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拾遺集、弐拾 Aus meinem Papierkorb, Nr. 20



属格の死 dem Genitiv sein Tod

本棚を眺めていると時折、こんな本を買っていたのかと驚くことがある。このペーパーバックもそうした一冊である。
Bastian Sick: Der Dativ ist dem Genitiv sein Tod. Ein Wegweiser durch den Irrgarten der deutschen Sprache (Köln 2004)
棚から現れた本は2007年刊行の33刷 (33. Auflage) だから10年近く前に購入したものだろう。これは電子版「シュピーゲル」SPIEGEL ONLINE に連載されたコラム "Zwiebelfisch" を一冊にまとめたもの、ドイツ語をめぐる様々な問題を扱っていて、第一回の記事 "Der Dativ ist dem Genitiv sein Tod" が書籍化されたときのタイトルになっている。どう訳せばいいだろうか。逐語訳なら『与格は属格にその死だ』となろうが、意味不明の日本語かもしれない。

タイトルの意味を理解するにはいくらかの予備知識が必要。文法用語の《格》とは、英語の授業で主格、所有格、目的格として教わったあれですが、I-my-me, you-your-you, he-his-him, she-her-her などと変化する人称代名詞で習い始め、名詞はアポストロフィ・エス ('s) を付けて所有格にする、以上で英語の格についての学習はお終い、というのが一般ではないでしょうか。

ドイツ語の場合(「ドイツ語文法概観:Kapitel 3 名詞と冠詞」参照)はなかなか一筋縄ではゆかない。名詞類は4つの格に変化する。これをドイツ語では1格、2格、3格、4格と呼ぶが、他のヨーロッパ語と並行して扱うときにはラテン文法に倣って、主格、属格、与格、対格などの名称を用いる。属格とは英語のいわゆる所有格で、与格、対格は英語の目的格を二つに分けたものと考えて差し当たりはよいでしょう。

バスティアン・ズィックがコラムで取り上げているのは《前置詞+名詞》のケースである。英語では、例えば「机の上に」は on the desk、「家の中に」は in the house、「列車で」は by train として、名詞 desk, house, train の格を意識することはない。だが改めて考えるとこれらの名詞は目的格だと気づく。名詞ではなく代名詞ならば on me, in him, by her であって、on I や in he や by she とはならないからだ。ドイツ語の前置詞と名詞の組み合わせには何通りものケースがある。前置詞それぞれの目的語となる名詞は属格か与格か対格が定まっていて(前置詞の格支配と呼ばれる)、同じ前置詞でも与格と対格を使い分けることまでする。英語に比べて実にややこしいのだ。

「与格は属格にその死だ」は最近のドイツ語で従来は属格で表現されていたのが与格に取って代わられることが多くなったこと、これまで属格と共に使用されていた前置詞がしばしば与格と結ぶようになった現象を指している。そもそも属格には複雑怪奇な問題がいろいろある(「認知言語学」また「行為者の属格」参照)し、属格支配の前置詞は時代とともに少数派になっているのだ。最近は残された少数すらも trotz(~にもかかわらず)や wegen(~のために)などが与格に侵略され、あろうことか »Wegen dir« という曲名のCDが発売されるに至って、いよいよ存続が危ぶまれる事態になったという危惧(?)である。

最近の若者の会話では前置詞を伴わないケースでも、例えば「父の車」を "das Auto des Vaters" ではなく "dem Vater sein Auto" みたいな言い回しが飛び交っているらしい。「与格は属格の死」を言い表すのは "Der Dativ ist der Tod des Genitivs" あるいは "Der Dativ ist des Genitivs Tod" とするのが従来の常識、つまり Genitiv を属格にして Tod に添えるのがノーマルなドイツ語だろう。それをズィックは "dem Genitiv sein Tod" と、存亡の危機にある »Genitiv 属格« という語自体を今風(?)に与格で使って微苦笑を誘っているのだ。

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ところで SPIEGEL ONLINE の連載タイトル Zwiebelfisch とは何か。「タマネギ魚」とは聞いたことのない魚だ。調べてみると、それは普通は Ukelei と呼ばれる学名 Alburnus alburnus という鯉の仲間。その銀色の鱗はかつて模造真珠の材料になったらしいが日本では馴染みのない魚ではないか。英語では onionfish(*) なのかと思えばハズレ、common bleak と呼ぶらしい。bleak という語はディケンズの »Bleak House«(『荒涼館』)で記憶されている方も多いだろう。bleak は語源を探るとドイツ語の bleich(青白い、蒼白な)に繋がっているようだ。

この魚が「タマネギ魚」と呼ばれる理由は、これがさほど美味でもなくタマネギなど野菜とごった煮にして食された(**)からだとされている。このごった煮から、活版印刷で字体やポイントの異なる活字が混じって植字されることを言うようになった、つまりは業界用語だったのですね。ドイツ語ウィキペディアに『マイヤー百科事典』の例が掲載されている。またこれを店名にしているレストランや社名にする出版社(***)もあり、右がその出版社のサイト・トップページのイラストです。ここから出る書物には誤植が多いというわけではないでしょうね。

この人気コラム »Zwiebelfisch« の書籍版 »Der Dativ ist dem Genitiv sein Tod« シリーズは現在第6集まで出版されているようだ。ちなみにアマゾン日本の「洋書」カテゴリーから、一冊千百円前後で購入できる。本書は副題に『ドイツ語迷宮の道しるべ』とあり、また「ドゥーデンが至らぬところはズィックに聞け」»Wo der Duden nicht weiter weiß, weiß Sick Rat« という評(****)もある。現役のドイツ語教師には必携の書かもしれない。
* "onionfish" で検索するとタマネギと魚を材料とした同名の料理はあり、またタマネギに胸びれ・尾びれがついた可愛いゲームキャラクターもある。
** レシピ集が以下のサイトなどに紹介されている。
http://www.chefkoch.de/rs/s0/zwiebelfisch/Rezepte.html
*** 出版社のサイト http://www.zwiebelfischverlag.de/
**** 本の裏表紙に引用されている Saarbrücker Zeitung 誌掲載の書評。


覚えていない Ich erinnere das nicht

シュピーゲル・オンラインの連載コラムが書物化された『与格は属格の死だ――ドイツ語迷宮の道しるべ』の最初の巻は47のトピックを扱っている。書名となったトピック以外の例を一、二挙げておこう。

このトピックも最近の《ドイツ語の乱れ》に関するもの。場面は政界の大立て者が登場するテレビの討論番組である。テーブルには水のグラスが並び、背景にはメンバー揃ってもじゃもじゃ髪のジャズバンドが映っている。めかし込んだキャスターが繰り返し手元のメモ帳に目をやって、気の利いた質問を探しながら、こう問いかける。
「えーとですね、あれはどうだったのかご説明ください。まだ覚えていらっしゃいますか?」 政治家は右足を左足の上に組みなおし髪に手をやり、そして、任せてくれとばかりの笑みを浮かべながら、「そうだね、まだかなり正確に覚えていると思いますよ、あれが始まったのは・・・」
テレビを観ていて思う:どこかおかしいぞ。この人たちは一体何語で話しているのだ? »Ich erinnere das« ―― こんな言い方をしますか? 大抵の人は »erinnern« は再帰動詞だと学校で習ったことをぼんやりと覚えていませんか、再帰代名詞 sich と前置詞 an を用いて何かをあるいは誰かを覚えていると言い表すことを。

»Erzählen Sie doch mal, wie war das; können Sie das noch erinnern?« Der Politiker schlägt das rechte Bein über das linke, streicht sich übers Haar und erwidert mit einem wissenden Lächeln: »Nun, ich denke, ich erinnere das noch ziemlich genau, es fing damit an, dass ...«
Und der Fernsehzuschauer denkt: Irgendetwas stimmt da doch nicht. In welcher Sprache reden die denn da? »Ich erinnere das«-- sagt man das so? Manch einer erinnert sich vielleicht noch dunkel daran, in der Schule mal gelernt zu haben, das »erinnern« ein reflexives Verb ist. Man erinnert sich an etwas oder an jemanden. (S.154)
ドイツ語には再帰動詞という用法があることはわが国の学習者にも初級の知識に属する(「ドイツ語文法概観:Kapitel 10 再帰表現、非人称表現」参照)だろう。北ドイツでは再帰代名詞無しで »erinnern« を使うこともある(*)と聞くが、このトークショウの面々がそんな方言を使うとも思えないし、とコラムの筆者が訝っていると数日後その理由が判明した。テレビ人間たちのジャルゴンの出所は北ドイツ方言ではなく英語であった!

事の次第は以下のごとし:アメリカの国防長官ラムズフェルド Donald Rumsfeld がある問題について問われ »I can't remember that« とそっけなく答えた。これがドイツの新聞で »Ich kann das nicht erinnern« と翻訳され、見出しではさらに短く »Rumsfeld: Ich erinnere das nicht« となって、これがそのままインターネット上に掲載されて残った。こんな経路で妙なドイツ語が生まれることがあるのですね。

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もう一つはドイツで用いられている英語ながら、アメリカとドイツではとんでもなく違う物を指す名詞の話である。ある日オルデンブルクの大学生がメンザ(学生食堂)でぼんやり食事をしていると、隣のテーブルでアメリカからの交換学生の一団がスーパーマーケットのチラシを見て騒いでいる。
何かすごい特売品の話題だったが、アメリカ人学生たちを驚かせたのは明らかに値段の安さではなく売られている品物自体だった。何を騒いでいるのだろうと耳を澄ませて、どうやら »bag« についてのことだと分かった。それでもまだ話がよく理解できないままに、まったくおいしい学生食堂の定食をのんびりと食べ終えた。
この学生が別の日に買い物に出かけたとき、スーパーで »body bags« が特売品のテーブルに積んであるのに出くわした。何か思い当たることがあったなと感じて品物の前に立ち止まり記憶を探った;・・・

Es ging um irgendein supertolles Angebot, doch ganz offensichtlich war es nicht der günsige Preis, der die Amerikaner in Erstaunen versetzte, sondern der angepriesene Artikel selbst. Der Student stellte die Lauscher auf und verstand irgendwas mit »bag«. Er konnte sich zunächst noch keinen Reim draufmachen und aß daher sein gar köstliches Mensa-Menü in Ruhe zu Ende.
Als der Student anderntags zum Einkaufen ging, prallte er im Supermarkt gegen eine Werbetafel, auf der »body bags« angeboten wurden. Nachdenklich blieb der Student vor dem Angebot stehen und kramte in seiner Erinnerung: ... (S.80)
-- Bastian Sick: Der Dativ ist dem Genitiv sein Tod (2004)
目の前の特価品のテーブルには、肩から斜めに掛けるもの、腰に巻くもの、背負うタイプなどなど流行のバッグが山と積まれていた。そのときハタと気づいたのである。あのアメリカ人留学生たちが騒いでいたのはこれだ、宣伝チラシに載っている body bags を見てワイワイ言っていたのだと。そしてもう一つの記憶が浮かび上がった、それはベトナム戦争の映画で見たあるシーン・・・彼はいやな予感に襲われて帰宅するやすぐさま英語の辞書を手に取った。果たして »body bag« は戦場で戦死者を収容する袋だったのだ!そんなものがスーパーマーケットで、しかも特価品として売っていたらアメリカ人学生でなくとも驚きますね。死者を収容する袋のことはドイツ語では Leichensack と、文字通り《死体・袋》と言うらしいが、日本語ではどのように呼ばれるのか、これまで耳にした記憶はない。英和辞書によると »body bag« は《遺体袋》(**)と訳されている。

身に着けてお出かけするバッグをドイツでは、本来はぜんぜん別のものを指す英語を使って »body bag« と呼ぶ。では日本ではどうなのだろう。私は最近流行のファッションにはとんと疎いので愚息両人に尋ねてみると、ワンショルダーとか、そしてやはり《ボディバッグ》と呼ぶようだ。ネットで調べるとポールスミスやオロビアンコなるブランドで TOTE BAG, SHOULDER BAG, BACKPACK BAG, PORCH BAGなどと並べて »BODY BAG« と呼ばれるものがある。しかしイギリスやイタリアを本拠とするショップとはいえ日本限定の商品名の可能性もあろう。そこで英国のヤフーで »body bag« を検索すると »Crossbody Bags« とかあるいは女性用の »Across body bags« というカテゴリーの商品はある。しかし単なる »body bag« はないようだ。

なぜドイツでこの種のバッグを »body bag« とに呼ぶようなったのだろうか。コラムの筆者によると、ルフトハンザの国際線ではアイマスク、スリッパ、耳栓のセットも »body bags« として販売されているとのこと。バスティアン・ズィック氏はそのために英語話者の搭乗客にパニックが生じたという話は聞かないとさらりと流して、なぜこんな名称がドイツで流通するようになったのかはそれ以上追及していない。

想像するに »Crossbody bags« がドイツや日本に来ると cross が省略されて流通するようになり、この英語がボディスーツ bodysuit との類推から「体にぴったりと張り付くような薄いバッグ」の意味に受け取られるようになったのではないか。それともワンショルダーのバッグ部分の形状が戦死者を収容する袋に似ていると見なして元の意味を承知の上でそう呼んだのか。ファッションに詳しい方のご教示を待ちたい。
* 独和大辞典(小学館)には「〘北部〙〘et.4〙」として、
Ich kann es nicht mehr erinnern. 私はそれをもう覚えていない。
の例が示されている。
** 研究社の英和中辞典では「《名》[C] (ゴム製でジッパー付きの)遺体袋」とある。


忌歴書 knurriculum vitae

ベルゲングリューン Werner Bergengruen (1892-1964) は数多くの怪談・奇談を書き、またホフマン E.T.A.Hoffmann の伝記を残してくれたことで私などには馴染みの作家なのですが、自らの経歴について書いた一風変わった記録が以下の書に掲載されている。
Über Werner Bergengruen. Mit vollständiger Bibliographie, fünf Porträtskizzen und Lebenslauf. (Zürich 1968)
この書には表題のとおり伝記と肖像スケッチ5点と全著作リストと履歴が含まれるが、最後の履歴 (Lebenslauf) が特異である。タイトルが knurriculum vitae とある。もちろん curriculum vitae のもじり。このラテン語は "course of life" の意で「履歴書」のこと、大学で外国人教員の人事を扱う際、しょっちゅうお目にかかる書類のタイトルである。

curr を knurr に変えるとどうなるのか。knurren は「ぐだぐだ文句を言う」という動詞、knurrig は「ぶつぶつ言う、不平たらたらの、気むずかしい、不機嫌な」という形容詞になるから、「不平たらたらの履歴書」「いやいや認めた履歴書」「クソ面白くない履歴書」ということか。読んでみると確かにぶつくさと呟いている。では knurriculum vitae はどう訳せばいいだろう、罹歴書、詈歴書、離歴書、倚歴書、忌歴書、擬歴書、嫌歴書、癪歴書、糞歴書、屁歴書・・・。この項のタイトルには忌歴書を使っておきます。

この「忌歴書」のタイトル・ページ下部に、「1952年に不承不承書き下ろされたが、(1962年に)改訂、補足、最新のものにされた」と注記されている。これは筆者自らの書き込みであろう。ベルゲングリューンはその2年後に亡くなっている。「不承不承に」とは誰かに勧められて(強いられて)書いた文章だろうが、その経緯はここでは説明されていない。こんな風に書き始められる。
ドイツではナチス政権時代の自伝はすべて「私は古くからの農民の出である」という文で始まった。私の場合そうはいかない。私は一生懸命に探したが数世紀にわたって先祖にただ一人の農民も見つけることができなかった。
In Deutschland fingen während der Naziherrschaft alle Selbstbiographien mit dem Satz an: «Ich stamme aus altem Bauerngeschlecht.» Damit ist es bei mir nichts. Trotz eifrigen Suchens habe ich in keiner meiner Vorfahrenreihen in Jahrhunderten auch nur einen einzigen Bauern entdecken können.
ナチス時代の民族主義には、"Blut und Boden" (血と土) という自然回帰に傾倒する勢力(「義務としての健康」参照)が幅を利かせていたが、あの時代は自伝にまでそんな影響を及ぼしたのか。ともかく皮肉な出だしである。そして、「自分にとって重要な年号をいくつか以下にまとめておく」として、誕生年から始める。
1892年
に生まれた。生地はリガ(*)。そこは当時まだロシア帝国に属していたものの、小さな摩擦を別とすれば、概ねうまくいっていた。ジャン・パウルがヴンジーデル(**)について言ったように、私もリガに「ここで生まれてよかった」と言っている。私の出生は昔のスタイルで進行した。というのはつまり、当時ロシアでなお行われていたユリウス暦で記録された。

1892
wurde ich geboren, und zwar in Riga, das damals noch zum russischen Kaiserreich gehörte und sich, kleine Friktionen abgerechnet, im allgemeinen wohl dabei befand. Wie Jean Paul zu Wunsiedel, sage ich zu Riga: «Ich bin gern in dir geboren.» Meine Geburt ereignete sich nach dem alten Stil, das heißt: nach dem in Rußland damals noch geltenden Julianischen Kalender.
「私の出生はユリウス暦で記録」されたというのは、ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、太陽年と日付の誤差を修正した新暦を制定(「宗教改革の世紀 ベルリン物語 -6-」参照)し、カトリック圏ではこのグレゴリオ暦への切り替えが早々に進んだがプロテスタント諸国、ロシア正教の国々は遅く、ロシアはようやく1918年に改暦された、という事情がある。

「大北方戦争」の結果リガは1721年にスウェーデン領からロシア領になり、ロシアはバルト海一帯の覇権を握っていたが、北・東ヨーロッパの情勢は安定せず、19世紀末にラトビアの民族主義が勃興して、バルト・ドイツ人の地位も不安定になり、人々は時代の動きに翻弄されることになる。ベルゲングリューンも第一次大戦前には生地バルトを離れて、各地を転々とする「故郷喪失者」になる。しかし彼は「ここで生まれてよかった」と言う。

誕生日の日付については、初めてのドイツ旅行に際して一家の訓導役たる大叔母の命で新暦に改められたが、その際彼女は計算を1日間違えた。ベルゲングリューンは後に気づいて訂正したが、それ以降お役所の書類に二つの日付が並ぶこととなった。後に子供の誕生を届け出た時、役所の窓口で「この子いつ生まれたのですか? ご自身の生まれた日もご存じないでしょう!」と皮肉られたと、ぼやいている。

続いて、結婚した年 (1919)、詩が初めて地方紙に印刷された年 (1908)、小説が『フランクフルト新聞』に掲載された年 (1922)、帝国作家会議から追放された年 (1937)、ローマに住んだ年 (1948/49)、バーデンバーデンでマイホームを建てた年 (1958)、8人目の孫が生まれた年 (1962) と記述を続けたあと、1902-1962 とまとめて様々なことを書き込んでいる。パシャーンス(ソリティア)が好きだが占いではなく単なる楽しみ骨休めだ、から始めて、電話無しの生活を続けたが16年経ってついに電話を引いた、ただし電話帳に番号を記載しない、そして郵便なども無ければよかった、と続ける。
10年前と同様に私は郵便が禍々しい発明だと思っていることを隠しておくことができない。そうなのだが、溜息をつきつつ、何とか必要最小限の交信は実行しようと努めている。なにしろ生来の臆病者、いまだあの尊敬するルードルフ・アレキサンダー・シュレーダー(***)の崇高な規範を自分のものにする勇気を見出せないからだ。《私の手紙を待つ者、それは私の不倶戴天の敵だ。》
Wie vor zehn Jahren, so kann ich auch heute nicht verheimlichen, daß ich die Erfindung der Post für verhängnisvoll halte. Trotzdem gebe ich mir Mühe, meine Korrespondenz, obzwar seufzend, wenigstens notdürftig zu bewältigen. Denn, ein Feigling von Natur, habe ich immer noch nicht den Mut gefunden, eine göttliche Maxime der verehrten Rudolf Alexander Schröder zu den meinigen zu machen. Sie lautet: «Wer von mir einen Brief erwartet, ist mein Todfeind.»
第一次大戦ではドイツ側で戦った。そのあとバルト地区軍の突撃隊で赤軍と対峙した。階級は騎兵隊旗手 Kornett だ。騎兵大尉 Rittmeister の次の階級はそう呼ばれていたのだ。今じゃもうリルケの作品『旗手クリストフ・リルケの愛と死』でしか目にしない名称だろう。『旗手ヴェルナー・ベルゲングリューンの愛と死』について書けという申し出はすべて断っている。自伝を書く気にはどうしてもならない。自分の体験した大切なことはすべて出版した本の中に書いたからだ。純然たる個人的なことは個人の手箱の中に留めるべきだろうと思う。そして、
恐らく私の
19・・年?
の死後にはときどき亡霊としてふらっと彷徨う自由が与えられるだろう。その時は遭遇したお方どなたにでも ―― その方が私に気づく能力があればの話だが ―― そこそこの情報を提供する用意があります。

Vielleicht wird mir nach meinem Tode
19..?
die Freiheit gewährt, hin und wieder ein wenig spuken zu gehen. In diesem Fall bin ich erbötig, etwaigen Begegnern -- vorausgesetzt, daß sie fähig sind, mich wahrzunehmen -- dosierte Auskünfte zu erteilen.
と記して終わっている。

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この「忌歴書」が含まれる Carl J. Burckhardt. Über Werner Bergengruen. Mit vollständiger Bibliographie, fünf Porträtskizzen und Lebenslauf. という書名からは、また装丁からも書物全体の著者が Carl J. Burckhardt のように見えるが、エッセイ風の伝記部分だけがブルクハルトの執筆、「忌歴書」はベルゲングリューンの書いたもの、画家たちの描いた肖像スケッチ、それに詳細な(編集者がまとめたらしい)著作目録がついている。「忌歴書」の末尾に「編集者追記:ヴェルナー・ベルゲングリューンは1964年9月4日にバーデンバーデンで永眠」とあるが、では誰が編集者なのかと表紙を見ても扉を見てもその名前はない。扉裏の Copyright に Peter Schifferli という記載があるのみ。

調べてみると、版元の Arche という出版社はその Peter Schifferli (1921-1980) が大学生の時に設立した会社のようだ。ベルゲングリューンは戦後しばらくスイスに滞在したので、その間に繋がりができたのだろうか(****)。ここからはまた作家70歳の誕生日を記念して、
Dank an Werner Bergengruen. Die Arche, Zürich 1962
というゆかりの人々の原稿を集めた本を出しているが、この本では Schifferli が編者として名乗っている。実は Arche はベルゲングリューンのほとんどの本の版権を持っているのだ。その関係で "Über Werner Bergengruen" を企画し出版したものだろう。ブルクハルトの文章が以前のものかこの時に書き下ろされたものかは不明である。

ブルクハルトといえばあの浩瀚な『イタリア・ルネサンスの文化』で知られる美術史家 Carl Jacob Christoph Burckhardt (1818-1897) を想起するだろうが、こちらのブルクハルト Carl Jacob Burckhardt (1891-1974) はその親戚筋でもあるスイスの外交官で、歴史家(主著はリシュルー Kardinal Richelieu の評伝)またエッセイストとしても知られる。ウィーンの大使館に勤めていたときシュニッツラーやリルケなどの文学者と知り合い、とくにホーフマンスタールとは親密な仲となったようだ。そう言えば、彼がパリでの思いがけないリルケとの遭遇を語った文章がある。
Carl J. Burckhardt: Ein Vormittag beim Buchhändler. München [o.J.]
パリの理髪店で、ホテルに財布を忘れてきて困っているリルケに出会って、パレ・ロワイヤル、ルーブルそしてセーヌ川沿いを散歩、ある古書店で店主や図書館司書の客と詩について文学について語りあうというもの。ロンサール、マレルブ、ラシーヌ、そして「もっともフランスの詩人」der französischste と突飛な形容詞最上級で語られるラ・フォンテーヌ。リルケがこれに匹敵する詩人はいないと言うと、司書はいやラ・フォンテーヌの弟とも呼ぶべき詩人がドイツにいる、それは・・・と続く談話のカルテット、どこまで本当の出来事でどこからフィクションかわからないが、ユーモラスで洒落た小品になっている。
* バルト海沿岸、北方の交易ルートの要所なので、様々な勢力の支配下に置かれた。現在のラトビア共和国の首都
** ジャン・パウル (Jean Paul) の生地、フランケン地方の小さな町。
*** Rudolf Alexander Schröder (1878 -1962) 詩人、作家、翻訳者、賛美歌の作詞家、そして建築家で画家という多才な人物。
**** ベルゲングリューン協会のサイト Fotos aus Werner Bergengruens Leben に二人が並んだ写真 (1959年?) が掲載されている。


ある朝に古書店で Ein Vormittag beim Buchhändler

前項で、ヴェルナー・ベルゲングリューンに関するエッセイを書いたブルクハルト Carl Jacob Burckhardt (1891-1974) はウィーンの大使館に勤めていたときホーフマンスタールやシュニッツラーやリルケと交流があったと述べたついでに、彼にパリでの思いがけないリルケ Rainer Maria Rilke (1875-1926) との遭遇を語ったユーモラスで洒落た小品があることに触れたが、大昔に読んだこの本を今回読み直してみてもう少し詳しく紹介したくなった。
Carl J. Burckhardt: Ein Vormittag beim Buchhändler. München (o.J.)
タイトルを直訳すると『書店でのある午前』で、このリズミックなドイツ語表題に相応しい日本語訳となると難しいが、まあ『ある朝に古書店で』としておこう。このように書き起こされる。
それは1924年のことだった。当時私はパリ国立図書館で仕事をしていた。ある冬の日の朝、マドレーヌ(*)近くの理髪店に出かけて洗髪をした。
Es war im Jahre 1924; ich arbeitete damals in der Bibliothèque Nationale in Paris. An einem Wintermorgen betrat ich ein Friseurgeschäft in der Nähe der Madeleine und ließ mir den Kopf waschen.
洗面台でシャンプーを流しているとき、突如言い争う声が聞こえた。声が次第に激しくなってくる。「あなた、そんなことは誰でも言えるですよ」と女の声。「それもウビガン(**)のヘアローションを注文したんだから」「ぜんぜん知らない人なんですからね、あなた。ツケでなんてそんなしきたりはないの」とまくし立てるのに対して、その相手が弱弱しく懇願するのがなんだか別世界から来た、俗世を超越したような声、そこにはかすかにスラブ的な色調が混じっている。

石鹸水が入る危険を冒して目を開き鏡を見ると、小柄で痩せた額の高い口髭を伸ばした男性が「申し訳ない、財布を忘れてきたのです」と繰り返している。「ホテルから取ってきます。大丈夫です、電話で連絡がつきます――私は――詩人のライナー・マリア・リルケといいます。」それでもなお言い募る店員に「私」は立ち上がって近づき、「私がお支払いします」と声をかけた。

リルケはもう一年以上も会っていないので、はじめ誰かわからず亡霊でも見るようにこちらを見つめたが、やがて私とわかって、そこにあったルイ十六世様式の椅子に座り込むや笑い始めた。例の子供の笑い声、彼独特の一度聴いたら忘れることのできない笑い方で、ふつう人が笑うときは目を閉じたり細めたりするのが、彼のは目を大きく見開き相手を見つめ問いかけるような笑いなのだ。「終わるまで待っています。もし時間が有るなら散歩いたしましょう。」

理髪店を後にした二人はパレ・ロワイヤルの中庭を通ってゆく。リルケはあるベンチを指さし、「ここに彼女は座っていたのです。6月3日、いまもはっきりと眼前に浮かびます。」彼は立ち止った。
「誰がです?」と「私」が尋ねる。
「ああ、あの忘れがたい女性ですよ、ボードレールとドラクロワが語り合った。そう、二人は一緒に、いま我々がいるこの場所にいたのです、画家と詩人が」と言って、その様子を物語る。
「突然にです、ボードレールは立ち止まり画家の腕をぐいと掴み、ベンチを指さしてこう言いました。『あの女性をご覧なさい! こんなことあるのでしょうか。これほど美しくていながらこんなに深い悲哀を湛えているなんてことが?』 するとドラクロワはびっくりして答えました。『限りなく美しい、それはその通りです。けれど深い悲しみ? そうは思えません――女性が本当に深く悲しむなんてこと私は信じません』と言ったのですよ。これを聞くとドラクロワの全生涯がわかると私には思えるのです」
Plötzlich blieb Baudelaire stehen und hielt den Maler am Arm fest; er sagte, indem er auf die Bank zeigte: 'Betrachten Sie diese Frau! Ist das möglich? So viel Schönheit und solch tiefe Trauer des Ausdrucks?' Und Delacroix antwortete betroffen: 'Unendlich schön, ja, aber tief traurig? Ich glaube es ihr nicht -- ich glaube nicht, daß eine Frau wirklich tief traurig zu sein vermag.' Wenn man dies hört, kennt man Delacroix' ganzes Leben, scheint mir."
6月3日と日付まであるからには実際の出来事のように見えるが、ボードレールの評論あるいはドラクロワの日記などにこれを裏付ける記述があるのかどうか私には調べがつかないし、女性は深く悲しまないという考えがドラクロワの生涯を解き明かすという所見の意味も私には不明です。このロマン派画家と耽美派詩人の交流はリルケの生まれる前、もう何十年も昔のことなのに、いかにも自分の目で見たような話しぶりだ。

リルケはパリの街を歩いているといつも死者がみな今なお生き続けているように思えると言うのである。フィリップ平等公の時代、彼の宮殿であったパレ・ロワイヤルに王妃とよく似た遊女がいた、王妃そっくりの衣装・化粧をするも誰もそれを止めなかった、革命は1789年以前にもう始まっていたのだ、と。

「理性的思考がそんなことを引き起こしたわけではないでしょう」と「私」が言うと、詩人は「そうです、理性的思考は推移ということを知りません、それぞれがそれぞれのカテゴリーを持っています。本物の絵が模写によって破壊されることを理性的思考は関知しないのです。列車の客室でミケランジェロの巫女(***)の複製画を見せられたり、カフェでモーツァルトのレクイエムがレコード盤で再生されたり、そしてその音楽が中途で客の要望でタンゴに変わるのを聞かされるのが、私には気味悪いのです」などと語り合ううちにルーブル宮へさしかかった。
ルーブルの中庭へ来た時、宮殿の南翼を眺めながらリルケは言う。「イギリス、スペインあるいはオーストリアからやって来ると、フランスの建築はいつも何と理性的だったのだろうと衝撃を受けます」と。
私は言った。「しかし理性的なものにも何か素朴なところがあり、これはフランスのあらゆる偉大な芸術作品にあって、ゴシックにもバロックを克服する過程にも、紛れもなく現れています。」
リルケが言うには、「それは面白い考えです。よく考えてみたいですね。この町に住んでいるとき私にいつも幸福感をもたらしてくれるものは、まさにそれですね。ひょっとしたらヨーロッパ最高の価値の一つがそれにはあるのかもしれません。ギリシャ人にもそれがありました。しかしこの価値の何と繊細なことか何と脆弱なことか! わたしは常に様式を求めていました――時には行き過ぎてマニエリスムになったかもしれません――ある時代、あらゆる制約がもうすでに打ち砕かれていた時に。」

Wie wir dann im Hof des Louvre angekommen waren, meinte er, den südlichen Flügel des Palastes betrachtend: "Wenn man aus Italien kommt, aus Spanien oder aus Österreich, spürt man es wie einen Schlag, wie rational die französische Architektur immer gewesen ist."
"Ja", sagte ich, "aber es gibt auch eine Naivität des Rationalen, diese hat sich in allen großen Kunstwerke Frankreichs, in der Gotik wie in der Überwindung des Barocks ausgesprochen."
Rilke meinte: "Das ist mir ein lieber Gedanke, ich möchte ihn ergründen; ich glaube, es ist genau das, was auf mich immer wie ein Glück wirkt, wenn ich in dieser Stadt lebe, vielleicht liegt darin einer der höchsten europäischen Werte überhaupt. Die Griechen hatten das auch. Aber wie zart sind diese Werte und wie gefährdet! Ich habe immer einen Stil gesucht -- vielleicht bis zur Manieriertheit bis weilen -- in einer Zeit, in der schon alle Schranken zertrümmert waren."
アンリ四世像のある橋(ポン・ヌフ)を渡って、古書店の屋台が並ぶセーヌ左岸を進み、そしてオデオン劇場の小広場に来ると、リルケは花屋の前でしばし立ち止まっていた。そして、
「ご覧ください」と彼は言った。「自然の造形はどれもそれ自体で完成していることを教えています。閉じていて外に流れ出ることはありません。このことお分かりいただけるでしょうか。今日の芸術はこの流れ出るものを求めています――あまりにも不当なことです。そんなものは現実にはありません、ユリらしさ――バラらしさなどはありません。バラがありユリがあるのです。出来上がったもの、完成したものには柵が巡らされています。すべて本当に生命あるものはどこか排他的なものを持っています。自然は恐ろしく階級的で、ツバメがスズメに交じることはありません。人間だけが境界を壊して、一つずつの造形を混ぜ合わせるのです。」
"Sehen Sie", sagte er, "jedes Gebilde lehrt es: es ist in sich geschlossen, ja es schließt ab, es verströmt nicht. Ja, verstehen Sie, was ich meine, dieses Verströmende, das die Kunst heute sucht -- zu Unrecht sucht, das gibt es nicht in der Wirklichkeit, nicht das Lilienhafte -- das Rosenhafte; es gibt die Rose und es gibt die Lilie, überall die Schranke im Fertigen, Vollendeten. Alles wirklich Lebendige hat etwas Ausschließliches an sich; ungeheuer hierarchisch ist die Natur, und die Schwalbe vermischt sich nicht mit dem Sperling. Nur der Mensch zerstört die Grenzen und verwischt die einmaligen Gebilde."
今日の、すなわち20世紀初めの芸術が不当にも求めている《流れ出るもの》 das Verströmende とは何を意味しているのだろう。「バラではなくバラらしさ」を求めている? 私にはよくわからないけれども、この個所を読むと小林秀雄の《美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない》というよく知られたフレーズを想起させられます。
それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じているから。そして又、僕は無要な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何の疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言っているのだ。
--小林秀雄『当麻』(新潮文庫『モオツァルト・無常ということ』所収、初出:「文学界」昭和17年4月号)
直接には世阿弥のいわゆる「秘すれば花」という能楽論に触れた批評ですが、この小林秀雄一流の修辞については文学、美学、哲学、芸能など、従来各方面から様々な議論が行われてきた。村松定孝の次の評もその一つである。戦争中に「文学界」に連載された『無常ということ』の各篇は戦中の皇国史観に傾いたものと糾弾され、戦争責任者の一人に指名されたりしたが決して戦争を肯定する時局便乗ではない、「いずれも古典の持つ気品と重さを近代人の側から謙虚に受けとめ、近代文学の卑小さへの批判がなされているかに感ぜられる」と評する。多くの議論の中から特にこれを取り上げたのは、文章末尾にある以下の記述に注目したからだ。
なお、「美しい花がある。花の美しさといふ様なものはない」というこの言葉は、『ロダンの言葉』の中の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」との表現の転用である。それにしても、ロダンを転用しながらも、『当麻』が妙技をつくしているのは、小林の古典の理解が完璧であるからに他ならない。
--村松定孝『近代作家名文句辞典』(東京堂出版 平成2年)
ロダンにそんな言葉があったのかと、手元の『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)を探してみたが見つけることができなかった。それではと『抄』のつかない『ロダンの言葉』に当たることにした。高村光太郎訳『ロダンの言葉』は大正5年に亜蘭陀書房から、『続ロダンの言葉』が大正9年に叢文閣から上梓されている。幸いこの正続を合わせた『ロダンの言葉(覆刻)』(沖積社、平成17年)があったので、図書館から借り出してきて探したが、やはり見つけることはできなかった。

自然と美については繰り返し語られている。「芸術家の名に値する芸術家にとっては、自然の中の一切が美しい」「芸術家といふ名に値する芸術家は自然のあらゆる真を表現す可きです。唯外面の真ばかりでなく又やはり、又殊に内面の真をです」「何故といえば美とは、芸術に於ては、強く表現された真のことに過ぎないからです。或る芸術家が自然の中で眼に映ずるどんな物をでも其の真を力強く、深く表現する事に成功したら、其の作品は美です」「自然をして君達の唯一の神たらしめよ」「一切の美の源泉である芸術と自然」「自然の富裕さはわれわれに感謝の念を起こさせる。此の感謝の表現が芸術である。自然に向かって愛と讃嘆とに満ちた人間の自然礼拝が芸術である」等々。しかし件の表現は見つからない。岩波文庫版でも400ページを超えるし、正続の覆刻版では310+362ページあるので、見落としているかも知れないが。あるいは村松定孝の用いた『ロダンの言葉』は別の本だったのかも。村松の文章はもともと『解釈と鑑賞』(昭和36年11月)に書かれたものらしい(****)。いつか改めて出典を探してみよう。

それはともかく、リルケの「ユリらしさ――バラらしさなどはない。バラがありユリがある」の警句もロダン François-Auguste-René Rodin (1840-1917) に繋がりがあるのだろうか。リルケがロダンと出会ったのは1902年、ロダン62歳、リルケ27歳のときだった。若い詩人はこの彫刻家に傾倒し一時期その家に住み込んだほどだから、彼の芸術観にロダンの思想が見え隠れしても不思議ではあるまい。それとも「ユリらしさとユリ、バラらしさとバラ」の類の対照表現は、この時代の芸術界で広く流布していたのだろうか。

リルケは「疲れたから休みましょう、昼食にはまだ早いですね。少し戻りましょう、あそこに本屋、古書店がありますから」と言って、二人は狭く薄暗い店内に足を踏み入れる・・・我々も、二人の議論に付き合い、ずいぶん道草を食って疲れたから少し休みましょう。続きは項を改めて。
* パリ8区、マドレーヌ教会か、近くのメトロ駅「マドレーヌ」のことであろう。
** ウビガン Houbigant Parfum は1775年創立のパリの香水メーカー。マリー・アントワネット、ヨゼフィーヌ妃などフランス宮廷のみならず、ロシア宮廷またヴィクトリア女王の愛顧を受けた。オスカー・ワイルドも愛用者だったようだ。
*** システィーナ礼拝堂天井画には預言者が12人描かれていて、そのうち5人が巫女である。ペルシアの巫女、エリュトレイアの巫女、デルフォイの巫女、クエマの巫女、リビアの巫女
**** 村松定孝「小林秀雄名句集」、昭和36年11月『解釈と鑑賞』所収。YARIMIZU HOME PAGE の 小林秀雄ノート001 参照。


ある朝に古書店で(続) Ein Vormittag ... (Forts.)

二人の思いがけないパリでの遭遇、「それは1924年のことだった」というのだから、リルケは50歳直前、ブルクハルトは30歳を少し越えた頃のことになる。リルケはその時は死の2年前で、すでに健康状態はかなり悪化し数度にわたってサナトリウムで療養する状態だった。マドレーヌからパレ・ロワイヤル、ルーブル、ポン・ヌフ、オデオンまで歩いてくれば、「疲れたから休みましょう」となるだろう。入った古書店、狭くて薄暗い店内の両側に本が天井まで積まれた間に、年輩の小柄な男がルイ・フィリップ様式の肘掛椅子に座っていた。明るい色のレザー背の本からいかにも惜しそうに眼を離し、テーブル上の新聞をちぎって栞代わりに本に挟んだ。「これはね、お客さん、ロンサールの1867年版ですよ、ブランシュマン編纂のね。」
「ロンサールですって!」リルケは喜びの声を上げた、「1867年のロンサールですか? 再発見されて30年が過ぎたときですね」--「その通り」と愛想のよい老店主は言った。「その通り、おっしゃる通りで、およそ30年を越えたころです。しかしプロスペル・ブランシュマンが初めて詩人の素晴らしい全貌を我々の前に見せてくれたのです。この全き詩人の全貌が1867年初めて我々の前に立ち現れたのです。37年間かかって復活しました。いいですか、あなたがた、あなたがたは詩芸術の愛好家でらっしゃる。たくさんお見せするものがありますよ」と彼は声を高めて言い、店舗の一番奥の厚手のカーテンを開け、我々を薄暗い部屋に通し、緑色シェードの卓上ランプを点けて灰色の皮張りソファーに座らせた。
"Ronsard!" rief Rilke erfreut, "Ronsard 1867? Damals war er schon seit mehr als 30 Jahren wiedererstanden." -- "Genau", sagte der freundliche alte Lesende. "Genau, ganz richtig, seit etwa mehr als 30 Jahren. Aber erst Prosper Blanchemain ließ ihn uns in seiner ganzen Pracht erkennen; der integrale Dichter in seiner ganzen Bedeutung stand erst 1867 vor uns. 37 Jahre hat diese Auferstehung gebraucht. Bitte, meine Herren, Sie sind Liebhaber der Dichtkunst; ich kann Ihnen vieles zeigen", rief er, und nun schlug er einen Teppichvorhang am Ende des Verkaufsraumes zurück, führte uns in ein dunkles Zimmer, in welchem er eine Tischlampe mit grünem Schirm anzündete und uns auf ein graues Ledersofa zu sitzen nötigte.
「たくさんお見せするもの」があると言いつつ、古書店主は1867年版ロンサールからなかなか離れない。
「そうです、シャルル10世(*)の時代に彼は復活しました」と声を張り上げた。「まったくおっしゃる通り、200年になんなんとする間、彼は死んでいたのです。殺したのは誰か、ご存知でしょうね?」と訊いて、ほとんど威嚇するかのように、この上なく秘密めいた様子でリルケの方を見つめた。リルケは少し不安げに微笑み、「知っていると思います」--そして幾分怪しみながら、「マレルブです、ロンサールを殺したのは恐らくマレルブでしょう。」
"Ja, unter Karl X. ist er auferstanden", rief er; "Sie haben völlig recht, fast 200 Jahre lang war er tot gewesen; Sie kennen seinen Mörder?" frug er, und er schaute Rilke fast drohend und äußerst geheimnisvoll an. Rilke lächelte etwas beunruhigt: "Ich denke ja" -- und dann mit einem leichten Zweifel: "Malherbe, er war wohl sein Mörder."
このとき表の部屋から「オーギュスタンさん」と呼ぶ声、主人は「邪魔が入った」と店の方を覗いてミルクの配達だと分かり、話を続ける。「そう、マレルブが殺したのです。マレルブは文芸界のリシュルーと呼ばれていますが、私はロベスピエールと呼んでいます。この偉大で冷たい詩人・文法家が、みずみずしく花開く詩人のあばらに剣を突き刺したのです。しかし今ではロンサールは仮死から目覚め、マレルブを倒し墓場に寝かせました」と言う。

リルケはこの比喩が気に入らずに口を挟む。「彼は最初フランスのロマン主義の中にいましたが、あらゆる流派・時代を通り抜けて行った。彼はヨーロッパ詩人だった!」 オーギュスタンと呼ばれる書店主「あなたはフランスの人ではないのですか?」 リルケ「ええ、単なるフランス人ではありません。」 書店主がいぶかしそうな顔をすると、詩人は付け加えた。「ロンサールも単なるフランス人ではありませんでした。彼はハンガリー、祖父がハンガリー人でした。」

リルケは書店主が前に置いた書を手に取りぱらぱらとめくって、「小声で、彼のいつもの流儀で幾分荘重に」朗読した。
 Ciel, air et vents, plains et monts découvers,
Tertres vineux, et forests verdoyantes,
Rivages torts, et sources ondoyantes,
Taillis rasez, et vous bocages vers
Antres moussus à demy-front ouvers,
Prés, boutons, fleurs, et herbes rossoyantes
Cotaus vineux, et plages blondoyantes
Et vous rochers escholliers de mes vers.


"Verdoyantes, ondoyantes, blondoyantes", wiederholte er dann, "wie mit Hoboen gespielt, wer dürfe es noch!"
「カッサンドルへのソネット 4」の前半8行である。リルケは2、3、7行の韻を踏む3語 verdoyantes, ondoyantes, blondoyantes をもう一度繰り返して「まるでオーボエを鳴らすよう、こんなこと他に誰ができるでしょう!」と言う。手元に井上究一郎の訳があるので書き写しておく。翻訳では残念ながらオーボエの響きは聞き取れないが。
空、大氣、風、見はるかす野末、山なみ、
群れ立つ小山、青い森、
うねる岸、せせらぐ泉、
疎林、そしておまへ みどりのしげみよ、

額をややあらはに見せた苔の岩屋、
牧、蕾、花、つゆにぬれた草、
葡萄の丘、金色の麥畑、
ガチーヌ、ロワール、そしておまへ 悲しそうな私の詩よ、

--井上究一郎訳『ロンサール詩集』(岩波文庫、昭和26年)
すると書店主はうっとりとして、「セイレーンの歌をお聞きなさい」と、急いでページを繰って続ける。「オード (5)」中の8行である。
Elles, d'ordre, -- et flanc à flanc
Oisives, -- au front des ondes
D'un peigne d'ivoire blanc
Frisottaient leurs tresses blondes
Et mignottaient de leurs yeux
Les attraits délicieux,
Aguignaient la nef passante
D'une oeillade languissante.

"Hören Sie hier wieder: frisottaient, mignottaient, aguignaient -- wissen Sie was? Das sind Kinderworte, die heute verschwunden sind mit all dem Zauber der Kindheit, mit dem Schnee von gestern, -- les neiges d'antan."
「ここでもまた聞こえてきます:frisottaient, mignottaient, aguignaient ――何かわかりますか? これは子供のはやしことばです。今日これは子供時代の魅惑とともにすべて消え失せました。昨日の雪――去年の雪です。」と言う。

これを受けてリルケは滔々と語りだす。かつての子供の言葉はもうありません。美しい言葉の蕾も凍てつく寒さで花開くのは僅か。しかしその残った僅かが、感覚的なものに満ちたフランス詩を常に心の至純へ導いています。興奮しやすい民族に倫理的な筋を通しています。あらゆる美の手段、あらゆるレトリックを貫いて放棄されずにあります。ボードレールにもある。だがラシーヌを越える見事なものは他にありません。それゆえラシーヌはあれほど多くの間違いがあっても並外れて抒情的なのです。政治的な詩人にも、あなたが仰る文法家であっても、純粋なものへの衝動、言葉に対する深い責任感が見られるのです。

「あなたはどなたなのです?」と突然書店主オーギュスタンは尋ねる。
「私が誰かって?」しばらくの沈黙が生じる。「私はドイツの詩人です」
すると古書店主は「私どもはお国の詩をどれだけ愛し讃嘆していたことか、もう百年前になりますが。当時は生まれた子供にドイツの名前を付けたものです。いつかまたそうなるでしょうか? 現実のヨーロッパは本当に小さい! あなた方のニーチェは真実を見たのでしょうか。本当に驚かされました、言葉では言えないくらい。そうなんです、ニーチェはあらゆる境界を押しのけてしまいました。その巨人ぶりにおぞ気をふるいました。ラシーヌの詩を覚えてらっしゃいますか?」と言って、暗唱する。
J'ai vu l'impie adoré sur la terre.
Pareil au cèdre, il cachait dans les cieux
Son front audacieux.
Il semblait à son gré gouverner le tonnerre,
Foulait aux pieds ses ennemis vaincus.
Je n'ai fait que passer, il n'était déjà plus.

これは『エステル』で「イスラエルの娘」が歌う部分だが、下に挙げた邦訳(福井芳男訳)ではダビデのセリフとして男言葉で歌わせている。
地上で崇められていた不敬の男をわれは見た、
糸杉のように傲岸な面は
空にかくれるほどであったぞ。
自分の意のまま、雷を操っているかに見え、
敗れた敵を踏みにじっておった、
わしはただ過ぎただけ、もはやその者はいなくなった。

--『ラシーヌ』鈴木力衛編、筑摩書房 (世界古典文学全集48) 1965年
「あ、それは詩篇36ですね、ほとんど言葉通りです」と「私」は口を挟む。「この個所です」
Vidi impium superexaltatum et elevatum
 sicut cedros Libani:
et transivi, et ecce non erat, et quaesivi
 eum et non est inventus locus ejus.
詩篇36ではなく詩篇37にある詩句。日本聖書協会版 (詩篇37, v.35,36) では次の訳になっている。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、
レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。
わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。

旧約の「エステル記」と詩篇37はよく知られたテキストらしく、調べてみると例えばラッススがこの詩句を用いてモテット "Vidi impium" を作曲している。またヘンデルが詩篇とラシーヌを題材にオラトリオ(**)を作っている。小説では『失われた時を求めて』の「囚われの女」で、アルベルチーヌが許しなく語り手のもとにやって来る時、修道院の寄宿学校で演じたこの演目のセリフ「お召しもなくて王の御前にまかり出る不埒者は/ひとり残らず死の酬いを受ける/かかるきびしい掟から逃れるものは何もなし/貴賤男女も問わばこそ、罪はいずれも同じこと」を暗唱しながら部屋に入ってくる(***)

「このとおり」とリルケは続けた、「人間はいつも同じ言葉・概念・経験・観念をいだくのです。先行例を転用する手並みで詩的能力を一番純粋に見分けることができます。誰もシェークスピアほど卓抜な転用はしていません。『アントニオとクレオパトラ』のプルタークからほとんどそのまま取られた箇所のことをお考えください。ラシーヌにあってはすべてがより透明に明晰になっています。――最も明晰です――」リルケは言った、「いっそう単純で、心地よいのです。」そしてシェークスピアが気息とリズムですべてをヒロイックな明りのもとへ高めてゆくのに対して、フランス文学は偉大な詩人たちによってバロックを矯正し、ゴシック時代を完成させ、すべてを含んだ単純さの均整にまで進化させていったのです、と。

「仰るのは誰のことか、分かりますよ」と店主が口に出した時、呼び鈴が鳴った。いかにも億劫そうに前の部屋に出て行った店主は、大きな禿げ頭でソクラテスのような風貌の年輩者を伴って戻ってきた。急いで席に着かせ、「こちらはドイツの詩人でいらっしゃる」と紹介するが、しばし無言で向かい合う両者の間にいささか不穏な空気が漂う。店主は中断を惜しむかのように話を続ける。「それはラ・フォンテーヌ、ラ・フォンテーヌ! ですね、ラ・フォンテーヌでしょう?」 リルケ「もちろんそうです」 オーギュスタン「ようやく我々は彼のもとにやってきましたぞ。」 新参の男が尋ねる。「どんな筋道でラ・フォンテーヌの話なんです?」 オーギュスタン「ロンサール、マレルブ、ラシーヌ、シェイクスピア、そしていま、ラ・フォンテーヌ、一つ一つ辿って来たのです。」

「で、ラ・フォンテーヌについては?」と新参者が問うと、「この方がラ・フォンテーヌはもっともフランスの詩人 der französischste / le plus français と仰るのです。」 談話がトリオからカルテットに変わって何だか不協和音が鳴り出し、書店主はこの新参者を会話に引き込んだことを後悔し始めていたところだったが、彼が「もっともフランス、もっともドイツ、もっともイタリア――そういう言葉で何を仰りたいのです?」と言ったときには、その思いが強まった。リルケはきっと逃げ出そうと思っただろう、椅子を引いて手袋を引き寄せた。「話の成り行きでそうなったのです。教条を述べたのではありません」と「私」が割って入った。「それは検討してみなければいけないでしょう」と禿げ頭が言った。そして真面目で真剣なまなざしで前を見つめて言った。「どの原則から出発しますか? どの見地から判断しますか?」

リルケは「この言い回しは忘れましょう。ラ・フォンテーヌに対する敬意から言ったことでした。私はこの詩人がとびきり好きなのです!」この言葉で新参者も温和な表情になって、「ラ・フォンテーヌはあの時代、ごくごくモダンだったのです。彼の言葉には鋭敏さ、テンポのよさ、軽快さ、鋭さがありました。いつも不可思議をイロニーと混ぜているし、何よりフモールがあります」と言う。オーギュスタンも「そう、フモールがなければ17世紀の取るに足らない詩人というだけだったでしょう、で、どれがお好きなんですか、物語作品ですか、ジョコンダですか、それともプシケ(****)ですか。」

「いいえ、普通に寓話が好きです。寓話なるものを理解するにはフランス人か本当のヨーロッパ人――すなわちまたフランス人でなければなりません。」新参者が「寓話は読者のためだけでなく作者が自分で楽しむために書かれました。あれはイソップの快活なフランス風注釈なのです。寓話が出版された1668年の直前にイソップの翻訳が数多く出ました」というと、書店主が「わが友は図書館司書なのです」と口を挟んだ。司書は言葉を継いで、「文献学者が寓話の成立やあれやこれやの典拠について言っているが、笑止千万、その百分の一でも読むとすればそれだけで一生涯かかりますよ。ネヴルの "Mythologica Aesopica"(*****) の他には何も知らなかったに違いありません」と言う。当時「ネヴル」と言えば通じる、教養ある人々は誰もが持っていた本です、この素っ気ない無味乾燥の素材をカンバスとして彼の寓話を創作したのです、と。
「形式なのです」とリルケは得たりとばかり、「窮極の形式、それこそまさに先ほどあの花を見て言ったことなのです。」
「もちろん形式です」と司書は声を張り上げた。「それ以外に何があります? モラルですか! 否、先ずは芸術作品を作るわけです。芸術作品、それは完全に芸術として意識されて作られたもの、完成した職人の悟性と能力をもってしたもの、生命自体への熱狂、目に見える世界を観察する喜び、この素晴らしい新鮮さと惹起力、恋人同士や宮廷の人間間で作用するもの、フランス絵画の感覚、完成した比類ない該博な知と韻文化テクニック、言葉の音楽の直感をもってしたものです。」

"Die Form", triumphierte Rilke, "die endgültig fassende Form, genau das, was ich meinte, wie ich vorhin die Blumen betrachtete."
"Natürlich die Form", rief der Bibliothekar, "was denn sonst? Etwa die Moral! Nein, vorerst ging es darum, ein Kunstwerk zu schaffen; ein Kunstwerk, das ist ein ganz kunstgemäß bewußt hergestelltes Gebilde mit den Verstand und dem Können eines vollendeten Handwerkers, mit diesem Entzücken vor dem Leben selbst, dieser Lust in der Betrachtung der sichtbaren Welt, dieser wunderbaren Frische und Erregbarkeit, dieser Erfahrung des Liebenden, des am Hofe unter Menschen Wirkenden, diesem französischen malerischen Sinn, dieser vollendeten Technik der Versifikation mit diesem unvergleichlichen Wissen, dieser Intuition von der Musik der Worte."
「そうです」とリルケは相槌を打ち、「私」に向き直って、そうした寓話には先ほどあなたが名付けた《理性的なもの素朴》があるのです、と言う。するとふたりのフランス人は同時に声を発して、「それです、それぞまさしくフランス的なものです」と言った。「ボアローはラ・フォンテーヌの一句一句を研究して詩作の秘密を探ろうとしましたが、究極のところは、自然の秘密と同じく解らないと述懐しています。彼の寓話には自然史がそっくり、詩的に凝縮されて含まれています」と、司書。オーギュスタンも「ほかの言語でそれに類似のものはありません。」リルケも同意して、人の身分を問わず、英雄にも臆病者にも、思想家にも権力者にも等しくあるもの、この決定的に人間的なものを、このように描く者は、彼に肩を並べる者は存在しません、と述べる。

禿の大頭がそれを遮って言う。「ドイツに――ラ・フォンテーヌの弟のような詩人がいます」と。誰のことを言っているのか「私」にはわかったが、黙っていた。リルケはびっくりして考え込んだ。「私」が空腹を感じ始めると、まるでそれを読み取ったかのようにオーギュスタンが席を外して、どうやら食事が運び込まれる気配。司書は構わず続ける、「誰のことか、当てるのは簡単ではないでしょう。片やガリア人で他はそうでない。しかし両者は恐ろしく共通のものを持っている、それは人間的なもの。」「ラ・フォンテーヌはフランス人が代々生まれた子供に洗礼を受けさせた産湯なのです。彼は我々の内にあります。内で生きています。我々の実体の一部なのです。子供が成長すると彼もまた我々の内で成長します。人生経験を積んでいくと、いっそう彼の寓話の力を発見することになるのです。」

オーギュスタンが、白いエプロンを付けた太った女性を伴って戻ってきた。そのジュリー夫人は近くの食堂のオーナーで、その場の乱雑な有様にぶつぶつ小言を言いながら、テーブルの上の本をすべて片付け、白いテーブルクロスを広げて皿、ナイフ・フォーク、グラスを並べた。
そのあとすぐに彼女はシャンパーニュ産ワイン「シャンパーニュ風じゃなくシャンパーニュの」1リッターボトルとチキン料理「ブレッス産鶏肉」と添え合わせを並べると、ちょっと威張って居丈高に言うには、あとでコーヒーと年代物のマール・ド・ブルゴーニュを持ってきますがね、こんな散らかった場所より私のお店で飲むのがずっと合うものだよ。「あちらでならキリスト教徒らしくきちんと食事できるのに。」
Gleich darauf brachte sie einen Liter Wein aus der Champagne, "du Champagne non champagnisé", und eine Poularde "poulet de Bresse" mit Beilagen, worauf sie unter ihrem leichten Schnurrbart die Drohung hervorstieß, sie werde mit Kaffee und einem alten Marc de Bourgogne zurückkehren, den wir in dieser Unordnung zu trinken nicht verdienten und viel besser bei ihr nebenan getrunken hätten. "Où on pout dîner comme des chrétiens, convenablement."
司書はさっそく旺盛な食欲を見せて料理に取り掛かり、見事な手さばきでチキン料理を片付けた。オーギュスタンのほうは書棚の前を行ったり来たり、ごちそうのほとんどが無くなったころに一冊の本を手に戻ってきて、それをリルケの前に置いた。「これがわが友人の言う詩人です。ヨーハン・ペーター・ヘーベル全集、Maximilien Buchon の翻訳、1889年版です。」すると驚いたことに司書は朗々と詠じ始めた。
Z'Müllen an der Post,
Tausigsappermost!
Trink me nit e guete Wi!
Goht er nit wie Baumöl i,
Z'Müllen an der Post!
さらに、「突然の雷雨という自然現象をこれ以上見事に言葉にした詩人は他にいますかね、最初の2行がもっとも素晴らしい。この類の詩になると、ラ・フォンテーヌならイロニーで乾燥させてしまう」と言って、朗誦を続ける。
Der Vogel schwankt so tief und still,
Er weiß nit, woner ane will.
Es chunnt so schwarz, und chunnt so schwer,
Und in de Lüfte hangt e Meer
Voll Dunst und Wetter. Los, wie's schallt
Am Blauen, und wie's widerhallt?
[...]
アレマン語である。彼はアルザスで幼少年時代を過ごしたのだ。独仏語を区別なく使っていた。リルケが悲しげに、ほとんど理解できませんというと、"C'est franc comme l'osier" と笑って、ヤナギの枝のようにしなやか、とは農民の用いる言い回しだが、巧みで機転の利いた表現だ、ラ・フォンテーヌのように才気があって危なげない、と。

そこへあの鼻っ柱が強い女将が熱いコーヒーとマールを運んできた。リルケも思い切って一口グイと飲むや、ヘーベル信奉者に向いて、「さきほど、あなたは誰かとお尋ねになりました。私はライナー・マリア・リルケです。」すると相手は立ち上がり、手を差し出し、深々とお辞儀した。「私はシュトラースブルクのルシアン・エールです。高等師範学校の司書です。」

この人物は学校を卒えたあと、死ぬまで司書であり続けたことで知られる研究者・思想家、社会主義運動家のルシアン・エール Lucien Herr (1864-1926) だった。パリの高等師範学校 Ecole Normale Supérieure を卒業し、強く希望して母校の図書館司書に就職し、書物とともにある職に生涯留まった。あらゆる書物を読み、いかなる問題にも何語であれその最新の文献に通じているとの評判だった。ドレフュス事件 (1894) に際して再審請求運動のオーガナイザーの役割を果たし、エミール・ゾラによる公開質問状 (1898) で世論が沸騰して、無実の被告ドレフュスの釈放に至った。その後日刊紙『ユマニテ』創刊 (1904) に参加するなど社会主義者として活動。哲学の徒としてはヘーゲル論を書き続けたが、それはついに完成しなかった。

リルケはヘーベルの翻訳を手に取り、フランス語の詩句を読んでその原文を尋ねるとすぐにアレマン語で返ってくる。ルシアン・エールはその仏訳が気に食わない。翻訳ほど難しいものはない、と言う。リルケは「その通り、それは偉大な俳優の技に類すること、別の元素から黄金を作る錬金術です。私はヘーベルをじっくり読みます。ドイツでより、ここパリで読む方がいいかもしれません。妙な郷土色に左右されないだけでも。」そして、先ほど「もっとも美しい」と仰った詩をもう一度と頼むと、エールは改めて朗誦する。
Der Vogel schwankt so tief und still,
Er weiß nit, woner ane will.
リルケは "ane" が理解できないと言う。エールは少しいらだった様子で、
Der Vogel fliegt so tief und still,
Er weiß nicht, wo er hin will.
とドイツ語に訳して、「こうなるともはや詩的なものはありません。"ane" にそれがあるのです。言葉と詩人は分けられません。」という。「さあ、また青春時代へ戻らなければ」と言いつつ腰を上げ、皆と握手してだぶだぶの外套をひっかけ立ち去った。われわれも気立てのいい古書店主に礼を述べ、近い再会を約して店を後にした。再びセーヌの岸に来ると、冬の早い夕暮れが近づき寒さが増すなか、リルケは立ち止まって西の空の雲を映す水面を眺めた。そして微笑んで言った。
「今日はなんと素晴らしい日だったことか。いろいろなことがこんなに続いて起こるなんて滅多にありません。右岸で訪ねるところがあったのでした。」リルケはまた少し立ち止まった。流れゆく水をちらと眺め、微かに笑いを漏らして呟いた:「オンドヮヤント――ブロンドヮヤント。」そして身を翻して歩み去るその足取りは、心中に響くリズムに合わせるようだった。次の横道に折れて見えなくなったが、それは当時彼が逗留していたオテル・フォワイヨのある方角だった。
"Wie schön war dieser Tag, wie selten kommt so etwas zueinander. Ich hätte auf dem rechten Ufer noch einen Besuch machen sollen." Wieder hielt er einen Augenblick inne, schaute wieder rasch auf das Vorüberfließen, lächelte kurz und wie innig und murmelte rasch vor sich hin: "ondoyantes -- blondoyantes". Und dann wandte er sich um und ging weg, schon ganz mit einem Rhythmus beschäftigt, der in ihm aufklang. Er verschwand in der nächsten Seitensraße, in der Richtung nach dem Hôtel Foyot, das er damals bewohnte.
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

最初に『ある朝に古書店で』を「ユーモラスで洒落た小品」と紹介したが、作中二人で、あるいは三人、四人で交わされる議論は必ずしも解りやすいものではない。前項で拘った「ユリらしさ――バラらしさなどはありません。バラがありユリがあるのです」という発言から、「ロンサールを殺したマレルブ」「文芸界のリシュルー」「心の至純」「並外れて抒情的なラシーヌ」「文法家と純粋なものへの衝動」「先行例を転用するところの詩的能力」「バロックを矯正」「ゴシック時代を完成」「窮極の形式」などなど。何しろフランス語もアレマン語もよくわからないまま読んでいるので、まあ、無理はないのですが。とりわけ二人で散歩中に「私」が持ち出し、四人の議論の大詰めにまた現れる「理性的なもの素朴」など、これはこの掌編のキー・フレーズだろうが、どこまで理解できたろうか。著者ブルクハルトの歴史家としての主著は『リシュルー評伝』だという、これを読む必要があるのか。登場人物の議論を、メロディーラインが寄り添ったり離れたりする弦楽合奏のように聞き流しても、心地よく読めるなといい加減な感想を抱いております。

この小さな本には数葉の情趣溢れるイラストが添えられていて、読者を楽しませてくれる。表紙に見えるようなタッチのもので、描いているのはヴィルヘルム・ハイノルト (Wilhelm Heinold) とある。メールヘンや幻想物語の挿絵画家として知られているようだ。
* Charles X. 復古王政ブルボン朝最後のフランス国王(在位:1824-1830)即位以前はアルトワ伯爵 (comtes d'Artois)
** HWV 50a 初演:1718年?
*** 鈴木道彦訳『失われた時を求めて 9』(集英社 1999年)、27ページ
**** 『ジョコンダ』"Gioconda" はアリオストによるコント。三野他訳『ラ・フォンテーヌの小話』(1987年 社会思想社)では冒頭の一篇。『プシケとキューピッド』"Les amours de Psyché et de Cupidon" は散文と韻文のロマンス (1699)。
***** 「ネヴル」"der Nevlet" すなわち Isaac Nicholas Nevelet はスイスの人、ラテン語で Mythologica Aesopica (Frankfurt: 1610) を著した。