に豹変する場面です。物語的にも重要な場面の一つですが、ああ、人には自分の血を受け継ぐ存在を何が何でも守ろうとする本能が、そのDNAには組み込まれているんだなという事を思わせる、理解させるような説得力のようなものを、私は彼から感じる事が出来ました。こはれまあ、物語が優れているのか、演出が優れているのか、小栗旬が優れているのかは分かりませんが(笑)とにかく、非常にメッセージ色が濃く、考えさせられる場面の一つをしっかりと演じて見せたことは間違いありません。

 この舞台には登場しただけで目をひくとか、心奪われるといった役者は出てきませんが、全体にまとまりのある作品に仕上がっています。この作品はそれぞれの思惑がせめぎあう人 間関係を、その感情を見つめるものだけに、傑出して輝くスタープレイヤーは必要な いのでしょう。実力のある役者たちがしっかり支える骨太な作品。誰もが適正なキャ スティングになっているように思えました。偉そうな物言いをさせてもらえば、ロン ドンでもそれなりの評価されるのではないでしょうか。

 それにしても、松岡さんの翻訳で、シェイクスピアで、蜷川で、という舞台は去年 から見てきましたが、この作品が特に日本を感じさせるのは何故なのか。
 物語の枠はシェイクスピアが書いたものでも、それを演じていく上で起こる感情や 考え方、演じる上でのアプローチの仕方は日本人が演じ日本人が演出している以上、 それは日本的なものになる。それでも他の「ロミオとジュリエット」や「間違いの喜 劇」などでは国民性というのを感じさせられることはありませんでした。では何故 『タイタス・アンドロニカス』は違うのか。
それは、怒りや嘆き、復讐というものが、一番その国の国民性を表すものだからなの かもしれません。 

 世界中の何処かで今も、この瞬間にも行われているであろう復讐と流血。このテー マが普遍的であり続ける事自体が悲劇であるという事を感じながら、いつ見てもヘ ビーな内容に疲労感を覚え、重い足取りで劇場を後にしました。


◆5月20日◆MOVIE◆間宮兄弟 ◆

『だって間宮兄弟を見てごらんよ。いまだに一緒に遊んでるじゃん。』

 全ての行動は年齢を考えなければとっても普通で、こんな人達結構身近に居そうだと思うのに、でも現実には居ないよねと思う。そんな大人の寓話のような物語が、この『間宮兄弟』です。

間宮兄弟は兄(佐々木蔵之介)と弟(塚地武雅)の二人兄弟で二人暮し。
子供の頃のまま、30歳を過ぎた今も仲良く二人で暮らしています。各々スコアボードをつけながらテレビの前に並んで野球観戦をする。目的地まで「グリコ」をする。紙飛行機を真剣に作るなどなど、彼らは二人、とっても楽しく暮らしています。兄はビール会社商品開発勤務で、弟は小学校の用務員さん。兄が飲むのはビールで、弟が飲むのはコーヒー牛乳。
 二人の部屋は綺麗に整理整頓されていて、TAMIYAのプラモデル、ボードゲーム各種など品揃えはとっても豊富。まあ、その品揃えからしてオタクと言えないこともないのですが、実に美しくすっきりとディスプレイされていて、二人の性格の通り節度有るたたずまいを見せています。

   さて、この映画を見ていて思ったこと。それはこの話しに出てくる人達は、社会概念に案外囚われず、みんな生きたいように生きているという事でした。そう、とっても肯定的な映画なのです。
 だから間宮兄弟は小学生の頃の部分を多く残したまま大人になり、社会人として ちゃんと生活しているけれども本質的なところはとてもピュアで昔のまま。結婚はしないと決めたわけでなく、そういう縁がないからしていないだけ。でも、兄弟2人で居たらとても楽しいし、寂しくない。だから、このままでいいじゃない、となる。
 間宮兄が迷惑を被る会社の既婚者の友人は、上司(女性)と不倫の後、離婚してその上司と再婚しようと奔走し、結局思い通り再婚する方向で突き進むのですが、そこに罪悪感は無い。不倫相手も本人にも、そうしたいからそうする、という事だけで、罪悪感はありません。僕は妻をもう愛してないし、僕達と上司は愛し合ってるんだから離婚して結婚したっていいじゃない、と思ってる。
 間宮兄弟行きつけのレンタルビデオ店の沢尻エリカ演じるかわいいアルバイト、直美ちゃんの彼氏は、野球に夢中で彼女のことはほったらかし。彼女よりも野球優先、とっても彼にとって都合の良いつきあい方をしちゃっています。もっと私の事を考えて!と訴えたところで彼の興味のベクトルは野球に向いています。野球、楽しいし仲間、大切なんだから、しょうがないじゃない、となる。
 その直美ちゃんの妹夕美とその彼氏の関係は暴力的。へらへら笑うだけの、 どっか頭の糸が切れてるんじゃないかと思う彼のことを、小突き続ける妹。見るに見かねて姉が注意しても、自分たちはこれでいいんだから、いいじゃない。更に、この彼氏、案外すごくって、フランス語が自由に使え、自分の勉強の為に渡仏するという離れ業も放ってくれます。やりたい事があれば、どこにでも行っていいじゃないってテンション高いんだか低いんだか分からないモードで行動していきます。
 そして、一見まじめそうに見える常盤貴子演じる、間宮弟の務めている小学校の教師、葛原依子先生は、自分が思うようにならない事なら思った通り相手にぶつけてみてもいいじゃない。多少のことなら、ちょっとずるしたっていいじゃないと思っています。

 とまあ、皆問題なく日常生活を生きているのですが、普通に見えてどこか微妙に変な人達がこの物語には生息しています。そしてそれを問題視するのではなく、肯定してるところに今の時代感がある。その「肯定」こそが、この映画をヒットさせた理由なのではないでしょうか。

 大きな事件が起こる事はなく、殺人事件が起こるわけでもなく、恋愛に主人公が突き動かされるでもない。ある日常を切り取っていて、でも我々の日常とは少し違うスチュエーションで、人と人との関係を主軸に日々を描いて行く。
この映画の前に見た「かもめ食堂」もこの「間宮兄弟」も物語そのものの類似点は無い映画ですが、この大枠にはしっかり当てはまります。しかも、二つとも単館系の映画ですがヒット作となり、メディアに度々取り上げられ、注目を集めるものとなりました。

 先に進む事、消費することばかりを追いかけて来た日本。疾走の時代からある意味、失速の時代に入った今、人が求めるているのは人と人との「心の繋がり」と「肯定」なのかもしれません。


◆5月12日&13日◆PLAY◆白夜の女騎士@シアターコクーン ◆

 私が初めて「野田秀樹」を知ったのは、たまたま見たNHKのドキュメンタリー番組だった。初めて見るその人は、ブラウン管の中でもハイテンションだった。何だか分からないけど、凄い!その番組の中で野田は、ニーベルングの指輪3部作を代々木体育館で一挙上演すると言っていた。広い代々木体育館の中で声が何処まで届くのか、野田が確認する映像を今でも覚えている。

 はっきりした事は覚えていないが、今回の再演が20年ぶりといわれているのを考えると、当時の私はまだ中学生だったはずだ。ティーンエイジャーだった私は、野田の代表作である「野獣降臨(のけものきたりて)」や、その歌が耳に残る「小指の思い出」の映像と共に、下北沢の本田劇場の映像を見て、何だか心がザワザワ、ワクワクし、とにかく凄いものを発見してしまった気分になったのを覚えている。時は正に小劇団が花盛りだった時代であり、私の周りでそんな世界を垣間見ている中学生は私の知る範囲では居なかった。

 その後、大学生になり、「夢の遊眠社」の舞台に通い始めた90年代。もうそろそろ遊眠社が幕を閉じようとしていた時だったが、相変わらずのハイテンションで、言葉は矢継ぎ早に繰り出され、人は走り、跳び、「溢れるテンション!」と野田自身が舞台で叫んでいた通り、彼らは疾走し続けていた。
 見ている時は、あいも変わらずとにかく凄い!と思い、見終わった時には、あらすじを説明しろと言われたら、言いよどんでしまうというのを毎回繰り返した。それは次第に私の中で「ひっかかるもの」になり始める。
 野田の芝居はテンションだけなのか?あの言葉遊びと激しい体力の消耗の奥底に、私が理解することが出来ないでいる深い物語が潜んでいるのか?何故に私は野田の芝居に惹かれ、毎回劇場に足を運んでいるのか?こんなにも多くの人が何故舞台を見に毎回集まっているのか?野田の奥底にあるものは、一体何なのか。メッセージはあるのか、ないのか。この次々に繰り出される物語はメタファーなのか。メタファーだとするなら、何のメタファーなのか。どこか野田に煙に巻かれているような感じで答えが出ないまま、遂に劇団は、野田のロンドン行きと共に終焉を迎えた。
 関西では最終公演となった舞台のラストで、野田は「妄想竹」にのぼり、「少年 よ、大志を抱け!」と少年の声で叫んでいた。その時、漠然と、ああ、この人はだからロンドンに行くのだと思った覚えがある。前に進むには、一度この自分の作り上げた世界を捨て去り、突き進んでいく必要が出てきたのだと勝手に、しかし納得の行く形で理解した。

 そんな風にして野田作品は、私の中では過去のものとなった。NODA MAPになってから、実は一度も彼の舞台を見ていない。私の中での野田は遊眠社の野田であり、そこで完結してしまったとも言えるのだが、一番の要因は、当時から感じていた「ひっかかり」によるところが大きい。とにかく猛スピードで駆け抜ける野田秀樹についていかなければならない、ある種緊張感みなぎる中で、刹那的な笑い、刹那的な感動に襲われる数時間というものが、私には本当に必要なのか?野田作品を私は本当に理解できているのか?というひっかかり。それどころか、彼の紡ぎ出す物語に「本当のところ」は存在しているのか?という「ひっかかり」。その「ひっかかり」と共に、私は野田作品を90年代に置いてきてしまった。ある種の封印をしてしまったのだ。

 さて、2006年の今。蜷川幸雄が松本潤を主役に、野田の「白夜の女騎士」を手掛けるという話しが入ってきた。ここ数年の蜷川演出作品を見て来た私としては、極めて興味深い話しである。何故なら、蜷川演出の舞台は分かりやすく、はっきりとした答えが出ているのだから。蜷川による野田は一体どんな風になるのだろうか。  そしてもう一つの注目はキャスティングだった。蜷川演出の舞台の中で役者たちは自分の役所をしっかりと理解し、持てる力を最大限引っ張り出され、高いクォリ ティーを持って生き生きと演じている。
 ここ数年の蜷川の、藤原、小栗、二宮、成宮といった若手の起用にとやかく言う人も居るだろうが、私が見た藤原、小栗の二人は納得のキャスティングで本当に蜷川が必要と思い、オファーした上での起用である。その蜷川が野田作品に選んだのは、アイドルという括りで片付けられてしまう事が多いが、実に個性的でその成長が興味深い、完璧主義者で追求型の松本潤だった。彼の滑舌の良さと台詞の正確さはドラマなどで知るところであり、この抜擢はなるほどと思えるもの。
 「おれと仕事をしなければ、お前はダメになる」と蜷川に断言されたという松本 が、どう「ダメにならなずに済んだのか」も見所の一つ。5時間の稽古で4時間が自分に対するダメだしだったりするとインタビューで語る松本に、蜷川が1000本ノックだと笑っていたが、それだけのエネルギーを注ぐだけの価値があると蜷川が判断し、スパルタにかわいがっている松本潤が、どれだけ変化して舞台にあがってくるのか。オリジナルでは野田が演じた”空飛びサスケ”という主人公を彼がどう解釈し、どう演じるのか。何故蜷川が松本を起用しようと思ったのか。この目で確認したいと強く思うようになった。

   舞台関係者の間でも注目度の高い作品と思われる本作の幕が開く頃、当事者のインタビューなどメディアの露出が増え始めた。その中で蜷川は、「野田がこの戯曲の奥底に隠していた本当の姿を今回ちゃんと取り出した。野田本人にも、その解釈であっているのか最初に確認した」と話し始めた。答えはちゃんと出したと宣言しているのである。裏を返せば、今までこの物語はちゃんと理解されて来なかったと断言しているのだ。

 そんな中、偶然にも私は友人から借りた最近上演されたばかりの野田の舞台「罪と罰」のパンフレットを読んだ。そこにあった野田の最初の言葉は、90年代にどうしてもこじ開けられなかった野田の内面、彼の中にある通奏低音(途切れることなく低い音程でずっと鳴り響き続けている音)の一つにやっと少し触れられたと思える、それを垣間見たような気がするものだった。読んだ瞬間、そうだったのか、とつぶやく自分がそこに居た。
 それは、大学生の頃、目の前で殺人を見たというものだった。東京大学のお昼時、芝居のビラを配る野田の横で、学生運動のビラを配っていた顔見知りの男が、あっという間に学生運動をしている数人の男に囲まれ撲殺されたというものだった。棒っきれのように何のためらいもなく叩きのめされた事による人の死。集団の狂気。その現場に群がる野次馬。そして、何事もなかったかのようにその後、すぐにその場を去り、食事をとった自分。その短い文章の中には、彼が芝居をはじめた頃に感じていたもの、「時代」が詰まっているような気がした。ああ、こういう強烈な原体験がこの人にはあったのだと、10年前の「ひっかかり」が少しだけ解けた気がした。

 そして芝居の幕が開いたある日。朝日新聞に舞台評論家の扇田氏による「白夜の女騎士」の劇評が掲載された。その中には、初演当初、そしてその後も本作はちゃんと理解されてこなかった、誰にもきちんと紐解くことが出来なかった事がまず最初に書かれてあった。その上で、今回の蜷川演出は画期的であり、今後80年代に野田が書いた作品全てを見直す一つの契機となるのではないかと記されていた。それによると、蜷川は今回の舞台で物語を進めるにあたって、補足説明をする字幕を登場させたらしい。また、物語の奥底に封じ込められていた学生運動(テロ)を、その時代を蜷川は白日の下に晒してみせた。その情報を総合して考えて見ると、野田作品にしては初めてといって良いぐらい、分かりやすい舞台となっているらしい。
 この評は、私にとって非常に意味のあるものだった。まず、野田作品の奥底にあるもの。それが分からないとひっかかっていたのは自分だけじゃなかったのだと、10年以上の時を経て漸く、私のしこりは他者との共有により封印が解かれ、もう一度向き合うべき物となった。
 そしてもう一つは、彼がこの物語の骨格を先に教えてくれた事である。野田の芝居は時空を軽く飛び越え疾走していくだけに、その物語の骨格をその進行と共に認識していくとなると、野田が恐らく意図的にし掛けてくる通り、煙に巻かれてしまう可能性が高い。それこそが醍醐味、それこそが野田とも言えるのだが、今回は今までとは違う視点で見つめたいが故に、扇田氏の書き記した主人公3人の関係性は非常に有益な情報だった。
扇田氏によると、その画期的な舞台の中心となる3人の役者、松本潤、鈴木杏、勝村政信はいずれも好演、適役であるという。更に、昨年70歳の記念の年に、蜷川は次々と矢継ぎ早に演出作を繰り出していったのだが、扇田氏によると、その中でもこの『白夜の女騎士』は突出しているという。
あの『天保12年のシェイクスピア』をも含む2005年の仕事全てを考えると、これは凄いことである。という訳で、この作品にかける期待はいやがおうにも高まった。

 蜷川演出らしく劇場に入った瞬間から、我々は蜷川の歓迎を受ける。まず、時代劇の町人風な、しかし髪はポニーテールに近く現代的な袴姿の男が普通に財布を出してエントランスで買物をしている。そして、劇場内では既に何人もの出演者が普通に通路を歩いている。1階中央通路には脚立が置かれ、日によっては蜷川氏がそこに立って役者と立ち話しをしている。鈴木杏はジーンズにTシャツ姿で、出演者たちと楽しげにおしゃべりしていた。
 舞台の上にはプロペラ飛行機、透明な箱、ダンボールが積まれた畳の部屋などが無秩序に置かれ、舞台正面の扉は外に放たれている。外界に繋がる扉の外では、普通に町を行き交う人が見えている。

   開演時間が近づくにつれ、舞台に雑然と置かれた小道具は撤収され始める。そし て、字幕。左右に備え付けられた2つのスクリーンに、ト書きで書かれている(と思われる)事柄が映し出される。最初に出てくるのは、小人。全員で疾走している。この小人は原作でいう所のニーベルング族である。しかし彼らは和服を着て、市場で競りを行っている。南京玉簾を披露しながら、競売にかけられたのは、バッタ。その商品の目玉は文字通り目玉。「複眼」。この複眼がこの生物の目玉。じゃりじゃりに割れた目は全ての物が見えてしまう。次に登場したのは鳩。これは「鳥目」。暗闇では何も見えない。
 そして、そんな小人の競りに商人が登場する。彼は狡猾で日和見で、商売人であ る。彼は一つしかない商品に、神、巨人、小人、三者からの注文を受けた。トリプルブッキングである。その注文の品とは、人間。透明の卵にその注文の品は入っている。3者がその卵を奪い合い、どうにか我が物にしようといさかいを始める。

 白い幕に「百夜の女騎士」と書かれたものが舞台を覆う。そして、一瞬のうちに幕が落ちると3人の女騎士が透明の卵(カプセル)を大事に守っている。その中には、サスケが胎児のように手足を丸めて横たわっている。どうやら神、巨人、小人が所有を主張した人間の卵は、3人の女騎士によって持ち出され、守られ、今そこから人間が誕生しようとしているらしい。
 暗がりに浮かび上がる透明の卵。そして、その誕生の時を卵の中で眠りながら待つ人間、サスケ。すると、卵が中央から二つに割れ、彼がゆっくりと転がりながらこの世に生まれ出てきた。手足を丸めたまま生まれ落ちたサスケは、ゆっくりと動き始める。胎児から今、彼は赤ん坊になり、目をつむったま、立ち上がろうと動きはじめる。サスケは今、人の成長の過程を猛スピードで行っている。遂に彼は立ち上がり、ゆっくりと歩行を始めた。そして次第に動きを早め、まるで助走をつければ飛び上がれると信じているかのように、疾走を始めた。彼は言葉を発する。
「人それは空を飛ぶために四本の足から二本の足で立ち上がった動物だ!」

 それは、サスケ(人間)の誕生であるだけでなく、舞台人、松本潤の誕生だった。余分なものが削ぎ落とされ、全身全霊をかけてこの役と向き合い、一表現者としてこのカンパニーに存在している彼がそこに居た。
 舞台の上で立つ、歩く、という基本的な動きすら出来ない者が多いと言われる中、彼は動きだけで胎児から少年までの成長の過程を我々に見せた。全身が使えるという事も、野田の舞台では特に重要な事。そしてそれを支えているのは、蜷川の次世代を育てる情熱と、松本の前に進もうとする情熱。だからといって、力が入りすぎている事はなく、彼はこの物語の主人公、サスケとして存在している。
 ジャニーズという殻を破り、今後舞台を企画する時に、演出家が考えるキャスティングリストの一人として存在出来るようになったであろう松本潤がそこに居た。

 この世に卵から生れ落ちたサスケは、いつしか天才棒高跳び選手の空飛びサスケとなる。彼はいつのまにか、競技会場に居てアナウンスを受けている。「空飛びサスケ君。2回目の試技に入ります」その呼び出しの声は、鈴木杏。眠り姫そしておまけが競技会でアナウンスをしている。
サスケは棒高跳びの棒を持ち、助走、踏み切り、飛行を行う。空高く彼が飛んだ時、彼を仰ぎ見るように、自らを革命家だと思っていた学生運動家達が一斉に現れ、空を舞うサスケにエールを送る。しかし、サスケの跳躍は失敗。彼はハードルを越えることなく、まっさかさまに大地に落ちてくる。重力に抗う事が出来ず落ちるサスケ。そして、彼は血まみれになり、傷つき、倒れた。

 さて、この物語の登場人物達を、野田の台詞、蜷川の字幕、蜷川の演出を元に極めて大雑把に説明するとこうなる。神(時にカメラマン)、巨人(時にライト兄弟、時に刑事)、そして小人がこの世を支配している。その3者に欠けているものを持っているが故に3者が欲しがったもの。それが人間、サスケである。
 彼は全てを見通す「複眼」の目を持っている。そして、サスケにはハム無線のまさかの時のまさかの友「その後の信長」という無線仲間がいる。更にその後の信長には妹が居て、彼女が眠り姫であり、おまけである。というのが主な登場人物達。それに、タイトルにもなっている「ワル!」「キュー」「レ?」という3人の女騎士がサスケを育て、保護する支える側、影として存在している。

 これを蜷川というフィルターを通してみると、ベースにある「この世」は日本の恐らく60年代。学生運動が盛んに行われていた頃。神や巨人は、反発者を封じこめようとする国家権力、体勢側で、小人は恐らく当時デモに参加していた労働者階級や学生達である。
 中央にサスケを置き、商人がMCをつとめ、三者でサスケの所有を主張する時に、神(国家)は表向きはほとんどしゃべらず(動かず)、巨人(警察)は小人(民衆)に押されながらも言葉を発して応戦し、小人(民衆)は演説するかのように、入れ替わり立ち代り発言を繰り出していく。その主張、勢力により、三者の境界線は微妙に変化していくのである。論が通ればテリトリーは広がり、白いテープで表された境界線が商人によって移動され、テリトリーは広がり、隣りの例えば、巨人や神のテリトリーが狭められていく。しかし、論がなく勢いだけでは認められず、その場合は商人によってテリトリーは狭められる。三つ巴の闘いは終わりを知らず、いつまででも続いて行くかに思えたが、中心であるサスケの目覚め、逃走により、彼らにとっては、解決無き休止符が打たれるのである。

 さて、「その後の信長」は革命を起こせると信じていた学生運動の活動家。おまけはその妹。そして、サスケはどこにも所属しない意志を持つ「若者」である。  では、主人公サスケはどの時代の「若者」かというと、70年代、もしくは蜷川の解釈でいくと現代の若者となる。これは、「どちらか」一つというのではなく、「どちらの時代も」と考える方がいいだろう。
「その後の信長」は、「本能寺の変」で自害した信長の影武者の子孫で、本物が死んだ事により、その存在意味が無くなっているとサスケに指摘される。本能寺の変で本能(闘争本能)と存在価値(大義名分とも言える)が無くなった「その後の信長」は、革命なんか結局起こせなかった事が明かになった後、自らの進むべき道を失った革命家と考える事が出来る。
 彼は神様宛て(国家)に宅配便で爆弾を送りつけたが、宛先と差出人を間違えてしまい、自分宛てに爆弾が届き、何も知らない家族が封を開け、結果的に自分の妹を殺してしまった。これは、体制に向かって攻撃を行っていた学生運動が、いつのまにか道を間違え自分達自身に対して暴力を振うようになり、同志に死者を多数出してしまった事の象徴と考えられる。
 その後の信長は、「宛先を間違えたんだ。ちょっとユーモアもあるだろう?」と自虐的に笑う。学生運動の後半、内ゲバが酷くなり本末転倒であった事を、かつての活動家が自己矛盾を今となっては充分理解し、自嘲気味に次世代の若者に語るように。

 その後の信長は、「本能寺の変」で本能を失い、自らの道を見失い、時間の中心に出来た真空の時間の目の中に、ただぶらんとぶら下がったままになっている。それは、世の中が変わる中でもうとっくに忘れ去られていてる存在だが、思想と暴力の過去が鮮烈すぎるが故に、自らも多感な頃傷つきすぎてしまったが為に、未だ過去の呪縛から脱出する事が出来ないでいる歳を取った学生運動家のように思える。そんな彼が偶然という名の「必然」により、ハム無線で知り合った若者が「サスケ」だった。
 若者には、この世の中を変えて行ける力がある。権力を飛び越えていける柔軟性がある。自分たちが成し遂げなかった事を実現する力がある。しかも、棒高飛びの天才、空飛びサスケなら自分たちが見失ってしまった道を、地を這わずに棒高跳びでポーンと飛び越えていく事が出来るが故に見失うことはないかもしれない。そんなサスケに、かつての革命家だった信長は自ら成し遂げられなかった事を彼に託そうとする。

 さて、そんなハム無線の友サスケと信長が出会ったのは、富士山麓。事の起りはサスケが富士中腹の小屋でハム無線の注文書を書いている所から始る。
 注文書を書き終わるか書き終わらないかのうちに運ばれてくるハム無線機。驚きつつも通信を始めるサスケ。呼び出しに早速答える者あり。女性の声で、明確に、非常にクリアーに、クリアー過ぎるほどクリアーに、いや、すぐ近くから、いや、同じ部屋の中から(!)ハム無線の友の声が聞こえてくる。その声はこう告げる。 「富士は休火山です。死火山ではありません。死んでいるのと眠っているのは、見た目の見分けはつきにくいですが、全く違います。休火山は眠っているだけです。」
 そして、サスケが「あの〜、なんだか声がとっても近いんですけど」と控えめに疑問をぶつけると、おまけが無線機と一緒に部屋に勝手に運ばれた大き目のダンボールの中から飛び出して来た。彼女によると、この部屋は昨日まで彼女の部屋だったらしい。その証拠にサスケが先ほどまで使っていた文机の上に彼女の日記が置いてあると主張する。読んでみると、確かに彼女が書いたものである。
 おまけは、自分はハム無線の取扱説明書だと言い、ここに住むと主張。一緒に住むのをいやがるサスケに、彼女なりの妥協案として、公平に二人のテリトリーを決めるため、白いテープで部屋の中央に境界線をひいた。サスケとおまけの境界線であり、昨日と今日の境界線だ。
 先ほどまで一つだった部屋に出来た境界線。その瞬間、サスケに闘争本能が発生する。たった一つの白い線。しかし、その線は「境界線」であり、その線は「闘争心」を孕んでいる。

 野田特有の場面と時間の跳躍により、サスケはライト兄弟の飛行機が部屋に突っ込んできた衝撃で富士山麓に飛ばされる。自分たちしか「飛ぶ権利」が無いと主張するライト兄弟は、空を飛ぶサスケは違反していると主張。激しく彼を追いかけ、捕獲しようとする。しかしそこで「まさかの時のまさかの友」ハム無線の友、勝村政信演じる「その後の信長」に助けてもらう。無線でしか知らなかった二人が、初めてここで対面するのだ。

 このシーンは野田特有の言葉遊びと蜷川の演出上の遊びがふんだんに入っていて、会場の笑いが絶えない。例えば、棒高跳びの「助走=女装」「踏切り=(電車の)踏切り」「飛行=非行」といったように。この3つの言葉の後者は全て、信長(勝村)の矢継ぎ早の言葉に反応したサスケ(松本潤)によって演じられる。女装といわれれば横たわってシナをつくり、誘惑のポーズを取る。踏切りと言われれば、「カンカンカンカン」と言いながら右手で遮断機を真似る。「非行」と言われれば、ヤンキー風に「ヨウヨウヨウ!」とすごんで見せる。。。と、もう観ていると、蜷川に羞恥心を捨てろ!とか、笑えるようにやれ!とか叱咤されている松本潤の姿が勝手に目に浮かぶ・・・のは私だけではないだろう。
そして、このシーンでは、観客のいじり方も上手く、笑いのツボも知っていて、そして当然の事ながら無理なくその声が心地よく劇場に響いている勝村の役者としての懐の深さを実感させられた。やはり、上手い。しかし、舞台人としてスタートを切ったばかりの松本潤は、若さでその差を埋めて行く。先輩と後輩コンビ、松本、勝村の掛け合いはなかなか間も良く、次々と笑いを取っていった。

   さて、野田らしい言葉遊び、時空のワープの話しが出てきたところで、触れておきたい事がある。野田の芝居。最近はどうなっているのか知らないが、遊眠社の頃の彼の芝居は、他の劇団に類を見ないほどのテンションの高さがあった。例えるなら、眠りにつく前にはしゃぎまわってどうしようもない、誰にも止める事が出来ない子供のテンションである。
 間違いなく「総 躁状態」なのだが、それが蜷川演出になると、さすが70歳の演出家が手掛けているだけあって(?)落ち着いている。ほぼ普通のテンションである。そして、明かに野田の特徴である疾走感はほとんど見られない。それは今の時代そのものの疾走感の減退という事もあるだろうが、とにかく、あの当時の疾走感は無い。がしかし、スピードが落とされた事によって、野田の戯曲の持つ言葉のきらめきが引き立たされているのも事実だ。
 野村萬斎が以前、野田の戯曲を「言葉の消費」と言っていたが、蜷川幸雄という演出家が適切と考えたテンポで発っせられた野田の言葉は、キラキラと輝き、消費されるものでは無く、輝きを持ったまま記憶に留まる言葉となっていた。そして、野田のスピードと発想の柔軟さについて行けず、舞台を観ているだけでは見落としてしまっている事もしばしばであった「かけ言葉」も、蜷川の発案した「字幕」によって明確になり(字幕に気をとられて舞台に集中できない。もしくは聞いていれば分かるのだから、字幕なんて余計なお世話だと思う人もいるだろうが)全員がその遊びがわかる事となった。
 そして、この言葉遊び。実は遊びに見えて、無意味なわけはなく、物語を読み解く上で重要な言葉にもなっているのである。2回この舞台を観るのなら、この字幕は不用だが、1回目には邪魔だと思っても、物語を理解する上では有益な情報源となるのである。『天保12年のシェイクスピア』から蜷川の舞台には字幕が登場しているが、分かる事に重きを置いた場合、この字幕というツールも、私には効果的に思えた。

 さて、夢の遊眠社の特徴であった、疾走感とハイテンションが姿を消した「白夜の女騎士」。そんなのは野田の舞台じゃない、と言う人もいるかもしれない。しかし、私が感じたことは、野田の戯曲も20年という時間を経て、漸くここまで来たのだという事だった。 
 「舞台の稽古が始ったら、原作者は稽古場に入れない。でも、脚本にある台詞は変えない」と語る蜷川。彼は野田の書き記した言葉はそのままに、演出の力だけでこの物語を読み解いてみせた。

 野田の「後の世代」である私には実体験がないが故に、奥底には何かあると思いつつもそれが何かを知る事は、無からは何も生まれないが為に成し遂げることはできず、また野田と「同世代」の人間にとっては、恐らく当事者だけに客観的に読み解くことは難しく、結局野田の「前の世代」、彼が学生だった頃には既に大人であった世代によりこの物語の真の姿が取り出され、20年という時を経た今、我々の前に姿をあらわしたというのは、実に興味深く、納得の行く出来事だった。
 また、これが決定版という事ではない。原作者が演出した舞台が正解だという認識を、我々は通常持つのが当り前になっていると思うが、古典などを見てみれば、そうとばかりは言えない事は皆の知る通りであり、野田の作品も野田の演出が唯一の形ではない。そして、蜷川演出のこの舞台も、正解と断言する事は出来ないだろう。
 しかし、この蜷川演出を境に本作は、自由な演出がなされる存在となっていくように思える。20年という時を経ても野田の作品は生き残り、20年という時を経て、物語は新たな命を吹き込まれる自由を得たのだ。

 物語は、サスケ、信長が冨士の火口を目指して登山するが為に、神も巨人も頂上を目指す旅となっていく。 富士山登山。といっても、これは言うまでもなくいわゆる富士ではない。では、一体この富士は何を表すのか?

 もう少しで頂上というところで、サスケと信長は命綱にぶら下がったまま、先に進めずぶら下がるばかりという状態になる。台風の目がぽっかりと開いた真空状態に似た無風の領域であるように、信長は時間の目に入ったまま出られない。綱で繋がった二人は、どちらかが犠牲にならなければ、山頂には着かないと思った瞬間からお互いを蹴落とそうとし始める。更には相手の命綱をナイフで切ろうとする。文字通りの仲間割れである。そして、遂には互いに命綱を切ってしまうが、予想に反して落下は起らなかった。何故なら、反対の方向から同様に山頂を目指していた、サスケを追う神と巨人が彼らのロープを引っ張っていたのだ。
 そして、富士は割れ、その中からサスケが最初に居た部屋が現れる。これは、信長の記憶。信長は犠牲になった妹を思い出している。
 あの日、10時10分。時計が涙を流さないように、必死に目をつり上げて悲しみに耐えている、この時間に、妹は自分の作った爆弾により命を落とした。それ以来自分は時間の目の中に漂うだけの存在となったと語る。
 そして、犠牲となった妹は時に、全ての現実から逃避する眠り姫になり、時におまけとなる。彼女は、この物語のあちこちで、自分の父について語る。自分の父は、地質学者で、家族を顧ることはなかった。彼が興味を示したのは、地層。地層ばかり。そして、ある日その地層が崩れた時、ジュラ紀と白亜紀が崩れ、混ざりあった時も彼は地層を観察し続け、写真を撮り、逃げ送れ、いや、逃げることすらせず、その渦に巻き込まれて命を落としたと語る。
 その意味するところは何なのか。地層は世代や所属と考え、その激しい衝突から目が離せず、しかしただ見ている内に、眺めていたい欲望が防衛本能を打ち負かしてしまい、気づいた時にはもう、逃げ出す事が出来ず飲みこまれてしまった、時代のうねりに飲みこまれて行った第三者と考える事は出来ないだろうか。そして、だからおまけはおまけになった。では、彼女は何のおまけなのか。と考えると、サスケのおまけ。道を見失った兄、時代に飲みこまれた父ではなく、棒高跳びの天才、前進し、宙を飛べるサスケのおまけになる事を、彼女は選んだのだ。

 サスケは遂に、グラスファイバーで出来た、キラキラと輝き柔軟にしなる棒高跳びの棒を持ち、助走をつけ、踏切り、飛行の時を迎える。おまけの声が彼の飛行を促す。彼はしっかりと、若者達の願いで出来たグラスファイバーの棒を握り、構える。
 彼は、富士を超えていく。富士の裾野は若者達の踏切り。富士のふもとには、キラキラと輝く砕け散ったグラスファイバーが散らばっている。それは、砕け散った若者達の夢、活動家達の希望。そして、棒高跳びの天才、空飛びサスケは今、誰もが失敗した「飛行」を成し遂げた。

   富士は死火山ではなく、休火山。それは死んでいるように見えるが、眠っているだけの山。富士は前に進もう、世の中の枠を打ち破ってやろうと思う若者たちの心。現在、若者の中にはその意志は無くなってしまったように見える。しかし、それは富士山と同じく眠っているだけ。何かのきっかけがあれば、その眠りから目覚め、若者の持つ軽やかさと柔軟さで軽々と時代を飛び、変えて行く力があるに違いない。蜷川はそう信じているから、今の時代にこの作品を選び、今の時代を体現する事が出来ると彼が信じた松本潤をサスケの選んだのではないだろうか。
 そして野田は、たとえ天才であろうとも、その時代に生きるのならば、抗う事は出来ない、どう生きるにせよ影響を受け、関与し、逃れる事が出来ない「時代」というものに対して、自分が取った、自分が信じる、自分が思うアプローチをサスケを生み出す事で行い、サスケに託し、演じたのではないだろうか。
 その飄々とした言動、社会の枠に囚われていないように見えるその姿から、ついつい見落してしまっていたが、どうやら彼には強烈な原体験と共に、時代に対するメッセージが、社会に対する強い思いが隠されていたらしい。

 疾走し、ふんだんに言葉遊びをし、ハイテンションで突っ切る野田。彼の舞台に 我々が当時感動したもの。それは大人になるにつれ、忘れてしまった少年のキラキラと輝く純粋な心だった。キラキラと輝く、あの夏の日の、まぶしい日差しに目を思わず細めながらも、外に飛び出し思うがまま、自由に野原を駆け回る若さ。そのピュアな心を永遠とも思える確かさで我々に伝えてきた彼の姿だった。遠くなってしまった記憶を辿ると、私の中に残っている野田の姿はいつも、演じられた少年なのだ。

 野田はその強い意志と純粋さ、前に進む事、未来を信じる少年を彼の言葉と演技で体現してきた。彼はその少年を「演じる」という行為で表現してきたのだ。
 そして蜷川は、その少年をそのままの素材を持ってくる事で表現した。キラキラと輝く少年、松本潤演じるサスケはその体とその心、その台詞と、その演技がイコールで繋がっている。

「僕は天翔る日輪の馬車になって神様の眼を刺す矢になってみせるさ」
そう言って空に羽ばたいたサスケ。その後彼は一体どうなったのか。
 「白夜の女騎士」は野田版「ニーベルングの指輪」3部作の第1作目。願わくば、続く第2作、第3作も蜷川による演出、今回と同じキャストで上演して欲しいと切に願う。


◆5月6日◆PLAY◆ライフ・イン・ザ・シアター@シアタードラマシティ ◆

 蜷川幸雄演出以外の舞台に立つ藤原竜也を見るのはこれが初めての事。そして市村正親の舞台を観るのは、15年ぶりぐらいでしょうか?確か劇団四季のストレートプレイ「エクウス」を観たのが、最初で最後だったはずです。
 今上昇気流にいる若手俳優と、大御所の域に入ってきた俳優との2人芝居。さてさて、一体どんな作品に?と期待しながら劇場に足を運びました。

 物語は、この二人の為にあつらえたかのような戯曲と言っても失礼に当らないと思いますが(笑)、俳優としては下降しはじめた初老の俳優ロバートと、これから明るい未来が開けているであろう若手俳優ジョンの楽屋と舞台での、26編から成るショートショートのエピソード集。初老の役者には老いを、若者には若さを。老人にはかわいらしさと哀愁を、若者には青さと輝きを。この戯曲は良い匙加減で演じさせていきます。

 それにしても、市村さんの受け皿の広さのせいか、はたまた演出家が違うせいか、こんなにいい意味で肩の力が抜けているというか、張り詰めていない、歳相応、オーラはいつもの半分ぐらいな藤原竜也を見たのは初めてです。そして、市村さん。やはり熟練です。安定しています。現実の二人と、物語の二人が微妙にダブりながら、舞台ならではの人生の喜怒哀楽を感じた約2時間。たまにはこんな藤原竜也もいいなと思いながら、カーテンコールを繰り返す二人に拍手を贈りました。


◆5月6日◆MOVIE◆かもめ食堂◆

鍋で白いご飯を炊き、ガス台の上で網を使って魚を焼き、少し深めのフライパンで揚 げ物をする。皮をむいただけのごろんとしたジャガイモをほんのり茶色に炊きこみ、 鍋から一つづつ丁寧に取り出して大きな鉢に静かに盛っていく。白くて大きな皿には 野菜たちが盛りつけられ、メインとなる食材の到着を待ち、全てが揃ったら、彼らを 待ちうけている人達の居るテーブルに静かに運ばれていく。
 鍋で炊かれた米はしゃもじですくい上げられ、適度な濃度の塩水をつけた手に包ま れ、梅、しゃけ、おかかのいずれかを中心に三角に握られて海苔に巻かれ、次々に 「おにぎり」となっていく。

 映画「かもめ食堂」は、そんな風に丁寧に、丁寧に基本的な日本の家庭料理をフィ ンランドで作り、フィンランドの人に提供し、受け入れられていく日本人の女達の物 語です。
 かもめ食堂の時間は、ゆっくり、ゆっくり、しかし確実に前に進んで行きます。結 果とスピードに追われる日本の社会から遠く離れたフィンランドで、自分を信じて結 果が出るまで、無理せず自分の速度で日々の積み重ねを続ける主人公の姿は、我々に 大切なものを思い起こさせると同時に、そうありたいと思う憧れを体現してくれてい るように思えます。
 それ故、この映画を見ると、ちょっと幸せになり、ちょっと自分を見つめ直すきっ かけとなる。それがこの映画の、静かなヒット作となった理由ではないでしょうか。

 食べる物を自分でちゃんと作る。とても基本的な事ですが、外食、中食(デパ地下 等で売られている惣菜を”なかしょく”と呼ぶ)が充実した日本では、忘れられつつ ある事のように思います。それはまた、私たちの生活の中から零れ落ちていった、 「丁寧に生きる」事に繋がっていくように思えます。丁寧に生きる彼女たちの姿は、 凛として美しく感じられるのです。

 変化とスピードを追い求める現代社会の対極にこの物語は存在しています。前に進 む事だけが評価される事なのだろうか?本当にそうなんだろうか?と疑問を感じてい る人は、「かもめ食堂」に少し遊びに行ってみるといいかもしれません。
 この作品を見た時、この中に登場する日本人女性3人の間に丁度良い距離を保った 関係が成り立っているように、あなたと「かもめ食堂」との間にも、丁度良い距離を 持った関係が出来る上がるかもしれません。それは、決して相手に関渉せず、拒絶も しない関係です。ただそばに居てくれて、こちらが呼びかけたら答えてくるけれど も、決して介入してくることはない。あくまで個人主義の中の、心のこもった関係で す。

最後に。もたいまさこさんって、何であんなにただ立ってるだけでおかしいんでしょ う。もう、天才。


<March>

PLAY・女中たち


◆3月8日◆PLAY◆女中たち@シアタードラマシティ◆

 絶え間無く続く「揺らぎ」の中で、悲しみが心の中の「おり」のように、逃れがたく静かに浮かびあがってくる。
 そんな作品が「女中たち」でした。泥棒にして作家、アウトローにしてメジャー。個性的という言葉が彼に対しては陳腐に感じられる作家、ジャン・ジュネ。彼の戯曲を舞台で見るのは、これが初めてです。

 舞台は、フランスのあるお屋敷の一室。奥様が居ないのを良いことに、姉妹の女中(メイド)が奥様の化粧品、ドレス、靴、アクセサリー、そして寝室を使って「奥様と女中ごっこ」に興じているところから物語は始ります。
 ごっこ遊びの中で見られる架空と現実の世界を行き来する心の揺らぎ。この揺らぎが我々の耳を注意深くさせます。台詞から読み取れる真実は何なのかと。真意は何なのかと。
 次々に送り出される言葉の連なりは、言葉の数こそ多いものの、シェイクスピアのように聞いていれば全てを語ってくれる饒舌なそれとは違い、自分の気の向くまま、思いつきのまま生み出され、他者の存在を意識していないかのように存在しています。漠然とイギリスとフランスの違いを感じ、それぞれはそれぞれの土壌でしか生まれ得ないと確信します。

 この芝居は、女中2人とその奥様の3人によって物語られます。今回それを演じているのは、三軒茶屋婦人会の面々。女中の姉を大谷亮介、妹を篠井英介、奥様を深沢敦が演じています。
 冒頭では、篠井、大谷が下着姿で登場。篠井さんのスタイルの良さに、思わず驚愕(笑)してしまいます。花組芝居に居た時から、この人ほとんど体型変わってないような。本当に凄い。素晴らしい!ある意味、深沢さんも花組芝居に居た時から体型、変わっていません(笑)姉であるソランジュ役の大谷さんはどこから見ても男性で、女装はかなり厳しい・・・(笑)

 さて、会話の上に成り立っているこの芝居をこの3人で演じた時、私の中には残念ながらまとまりの悪さが残りました。友達が言うところの、「のっぺり」とした篠井さんの口調と、時折聞き取りにくい大谷さんの声。そして、いきなり茂山さんち(言わずとしれた狂言の茂山家。野村家と共演すると、声量が2倍ぐらい大きく感じられるほど、台詞の通りが皆良い)の誰かが出てきたのかと思うほど、はっきりと、良く通る声で語る深沢敦。  女中二人だけの場面は、元来うつうつとしたものなので全体のトーンが沈んでいて当たり前なのですが、人によっては眠くなっていまうような状況の中で、奥様である「深沢敦」が出てきた時には、だれもが、ぱっと目覚めたはずです。その、天童○しみ(伏字にする意味なし!笑)みたいな姿と、あっかるーい太陽チックなキャラクター。
 愛すべき存在で、沈みきった中にあってびっくり水みたいな効果はありましたが (でもびっくり水って本当は沸騰してるお湯に入れるので、芝居が沸騰してたかと言われるとさにあらずで、びっくり水という表現は正しくないのですが、でも、深沢敦はびっくりだったので、やっぱりびっくり水とあえて呼びたい!と、長い説明と言い訳、失礼しました。笑)良くも悪くもテイストが違っている。でも、奥様のどうしようもなく気まぐれな物言いを聞いていると、あ〜こういう人いるよねという妙なリアリティもあり。。。
率直な感想としては、「深沢さん上手いよね〜」というよりは「いや〜、深沢敦見 ちゃったよ」的な、「手の平サイズにして持って帰ったら面白いだろうな」というような光り方をしていました。ふふふ。

 さて、そんな中にあって何故私には睡魔が到来せず、一言一言を注意深く聞き、緊張の糸が途切れなかったのかというと、それは一重にジャン・ジュネ。彼の原作の底力に他なりません。

 女中二人の世界が崩れはじめた時、壁全体が実際に揺れはじめるという分かりやすい演出(しかも演技者が体を使って揺らしてました)もありつつ、全体に期待していたほどの毒や妖艶さは無く、キャラクターへの思い入れも、適切と思われる距離まで縮める事が出来たとは思えず、全体に消化不良の感が否めませんでした。彼らが作り出した世界では、残念ながら作者が表現しようとした物語を、彼女達のある日の出来事とそれに至る過去を、直接垣間見た気にはなれなかった。しかしそれでもこの舞台に惹かれるものがあるのは、その奥に広がるジャン・ジュネの世界の魅力なのだと思います。

 心が揺らぎ、立場が揺らぎ、世界が揺らいでいる中で、この作品への解釈も揺らいでいるという(笑)そんな芝居を見た後は、心の中にもやっとしたものが残るもの。
 社会における底辺の人間の原体験を持ち、その肌感覚を持ったままある意味客観的に世の中を見つめ、持って生まれた才能により独自の世界を作りあげた作家、ジャン・ジュネ。
 学生の頃彼の小説を読みかけた時に感じた、ある種の「踏みこめなさ」は、もしかすると誰もが感じるところなのかもしれません。


<February>

PLAY・間違いの喜劇


◆2月26日◆PLAY◆間違いの喜劇@シアタードラマシティ◆

「何と台詞の心地よいことか!」と、冒頭からいきなり感嘆してみましたが、「何と面白い舞台だったことか!」とも言葉を放った上で、「何と見るものを幸せにしてくれる舞台だったことか!」と更に賞賛し、「何と格好の良い小栗旬だったことか!」とも付け加えたいという(笑)まあ、一言で言うなら「一度見たらしばらく幸せな気分でいられる舞台」それが、この『間違いの喜劇』でした。
友達の言葉を借りるなら、「だから劇場通いはやめられない!」まさしく、その通りです。

 2005年は蜷川イヤー@シアターコクーンで、最後を飾ったのは『天保12年のシェイクスピア』。最後を飾るに相応しい大作で、もうこれ以上何が出来るの?!というような豪華キャスト、力技の脚本でした。そして迎えた2006年。70歳になってもまだまだ勢力的に活躍を続ける演出家蜷川幸雄は、限りなく重く悲劇的なシェイクスピア作品「タイタスアンドロニカス」を持ってロンドンに乗りこみます。
 『天保〜』から『タイタス』へ移行する上での、リセットというか、クッション的な作品がこの『間違いの喜劇』なのかしらという認識で、まあ見に行こうと軽い気持ちで行ったのですが、見てみれば非常にこれが面白い!今年芝居を観たのは、まだこれで2本目(もう一本は、『12人の優しい日本人』)ですが、今のところ今年一番の作品と相成りました。

 物語は、生き別れになった2組の双子が巡り会えるまでの顛末記。そして1組の双子の生き別れになった両親がめぐり合えるまでの物語でもあります。
 大きな意味でこの物語を表すなら、これは運命の糸で結ばれた人達が巡り会えるまでの物語。それが『間違いの喜劇』です。

 その昔、シラクサとエフェソスという国があり、お互いとても仲が悪く、国交は断絶状態。互いの領土で、相手の国人を見かけたら即逮捕し、処刑。もしくは、保釈金として1000マルクを支払うという協定を結んでいるという状態。そんな中、シラクサ人のイジーオンという老人がエフェソスで捕まるところから話しは始ります。何故イジーオンはタブーを犯してまでこの国にやって来たのか。
 自分には双子の息子がおり、その昔商人だった彼は遠方の島から、妻(エミリア)と生まれたばかりの双子(アンティフォラス兄弟)、そして同日生まれの、身寄りのないもう一組の双子(ドローミオ兄弟)を連れて自国に戻る為船旅に出たところ難破。自分は自分の息子である双子の弟ともう一組の双子の弟の方を、妻は自分の双子の兄ともう一組の双子兄と、二手に分かれて船のマストの両端に分かれてロープでしっかりと自分たちを括り付け、助けをまっていたところ、流されていく途中で大きな岩によりマストの中央を折られてしまい、離れ離れに。そこに二艘の船が助けに来て、自分たちはシラクサの船に、妻たちはエフェソスの船に助けられ、結局生き別れとなってしまったと語ります。
 イジーオンの息子、双子の弟は有る日兄をどうしても探したいといい、彼の従者となったもう一組の双子の弟も兄を探したいと言う。そして二人は旅立ち、自分は彼らを探す旅をしているうちに、このエフェソスに辿り着いてしまったというのです。
 話しを聞いたエフェソスの公爵は情けをかけ、保釈金をくめんする時間を1日だけ与えてやろうと提案します。さて、イジーオンの運命はいかに?

 という悲劇的な冒頭の後は、二組の双子を周囲の人が間違える事により引き起こされる、混乱の喜劇。ドローミオ兄弟二役を小栗旬が、アンティフォラス兄弟二役を高橋洋が演じます。

 劇場に入ってまず目に入ったのは、蜷川演出では最近良く登場している鏡の演出。舞台の上には鏡で作られた壁があり、観客は座ると同時に、自分がぼんやりとその鏡に映っていることに気付きます。開演の15分ぐらい前には、トルコ帽を被った太鼓と笛を持った三人の楽師がロビーで演奏を始め、徐々に異空間へと誘っていきます。
 観客が客席に納まる頃、舞台にライトが灯り、今まで鏡に描き込まれているだけかと思っていた彫刻が、一気に立体的に浮かび上がってきました。そして、先ほどの楽師達が奏でる音が劇場の最後尾から聞えてくると同時に、本日の出演者全員が登場し、場内の二つの通路を通って舞台へ次々と上がって来たのです。
かつてシェイクスピアの時代がそうだったように、男だけで演じられるシェイクスピアの喜劇。故に、ついつい女性役の役者にまず目が行ってしまいます。

 一気に賑やかくなった舞台の上は出演者であふれ、どうも全員乗っているらしいと気付いた瞬間、急いで小栗旬を探します。
 どこ?どこ?と視線をさまよわせる事数秒間。探す迄もなく、中央に立つ小栗旬。観た瞬間に、「うわ〜。こんな少女漫画の世界から抜け出て来たような人って本当に居るんだ!!!」と、今迄散々色んな人を観て来たにも関わらず、182cmという長身のすらりとした姿で、動きやすい少し短めのマントにブーツ、少し長めの髪を細かくピンでとめて後ろに流し、はっきりとした目鼻立ちに似合っている髪型の彼に、思わず見とれてしまいました(笑)
 とはいうものの、ここが面白いところで藤原竜也に見られるような色気はないのでドキドキは全くせず(笑)、目が離せない!的な強烈なオーラは出ていないので現にたった今「小栗旬はどこ?」とこんなに背が高くて目立つはずなのに探していた訳で(笑)、まあ言ってみれば、主役じゃないかと言えば主役なんだけど、突出した主役というより皆に馴染むキャラクターで、主にも脇にもまわれる、そんな存在です。
 今迄私が観て来た蜷川作品に無いキャラクターで、最近の小栗旬起用の理由が何だか分かるような気がしました。

 昨年小栗旬が出演していたドラマ『花より男子』で、花沢類役を演じるにあたり、「原作で花沢類って花背負って出て来るんです。花背負って出て来る役に俺ってありえねーだろっ」と思ったというような事をインタビューで答えていましたが、今の姿を見る限り、小栗君。君の爽やかオーラとその見た目は、十分花背負って出て来れます。今の衣装のせいもありますが、君は王子様キャラ、OKです。そのある種の癖の無さも少女漫画向きです!
 その姿、蜷川さんも武器になると旬君本人に言っていましたが、本当になかなか得難いと思います。その姿を観ているだけで何だか幸せになるってなかなか無いものですよね。

   さて、物語が始まりまず気付いたのは小栗旬の発声。他の役者が強者揃いなので余計目立つのですが、声の響きが一人まだまだ修行中。雑誌で、蜷川さんが旬君に発声に駄目だしをしていて、今回父親役の吉田綱太郎さんに教えてもらったり慰めてもらったりしているというのを読みましたが、これは大きな課題です。といっても、ちゃんと台詞はこちらに伝わってくるので、聞こえないとか台詞がはっきりしないという意味ではないのですが、この部分をクリアー出来るようにぜひとも頑張って欲しいものです。
 その小栗君の相手役、私の最近大注目の舞台俳優高橋洋。彼は今回初の狂言回し役、ドローミオ。衣装も道化っぽく昔のピエロ風で、小気味良いテンポで次々に台詞をくり出し、小栗旬演じるアンティフォラスをひっぱっていきます。良く動く口と体を観ながら、本当に全身が使えているな〜と感心して眺めます。今迄シリアス路線だった彼にとって、このドローミオはなかなか挑戦だったようですが、これでまた役者としての幅が広がったのではないでしょうか。それにしても、小栗旬と並ぶと、凄く小柄に見えるんですけど、小栗旬が大きすぎるのでしょうか?

 そんな二人が演じるアンティフォラスとドローミオ二人の掛け合いがこの芝居の命でもあるのですが、なかなかどうして。絶妙な間で観客の笑いを引き出していきます。また、ぶったり蹴ったりする時に入る擬音も舞台下に居る楽士達によってタイミングよく入れられて行き、生の舞台を観る楽しさが倍増していきます。

 さてさて、女役の登場です。アンティフォラス兄の妻であるエイドリアーナを演じる内田滋。この人、どこから観ても男です(笑)男なんだけど、嫉妬に狂う妻の恨み辛みの台詞が、良く似合うんですよね。じーっと彼女(彼とも感じる)のいい分を聞いていると、何だかエイドリアーナって愛すべき女性だなとか、シェイクスピアの饒舌が面白いな〜とか、色々感じて来るのです。時々見せる男な部分もいい具合の笑いをとっていましたが、男性が女を演じる面白さを一番感じさてくれたのが、この内田滋でした。

 そんな彼とは対称的で、どこから観ても女性に見えるのがエイドリアーナの妹役であるルシアーナ演じる月川悠貴。肩を出したドレスを着ていましたが、その華奢な骨格と美しい背中、ちょとハスキーヴォイスな女性だなと思う程度の声音は、フラットな胸を見ない限り、どこから見ても女性です。姉とは全く違う性格の彼女はしゃべり口調も平坦で、物事に動じる事はなく、穏やかな川の流れのように言葉を紡ぎ出していきます。
 そんな彼女に求婚するアンティフォラス弟とのシーンは、なかなか印象的でした。クールビューティーに求婚する爽やかな青年の図は、アンティフォラスの若さが強調され、みずみずしさを感じさせるものになっています。恋愛っていいなぁと思わされるシーンです。

 さて、そんな彼等を支える名脇役に話しを移しましょう。金細工師のアンジェロ演じるたかお鷹。男と女の境界線を行くセクシャリティと、とぼけた演技が最高です。間も流石。占い師のピンチの川辺久造。インチキっぽさが良く出てます。娼婦の山下禎啓。後でパンフレットを観てびっくり。この人花組芝居に居た彼だったんですね(笑)何度も昔に観ているはず・・・どうりでおばちゃん(?)役が板についています。
 双子の母で修道女のエミリア演じる鶴見辰吾。彼の女性役を初めてみましたが、最初観た時、正直誰だか気付きませんでした(笑)出番が短いので、役の割りには印象が何故か薄いのです。
 一方、その夫であるイジーオンを演じる吉田綱太郎の存在は大きく、この舞台をしめる役目を果たしています。重過ぎず、軽すぎず、丁度良い重しとなっている。そんな感じです。

 そんな彼等にしっかり支えられた上で、小栗旬と高橋洋は猛スピードで双子の兄と弟を演じて行きます。この舞台、本当に疲れるだろうな〜と思わされる早変わりの連続なのです。弟が出て来たと思ったら、兄になり、その混乱がこの物語の命であり、喜劇たる由縁。
 アンティフォラス兄とドローミオ兄、アンティフォラス弟とドローミオ弟、アンティフォラス兄とドローミオ弟、アンティフォラス弟とドローミオ兄、この4つの組み合わせが次々に出てきます。演じている二人は混乱しないのかしら?というぐらいのスピードで、目まぐるしく彼等は登場してきます。
 観ているうちに分かるのですが、兄と弟の見分けは、アンテフィフォラスのマントの色とドローミオの帽子の色。赤か白かで観客は今兄なのか、弟なんかをビジュアルで確認する事が出来ます。でも、本当は見た目でなく彼等の演じ分けにより気付くべきところ。ちゃんと彼等は演じわけられていたのか?と問われたら、YESと私は答えます。その証拠に、誰もが双子による街の混乱ぶりを観て笑っていたのですから。
 それにしても、この双子を演じる二人に必要とされるエネルギーは半端なものではありません。汗だくで演じる彼等を観ながら、その運動量の多さにも感心してしまいます。しかも、その疲れを全く見せない。流石役者!この舞台をやってるかぎり、彼等は絶対に太れませんね。

 2時間休みなく続けられる物語は、観客の集中力を途切れされる事なくあっという間にクライマックスへ。いよいよ二組の双子と離ればなれになった夫婦が巡り会える場面になります。一体双子はどうするのか?今迄は一人二役で演じられてきましたが、ここからはそうはいきません。一体どうするのか?
 と、ここで何と腹話術が登場!というか、小栗旬と高橋洋がアンテフィホラス兄とドローミオ兄を演じながら、弟の声も受け持ちます。この為に、彼等二人は本当にいっこく堂に修行しに行かされたのです。そして、舞台には彼等に似た二人の別の俳優が登場してきました。
 この彼等に似た俳優ですが、何と小栗旬の実兄で俳優の小栗了が登場。背丈は同じぐらいですが、顔は似ていません。兄弟でも本当に違うものですね。お兄さんは余りインパクトのない人で、どこにも小栗旬との共通点が私には見つかりませんでした。一方のドローミオ弟は清家栄一が演じます。背丈が一緒ぐらいな事以外は共通点が無い二人ですが、見た瞬間役者だなと思わせる身のこなし。ドローミオはピエロっぽく少し化粧をしていますから、同じ作りにする限り、兄弟といわれても違和感がありません。ベテランが出て来たというのがこちらに伝わり、物語の最後をドローミオ兄弟が締めるのにふさわしいキャスティングとなりました。

 シェークスピアの悲劇の場合、物語が終わるまでに何人もの人が死にますが、これは喜劇。一滴の血も流されず、一人の死人も出ず、イジーオンの命は救われ、妻のエミリアとの再開を果たし、アンティフォラスとドローミオ兄弟は無事巡り会え、エイドリアーナとアンティフォラス兄の仲は元通り修復され、アンティフォラス弟とルシアーナは結ばれて、ハッピーエンドを迎えました。

 大阪公演での千秋楽だったこの舞台の最後は、オールスタンディングの大盛況。幸せな時を過ごせた事に対する喜びと賛辞の拍手が会場を埋め尽くしています。
出演者と観客双方の幸せな時。改めてシェークスピアの台詞の面白さを感じ、松岡和子さんの訳で戯曲を読んでみようと思いながら、私も大きな拍手を彼等に贈っていました。


<January>

PLAY・12人の優しい日本人


◆1月21日◆PLAY◆12人の優しい日本人@シアタードラマシティ◆

 陪審員制度が始ったら、誰にでも陪審員に選ばれる可能性がある。 『12人の優しい日本人』はそのシュミレーションでもあり、現実とは遠いところにある演劇作品でもあります。
 本作は三谷幸喜の代表作の一つであり、久々のリバイバル。そして個性的なキャストに加え、江口洋介の初舞台というのも関係していたのか、チケットは即完売。非常に入手困難な作品となりました。

 さて、私が三谷作品を舞台で見るのは今回でまだ2度目。前作は『なにわバタフライ』で一人芝居と特殊だった為、シチュエーションコメディーの色合いが強い彼の舞台を、感覚的には初めてみるような感じでその日を迎えました。

 劇場に入ると既に舞台の上にはドーナツ型のテーブルと12脚の椅子が置かれています。そして正面に出入り用の扉。左奥と右端にベンチ、そして右奥にはホワイトボードとウォーターサーバーが。
 オープンセットを見ながら、ここに12人が登場するのだとその図を頭に思い描きつつ、一つだけ妙に目立つように置かれた子供用の椅子-ハイジがおんじの家に連れてこられた時に使っていたような低〜い低い子供椅子-が一番手前に置かれているのに気付き、一体だれが座るんだろうとぼんやりと考えます。すでにネタ振りを一つ思いっきり見え見えにやられてしまったと思いながら。

 三谷作品に集まる人々の常で、客席は男女比がほぼ半々。そして年齢層も幅広い。彼がいかに日本で広くうけているのかがこの客層から見てとれます。こうしてみると、今一番人が呼べる脚本家なのではないでしょうか。そして、物語は始りました。

 正面扉から次々に入ってくる12人の陪審員。大河ドラマ『新選組!』で馴染みの顔が次々に登場します。明里を演じた鈴木砂羽。彼女には山南切腹の日、かなり泣かさましたが、残念ながらテレビで見る彼女の良さが舞台ではちょっと感じられません。テレビで見るよりずっと細く、舞台だからそうなのか声が甲高く聞こえ、しぐさも舞台用にオーバーアクションになっていて、役柄的に仕方が無い面もあるのですが、微妙な違和感がある。『末っ子長男姉3人』や『新選組!』での彼女の自然な演技が素晴らしかっただけに、ちょっとがっかりさせられました。この人はテレビや映画のサイズの人なのでしょうね。

 一方、舞台人である生瀬、温水、小日向のベテラン3人は実に舞台を良く知っています。そして、思わずその声の通りに聞き入ってしまうのです。
 コメディの印象が強い生瀬さんは笑いを取る役柄ではなく、今回はまじめに突っ 走っていく男。
 温水さんは誰もが気にしていた一つだけ小さい椅子に座らされ、期待されるだけの笑いを取り、芝居のあちこちで大奮闘を見せてくれました。一番エネルギーの消費が激しかったかもしれません。
 そして、小日向さんは頭脳明晰だがつれっとした嫌味も持ち合わせている歯医者を好演。クドカン作品を例にとって今日の小日向さんはどんな感じか説明させて頂きますと、コメディアン的要素が前面に出ている木更津のブッサンの父親モードではなく、完全にタイガー&ドラゴンの嫌味な小しんモード。今の彼からは、和田あきこのもの真似で赤いドレスを着て「この鐘を鳴らすのはあなた」を絶唱する@木更津キャッツアイの小日向さんは、全く想像出来ません!(笑)一部の隙もなく、スーツにネクタイ、知的に見えるメガネで武装(?)しています。
 山寺宏一は声優だけに声の響きは良く、堀部亮一は、まぁ濃い顔がとーっても印象的というか、暑苦しいというか(笑)迫力あるというか・・・なのに、新選組!で何役でしたっけ?ってそういう印象は薄いし!(笑)私だけ忘れている・・・んでしょうか。ところで何役でしたっけ?(笑)

石田ゆり子は、案外華奢で、最近舞台に良く出ている印象があるのですが、主役をはれるほどのインパクトは無く、12人の中の一人を丁度良いぐらいに演じています。
 陪審員達の話し合いの進行役を務めた浅野和之は舞台人だなと思わせる安定した演技で、喫茶店経営者の伊藤正人もいい具合に力が抜けています。
意外な展開というか、思わぬアクセントだったのは堀内敬子。この人、映画『有頂天ホテル』にも出演してましたが、天然な感じが三谷さんのお気に入りなんでしょうね。
 そして、江口洋介です。前半、台詞がほとんどないので、あれ?あれれ?何で?というぐらいなのですが、後半にかけて独壇場!名台詞「聞き間違いと思い込み、これはおばちゃんの2大要素じゃないですか!」は言わずとしれた名言でした。が、デビュー感は消し去りがたく、自他供に舞台がしっくりくると思えるのは、もう少し先になりそうですね。

 さて、ここでいよいよ本当の主役です。三谷幸喜はどうだったのか?!
私は自慢ではありませんが(笑)「王様のレストラン」も「HR」も見ていません。「古畑」も再放送でところどころ見たり、SPを見たりでさほどまじめな視聴者ではなく、「新選組!」も始めの3回ぐらいで一度脱落して、芹沢鴨の暗殺から戻って来て真剣に見たという、行ったり来たりな視聴者です。朝日新聞の「ありふれた生活」は1冊だけ持っていて、後は図書館で借りたり夕刊を会社で見たりという程度。
 彼の人気の凄さは知っていますし、新選組!では泣かされて、思わずDVDBOXを買ってしまったくちですが、しかし!三谷幸喜、面白いんですが、後に残らないんです。(新選組!以外)
 極めてリピート率が低い。(新選組!以外)というより、一度見たらリピートしない。(新選組!以外)何故かというと、シュチュエーションコメディーが主流だからというのもありますが、根本的な笑いの性格が、私の好きな方向とは違うんですよね。東京の笑いというのでしょうか。人のいじり方がちょっと意地悪で、そこで笑いをとっていく事が多いでしょ?こう言うと違うと言われそうですが、どこかに欽ちゃんテイストを感じるんです。具体的に言うと、ちょっとぽやっとしてたり、ちょっと他の人とは違う人に繰り返しツッコミをいれて笑わせていくという笑いです。

 全く方向は違いますが、コメディーという点では共通しているクドカンのドラマ は好きなシーンがしっかりあって、何度もリピートして台詞も一緒に言えてしまっ たりするんですが、三谷作品は一度見たら私の中では完結してしまうのです。その中の登場人物に何度も会いたいと思う事がない。(新選組!以外。あ、もういいですか?笑)
 何故かと言うと、登場人物達は物語を語る上で必要なアイテム、駒である要素が強く、それ故私の思い入れが発生しないのです。キャラクター達が自然に動き出してしまって出来た物語というより、作者の決めた枠、方向がしっかりあって、その為に生み出したキャラクターをどう動かしたらそこに到達できるか、緻密に組み上げて行く。その物語をコントロールしている「三谷幸喜」の存在が無意識のうちに感じられてしまうのです。
 それ故、物語を通しで見た段階で完結してしまう。エモーショナルな関係は築かれず、消費が起こってしまうのです。

 作者からのキャラクターに対する溢れる愛情、思い入れが感じられる事は無く、こっちも愛情が芽生えることが無い。一方、新選組!は、実在の人物達に対する彼の愛情が随所に感じられ、思い入れもひときは強い作品だった上に、シュチュエーションコメディーになり得ない(寺田屋大騒動以外)、人間を深く書かねば成り立たない物語だった為、いつもの彼のテイストとは違う作品が出来あがりました。こういう作品も書けるんだという脚本家としての幅を見せられた作品でした。

 が、今回の『優しい12人の日本人』は初期の作品だけに、物語をコントロールする三谷色が感じられ、どの人の意見を応援するでもなく、さらさらと流れて行きました。
 という訳で、重いテーマを扱っていながら、私の中に残ったのは「聞き間違いと思い込み、これはおばちゃんの2大要素」だけ(笑)でも、これは名言です。ふふふ。
 という訳で、リピーターにはならないけれども、一度は見て面白かったね〜と言いたい一観客として、これからも多分劇場には通うのだろうなぁと思いながら家路につきました。


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