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PLAY・カリギュラ/Movie・2007年映画ベスト10/Movie・君のためなら千回でも


◆12月27日◆MOVIE『君のためなら千回でも』◆

 この映画のタイトルを初めて聞く人は、ほとんどが恋愛映画?と聞いて来ますが、これはアフガニスタンの少年2人を描いた、人と人とのつながり、絆についての物語です。2003年にアメリカで出版されベストセラーに64週間もランクインし続けた小説「The Kite Runner」を映画『ネバー・ランド』の監督マーク・フォスターが映画化したのが本作「君のためなら千回でも」です。

 私は、アフガニスタンという国の名前をニュースで聞く事はあっても、そこに住む人々の生活についての映像をじっくりと見た事が無く、またソ連のアフガニスタン侵攻の頃はまだ子供だった為何が起こっていたのか理解していないという状態でこの作品を見ました。
 そこに描かれていたのは、時代に翻弄され今もなお厳しい状況に置かれている人々、そしてその中にあっても人を信じる心と絆の存在でした。裕福な家の子アミールとアミールの家の使用人の息子ハッサン。ハッサンはこちらの胸が痛くなるほどアミールとの友情を大切にします。ところがアミールはある事件がきっかけでハッサンを遠ざけるようになり、修復出来ないままハッサンと離れてしまいます。この物語は、そんな二人の30年間を描いていくのです。

 911以後、アルカイダやタリバンについて誰もが不安を感じる社会になっています。彼らの活動拠点から遠く離れた日本でも、日常を脅かされていると感じている訳ですから、彼らが居る地域に住むタリバン以外の人々がいかに大変な生活を強いられているかは容易に想像出来るのですが、私はこの映画を見るまでその事についてほとんど考えた事が無かった自分に気付き、衝撃を受けました。

 かつてアフガニスタンで何が起こり、そこに住む人たちはどうなったのか。そして現在はどうなっているのかを知るという事だけでも本作を見る意味は十分にありますが、ここには親と子、友達の間にある心、絆、そして人間の心の強さが描かれています。そしてそれがこの悲惨な状況を描いていても、我々に感動と希望を与えてくれるのです。

 少年時代のアミールとハッサンを演じた二人の少年はアフガニスタンで生まれた普通の男の子たちですが、演技が初めてとは思えないほど実に自然で魅力的な表情を見せてくれます。そしてこちらの胸が痛くなるほどの心の動きを見事に演じています。子役の力を引き出す事で定評のあるフォスター監督の魔法なのかもしれませんが、子供たちはスクリーンの中で実に生き生きと、時には驚くほど繊細に存在しています。

 登場人物の魅力もさる事ながら、映像も印象的な場面が次々に出てきます。原作の題名が「カイト(凧)ランナー」とあるように、この物語において重要な役目を果たす「凧」が何度も登場します。アフガニスタンではけんか凧が盛んなようで、子供たちは凧に夢中になっています。このけんか凧のシーンが実に素晴らしいのです。どうやってあの映像が撮れたのかと思うほどの躍動感があり、青空に舞い上がる姿は実に美しく、色々な物の象徴としても凧はスクリーンに映し出されています。

 『君のためなら千回でも』は30年という長い時を追った作品ですが、2時間9分という短い時間で決して急ぐ事なく丁寧に描かれています。物語の最後に訪れる希望。そして物語を思い出すと感じる切なさ。アフガニスタンを題材にしており、スターが出ている訳でもない、一見地味な作品ですが、静かな力強さを持つ作品であり、一人でも多くの人に見てもらいたいと思う映画でした。


・2007年映画ベスト10・Byなつむ

善き人のためのソナタ
ボルベール〜帰郷〜
ブラック・ブック
パンズ・ラビリンス
今宵フィッツジェラルド劇場で
リトル・チルドレン
転々
シッコ
シュレック3
10
ダーウィンの悪夢

●MEMO●

1・善き人のためのソナタ
 ベルリンの壁の崩壊をテレビで見た日の事は今でもはっきりと覚えていますが、その壁の向こうで何が起こっていたのかを知ったのは、18年も経った2007年の事でした。壁が作られてから壊されるまで、旧東ドイツでは一体何が起こっていたのか。それを私に教えてくれたのが、この映画です。この映画の感想についてはFeelingNote2007 2月を読んで頂ければと思いますので、別の話しを。

 日々我々はテレビや新聞といったマスメディアを通じて世界で起こっている様々な事を知りますが、ニュースは短い時間の中で何が起こったのかを簡潔に語るのみで、言うまでもなくその出来事の裏にある様々な人間模様までもを伝える事は不可能です。2007年という年はそのニュースで聞いたことのある、あるいは歴史の教科書で目にした事件や人物、事象について映画を通して再認識し、時には驚愕し、戸惑い、国というもの、組織、集団というもの、社会のあり方、時には地球という事まで考えさせられる作品が非常に多い年でした。上映された映画を思い起こすと、今まで語られなかった事が今漸く語られるようになったという印象を受けます。その度に感じたのは、映画の力です。

 映画の中で描かれる物語は、その事象のある一面しか伝えることは出来ないかもしれませんが、我々の心に深く入り込んできます。事実の認識とはまた別の、心の理解がそこには生まれて来ます。
 ハリウッド映画の陰りの一因であるコンテンツ不足が影響してか、近年英語圏以外の映画が多く上映されるようになりました。そのお陰で英語圏以外の素晴らしい役者や監督の存在を知る機会が増えています。そして今まで見えて来なかったその国に住む人の姿を垣間見る機会も増えています。

 2008年は更にその傾向が強まるのではないかという実感を持ちつつ、今は亡きミューエという素晴らしい役者を教えてくれたこの映画を2007年に私が観た一番心に残った作品としたいと思います。 

2・ボルベール〜帰郷〜
 ペネロペ・クルスがこんなに良い女優だったとは!と本当に驚かされた作品でした。ペドロ・アルモドバル監督が好きな私としては、外せない一本でしたが、主演が彼女だと聞いて、正直どうかな〜と思っていたのです。が、完全に彼女に魅了されてしまいました。

 赤がこんなに魅力的な色だったとはと、色まで見直してしまう程彼女は魅力に溢れていました。かわいい印象のペネロペですが、イタリアのマンマを思い起こさせる肝っ玉母さんをちゃんと演じられるようになったのですね。そこを引き出した監督と女性の魅力を惜しげもなく見せてくれた彼女と、そしてこの映画のタイトルになっている「ボルベール」を歌ったフラメンコ歌手、エストレージャ・モレンテの歌声に賛辞を贈ります。

3・ブラックブック
 『映画とは、エンターテイメントである』という考えを見せ付けられたようなポール・ヴァンホーベン監督の作品です。この映画はハリウッドではなく監督の母国オランダで作られました。
 内容はナチ政権下のレジスタンス活動というもので、それだけを聞くと暗くシリアスな物語でエンターテイメントとはかけ離れていると思いがちですが、ミステリー、サスペンス、ラブロマンスありと、映画が作られる上での要素を網羅した内容は、最後まで目が離せない、これぞエンターテイメントという映画作品でした。エンタメとしての映画を知り尽くしたヴァンホーベン監督と、女優魂を見せてくれた主演女優カリス・ファン・ハウテンが真剣に作った幸福な作品です。 

4・パンズ・ラビリンス
 それは公開されるずっと前の事。予告のポスターで既にこの映画のビジュアルに痺れていましたが、蓋を開けてみると、とても悲しい物語でした。
舞台はスペインでフランコ政権下の物語です。美とグロテスク、ファンタジーと現実の融合と言いましょうか。非常に切なく、今思っても心に痛みが残る作品でした。

5・今宵フィッツジェラルド劇場で
 もう、これはロバート・アルトマン監督「追悼」という意味での5位です。死の前に彼が描いたものは、長い歴史を持つあるラジオ放送最後の夜。その終焉と、美しい死神の存在が、アルトマンの心の中を覗くような感覚を覚え印象に残りました。きっと彼は最後にあんな金髪の美しい美女に迎えに来て欲しかったんでしょうね。それにしても、メリル・ストリープのカントリー歌手ぶりは素晴らしく、彼女の底力を見せつけられました。
気骨ある闘う監督、ロバート・アルトマンのご冥福をお祈りします。

6・リトル・チルドレン
 病んだ現代社会の、普通なら避けて通るところをあえて描いた作品です。第三者の目で客観的に描き、最後に救いを持たせるという構造が非常に良く出来た作品でした。2007年に観た、いわゆるハリウッド映画の中では一番の出来でした。

7・転々
 2007年はこれ!という邦画に会えない年でした。『天然コケッコー』を見ていたらこれ!という邦画に出会えていたのかもしれませんが、残念ながら見逃してしまいました。『キサラギ』はラストが蛇足だと思うし、『それでも僕はやってない』と『めがね』はどこかしっくり来なかったし、他の作品はベスト10に選ぶほどのものを感じなかったので、7位にやっとゆる〜い映画ですが『転々』です。

 オダギリジョー好きな私としては、彼がいいのは分かってたのですが(笑)今回の驚きは三浦友和でした。思いっきり上から目線な表現ですが、「いつの間に、こんないい役者になっていたんだ!」と、驚いてしまいました。味が出てきました。いいですね。これからも楽しみです。 そして、この映画。時効警察の面々が登場するのもツボでした。岩松&ふせ&松重トリオがおかしい!

8・シッコ
 アメリカの医療制度について描いたものでマイケル・ムーア監督のフィルムですが、アメリカだけの話しではなく未来の日本を見るようでもあり、怖くなる内容でした。事実、大阪のある病院では、アメリカと同じように患者を公園に捨てに行ったというニュースが11月に報道されました。社会のあり方と日本のこれからについても考えさせられる一本です。

9・シュレック3
 これはもう、何といってもフィオナ姫の父「カエルの王様」の断末魔でしょう!不謹慎ながら最高に笑えたご臨終シーンでした。助演男優賞をあげたいぐらい。そのシーンだけで2007年の8位ですよ。凄い!見事でした(笑)

10・ダーウィンの悪夢
 作品としての出来よりも、この映画を観た後、外食で「白身魚」が出てくる度に「これはナイルバーチ?」と思うようになったという影響力で10位です。食べ物の出所が以前より一層気になるようになった映画です。結論を出さない、というところが「ドキュメンタリーらしく見せながら答えありきで突き進むマイケル・ムーアのドキュメンタリー風映画」と対照的であり、ある意味「ドキュメント映画」らしい映画でした。

見たかったのに見そびれた映画
洋画『題名の無い子守唄』
邦画『天然コケッコー』
 この2本を見ていたら、ベスト10も変わっていたかもしれないと思っています。


◆12月7日◆PLAY◆『カリギュラ』@シアターBRAVA!◆

 『カリギュラ』はローマ皇帝を描いたフランスの作家カミュの作品である。これは溺愛以上の、兄妹の一線を越えた妹の死を境に狂気的な悪政を始め、結果的に家臣によりカリギュラが惨殺されるまでの物語である。

  最近疑問を感じる事の多い蜷川演出とはいえ、小栗旬の成長に興味のある私としては観たい舞台には変わりない。という訳で、今回も劇場に足を運んだ。

 結論を先に言ってしまうと、暴君であり狂気のローマ皇帝カリギュラに小栗旬はミスキャストだと思う。これは、彼の技量の問題というより資質の問題であり、この作品に彼を選んだ蜷川の責任と言える。
 どんな役でもこなせるのが役者だという向きもあるかもしれないが、もしそうであればキャスティングという仕事は必要ないわけで、今回は残念ながら上手くいったとは言えない結果に終わっている。
私の持論から言えば、その人に無い物はそれが演技であれ何であれそこに無い以上出てこないものであり、人を惑わすどころか国家までをもその狂気で迷走させるカリギュラを演じるには、小栗旬は素直でまとも過ぎる。

 カリギュラ。彼は財産の没収や処刑を何の良心の呵責も受けず命じる。今日と明日とでは世界がガラっと変わってしまうルールを日々乱発し、家臣たちは憤りを感じながらもそれに従う。 彼は暴君の最たるものであり、狂気としか言えない数々の所業を行うのであるが、小栗旬の狂気はあくまでも常人が狂気を演じているに留まり、内から来るものではなく「演じられているもの」である為翻弄されている人々全てのベクトルがカリギュラに集まるというこの物語の構成に耐えられない。故に必要とされる歪んだ説得力が出てこないのである。
 狂気の裏に全てを分かっている正気のカリギュラも存在しているのであるが、小栗旬の演じるカリギュラでは常に正気が見え隠れしている。

 2部の冒頭、家臣の前でカリギュラが女装し寸劇をするシーンがある。自分はヴィーナスであると語り出現した彼は、金髪の長い髪に花の飾りがついたカツラを被り、白いビスチェ風な上半身に下はワイヤー入りの膝丈ぐらいのパニエという扮装で登場する。そしてその透けたパニエがあるのは前面だけで、後ろを向くとパニエが無いだけでなく、お尻の両ほほがむき出しになっている。
 狂気と女装と来て私が真っ先に思い出すのは、映画『ロッキーホラーショー』のティム・カリーの登場シーンなのだが、そこには悪趣味だと思いつつも、逃れられないナルシスティックで圧倒的な魅力がある。お遊びなのか、正気なのか、本気なのか嘘なのか分からないが、独壇場という言葉が服を着て歩いているような強さと色気がそこには存在している。
カリギュラのこのシーンでも、必要なのはこの常軌を逸した魅力と力、この場の全てを牛耳っているというマスター・オブ・セレモニーとしての存在なのだが、残念ながらそれは存在していない。

 まず、最初に歌手として月川悠貴が登場するが、彼の声は細くこのシーンにどうしても必要なものとは思えなかった。そして若村麻由美演じるセゾニアがこの芝居の内容を読み上げ、家臣と客席に復唱を促すのだが、この芝居で客いじりは必要ない。
これがシェイクスピアなら、元来そういう意味でのインタラクティブ性がある戯曲であるのでそれも醍醐味となるだろうが、カミュの作品で客をいじる、というのは演出上の「媚び」に感じてしまう。そして登場した小栗旬の衣装。カリギュラの悪趣味な女装。得にお尻の露出はファンサービス以外の必要性が感じられない。色気も毒も、自己陶酔も存在しない中、意味もなく奇抜な衣装で演じられる劇中劇を見ているうちに小栗旬が不憫に思えてきてしまった。
 このシーンに限らず、この舞台で小栗旬は腰布程度で動き回るシーンも多く、その長い足やこの為にいつもより鍛えた肉体を人々の目にさらす事になっているが、それすら本当に必要なのだろうかと思ってしまう。本作は惜しげもなくあらわにされた彼の肢体が見られる舞台になっているが、ここで必要なのはファンサービスではなく必要性と必然性である。

 蜷川演出作品の『エレンディラ』で美波がほぼヌードで演じているのを観た時にも、この若さでこの状態で演じるのは非常に勇気がいる事であり、頑張って演じていると感じるのと同時に、そこまでする価値がこの舞台にはあるのだろうかと思った。今回の小栗旬にしても、この露出の高さは本当にこの芝居に必要なのだろうか、この話題づくりに見えてしまう趣味が良いとは言えない衣装の女装は本当に必要なのだろうかと疑問が湧き起こった。本当に必要なのだろうか?

 今回気になった事に台詞の通りの悪さもあった。小栗旬の語尾が消える為台詞が不明瞭になっていく。彼に限らず、他にも発声の問題がある人が居る為魅力的な台詞なのだが届かず消えてしまう事がしばしばあった。
その中、若村麻由美の台詞は明瞭であり、変化も巧みに演じており、彼女には舞台人としての 安定を感じた。

 カリギュラはパンクだと、蜷川がパンフレットで語っているが、舞台上にローリングストーンズのトレードマークとも言える舌を出した唇のマークのネオンを置いて、奇抜な衣装を着て、過激な台詞、過激な行動をしたからといって、それだけでパンクにはなりえない。また、シェイクスピアのタイタスで悪役、エアロンを魅力的に演じた小栗旬ならカリギュラが出来るかもしれないと蜷川が判断したのかもしれないが、双方は全く別の悪であり、カミュとシェイクスピアも全く違う性質のものである。
エアロンは企みをする「悪」であるが、カリギュラは国をも動かす「狂気」である。 シェイクスピアは戯曲に全てが書き込まれており、その人がその奥で何を考えているかも 言葉に表されている。しかしカミュの作品はその奥にあるものを演技者も観客も考えなければならず、シェイクスピアに比べると抽象的なのである。

 数年前、小栗旬がロミオを演じたいと語ったインタビューを読んだ。今回蜷川がカリギュラをやりたかったから小栗旬をキャスティングしたのか、その逆だったのか卵が先か鶏が先かよく分からないが、今この若さの時に私はカリギュラよりもロミオを彼に演じさせる機会を提供して欲しいと思う。
 彼はまだ発展途上であり、若さがある。芝居には今しか演じられないものが存在し、適役というものがある。役者としての幅を広げる事も大切であると思うが、彼はまだまだ一つづつキャリアを積んでいく段階であるだろうし、大切に育てて欲しい存在である。
某番組で彼の200日を追う、というものがあった。その中で蜷川は彼を全面的に肯定しワイドショーでは彼を発見した自分をも絶賛していた。

 小栗旬が魅力的な存在であるのは間違いない。そして今年のブレイクぶりに本人が恐怖を感じているのも間違いない。それはそうだろう。必死に役者として成長したいと思っている中、終演後のスタンディングと微笑むだけで悲鳴が湧き起こる客席、全てがイエスといわれる状況下は実に危険な状態である。この異常なまでの盛り上がりが一日も早く一段落し、蜷川以外にも彼を育ててくれる存在が出現するのを願いながら劇場を後にした。


<November>

PLAY・キャバレー

◆11月3日◆PLAY◆松尾スズキ演出『キャバレー』@大阪厚生年金会館◆

 ミュージカル「キャパレー」と言えば、ボブ・フォッシーが監督を務め、ジュディー・ガーランドを母に持ち、ミネリ監督を父に持つ、映画界のサラブレット、ライザ・ミネリが主人公を演じた映画『キャバレー』が一番有名である。
 私の中で一番のインパクトを持っているのは、アラン・カミングがMCを努めたNYブロードウェイ版ミュージカル『キャバレー』であり、いずれも「退廃」「あだ花」そしてナチの台頭という時代がもたらす「死」と「恐怖」が描かれていた。

   さて、今回「あの松尾スズキ」が「阿部サダヲ」をMCに据えて『キャバレー』を手掛ける、と聞いて観にいかない手は無いと期待に胸膨らませて劇場に赴いた。松尾スズキ演出、というからには彼独自の世界観が構築されるに違いない。どんなアプローチを見せてくれるのかと、期待するに十分なポスターを眺めながら過ごした数ヶ月。そしてその日はやってきた。

 結論から言ってしまうと、舞台を観て1ヶ月以上が経った今も何故松尾スズキがキャバレーという作品を手掛けようと思ったのかがさっぱり分からない。
 彼が我々に見せたのは、皮肉も風刺も恐怖も無い、ただのおちゃらけた上辺だけのギャグに徹した空回りする道化としてしか存在できないMCと陳腐でつたない、あるいはありきたりな恋物語だった。
 この物語はアメリカ人マックスという作家志望の青年が、ナチが力を持ち始めて変わりつつあるベルリンに到着するところから始まる。物語りは彼がベルリンで下宿を見つけ、キャバレーで働くサリー・ボウルという歌手兼踊り子とある意味特殊な共同生活をした後、アメリカへ帰っていくまでを語ったものであり、時代に翻弄される人々の姿を描いている。
第二次大戦間近のベルリンに圧し掛かる「死の影」はその国に住む人全員が感じている不穏な空気、忍び寄る恐怖であり、それ故に時代の「あだ花」が咲き誇っているのだが、松尾スズキはそこをすっぱり切り捨てた。映画『ベント』の冒頭やブロードウェイ版及び映画版の本作が見せる毒、やりきれなさ、「バカ騒ぎの奥にあるもの」がここには無い。
劇中に使う楽曲は間違いなくどれもオリジナルのキャバレーと同じもので、基本的な設定も同じ。だが、出てくる踊り子達は残念ながら色気が無く憂いも感じられないし、MCの衣装はモーツァルト時代の宮廷人のような格好で、洗練されたところは無くトニー谷から今のお笑い芸人のギャグまで幅広くまくし立てる。一番の驚きは、猫の着ぐるみが2匹出て来た事だった。ヘタウマな顔の猫2匹はちゃかし以外の何者でもなく、何故ここで出して来たのかが分からない存在だった。この遊園地テイストはこの後も出現し、MCが劇中、ユダヤ人について歌う歌の場面で、私の愕然は頂点に達した。
 この歌の内容は、彼女がどんなに醜くたって、僕は全く気にしない。だって彼女はユダヤ人じゃないからね、というものでナチの弾圧を歌ったもの。舞台版ではゴリラの着ぐるみが出てきて 「彼女」を演じていたが、松尾版では、ろくろっ首の巨大猫の化け物が出てきて、首を上下させ、かにのハサミになったような腕で周囲の人を挟みにかかる。煙は出るし、とにかくチープな猫お化けが登場してきて、最初は今舞台で何が起こっているのかわからなかった。怪獣風な猫を前にドタバタ劇が行われる舞台。観客は笑って見ている人がほとんどで、歌詞を聞いてる人は余り存在していなかったのではないだろうか。
 そしてマックスの存在も曖昧に描かれている。サリーと暮らすマックスは実はゲイである事を、松尾版ははっきり描いていない。会話の中でそれらしい言葉が出て来ても、それは台詞として流れて行き現実味は無い。それ故、サリーとの関係が、この舞台を観ただけでは良く分からなくなっている。彼の葛藤、サリーとの恋愛と友情の中間にあるような微妙な関係。それが描かれていない。
 あちこち疑問だらけの中、ただ一人軸がぶれず描かれており、歌唱力も演技力も流石と思わせてくれた人が居た。それは下宿の大家を努めた秋山菜津子だった。彼女の存在が無ければこの物語は更に無重力になり、ただの「バカ騒ぎ」に終わってしまったかもしれない。

 今回の舞台で一番疑問に感じたのは、松尾スズキ本人だった。私からすると、彼には物語の本質が見えてないように思える。また、本質が分かった上での演出としても、ここまで変えてしまうのならオリジナルで全く別の話しを作るべきであり、キャバレーに固執する必要は全くないと思われる。という訳で、彼がキャバレーを演出しようと何故思ったのかが全く分からないのである。

 キャバレーが終わり、カーテンコールになった時、松尾スズキがいきなり舞台に登場した。そして彼は、突然「妖怪人間」のテーマソングを歌いだした。その姿を見た途端、ああ、やっぱりそうなんだという思いと、熱狂する観客の反応に心の痛みを感じた。
 ブロードウェイ版キャバレーでは、物語の最後にMCが自分もゲイであるが故に収容所送りになったと示して終わる。(知る人は少ないかもしれないが、囚人服の胸につけられたピンクトライアングルはそういう意味である)ここまでメッセージ色が強いものにして欲しいとは言わないが、この作品はちゃかして終われるものではない。何故なら忍び寄る恐怖、逃れられない悪を描いた作品だからだ。間違っても「妖怪人間」の歌を歌えるような作品ではないのだ。

 今回初めてこの舞台を観てこの作品に出会った若者たちは、キャバレーという作品を誤解したまま過ごしていく。それこそが罪悪だと感じる舞台だった。


<October>

MOVIE・めがね

◆10月6日◆MOVIE◆めがね◆

 映画「めがね」は何とも不思議な作品である。
非常に乱暴かつ大雑把に言ってしまえば、与論島と思われる島に集まった、都市出身者5人の話しである。

 物語は島にプロペラ機が到着するところから始まる。光石研、市川実日子の二人が、待ち人来るといった感じで空を見上げる。そして、ショッピングバッグ程度の小さなバッグを腕にかけたもたいまさこが登場。
 その後、スーツケースを持ち、およそ島国にそぐわない、硬い服装の小林聡美が登場する。ここでほぼ主要登場人物が揃う。そして、4人は光石研が経営する旅館で顔をあわせる事になるのだが、この4人の背景、何をしている人で、何故ここに来たのかといった情報はほとんど観客に提供される事なく進み、最後まで説明される事はない。

 空港から宿までの迎えは来ないから、小林聡美はひたすらスーツケースをひっぱって歩く。彼女は手ぶらで歩いても足を取られそうな海岸の砂浜を、他の迂回路は無かったのかと聞いてみたくなるような状態でスーツケースを引きずって歩いて行く。そして、やっとの事で辿りついた宿には看板らしい看板がついておらず、普通の民家のようにしか見えない。その事を質問してみると、主人は客が余り来ないようにわざと目立たない看板にしていると言う。そしてその主人は、迷わずたどり着いた彼女にむかって「あなたには才能がありますよ。ここに居る才能が」と言う。そして、たそがれる才能も彼女にはあると言う。

 ここで言う「たそがれ」とは「黄昏」という漢字が示す夕暮れ時ではない。そこにはどうやら、夕暮れにふと悲しくなる、といったような負の感情は存在していないらしい。「たそがれる」には才能がいるそうだし、この場所では「たそがれ」がとても素敵な事として取り扱われている。
 海を眺めて何もせず「たそがれる」。そこには、「都会の喧騒」という、この島とは「相対する都市」が存在してこそ初めて生まれてくる「たそがれ」をさしている。この物語の中で彼らが語る「たそがれ」は「都市」と対になって初めて成り立つのだ。

 この話しの中で、「携帯電話の電波が届かない所に行きたかった」と主人公は言う。そして、日常から離れてこそ「たそがれる」事が出来る彼らは、その人のバックグラウンドを知ろうという行動は起こさない。擬似家族のように全員で食事をする事にある種のこだわりは持っているが、一度誘って拒絶されると、肩透かしな程あっさりと引き下がる。相手に対しての執着というのは無いのに、面倒見は案外良く、個人主義を尊重しているのかと思うと、朝になると小林聡美の布団のすぐそばで、「朝ですよ」と言うためだけにずっと彼女の目覚めを待ち続けるもたいまさこが座っている。
そして、3年前にこの島に来て、この宿に迷わずたどり着き、いまやこの島で高校教師をしている市川実日子はこの島で「たそがれ」て楽しく暮らしているかと思いきや、美形な生徒がいない事に文句を言い、時には本気ではないにしても死にたいという言葉を発する。

 と、こう書いて行くと分かるように、この物語は人との距離のとり方、この島で穏やかになっているはずの心の中が非常に揺らいでいる。そして私には、映画のシーンとして欲しい絵、入れたいアイテムが先にあり、その点を物語という線で縫うように繋いで出来た物語のような印象が残った。この映画は物語ありきではなく、場面ありきで作られたのではないのだろうか。

 物語は何も無い島で何も起こらない事を描いているが、明らかにこの島で癒され、解放された人に主人公がなるという結論を目指しており、その通りに彼女は変化する。食卓を囲むようになり、メルシー体操を一緒にして、彼女の鎧であり仮面の象徴として存在しているめがねが、帰るために空港へ送ってもらう車のなかで風に飛ばされる。彼女は解放されたという記号としてのそのめがねを拾いに行こうとしない。そして、次の年なのだろう。彼女はスーツケースを持たず、もたいまさこと同じように小さなバッグ一つで、前年この島を訪れた時に着ていたオフィスに着ていくような白と黒の硬い装いではなく、赤い模様の島国にあった服装になってここを訪れる。彼女はこの島で彼らと過ごした事により、自分の「たそがれ」の才能を見出し、余分な物が削ぎ落とされたという事が、この彼女の2回目の島への訪問で分かりやすく伝えられる。

  「感覚」を映画を観ることによって疑似体験させる事は難しいと思うし、日常空間の中にある映画館でこの作品が言うところの「たそがれ」を感じるには、物理的にも困難である。
前回の「かもめ食堂」は丁寧に生きることを見つめ直す映画であり、ある種大人のおとぎばなしと言えるような、軽やかさと心地よさを持つ作品だった。その第二弾として位置づけられる「めがね」は「感覚」を描こうとし、「たそがれ」という昔からある言葉に新たな意味を作り、「なにが自由か知っている」というキャッチコピーにあるように「解放」をテーマに持ってきたのだが、「あなたはこの映画を見てたそがれ、解放されましたか?」と言われたら否としか答えようがない。
 ぼーっと何も考えずに見ていようとしても、登場人物の説明されない人物像を映画のどこかに隠れていないかとずっと探し続けて疲れてしまう人もいるだろうし、私のように、この「しっくりこない」はどこから来るのだろうと考え続ける人もいる。この映画のいう「たそがれ」るのには、本当に才能が必要なのかもしれない(笑)

 しかし、この作品の中で一瞬だけ自分の中にある、休暇の日の穏やかな解放感と緩やかな時の流れの幸福感を感じるシーンがあった。それは、仕事上の知り合いであるらしい小林聡美を追いかけて島にやって来た加瀬亮が、浜辺で小林聡美と並んで海を見ているシーンである。彼が海を見ながらこの言葉を言う。

「春の海 ひねもすのたり のたりかな」

 言うまでのなく与謝蕪村の俳句なのだが、その瞬間、春の日差の柔らかさやのんびりとした空気が記憶の中から蘇って来た。ああ、穏やかだ。この幸福感。映像ではなく言葉が一気に感覚を呼び覚ましてくれた。そしてそれは、長い年月を経ても生き残っている言葉の力は凄いと思わされた瞬間だった。


<September>

MOVIE・リトル・チルドレン/PLAY・エレンディラ

◆9月15日◆PLAY◆エレンディラ◆

  最近、舞台を観終わった後、いつも疑問が残る蜷川演出作品。という状況の中、「エレンディラ」のフライヤーを前に見るべきかどうか悩んだ末、やはり見てみようと思ったのは、原作がGガルシア・マルケスだったからでした。

 ガルシア・マルケスといえば、『百年の孤独』の著者であり、ノーベル文学賞作家。以前から気になる作家の一人であり、彼の作品をどう蜷川が舞台にのせるのか。それを楽しみにチケットを購入しました。ところが、この舞台鑑賞には意外な展開が待っていたのです。

 今から時を遡る事十数年。民放の映画放送で、とても不思議な作品を見ました。夜中の1時か2時から始まったらしきその映画を途中から観た私は、何というタイトルなのか、どこの国の映画なのか全く分からず、でも、その不思議な世界観に睡魔と闘いながら見続けたのを覚えています。英語ではない言葉を話す登場人物たち。字幕を読み続ける私。そして時折入るCMが眠気を誘い、ついつい夢と現を行ったり来たりしてしまいます。

 画面の中では常に風が吹き、魔女のようなおばあさんの凄みから目が離せません。孫娘らしい黒髪の少女も魅力的です。女の子にはボーイフレンドがいて、彼と二人、若い二人はおばあさんから逃げようと考えているようですが、なかなか上手く行きません。吹き抜ける風。「窟」のような場所。非現実的などこかの国。大人の御伽噺と言えばいいのでしょうか。見たことの無いどこかへ連れて行かれるという、この不思議な感覚。そして、業(ごう)というか、魔術をかけられたような、何とも表現しがたいおばあさんと孫娘の関係。孫娘がおばあさんに毒を盛っても死なない、という場面に至っては、もうブラックコメディーかと思うような滑稽さがあり、しぶとさが魅力に変わってきて、その頃にはもう明け方になっていたので半分寝ぼけた状態でしたが、すっかりこの物語に魅せられていました。

 あの映画は一体何という作品だったのか。どこの国の映画だったのか。その謎を抱えているうちに、いつしかその物語は私の記憶の中で眠りにつきました。

 さて、シアターに足を踏み入れて暫く後に、5人ぐらいの小さなバンドが登場。彼らの奏でる音楽は哀愁がある異国の調べ。スラブ系の音がしています。映画で言うなら「アンダーグラウンド」に出てくる吹奏楽の音といいましょうか。とにかく、どこか異国へ連れて行ってくれるような、しかし日本人が奏でているせいか、ちょっとサーカスとか見世物小屋チックな音です。

 2階の階段から出発した彼らは1階のロビーに下り、扉を通って舞台へ移動。私は2階席だったので扉の後の彼らは見逃しましたが、観客の歓声からすると、恐らく舞台上で演奏を終了して拍手をもらったようです。

 今日の蜷川はどこかに連れて行ってくれるかもしれない。そう期待しながら2階席へ。 そして物語は始まりました。

 風の音。そして宙を横切る魚とバスタブ。意図するところは不思議な空間への誘い。特定の必要がない異国への切替なのでしょうが、何かどこか和風です。うーん。どんな話しなんだろう。と2階席から見下ろす格好で舞台をじっと見つめます。舞台の設定はとある小さな村らしく、村人が集まる中、ボロボロになってしまった翼を持った人間が運ばれてきます。

エレンディラを探し続けているらしい翼を持つ男。そしてそんな彼を取り巻く日本ではないある村の人々。そしてエレンディラについての物語が語られて行きます。

 エレンディラは少女。エレンディラは娼婦。エレンディラは祖母に支配されている娘。エレンディラは男なら誰もが抱きたいと思う魅力的な少女。エレンディラとそのおばあちゃんは、人が集まるところにテントを張り、入り口で「おばあちゃん」がお金を集め、テントで孫のエレンディラが体を売っている。

 うーん。異国・・・異国なんだろうけど、このテイスト、どちらかというと「唐」とか「寺山」とか、あるいは「乱歩」みたいなんですけど。この見世物小屋テイスト溢れる舞台は、MCの男の横にある紙芝居といい、蜘蛛女といい、完全なる「日本」で「昭和」で「東京の下町」。見世物小屋は海外にもあるので、そこが問題だとは思いませんが随所に昭和テイストが身請けられます。

 登場人物は全員横文字の名前を持ち、洋服を着ているにもかかわらず、日本だな〜という世界。ここで本来目指す見世物小屋は乱歩ではなく映画『ロストチャイルド』とか小説『ダレンシャン』のようなものであって欲しいと私は思うのですが。

 この舞台。Gガルシア・マルケスの世界観とは違っているんじゃないかなぁ・・・まあ、そういう演出ですと言われてしまえばそれまでなのですが。でも、「日本の話しにします」というには「バタ臭さ」があり、異国ですと言うには、浅草テイストが残っている。おお。これぞ、有る意味何処にもない世界(笑)

 でも、期待する「どこか知らない場所へ連れて行ってくれる」というには、記憶の中にある世界すぎており、「連れ去られる」事を期待したのに、「掛け違え」を感じさせられるという状況に陥ってしまいました。舞台から受けるものはある種の中途半端さ。娼婦役だけに随所でヌードにされ、体当たりで頑張った美波の女優魂は讃えますが、その受け皿がもう少し冴えていたらなぁと思わずには居られませんでした。

 と、ここまで言いたい放題ですが(笑)物語が進むうちに、ある事に気づき始め、私にとって舞台の出来は二の次になってきたのです!

『私は、この物語を知っている!』娼婦の孫娘とおばあちゃんと、男の子。そして風が吹く町。逃げたくても逃げられない女の子。この物語、もしかして・・・

と思っているうちにインターバルへ。休憩時間に一緒に観ていた友人に、ちょっと興奮気味に私がずっと何という物語なのか知りたくて、知りたくて気になっていた物語かもしれないと話します。

「この後、おばあちゃんが、とにかく死なないの。毒を盛っても、何をしても、もうブラックユーモアの世界で。もしそうなったら、これは完全に私が探していた物語で、ずっとひっかかってた映画の正体だわ!」と。

 そして休憩後。先ほど語った通り、毒を盛り、何とかしておばあちゃんを殺そうとするエレンディラとそのボーイフレンド。ああ、この話しだったんだ!!と期待が確信になり、長年の謎が解けた私には思わず笑みが。そうか。ガルシア・マルケスだったんだ。あの何とも言えない不思議な魅力を持つ映画の原作は彼だったんだ。十数年来の謎が漸く解けました。もう、今日はこれだけで大収穫です(笑)

 休憩を含めて4時間近い長丁場の舞台。はっきり言って、観ている方も演じている方も大変な作品です。脚本は原作を元に書かれた日本人の作家の手によるものなので、翻訳物とは違い、その言葉が確信を持って作者に選ばれているが故に力強い響きを持っていました。それでなければ演じる方も見る方も、この長時間に耐えられなかったかもしれません。

 それぞれが、それぞれに体当たりでこの作品に向かい合ったのだろうと思われるこの「エレンディラ」。
蜷川版の本作は、私が映画の中に見た世界とは非なるものであり、孫娘とおばあちゃんの血の絆を、逃れられない血族の縛りを感じるには少し薄味な演出で、色々考える所がありましたが、一つだけ強く確信する事がありました。それはこうです。原作は凄い力を持っているに違いない。

 


◆9月01日◆MOVIE◆リトル・チルドレン◆

 とある、アメリカのベッドタウン。この物語は、その街に暮らす二組の夫婦と小児性犯罪者の帰郷の物語です。

 題名にある通り、本作の軸になる3人は大人といわれる歳であり、そのうち2人は親でもあるのですが、大人になりきれていない大人達です。
 物語は、淡々と語る男性のナレーションで繋がれていきます。この「ナレーションで繋ぐ」という形式は、物語の進行を促し、一つ一つのエピソードの繋ぎをスムーズにする役目を果たしていますが、登場人物たちを客観的に見ているという描き方のスタンスの提示という役割も担っています。

 専業主婦である事に疑問を持つ一人の母親。ネットのポルノサイトに性的ファンタジーを 見出し夢中になっているその夫。
司法試験を受ける為に主夫になり、妻の収入で生活を送り、本当にこれでいいのだろうか? と疑問を感じて居る一人の父親。そして美しく、バリバリと仕事をこなしていくパーフェクト なその妻。
 専業主婦と主夫は子供を遊ばせている公園で出会い、不倫の関係になります。そしてそんな二人が住む街には、服役して帰郷した小児性愛者と、彼を拒絶し続ける街の人々が。そして彼の行く末を心配する年老いた母親が住んでいるのです。

 この物語には、拒絶、倦怠、人には言い難い嗜好、逃避といった様々な感情や状況が渦巻いています。誰もが身に覚えはあるけれど、口に出してはいい難い部分をあえて描いていく。人間の暗部をかたよることなくバランスを保ちながら描いて行く為には、ナレーションを入れるというスタイルが必要不可欠だったのかもしれません。

 この映画は物語りの設定を読んだだけでも分かるように、現代社会の病んだ部分を扱った重い内容ですが、登場人物は全員取り返しのつかない決定的な所に行ってしまう一歩手前で、それぞれ痛い目に会い目が覚めます。その、取り返しのつかないダメージを受ける一歩手前で目が覚める、というところに救いがあり、それ故重い内容であるにも関わらず、観た後しばらく物語を引きずってしまうような事はありませんでした。

 夫婦揃って観に行った人が、鑑賞後何とも言えない空気が流れて居心地が悪かったと語っていましたが(苦笑)この映画は一人で観に行き、一人で帰ってくるタイプの映画です。
 何故なら、これは人間の「うしろめたさ」に関する物語であり、イコールではないにしても、どこかに「身に覚えのある感覚」が見え隠れしている物語なのですから。


<August>

PLAY・お気に召すまま/MOVIE・シッコ

◆8月30日◆MOVIE◆シッコ◆

 ティーンエイジャーの頃、ディズニーランドにハリウッド映画、MTVから流れる音楽やファーストフードといったアメリカ文化に何の疑いも持たずに囲まれて育った私にとって、アメリカという国は憧れや夢の対象であり、アメリカ=幸せな国、進んでいる国として存在していた。

 それが、どうも違うらしいと感じ始めたのはいつ頃からだろうか。ミニマリズムとカテゴライズされた米文学を読み、いわゆるハリウッド映画以外の映画を観るようになり、直接アメリカ人と話す機会が出来る頃には、アメリカという国はどうもおかしい。かなり病んでいるという事に気づき始めた。
 そして、登場したマイケル・ムーア。映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」はアメリカ国内のみならず、日本を含む海外諸国にもショックを与えるに十分な作品だった。  銃社会から見えてくるアメリカという国。そして今回彼が取り上げた医療制度についての作品「シッコ」。この作品が我々に投げかけてくる物は、アメリカの掲げる資本主義とは一体何なのかという憤りを含む疑問と、他人事とは言えない恐怖である。

 アメリカには国が運営する医療保険が存在しない。あるのは民間企業の医療保険のみである。医療とは人の命に直結しているものである以上、「医療保険」を司るのが「利益を追求する企業」であってはならないと思うのだが、アメリカではそれが現実であり、それ故様々な問題が起こっている。
 まず、数十ページに渡る膨大な病歴チェックリストをクリアしなければ保険に加入出来ない。 そして運良く加入し、給付を受けられると安心していてもいざ支払いの段になって、過去の病歴などを理由に、給付を拒絶されるケースが多発している。保険会社は支払い拒否の為の調査員を雇っているし、お抱えの医師は治療の必要は無いと判断を下す度に出世していく。
 「企業」である「保険会社」は支払いを極力抑える事で莫大な利益を上げている為、契約内容には驚くような事が沢山書かれている。  例えば・・・救急車は事前予約が必要である。救急車のサイレンはオプションである。鳴らして欲しければ、別料金を請求する。あなたが加入した保険が利用できるのは、この系列の病院のみである。それ以外では保険の適応はない。(故に緊急事態でも病院の受け入れを拒否され命を落とす人が多数存在している)
といった、目を疑うような文字が並んでいるらしい。ドラマ「ER」を見ていて、この治療は出来るとか、出来ないとか言っていたのを思い出すが、まさか救急車まで簡単には使えない保険があるとは思わなかった。
 最新の医療を持っているはずの国で、医療保険に加入していないある人は、事故にあって縫うほどの大怪我をしても病院には行けないので自分で足を縫っていた。また、作業中に誤って中指と薬指を切断してしまった男性は、切り落としてしまった指を持って医者に行ったが、何百万もする指の縫合の治療費が払えず、中指をあきらめ薬指だけを縫合してもらって帰ってきた。もちろん、治療費さえ払えれば、彼は今でも自分の中指を今まで通りの形で使うことが出来ているはずだ。心臓発作を3回起こした夫と、ガンを患った妻は、恐らく二人とも保険に加入していたが、50代にして医療費が払えず破産している。「シッコ」の中にはこのような例が次々に登場する。

 マイケル・ムーア監督は、私に言わせれば、「ドキュメンタリータッチ」の映画監督であり「ドキュメンタリー」を撮る監督ではない。ムーアの作品は、彼の主観のもと導かれるべき結論が先にあって、そこに向かって突き進んでいく作品だから、というのがその理由なのだが、主観はどうであれ、今列挙した事はアメリカで現実に起こっている事であり、紛れもない事実である。
 医療費が払えない患者を、タクシーに乗せてホームレス収容施設の前に「捨てに行く」病院。ドナーが見つかっているのに、手術を拒否する病院。ボランティアで911の処理に出向き、呼吸器官に重い疾患を持ってしまった人々に手を差し伸べない国家。突然の高熱で救急で運ばれた2歳未満の少女を、加入している保険がその病院では使えないという理由で治療拒否をし、死なせてしまった病院。そして、利益を上げ続け、政治家への献金で影響力を更に伸ばし続けていく保険会社。
 今の保険制度はニクソンの時に端を発っし、ヒラリー・クリントンの登場で皆保険への方向転換が漸く行われるかと思いきや、彼女まで献金により丸め込まれ、今や保険会社は政治家達の重要な天下り先と資金源になっているらしい。
 適切な医療を受けられず命を落とすアメリカ人は年間1万人をくだらないという。一方、この中に登場するカナダ、イギリス、フランス、キューバは財源をどうしているのかまでは描かれていなかったが、基本的に治療時の医療費の支払いは無い。基本的に、人々は貧富の差に関わらず、治療を受ける事が出来ている。

 持てる者はとことん持ち、持てない者はとことん持てない国アメリカ。考えてみれば、当然といえば当然の話しである。何せ、そこに存在しているパイの数は決まっている以上、1人が多くを持つようになれば、それだけ持たない人が生まれてくるのだから。
アメリカの現在の姿が「資本主義」の完成形だとしたら、「共産主義」が破綻したように、「資本主義」もまた破綻の道を歩んでいると言わざるを得ないのではないだろうか。  この映画の描き方は極端であるにしろ、現在のアメリカは安心して暮らせる国とは言いがたい。安全も、健康も、全てお金があってこそ初めて手に入る物であるというのが余りに明確である。逆に言えば、底辺に居る人間は切り捨てられている。
 911のボランティアに行き、その後呼吸器官の疾患に悩み続けている女性が、マイケル・ムーアに連れられて、仮想敵国として教育を受けて来たキューバに行き、手厚い看護を受けた時、優しくしてくれたキューバ人医療スタッフを前に、涙ながらに「悪魔の国と教えられてきたキューバが、こんな温かい国だったなんて」と語る場面がある。このシーンを見た人は、アメリカの「教育」にすら疑問を持ち始める事だろう。

 今までのムーアの著作や映画によると、大統領選挙が公正に行われたどうかには疑問が残り、教育は国家にとって都合の良いように偏っている可能性が大いにあり、資本主義という名のもと、企業と政治家の癒着は強固なものとなり、富める者のみが住み心地の良い国となっているのがアメリカである。しかも、質が悪い事にその国は他国への影響力も大きいのである。

 国民皆保険が行われている日本。しかし、日本の医療費の負担は年々増えるばかりで、既に保険料を支払えない人が多く存在している。そして、言うまでもなく格差社会は広がりを見せて いる。そんな日本に住む我々は、この映画で描かれる医療制度を他人事とばかりは言っていられない。現に我々の医療費の負担は増え続けているし、保障は年々手薄になってきている。

 完璧な国、というのはありえない。国民全員が満ちたりた健康な生活を何の不安もなく送る事が出来る国家の運営というのは不可能であると思う。しかし、強者だけが生き残り弱者は切り捨てられていく国というのはいずれ、破綻が来る。強者を支える弱者が居なくては、強者も共倒れになってしまうのだから。
 共産主義国家が次々に方向転換をせざるを得なくなったように、今、資本主義国家も方向転換を迫られる時が来ているのかもしれない。
 ムーアの作品の存在価値。それは、彼の主張を知る事ではなく、日頃その中に居るが故に麻痺しているのかもしれない社会について、はたと見直し考えさせるきっかけとなる。その一点にあるのではないだろうか。


◆8月13日◆PLAY◆お気に召すまま@シアター・ドラマシティ◆

 オールメールの蜷川シェイクスピアシリーズ。今回は今人気の小栗&成宮による『お気に召すまま』です。
 このシリーズは、毎回音楽がその舞台の演出スタンスを提示ていると思うのですが、今回はどう来るのかとおもいきや、何とロックをセレクト。ほう、今回は若さで突っ走るのか?と思わせるオープニングです。出演者の最初の登場も、普段着のまま会場後方のドアから舞台まで駆け抜けるというもので、前回までのシリーズが、最初から時代もののコスチュームで登場していただけに少し意外な展開でした。今から普通に現代劇が始まってもおかしくないという状態の中、物語はスタートしました。

 有名な話ですし、話しのあらすじをここで取り上げる必要はないのでそこは省略しますが、今回まず驚いたのが客席の反応でした。

 最初、出演者全員が登場した際、キャーという黄色い悲鳴が・・・恐らく「花沢類(小栗旬)」のファンが沢山来てるんでしょうね。蜷川の舞台で今まで体験したことの無い反応に、こっちが驚くばかり。そして、驚くべき私語の多さ。これにはちょっと閉口しました。芝居を観に来ているのに、「顔がちっちゃい」とか「かっこいい」とか何故今、ここでしゃべらなくてはならないのか、さっぱり分からない。しかも、40代、50代ぐらいのおばさまが良くおしゃべりになる。私の後ろの年配の方はとかく良くしゃべってくれましたが、私と一緒に観に行った友達の前も横も同様な人が居て・・・ファンが増えるのはいい事ですが、ちょっと残念な状態に陥っているようです。一緒に行った友達は、小栗&成宮がそれほど人気があるとは知らなかったもので、最初のキャーに「誰が出てるの?!」となってしまってました(苦笑)『間違いの喜劇』『タイタス・アンドロニカス』など、小栗旬の舞台は今までも観てきていますが、この客席の反応は今回が初めてで、本当に驚き、かつ、残念です。小栗旬にしても、演技を観に来て欲しいだろうに・・・

 さて、劇場のマナーについてはこれぐらいにして、小栗旬です。『間違いの喜劇』のあたりから舞台用の声が出てくるようになり、最近では安定した発声で自由に演じられるようになって来ています。彼の発音、発声を聞いていると、蜷川というより私としては吉田さん(蜷川カンパニーの主軸の一人)に鍛えられたな〜と思うのですが、確実に先輩に鍛えられて日々成長しているようです。そして、皆が騒ぐのも無理はないと思う美しい姿。蜷川が、ロンドンに彼を連れて行く時に、旬、お前のその外見は武器になる、と仕切りに言っていた姿かたちは、日本でも十分武器になっています(笑)

 恋に悩みながら、アーチ型の森の木の枝に登り佇むオーランドーを演じる小栗旬は以前『間違いの喜劇』の時にも書きましたが、少女漫画から抜け出して来たようで、いつものように少しやられてしまいます。切なさとか、若さとか、色々な物を彼を見ていると感じるのですよね。かなり前に、本人がロミオをやりたいと言っていましたが、そろそろ彼のロミオも見てみたいかなと思いました。

 さて、そんな小栗旬演じるオーランドーが恋焦がれる女性、ロザリンドを演じるたのは成宮寛貴。彼が女装をして女を演じるのですが、思ったより彼の体は男性的で、率直に言ってしまえばごつすぎて女性に見えませんでした。残念ながら演技力でそれを覆い隠す事も出来ていなくて・・・発声にも無理があるようで声はかすれていましたし、滑舌も少々難有りで、大阪の千秋楽で疲れていたのかもしれませんが、正直ちょっと残念な状態でした。と、正直に駄目だししてしまいましたが、一つなるほどというか、へ〜と思う事がありました。私にとっては面白い発見だったのですが、成宮の女装は違和感があるのに、ロザリンド(成宮)が訳あって男装をするシーンになると、女性が男装しているように見えるのです!女装はだめなのに、男装はそれらしく見えるという(笑)これはちょっと不思議な出来事でした。女装で女性にはなれないのに、男装で女性になれるんですよね。彼には男装の麗人を演じるのにぴったりな「しな」があるのです。彼が元来持っているものなかもしれませんが、女装より男装に「女性」を感じるというのはちょっと意外な展開でした(笑)

 ところで、今回特筆すべきはロザリンドの友達シーリアを演じた月川悠貴です。初めて彼を見た時から、その華奢な肩も声の高さも、もう女性としか思えないと思っていたのですが、舞台を重ねるにつれ美しさにも、演技にも更に磨きがかかって来ています。本当に素晴らしいの一言。彼の立ち居振る舞いは気品があり、回を重ねるごとにその存在感が増してきています。彼独自の世界が構築されて来ているのです。彼の印象を一言で言うなら「動じない」の一言なのですが、素晴らしいマイペース感と、時折見せてくれるウィットが、かなり病み付きにさせてくれます(笑)得難い役者ですね。蜷川演出以外の彼も見てみたいです。

 得難いといえば、今回道化役で大活躍だったのは田山涼成。ドラマの脇役で見る彼とは違い、このお茶目っぷりはなかなかチャーミングでした。舞台の人なんだなぁと思わされます。

あ、今思い出しましたが、今回本物の羊が登場したのですが、坂本メイちゃんという羊は、おとなしくて本当に良い子でした。

 と、色々書きましたが全体を通して感じた事。それは、私はやっぱりシェイクスピアがどうも好きらしいという事でした。次々に繰り出される台詞を聞いてると、楽しいな、面白いなって思うんですよね。そして、時折主役ではない、脇役の台詞にはっとさせられたりするのです。
 羊飼いが語る「俺は正真正銘の働き者だ。食うもんは自分で稼ぐ、着るもんも自分で手に入れる。人の恨みは買わねえ、誰の幸せだってうらやましいとは思わねえ、他人の喜びは俺の喜びだ、自分の不幸は甘んじて受け入れる」とか、「恋とはため息と涙でできてるもんだ」なんて言葉が、独自の輝きを持って耳から心に入り込んでくるのです。

 今回の演出には少々ばらつきを感じもしましたが、シェイクスピアの作品そのものが持つ力と、役者たち自身が持つ力がこの作品を支え、楽しい物にしてくれていました。オールメールのシェイクスピアシリーズ。今度はどの作品で、どんな役者で見せてくれるのか今から楽しみです。


<July>

MOVIE・インランド・エンパイヤ/PLAY・犬顔家一族の陰謀
MOVIE・ヒロシマ ナガサキ/PLAY・ルグリと輝ける仲間たち 2007


◆7月30日◆PLAY◆ルグリと輝ける仲間たち 2007@フェスティバルホール◆

 今、世界で最も素晴らしいバレエダンサーを上げよと言われて、すぐ頭に浮かぶのはマニュエル・ルグリを筆頭とするパリオペラ座のダンサー達です。
 国家公務員であるパリオペラ座のダンサーには定年があり、ルグリも再来年には定年を迎える今、彼らの来日公演は見逃せないものとなっています。

 今回、エトワールのオーレリー・デュポンは怪我で欠席。華やかなオーレリーが居ない舞台は寂しいですが、私の一番の目的は何といってもモニク・ルディエールとルグリのオネーギン、そして、マチュー・ガニオの成長ぶりだったので、大いに期待して劇場に向かいました。

 まず、最初のタランテラ。バレエの醍醐味の一つは、幕が開いた途端に連れて行かれる別世界、非日常というものだと思っているのですが、今回は来日しかもガラ公演なので、残念ながらセットは一切無し。照明の色だけがあるという、とかくシンプルなもので、華やいだ感じは少々薄くなっています。

 メラニー・ユレルとアクレス・イボは流石パリオペだけに確実な踊りを見せてくれます。が、メラニーの方が少々筋肉質すぎるようで・・・失礼かもしれませんが、胸が筋肉に見えるという(笑)ちょっとマッチョな感じ。パリオペでは珍しいような。  続く白鳥はもちろん、ヌレエフ版。そしてヌレエフ版だけに、もちろんロットバルトが魅力的!!黒鳥のパドゥドゥですが、しっかり3人で出てきて魅せてくれます。3人が登場した瞬間まず目を奪われたのはそのスタイルと衣装。オーディールのチュチュの色と飾りが本当にモダンです。そしてそして、ロットバルトのマントがかっこいい!!ドレープが綺麗です。もちろん、立ち居振る舞いが美しいという事なのですが。

 実はヌレエフ版白鳥はウィーンの国立歌劇場で全幕観ているのですが、何というかお国柄なのでしょう。ちょっと牧歌的だったのです。そして、振り付けが難しいので、慎重になりすぎてテンポがスローになってたような(笑)

 今、目の前で踊られている本家本元のパリオペヌレエフ版は、うっとりするぐらい華やかでモダンです。ああ、全幕で観たい!!!そして、ロットバルトを踊っていたステファン・ビョヨンは私のチェックリストに仲間入り。ローラ・エッケも長くて細い手足が本当に鳥の動きにぴったりで、彼女も今後が楽しみです。

 さて、注目のルグリ。「小さな死」はキリアンの作品です。照明が落とされた舞台で男性ダンサーが一歩足を踏み出した瞬間にルグリの動きだと分かりました。クラッシックの音の中、一組の男女が動いています。キリアンらしい複雑なリフト。そして一切の装飾を拒絶した衣装。ルグリの動きを見ていると、彼がいかに動きに満ちているかが分かります。そしてそれにしっかり応えるミュリエル・ズスペルギー。オーレリーの代わりに踊るのはさぞかし緊張する事でしょう。

 以前、ダンサーの表現力のピークとテクニックのピークが一致する時間は短く、表現力が上昇するにつれ、肉体は歳を重ねるのでそのバランスは反比例していくとルグリは言っていました。確かに彼の表現力は年々向上していると思いますが、ショートパンツだけで踊る彼の体は年輪を感じさせるものになって来ています。彼の体は動きに満ち、その動きは一分の隙もないものでしたが、彼の肉体の変化は、現役でいる時間が永遠には続かない事を感じさせるものでした。

 キリアンの作品を踊りきった時、相手役のミュリエルに対するルグリの良く出来ましたという表情と行動は、正しく師弟関係のそれで、ダンサーとしての彼よりも弟子が踊りきった事を喜ぶ師としての彼の姿を見る事になりました。

 さて、お待ちかねのマチューです。マチュー・ガニオは言うまでもなく、エトワールだったデニス・ガニオを父に持ち、ドミニク・カルフィーニを母にもつ正真正銘のサラブレッド。パリオペラ座バレエ学校時代のコッペリアが映像として発売されていますし、幼少の頃はローラン・プティの『私のパブロワ』で、主役を演じる母と共演したフィルムが残っているという、とにかく小さな頃からバレエファンには知られた存在です。そんな彼が確か19歳にしてエトワールになった時には、話題騒然でした。19歳でエトワールというのは、シルヴィ・ギエム以来じゃないかと思うのですが(間違ってる可能性ありですが)とにかく、話題の多いマチュー君なのです。

 実は前にもこの『ルグリと輝ける仲間たち』に参加していて、私は東京で彼を見たのですが、その時の彼はエトワールになったばかりで疲れていたのか、大丈夫?と心配になる出来でした。その後、物凄く良くなってるという評判を聞いていたので、今回非常に楽しみにしていたのです。

 という訳で、期待に満ちながら彼の登場を待ちます。そして、幕が上がった途端、舞台がパーっと華やかさに包まれました。これです。これなんです。エトワールに必要なのは、この華なのです!エトワール=星ですからね。輝いてないといけません!!

 彼の登場を待ち構えていたファンは数知れず。出てきただけで客席は拍手で包まれます。それに十分に応えているマチュー。
 ルグリ振り付けの「ドニゼッティー パ・ド・ドゥ」は情け容赦ない(笑)跳躍が続きます。これは安定したテクニックの持ち主でなければ踊れないという代物です。

 そしてマチューは、私が東京で見た彼とは別人でした。一つ一つの動きは美しく、もうどこから見ても、立派なエトワールです。パリオペのお姉さま方&ルグリにさぞかし鍛えられたんだろうと思う成長振りでした。素晴らしい!もう、絶対に全幕物でマチューが観たい!!!

 あ、忘れてたわけではありませんが、パートナーのドロテ・ジルベールも美しく、これからの活躍が楽しみなバレリーナでした。
 あっという間にマチューの出番は終了。残念ながら今日のプログラムでマチューが踊るのはこの演目のみ。もう踊る姿が見られないと思うと拍手にも熱が入ります。

 マチューが出て来た途端、かなり前の方の席なのにオペラグラスで見始めた人を数人確認したのですが、終わった後のカーテンコールも、スタンディングしている人が居て、彼には熱烈なファンが多く居るのがよく分かりました。

 休憩の後、今度は若手のみで踊られるコンテンポラリーの作品「ビフォア・ナイトフォール」が始まります。コールドで始まり、パ・ド・ドゥが3組あり、またコールドで終わる。この作品には、1部でチェックしたロットバルト役だったステファン・ビョヨンもパ・ド・ドゥの二組目で登場します。コンテンポラリーにも強いパリオペ。そして若手の踊りを見ながら、層の厚さ、着実に次世代が育ってきている事を感じます。この中でまたちょっとお気に入りを発見。踊りに惹かれているのか、ルックス(姿)がタイプなだけだったのか定かではありませんが(笑)今後チェックだなと私は思ったのはグレゴリー・ドミニャックです。
 インターバルで早速これからのプログラムをちぇっく。すると、今日私がチェックしたステファン・ビョヨンとグレゴリーが3部で一緒に踊るではないですか!嬉しすぎる。嬉し過ぎます(笑)

 さて、楽しみにしていたステファンとグレゴリー、二人のデュエット。カインとアベルをテーマにしたコンテンポラリーダンス「アベルはかつて・・・」です。思った通り、なかなかいいのではないでしょうか。自分の目は確かだと自画自賛(笑)まだまだ成長段階にあるダンサー二人ですが、これから伸びて行く可能性を感じます。

 次に登場したのは、ベテラン組ですね。アニエス・ルテステュとジョゼ・マルティネス。作品は「ジュエルズ」の「ダイヤモンド」。この作品は以前にパリオペ来日公演で全幕で観ています。マルティネスももういい歳だな〜と思いつつも、そのスタイルに流石!と拍手を贈ってしまいます。マチューのような華やかさはありませんが、そのスタイルと動きにいつもダンスールノーブルだなぁと思うマルティネス。そして、彼女も地味なのですが、プロだなと思うアニエス。二人とも安定しています。

 そして、遂に今日のメイン、オネーギンが始まりました。机で手紙を読むモディク・ルディエール。その佇まいだけで、既に演じている女性のキャラクターがこちらに伝わってきます。可憐でありながら芯が強く、物静かでありながら、情熱的である女性。この両極とも言える要素を同時に存在させる事が出来るルディエールからもう目が離せません。跳躍がある訳でも、回転する訳でもないのですが、彼女の一つ一つの動きには言葉があり、観ているだけで次第に目が涙で潤んできました。静かに訪れた感動に包まれた瞬間でした。

そして、ルグリの登場。決別の場面を二人が演じていきます。ルディエールが引退した時、二度とこの二人の踊りは見られないんだと、マノンの一場面を見た時の記憶を時折反芻していた私ですが、再び見ることが出来るこの幸せ。そして、以前に増して素晴らしいルディエール。この舞台は「ルグリと輝ける仲間たち」なのに、今までの全てがルディエールにもってかれてしまいました。現在ロゼラ・ハイタワーバレエ団の学校長を務めるルディエールですが、その動きは全く衰えをみせないどころか、更に輝きを増しています。
 彼女が到達した場所はこれだったのかという驚き。そして感動。大げさな言い方だと思われるかもしれませんが、神の域だと感じるほどの圧倒的な存在感。気付くと今、彼女が目の前で踊っている一瞬一瞬を記憶に焼き付けておかなければという強い思いだけが私を支配し、ルグリではなくルディエールだけを観ている自分がそこに居ました。
 あっという間に終わった「オネーギン」。涙に潤む目で拍手をしながら、全幕をこの二人で観たいと切に思います。後で知ったのですが、友人もルディエールを観ながら泣いていたそうです。

 久々に観たバレエ。パリオペラ座バレエの才能あるダンサー達。そして、久々に観たルグリとルディエール。踊るという事に全てを捧げているダンサーを観る事が出来たという感動。本当に観に来て良かったと、感動に包まれながら私は家路に着きました。


◆7月30日◆MOVIE◆ヒロシマ ナガサキ◆

 最近の小中学校では、修学旅行に平和学習を兼ねる事は無くなって来たという。実際、私の母校も某テーマパークが修学旅行先になっていると聞いている。

 私の小学校時代の修学旅行先は広島で、中学校は長崎だった。小学校の高学年になり、被爆者の写真や様々な資料を初めて見た時の衝撃は未だに覚えている。修学旅行の夜、被爆した方からの話しを直接聞いた事も鮮明に覚えているし、アメリカで原爆についての展示が中止になったというニュースに憤りを感じたのも記憶に深い。

 今回ある理由があり、このドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』を観る事になった。きっかけが無ければなかなか見に行かない作品だったと思うが、久しぶりにメディアを通して直視した原爆の被害は、多数の国家が核を保有している今の地球に住む人であるなら、知っておくべき現実であった。

 本作はアメリカ在住の日系アメリカ人監督によって製作された。この作品は、どちらかに偏る事なく、日米双方の人々の証言と、当時のニュース映画で構成されている。広島への原爆投下で亡くなった方は14万人。そして後に原爆症により亡くなった方も同数に近いという。

 映画の冒頭、東京の繁華街に居る若者に「8月6日、9日は何があったか知ってますか?」という質問が続く。それに応えられる人は一人も居ない。これはたまたま知らない人ばかりにインタビューしたというのではなく、恐らく実際に知らない若い世代が増え続けているのだろう。

 日本の教育において、昭和の歴史は余り教えられない。中学でも高校でも3学期に入り、昭和を教える時間がなかったという大義名分の元避けているのではないかと感じていた学生時代。戦争責任など非常に難しい問題を含んでいるが故に取り上げにくい現状があるのも分かるが、戦争とは一体どういう事なのかを教える義務は、教育の場にはあるのではないかと思う。そして戦争を知る世代が少数となり、平和である事が当たり前になっている日常の中、世界唯一の被爆国であり、先の大戦で敗戦国となった日本に住む日本人が、過去においてどのような経験をしてきたのかを知る権利が学生にはあるはずだ。

 先日、仕事の関係で空襲を受けた女性の話しを聞く機会があった。戦争経験者の高齢化に伴い、直接話しを聞くというのは貴重な経験になってきている。体験者の言葉は、様々な資料よりも重く記憶に強く残る。

 平和学習をする時間が無いというのであれば、本作を学校で上映すればいい。約2時間という短い時間の中で、今後この世の中で生きていく上で必要な、自分たちを守る為の知識と平和を尊ぶ強い思いが子供たちの中にきっと生まれる事だろう。

 広島、長崎に投下された原爆の何倍もの威力で、比べようもない程増えてしまった核兵器が存在している今、この地球に住む以上日本人に限らず世界中の人が、それがどいう現実を引き起こすのかを知るべきであると思う。


◆7月29日◆PLAY◆犬顔家一族の陰謀◆

 最近劇場の帰りに、「あー楽しかったなぁ」と単純に思えるのは劇団新感線なのですが、今回も笑って笑って、楽しかったなぁと満足して帰ってきました。って、これだけで終わりでもいいのですが(笑)もう少し語っておきましょう。

 最近の新感線の舞台は、本当に満足度が高いです。お芝居を観たな〜って思える後味が良いのですよね。距離感が丁度いいというか。小劇団テイストが面白いというか。

 今回印象に残ったのは、スクリーンを使っての映像の多用でしょうか。セットになったり、映画のパロディーをやってみたりと非常に上手く組み合わせて使ってました。映画『犬神家の一族』を見たことがある人なら、随所に笑いのツボが出てきます。そして、次々に繰り出されるパロディの嵐!

 冒頭いきなりオペラ座の怪人が始まったのかと思いきや、それが実は「オペラ座の飼い犬」で、コーラスラインの「ONE」が「ワン!」でキャッツが犬って、あはは〜。やってくれるぜ、新感線!ですよ。つかみはOKです!

 そして金田一耕介にそっくりな田真一耕助之介を演じるクドカンも、長女を演じる木野花もGOOD!勝地涼は必死に馴染もうとしてましたね(笑)池田成志は最近痩せたんでしょうか。随分スリムになってて、ちょっと心配なぐらいでした。

 さて、木野さん。日頃彼女が出ているお芝居とタイプが違うのか、皆のやり取りに本気で笑っちゃって台詞が言えなくなったり、肩を揺らして必死で笑うのをこらえていたりがおかしい、おかしい。泣いた赤鬼まで熱演してるし、本当に色々な意味で頑張ってましたよ。鼻の頭を犬のように黒くして(笑)

 山のような小ネタの渦の中「あなたはいくつ元ネタが分かる?」と、いのうえさんに挑まれているような気にすらなってしまうこの舞台。夏祭り気分で観るには本当に楽しい作品でした。

 ところで、スケピヨは磯野さんだと分かったのですが、あの「デスノート」のデューク風な歌手、中身は誰だったんでしょう??その謎だけが残りました(笑)


◆7月21日◆MOVIE◆インランド・エンパイヤ◆

  デイヴィッド・リンチの映画を映画館で観たのは、この『インランド・エンパイヤ』が初めてである。リンチの作品で一番印象深いのは、やはり何と言ってもドラマ『ツイン・ピークス』で、放送当時WOWOWで欠かさず見たものだ。そして一番驚いた事は、ラス・タンブリン(リフ)やリチャード・ベイマー(トニー)といった映画『ウェストサイド物語』の役者がやたら出ている事だった。

 まあ、それは作品とは関係の無い話しなのだけれど、とにかく、謎に次ぐ謎。そして、ひっぱるだけひっぱって行き着いた先が心霊現象&アナザーワールド。ここまでひっぱって来てこれオチか!とがっくり来てしまった私は、恐らくデイヴィッド・リンチに向いてない。何故なら、それがリンチを語る上で欠かせない要素の一つなのだから。

 今回3時間もある長編映画を観るに当たり、それなりの覚悟は出来ていた。恐らく、謎がとめどなく出現し、頭で理解する性格の作品ではなく、自分の感覚、直感こそが必要とされる作品だろうと。分かろうとしない。とにかく摂取し続ける。これが必要とされているスタンスなんだろうと。

 初日に訪れた劇場は、予想よりも観客が多く、しかも男性が多かった。一人一人、リンチが好きなんだろうなと何となく感じられる、妙にこだわりがありそうな人々。リンチは日本で根付いているんだと少しばかり驚きをもって見渡してしまう。

 さて、ここからはネタばれもあるので、今後本作を見る人は読まないで欲しい。

 この映画のキーとなるのは、最初に登場する女性である。ある部屋で一人、泣きながらテレビ画面を見る女。彼女は一体誰なのか。それがきちんと説明される事はリンチ作品だけにありえない。がしかし、この映画のキーパーソンは間違いなく彼女である。

 彼女が見ている画面の中では、ウサギのぬいぐるみのかぶり物をした男女がホームドラマの設定の中で芝居をしている。それを見ながら笑う人々の声。そしてとめどなく続く、イメージ映像とも言える映像の連鎖。いうなれば、リンチという人が見ている夢を作品として観ているようだ。何せ夢は本人にとってはつじつまが合った短い物語の連続なのだから、あらゆる制約を受けず、自由に浮遊出来る。

 物語はあるいわく付きの映画を撮るという大きな括りの元に進められる。以前「47」という映画を撮ろうとしたところ、主人公2人が亡くなってしまい、お蔵入りになってしまった。そのお蔵入りになってしまった映画を「暗い明日の空の上で」というタイトルにしてリメイクする物語である。ジェレミー・アイアンズ演じる監督が、ローラ・ダーン演じるニッキーとう女優を主人公に映画を撮っていく、その過程の一部始終がこの映画では映し出される。という訳で、この物語は現実の世界、今撮っている映画の世界、そして過去の映画47の世界が混ざり合うという、何層にもなった構造を持っている。そして、リンチらしくこの3重、4重の世界は、今、どの世界を描いているのかを分かりやすく説明する事なく、その断片が次々に登場するのである。そして時にはその世界同士が影響し合う。

 一つ一つの断片には意味があり、それは何なのかという謎を解く事に喜びを抱くリンチファンにはたまらない作品だろう。3時間それが延々と続くのだから。

 しかし、私にとっては、リンチが投げかける謎は解かずには居られない物ではない。ツインピークスの頃から、リンチの投げかける謎は謎で放置してもいいと思ってしまうのだ。何故なら、それにより人間の心の深淵を覗き込むような体験が出来るとは思えないし、答えが出るタイプのものでもないと思うから。

 結論を言ってしまえば、映画の冒頭に登場する、部屋の中で一人涙している女性は、映画『47』の主演を演じた女優なのだろう。彼女は亡くなったと言われているが、ある世界では生き続けている。アナザーワールドにある、あるホテルの一室で、彼女は彼女の夢とも取れる映像を見続けている。映画は現実と夢の狭間を漂い続け、幾つもの広がりを見せながら、最後は冒頭の女性に戻り何事もなかったかのように様々な謎だけを残して終わる。

 途中、退場者(観てられなくなったのか、出て行ったまま戻らなかった)も出ながらの3時間。時折ホラー映画のような音に驚かされたり、チープさをわざと演出しているのか、恐れるよりも失笑してしまうような衝撃映像を盛り込みながら描かれた3時間は、どこを切っても、どこをとてもデイヴィッド・リンチのテイストに溢れた作品だった。好きな人にはたまらない映画かもしれない。


<June>

MOVIE・アーサーとミニモイの不思議な国/PLAY・藪原検校/MOVIE・ボルベール<帰郷>


◆6月30日◆MOVIE◆ボルベール<帰郷>◆

 観る度に、やっぱりこの人の作品が好きだなぁと思う監督が何人か居るのですが、その中の一人がこのペドロ・アルモドバルです。しかも、監督自らが書く脚本だけでなく、美術と音楽に大概もやられてしまうという、私にとっては色々な意味で要チェックな存在なのです。

 さて、本作品は彼のマザー3部作の最後を飾る作品と言われ、カンヌ映画祭では主演のペネロペを含む女優6人が最優秀女優賞を受賞したという事でも話題になった注目の作品。ペネロペ・クルスはピンと来ないと思いながらも、まあアルモドバルだからと劇場に足を運びました。

 まず、この映画を観て驚いた事。ペネロペがこんなに良い女優だっとは!(笑)これは本当にびっくりでした。舞台はスペイン、ラマンチャですが、イメージ的にはイタリアのマンマ。実際、ソフィアローレンとかマニャーニのイメージで、強いマンマを演じて欲しいと監督から言われたそうです。

 ペネロペ演じるマンマは実に魅力的。華のある顔とグラマーな体だけでなく、その溢れる生命力、芯の強さに目が離せなくなりました。
 途中で歌う歌は吹き替えですが、この歌がまた良くて、久々に歌声に痺れてしまいました。本人が歌ってない事にダメ出しをする人が居るかもしれませんが、ペネロペの演じた表情と歌声はちゃんと成立していたと思います。

 さて、この物語に登場する女性は、それぞれの魅力を持っていますが、対照的に出てくる男性は全員がどうしようもないひとでなし。この極端とも言える構造が男性には馴染めないかもしれません。

 ペドロ・アルモドバル監督は、マザコンの上に外見はどこから見てもおじさんですが、中身はかなりおばさんに違いないと推測します。ペネロペがインタビューで、彼が何故こんなに女性の心理がわかるのか不思議になると語っていますが、それは作品を見ていても感じる事。女性の感覚を持つ男性監督監督ならではの視点で、女系家族を舞台に描かれた女性賛歌の物語は、彼の作品にしてはきれいにまとまりすぎている感もありますが、非常に魅力的な作品に仕上がっていました。

 歌にときめき、エンドクレジットの花のイラストにも目を楽しませてもらい、完敗です・・・と劇場を後にしました。


◆6月9日◆PLAY◆藪原検校@シアターBRAVA!◆

 「天保12年のシェイクスピア」に続く井上ひさし×蜷川行雄の第2弾、 「薮原検校」。天保12年で初めて観た井上作品は、びっくりするぐらい力強く、これぞ力技!という圧倒的なパワーを持っており、彼より若い世代の作家にはない骨太さを感じさせるものでした。
 シェイクスピアの全作品を1本の芝居にしたパロディー三昧なストーリー展開で、豪華な俳優人がこれでもか、これでもかというぐらい登場するという、一種のお祭りだった「天保12年」。それとは対照的に、本作品は、お祭りでもパロディでもく、必要最小限の役者しか出てこない上に「盲人」を主人公にした、陰と陽でいうなら陰の世界の物語。さて、どんな舞台になっているのやらと興味深く劇場に向かいました。

 さて、この作品のタイトル「薮原検校」の「検校」とは、中世・近世に存在した「盲官」の最高位の事。盲人といえば、良く知られているのは「座頭一」だと思いますが、座頭も盲官の位の一つです。そのトップに立つのが検校で、この物語の時代、検校という官位はお金で買うものでもありました。
 物語の舞台は享保、200年前の日本。古田新太演じる盲人杉の市が母親のおなかの中に宿ってから27歳にして検校となり、悪行により処刑されるまでを描いています。その当時の盲人の生業と人々から受けた扱い、人知れず抹殺された盲人の話しも織り込みながら綴られる杉の市の物語。

 「天保12年」とは全く違う内容でありながら、語っていく枠組みは前回と同じく、MC役の役者がいて舞台の左右には字幕があり、全編を通して歌が入るという全く同じ形式。今回のMC役、蜷川作品では定番の壌晴彦さんの語りはこれぞ役者!と思わされる出来でした。また、三味線のように入るギターの音が使い方としては面白く、ぎょっとするような内容の歌詞も音楽にのせて耳に届くと、ワンクッション置かれた形になりすんなり耳に入ってきます。
 が、しかし。前回と同じ枠組みを取ったが故に斬新さに欠け、かつ、井上作品特有の日本ならではの怖さがありませんでした。つまり「村社会」が持つ外の人間には口を噤み、村人全員が結託して人知れず自分たちの都合の悪い人間を抹殺、葬ってしまう閉ざされた土のにおいのする恐怖、といった種類の怖さが残念ながら伝わってこなかったのです。
 また、雪山を盲人が行列して行く様を表現しているシーンでは、演技者の力で見えない雪が見えてくる狂言「木六駄」のような、日本の冬山のその寒さまでをも観客に感じさせるようなものでは残念ながらありませんでした。何というか、扱っている題材も描き方も「日本」以外の何ものでもないのに、受ける印象が日本にしてはちょっとバタ臭い。遊びの部分で現代が微妙に入り込むからというのがその原因ではなく、「気質」の部分で井上ワールドの「日本」と蜷川演出の「日本」はちょっと違う気がしました。

 今回主人公を演じた古田新太は、観ている時点ではこの人なくてはこの芝居はもたないと思わせる存在感。木更津のオジーはこんなにちゃんとした役者だったんだと思わせる役者っぷりで、劇団新感線の役者の中では、頭一つ抜け出た感がありました。
 しかし物語が終わり思い返してみると、彼が関西人のせいでしょうか。濃いキャラクターなのに、粘着性の執着、執念、そして「業」が、この芝居に必要とされている程には感じられないのです。それが故に、人の心の闇を覗いたような怖さというのものを感じる事は無く、壮絶な最後を見届けた後も化けて出るような情念、恨み辛みの念の強さといった物を感じるには至りませんでした。逆に、人徳者、賢者と言われる検校を演じた段田良則の方にこそ、人の奥に潜む怖さを感じさせられた気がします。
 舌先三寸で生きる男、杉の市に古田新太をキャスティングしたのはある意味納得できますが、杉の市の闇の深さを表現出来るほどには、この人根本的な所で悪党ではなかったようです。無いものも演じられてこそ役者、と言われるかもしれませんが無いものは出てこないというのもまた事実だと思います。

 とは言うものの、古田新太が稀有な役者である事は間違いありません。そして、井上ひさしが日本という、かつて農耕が主流で村社会を持つ島国に生きる人間を描く作家である事も間違いありません。
 「業」を描き「凄み」がにじみ出てくるであろう物語で、蜷川、井上、古田他個性的な役者たちが起こした化学反応は、異物が入り込み、結果的に脚本家が頭の中で描いた物とは違う結果が出たような気がします。
 そして、物語を演じていく役者はそれぞれ自分の役割を果たしているのに、芝居としてのつなぎが悪く、この作品の描きたかったものがぼやけてしまっているというのも、非常に惜しい気がしました。
 また、物理的なもので観客を驚かせる事に力を入れている蜷川さんですが、最近ちょっと納得出来ないパターンが多く、今回も疑問が残りました。この物語を締めくくる場面。主人公の死という大切なシーンを役者ではなく人形が演じるというのはどうなのでしょうか。どう死んで行ったのか、ではなく、どう殺されたのかの方を取った結果こうなった訳ですが、色々な意味で後味の悪さが残る結末でした。

 という訳で、色々と書き連ねましたが、蜷川×井上による舞台をまた観る機会があるのなら、今度は唄もMCもなく役者の台詞だけで綴られる、どこの国の物語でもない、逃れられないほど日本の匂いがする物語を観たいと思います。


◆6月14日◆MOVIE◆アーサーとミニモイの不思議な国◆

 「レオン」のリュック・ベッソン監督が「チャーリーとチョコレート工場」のチャーリーことフレディ・ハイモア君を起用し、マドンナ、デイヴィッド・ボウイ、ロバート・デ・ニーロ、スヌープ・ドッグを声優に招いた、子供も大人も楽しめるファンタジー&トレジャーストーリー。それが2007年9月に公開される映画「アーサー」です。フランスで大ヒットしたそうな実写&CGアニメ映画の試写会に行ってきました。

 今年12歳になるフレディ君は相変わらずの名子役。いえ、子役というより名役者。彼の魅力は、大人の事情をかわいそうなぐらい理解している「大人の部分を持った聡明で繊細な子供」を絶妙なバランス感覚で演じてみせるところでしょう。
 物語が始まって10分ぐらいのところでしょうか。経済的な理由で祖母の家に預けられているフレディ君演じるアーサーが、誕生日には両親に会えると思っていたのに電話で済まされてしまった、というところで涙を流すシーンがあるのですが、あっという間にこちらの目頭も熱くなってしまいました。日頃、めったな事では動物もの以外、うるっと来ない私がです(笑)泣きじゃくる事なく、平静を装いながらもポロっと流れ落ちた涙から、彼の様々な感情が読み取れ、そのけなげさにうるっと来てしまったのです。主人公の心情を深く理解し、消化して表現してくる彼は、恐るべき子供、恐るべき役者です。どうかこのまま、上手く大人の役者になって欲しいものです。

 ところで、キャスティングとキャラクター設定について一つ。全般的には成功していると思いますが、設定に一つ不思議なところがありました。アーサーの両親がちっとも聡明でないという、ここのところがどうにも不自然。こんなに勇気があって賢い子供がこの二人から生まれてくるようには見えないんですけど(苦笑)。おばあちゃんのミア・ファローはアーサーの祖母と言われて納得ですがこの両親は、これちょっと違和感です。

 さて、公開前の映画なのでネタばれはしませんが、途中から物語は実写の世界からCG画像へと変わります。全く予備知識無しでこの映画を観に行ったので、フルCGになった時には若干の戸惑いがありましたが、途中からその表情豊かなキャラクター達の、得に目の表情に魅力を感じ、CGとはいえ演技力を感じるようになっていました。CG技術もここまで来たかという感じです。
 キャラクターデザインは、その昔のファンタジー映画「ダーク・クリスタル」や「ラビリンス」(どちらも結構マイナーな映画かも)の系譜にあるように感じるのですが、明らかに時代は進んでいて、彼らはより自由に動き、様々な表情を見せてくれます。

 今回声優陣がまた豪華で、マドンナを筆頭にデイヴィッド・ボウイ、ロバート・デ・ニーロ、スヌープ・ドッグらが参加しています。
 この中で一番の驚きは何といってもマドンナです。ヒロイン役を演じているのですが、我々の知っているマドンナの声はどこにもなく、エンドクレジットを見てびっくり。改めて彼女は多才だなと思わされました。
 それとは対照的に、誰が聞いても彼だとわかる声で演じたのはデヴィッド・ボウイ。悪役だったのですが、彼のあの特徴のある声がぴったりと来ていて、これもまたはまり役。
 完全に作り上げた声のマドンナと、そのままの声で演じたデヴィッド・ボウイ。この二人のビッグスターのスタンスが実に対照的で面白く感じました。いずれも存在感があり、流石だなと思わされます。

  映画を10作撮ったら、監督を引退すると宣言しているリュック・ベッソン。この「アーサー」は彼自身が生み出したファンタジー3部作であり、彼にとっては10作目の監督作品です。
宣言通り彼は、この「アーサー」三部作を撮り終えたら監督を廃業するそうです。
 彼にとっての集大成的な作品が、実写とCG、しかもファンタジー映画というのが私にとってはちょっと不思議に感じる一方で、こういう人だったのかと妙に納得したりもして、改めてリュックベッソンの他の作品を見てみるかと思うきっかけになりました。

 大冒険の割りにはミニマムな世界だったり、子供向けかと思うと、クラブシーンでかかる音楽がデイヴィッド・ボウイの「レッツダンス」だったり映画「パルプフィクション」や「サタデーナイトフィーバー」のパロディになっていたりで大人が懐かしいな〜と思わずにやりとするものだったり、細かい設定が言ってみればとばされている部分があったり、まあいい意味でごちゃごちゃとしたゆるい感じが漂っていますが、全編約2時間飽きる事なく最後まで見てしまいます。

 フランスのスタッフとフランス人監督が撮ったハリウッド作品「アーサー」は、多国籍なちょっと変わったファンタジー。9月の公開でヒットするのか、しないのか、私には良く分かりませんが(笑)魅力的な俳優とキャラクター達に会えることは間違いありません。


<May>

PLAY・コンフィダント


◆5月12日◆PLAY◆コンフィダント◆

 1888年パリ。一つのアトリエを4人の画家がシェアしている。その4人とは、ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン、クロード・エイール・シュフネッケル、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。この4人と短い期間共に過ごしたルイーズというかつてモデルだった女性が、彼らの思い出を語っていく。

 という事で、三谷幸喜久々の新作を見てきました。
スーラを演じるのは中井貴一。ゴーギャンは寺脇康文、シュフネッケルは相島一之、ゴッホは生瀬勝久でルイーズは堀内敬子という事で、ベテランばかりの大人な舞台が出来上がっていました。

 堀内さん演じるルイーズの設定は現在は酒場の歌手で、かつて絵のモデルをしていたというものなので、全編にわたって彼女の歌が入ります。舞台の左端に置かれたピアノを弾くピアニストの荻野清子さんと、堀内さんの歌はプロだなと感じさせるもので非常に心地よくこの作品のグレードをあげています。
 個人的にはミュージカル「スィニートッド」で日本の舞台で歌われてる歌のレベルに(ちゃんと歌えてる人も居ましたが)びっくりした後だったので(笑)堀内さんの歌に非常にほっとしました。演技も出来て歌も歌える。三谷作品には欠かせない人になっていく(既になっている?)予感がします。

 さて、画家の4人。まず、中井さん演じるスーラ。スーラといえば点描ですが、はっきり言って私は好きでない。元々群生するものが嫌いな私は、点描=点の群生=気持ち悪いと感じてしまうのです。また、彼の作品は絵として面白くないと思っているのですが、中井さん演じるスーラはまじめで人間的に余り面白みがなく、ああいう絵を描く人というのに、もの凄い説得力がありました(笑)
 そして、一番びっくりしたのは、中井さんの声が高い事でした。あれ?この人こんなに声が高かったっけ?と思いつつ、でも、この声どこかで聞いた事がある・・・あ!カッパとたぬき@日本信販だ!!と一人うけてしまいました。
 いい意味で意外だったのは、ゴーギャン役の寺脇さん。王様のブランチの司会(今は谷原さんですが)の彼と、舞台の彼は全くの別人で、最初誰だか全く分かりませんでした。舞台の彼はワイルドでなかなか良い男で、おおっ!とちょっとびっくり。演技もドラマで観るより舞台の方がずっといいのです。この人は映像より舞台の人なんですね。
 さて、次は一人名前が残っていない平凡な画家、というより画家と言っていいのか分からないシュフネッケルを演じた相島さん。三谷さんの定番の一人です。芸術にあこがれ、才能にあこがれているが故に、何があろうと3人の画家と一緒に居たい。彼は凡人の哀しさを上手く表現していました。
 そして最後の一人、ゴッホを演じた生瀬さん。一番笑いをとっていましたが、一言言わせてもらうと、これはゴッホじゃなくて生瀬さんでした(笑)じゃあ、あなたはゴッホを知ってるのか?!と言われると知らないと答えるしかないのですが、どこをどう切っても生瀬さんなんですよ。不思議な事に。生瀬さん自身のキャラがたち過ぎなんでね。ある意味凄いと思いますが、俳優としては、私的には課題です(笑)

 という事で、それなりの水準の高さと適度な笑いと哀感があり楽しめる舞台だったのですが、今回見終わって一番感じた事は三谷幸喜の大衆性でした。
 今更気づいたの?という人も居るかもしれませんし、そんな事ないじゃないかという人も居るかもしれませんが、びっくりするぐらい万人に受け入れられる作品に仕上がっていました。
 小劇団の香りが全く無くなったというか、作風が丸くなったというか、びっくりするぐらい分かりやすいというか。
 この芝居なら、どこのどのサイズの劇場で演じても違和感がありません。観客も非常に幅広い層を相手に出来ます。そこが一番の驚きでした。こんなに分かりやすくていいのか?!というぐらい分かりやすい芝居。観客の満足度は高いでしょうが、私にはちょっと物足りない。巌流島の頃の「どんぶら」系の笑い、カムバック!みたいな気分になってしまいました。

 人はこうして大人になっていく、ではありませんが、三谷さんに時間の経過を感じたコンフィダントでした。

 最後に。一人でこの作品の音楽全てを担当されていた萩野清子さん。本当に素晴らしかったです。


<April>

PLAY・恋の骨折り損/PLAY・エリザベート/MOVIE・ブラック・ブック


◆4月14日◆PLAY◆恋の骨折り損◆

 最近、観劇後いつも首をひねってしまう(首をひねるぐらいなら、最初から行くなと言われそうですが。笑)蜷川演出の舞台の中で、「楽しかった!」と満足して帰る事が出来る舞台。それが「オールメール・シリーズ」男ばかりのシェイクスピアシリーズです。
 これはシェークスピアの戯曲が成せる技なのか、喜劇が蜷川に合っているのか。とにかく前回の「間違いの喜劇」が本当に楽しい舞台だっただけに、今回も期待して「恋の骨折り損」に出向きました。

 さて、今回の見所は何といっても北村一輝。ドラマ「夜王」のナンバーワンホスト、セイヤ役といい「タイガー&ドラゴン」のバカなヤクザ、ヤスオ役といい、出て来れば「うわ〜濃いっ」といいながらも、気になってしょうがない人がこの北村一輝です。何というか、キモカワイイという言葉がありますが、この人の場合キモカッコイイというか、アクが強くてうわ〜って言いながらでも好きかも、みたいな。
ストレートに認めたくないけど気になる!的な役者なのです。 現在ドラマ「バンビ〜ノ!」にも出ていますが、ここでもまた 気になる存在である事は確かで。この「うわ〜」っていうのは 世間一般的にも感じられているところというのは、「バンビ〜ノ!」のスピンオフドラマの与那嶺さんの回を見れば明らかです。。。と脱線しまくりましたが、とにかく、そんな彼が蜷川演出 のシェイクスピア喜劇に出ると聞いては観にいかない手はありません。という事で、テレビで見てあれだけ濃い彼は舞台でどんな風なのだろうとある種の「未知との遭遇」を期待して、登場を待つ事しばし。思ったほどのオーラは出ていませんでしたが(笑)テレビで見るままの彼がそこに居ました。うーん。。。王様役というには、ちょっと庶民的すぎる・・・かな?でも相手役の姜暢雄のフランス王女が190cm近くの長身で、こっちも王女にしてはでか過ぎる(モ大きいモではなくモでかいモという言葉がしっくり来るのであしからず)ので、まあ、これもありかなぁという、ある意味丁度いい感じのカップルです。

 私が好きな高橋洋は相変わらずの役者っぷりで、誰よりも多い台詞をテンポ良く、小気味良く紡いで行きます。見るたびに彼の役者としてのスキルアップが感じられて本当にいい役者だなぁと嬉しくなるのです。主役を取るような派手さはないのですが、キラっと光る舞台俳優です。

 今回のテーマ曲はG線上のアリア(だったはず)。その音に乗せてシェイクスピアの台詞をラップしたり、キャストが一列に並んでダンスしたりと色々アクティブに動きます。
ラップになった台詞は時折不明瞭で、えっ?!となる事もありましたがこの男子校のようなノリと各役者のチャーミングさと雑多な感じ、そしてシェイクスピアの言葉の面白さが丁度良い具合にミックスされてなかなか楽しい舞台になっています。

 フランス王女が城に入れてもらえず野営していたり、フランスの王が逝去してもさほど大変な事ではないように見えたりと、色々不思議な設定がみられますし客観的に考えればバランスが悪い部分もある戯曲だと思うのですが、舞台で演じられるこの物語はそれをカバーする勢いがありました。
 適度に恋人たちのすれ違いに心を痛めたりときめいたり、笑いの渦(ほとんどの役者が関西出身だというのにも関係しているかもしれません!)に突き落とされたり、何だかお祭りのような気分にさせられる舞台の上の非日常。

 その昔、歌舞伎が庶民のものであったようにシェイクスピアの 舞台もありがたがられるようなものではなく、もっと雑多で観客との距離も近く大衆的だったはず。その空気感を肌で感じる事ができる蜷川の「オールメール・シリーズ」。
今回も楽しかった!と満足して、次回の「お気に召すまま」を 楽しみに家路についたのでした。


◆4月8日◆PLAY◆エリザベート◆

 2006年のある日。シアタードラマシティの壁に貼られていたポスターに「ミュージカルエリザベート ウィーンキャスト引越し公演」の文字を見た時自分の目を疑った事を今でも覚えている。
 あの作品が来日するなんて、ありえない!!そう信じて疑わなかった私を含む友人と三人、ポスターの前で良い意味での絶句をしたあの日。2004年11月にアンデアウィーン劇場で観た時、本当に観てよかったと思ったミュージカルが何と大阪の劇場で観られてしまうというこの奇跡のような話しに、「どうしたんだ、何があったんだ梅田芸術劇場!?」と動揺を隠せなかったあの日。それから数ヶ月後。本当にウィーンからエリザベートが来日してしまった。

 という訳で、突然の来日公演告知は我々にとっては大ニュースだった訳で、ありえない事が起こってしまったという衝撃な出来事でした。
 まず何故来日しないと思っていたのかというと、ウィーン発 ミュージカルだったからです。来日公演のミュージカルはアメリカが主流で今まで恐らくウィーンからというのは無かったはず。そして、もう一つ引越しが不可能だと思っていた理由は、あの舞台装置でした。
 エリザベートの思い切りの良い大きく深い「奈落」は大変な装置です。改造せずに上演できるはずがありません。それには劇場側のかなりの負担を余儀なくされるのは明らかで、ロングラン来日公演が難しい日本で、しかも大阪で、そんなことが出来るわけがない!!と思っていたからです。
 改造については、やはり思った通り大変だったらしく東京公演はコンサート形式となりました。という訳で、エリザベート完全版が観られるのは大阪だけという、いつもとは逆パターンになり、こんな事もあるのだなぁと狐につままれたような気になりました。
 さて、狐につままれたといえば、これまた不思議だったのはチケットの売れ行き。日本版エリザベートは人気の演目で、何度も再演されているのでファンも多いと思うのですが、何故か来日公演のチケットの売れ行きが苦戦したという、この現象も何とも不思議。と同時に、こんな舞台を見逃すなんて、勿体ないと残念でなりません。
 ところで、私のウィーン旅行記のエリザベートのくだりを読んでもらうと分かるのですが、ウィーンでも大阪でもエリザベートはダブルキャストとなっています。前回ウィーンで観た時は、エリザベート役がオリジナルキャストではなく(旅行記では「顔が怖いエリザベート」と表記してますが。笑)2ndで観た為、どうしてもオリジナルキャストのマヤ・ハクフォートで観たい!と意気込んで当日劇場へ。
 とにかく、キャスト表をチェック。エリザベートもトートも、1stの二人です! やっとマヤの歌が生で聴ける!!!と期待は更に膨らみホールへ。 アンデアウィーン劇場と比べると明らかに横幅のある舞台と客席。準備万端なオケピを見て、生演奏だと知っていましたが、改めてまた期待が膨らみます。
 舞台にはエリザベートの横顔のシルエット。日曜日だけにほぼ満席の客席。そして物語は始まりました。

 さて、エリザベートはウィーン発のミュージカルですから全編ドイツ語です。故にウィーンで観た時には、あらすじを読みながらの観劇となり、ダイレクトに言葉が分かるという事がありませんでしたが、日本公演では字幕がつきます。
という訳で、やっと内容が分かった!とあちこち再発見だらけなのですが、字幕があるとどうしても読んでしまうので、舞台の役者に集中出来ないという贅沢な悩みも発生して・・・忙しいったらありゃしない(苦笑)
 でも、漸く隅々まで物語がよーく分かりました。トートとエリザベートの関係もフランツとの関係も、本当に手に取るように分かるこの醍醐味。これは字幕を読むのを1回。字幕を見ないで舞台に集中するのに1回と、最低でも2回は観ないとね、と友達が言っていました。確かに。確かにそうなんだけど2回観るにはかなり高いチケット代・・・オペラの引越し公演と比べると随分安いのですが、ミュージカルの来日公演のチケットとしては恐らく最高額だったのではないでしょうか?
 どうなるんだろうと思っていた奈落は、噂に聞いていた通り、やはり浅目で、地獄の底から死者が蘇るというより、墓場ぐらいの距離かなぁ。。。長い年月を経て今蘇る、というにはちょっと奈落が浅かった・・・でも仕方ないですね。一方、トートが降りてくる「橋」はちゃんと再現されていました。

 無駄の無いスムーズなセットの入れ替え、そして物語。練り上げられた舞台だというのが良く分かります。そして、何といっても出演者の歌唱力です。
 聞いていた通り、マヤ・ハクフォートの歌声は素晴らしく、感動的。顔が怖い、顔が怖いと友人が言うので、どれだけ怖いんだろうと思っていましたが、それほど怖い事もなく(笑)子供時代から晩年まで一人で演じても違和感無く、女優で歌手というミュージカル女優に必要な能力を兼ね備えている人だというのが良く分かりました。
 そしてトート役のマテ・カマラス。彼の歌はウィーンでも聴いたのですが、更にパワーアップしてゾクっと来る程非常にセクシー。こんな歌を歌われたら、たいていの女性は付いて行ってしまいそうです(笑)この数年で確実に歌唱力が上がっていると思います。背は高くないし、スレンダーでも無いのですが、この声でトトに必要とされる全てをクリアーしていると言っても過言ではありません。余談ですが、この声。中毒性があるようで友人はすっかりやられていました。
 さて、狂言回しでありこの物語のMCでもある暗殺者ルキーニを演じたのはブルーノ・ガラッシーニ。リキー二に関してはウィーンで観た役者の方がアクが強くて、ずっと魅力的でしたが、今回ブルーノの演じるルキーニは、もっとさっぱりしていてどちらかというと爽やかさすら感じさせるものでした。十分役割は果たしていますが、ウィーンで観たルキーニがこれぞ役者!これぞ舞台の醍醐味!という人だっただけに、少々薄味で物足りない感じがしました。それでも十分楽しませてくれましたが。

 その他のキャストもクォリティの高さを感じるキャストばかりで、得に主要人物たちの重唱はこれぞ重唱の醍醐味!!と思わずときめいてしまうような響きを聴かせてくれました。

 ところで、これは日本の観客共通の感想じゃないかと思いますが、「エリザベート」は、どこの国でもロイヤルファミリーに入っていく女性は大変だと思わされる作品でもあります。自由に行動できない閉塞感は耐え難く、子供も自由に育てさせてもらえない。そして常に姑が近くに居る。
 見ているうちに、遠い国の昔の物語であるにも関わらず、自国の皇室を思い起こしてしまうのです。ここに日本人の「エリザベート」好きの理由の一つがあるのかもしれませんね。

 よどみない場面展開、目に楽しい衣装。それに何といっても、彼らの歌の素晴らしさ。許されるなら繰り返し見たいと思わせる魅力を持つ主要キャストたち。
 これぞプロという歌を聴かせてくれた彼らと、恐らく赤字を覚悟で招致してくれた梅田芸術劇場に心から感謝したいと思います。


◆4月17日◆MOVIE◆ブラック・ブック◆

 ポール・ヴァーホーヴェン監督は、映画の作り方を 実に良く知っている。 複数の登場人物の中で、誰が裏切り者なのかを語る時、 どんでん返しが多い程物語としての面白味は増すが、 描き方を一つ間違えると受け手は混乱し始め、何がどんでんなのか、何が驚くべき真実なのかを見失ってしまう。
そこのところは流石、熟練した監督ポール・ヴァーホーヴェン である。実に手際よく、かつ謎解き部分を程良く観客に残しながら物語を進めていく。そして彼は謎をとくだけでなく、音楽、 恋愛、アクションなど観客が望む様々な要素を上手く盛り込みながら物語を進めていくのである。

 更に彼は、時代と人種に翻弄される女性の物語に、観客が映画という「娯楽」の中で耐え難い疲労を覚えないで済むよう、最初に彼女は今も生きているという事を提示している。この構造のお陰で我々は、彼女に何が起ころうが「でも、彼女は生きている」と安心しながら見る事が出来るのである。
これは彼の「映画はエンターテイメントである」という確固としたスタンスから生まれたものだと私は確信する。ナチに支配された終戦直前のオランダで、家族を殺害されレジスタンス活動に加わるユダヤ人女性がイェルサレムのキブツで生活するようになるまでを描くという、聞いただけでも非常に辛く重たい物語を、映画で描く以上エンターテイメントとして成立させた彼の手腕。
シリアスとエンターテイメントは相容れないという人も居るかもしれないが、私はそれをあえて成立させているという所を評価したいと思う。

  本作を見終えてまず思ったこと。それは、久しぶりに映画らしい映画を観たという事だった。「ヒロイン」という言葉が実にしっくり来る主演女優カリス・ファン・ハウテン。美しいのもさる事ながら、彼女が演じているヒロインと同様、バイタリティを感じさせる。 体当たりの演技という月並みな言葉では足りない程の女優魂を彼女にはみせられた。
 そして、最近この俳優をスクリーンで観る事が非常に多いのだが、ヒロインと恋に落ちるナチの上官を演じたセバスチャン・コッホ。映画「善き人のためのソナタ」では脚本家を演じ、今回はナチの上官でありながら心を持った人間を演じている。基本的に彼は悪役を演じないのかと思う程私が知る限りでは「善人」を演じているのだが、非常に説得力があり、主張しすぎない良さをいつも彼の中に感じる。今年に入って既に2本彼の出演映画を観ているが、彼が関わっている作品にハズレ無し、のような感じになってきていて今後も注目の俳優である事は間違いない。

 ドキュメンタリー映画が流行り、結末に希望が見出せない作品が多数作られている現在、改めて映画はエンターテイメントなのだという事を思い出させてくれたポール・ヴァーホーヴェン。
とは言え、イェルサレムという、未だ争いが絶えない地域に終着点を設定した事によりユダヤ人は未だ社会に翻弄されているという現実の提示も忘れていない。
彼のさじ加減、バランス感覚、そしてストーリーテーラーとしての熟練度に今だからこそ新鮮味を感じ、今後の作品も見逃せないと思わせる作品だった。


<March>

MOVIE・ドリームガールズ/MOVIE・今宵、フィッツジェラルド劇場で
PLAY・ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ/MOVIE・ラスト・キング・オブ・スコットランド


◆3月24日◆MOVIE◆ラスト・キング・オブ・スコットランド◆

 1970年。医学部を卒業してすぐに軽い気持ちで訪れたスコットランド人の医者ニコラスが、アミン大統領統治下のウガンダに医師として赴任してから帰国するまでの物語。それがこの『キング・オブ・スコットランド』です。

   アミン大統領は実在の人物であり、大量虐殺をした独裁者として知られ「人食いアミン」とまで言われた残虐極まりない人間でしたが、この物語が始まる1970年にはまだ生まれて居なかった私は、彼に関してリアルタイムの記憶は無く、この映画を観るまでは名前は聞いた事がある程度の知識だった為、驚きの連続という映画鑑賞となりました。

 医者の家に生まれ、親の望む通りに医師になったものの、決めれらたレールを進む事に歯向かいたいニコラスは、地球儀を回して指で止まった国に行ってみようと思い立ちます。目を閉じ、地球儀を止め、決まった国はウガンダ。最初は村の医師として赴任しましたが、大統領になったばかりのアミンがたまたま遊説に来た際に気に入られ、彼の側近として政治的権力をも持つようになって行きます。
 この中でニコラスは世間知らずの若造として数々の過ちを犯していきます。大統領のお気に入りの彼は、広い家を与えられ何不自由ない生活を保証され、そして主治医というポジションであるにも関わらず政治的な権力をも持つようになります。彼が世間から隔絶された世界にどっぷり浸かっているうちにウガンダはアミンの粛正、大量虐殺による恐怖政治に支配された世界に変貌していき、ニコラス自身も身から出た錆が最終的な決定打となり、生命の危機にさらされるのです。

 この映画を見終えた時、私はスコットランド人の医師ニコラスという人物は実在し、彼が書いた手記を元に作られた映画だろうと信じて疑わない状態になっていました。しかし後にこれは実際にあった数々の事件を繋ぎ合わせた物語であり、ニコラスという医師はその事実を繋ぐ架空の人物だという事を知り、再び衝撃を受けた訳です。
 ニコラスが地球儀を回して行き先を決めた事、手のねんざを看たのとスコットランド人だったという事だけで大統領のお気に入りとなり彼がアミンの側近になった事、そしてニコラスが最後にはピンチを切り抜け嘘みたいな幸運で逃げ仰せた事。その全てが作り話しとしか思えないじゃないかと言われてしまえばそれまでなのですが、実際に映画を見てみると、こういう若者は実際に居ると思えますし、独裁者の気まぐれはこんな物じゃないかと思える。そして命拾いをした彼を見ながら、人の運なんてこんなものなんじゃないかとも思えるのです。なぜなら。役者がこの設定に真実味を与えているからです。そして、ニコラスのような軽さ、ノリで世間知らずに未知の世界に出かけて行き、大変な目にあう人間は我々の世代にも居そうな気がするという感覚から来るリアリティ。その二つが相まって、すっかり本当の話しだと信じ込んでしまいました。

 アミン大統領を演じたフォレスト・ウィテガーは独裁者に必要な「中味があるかどうかは疑わしいが、とりあえず演説は上手い」というカリスマ性を持つ人物を実に上手く演じています。そして、彼が誰も信用出来なくなっている事、非常に子供っぽい事、そして子供っぽいが故に大人の理論は通らない訳の分からない思考回路で突き進んでいくが故の恐怖というのを良く表現していました。彼はこの作品でアカデミー主演男優賞を受賞しましたが、納得の演技だったと思います。
 一方ニコラスを演じたジェームズ・マカヴォイ。この人だったら地球儀を回して行き先を決めてしまうかもしれないという「軽さ」に説得力がありました。この「若造」は、勝手な事をやりつくした上で、いざ困ったとなった時、今まで耳も貸さなかった人物にどうにかしてくれと助けを請いに行く。権力を持った子供だけに実にタチが悪いというのと身勝手さを彼は良く表現していました。

 この作品が私にとって印象深い作品になったのは、この物語の視点がニコラスに置かれていたからです。アミン大統領に何の知識も無かった私は、ニコラスと同様にウガンダの過去を知り、アミンという人間に接し、そして彼が盲目であれば私も盲目となり、現実を突きつけられた時には彼と同様に驚く。そして、久々にスクリーンを直視出来ない状態に追い込まれた拷問シーンも衝撃的でした。
 ニコラスが這々の体で飛行機に乗り込んだ後、その後アミンはサウジアラビアに逃亡し、つい最近まで生きていたという事実を我々はエンドロールに入る直前のテロップで知る事になります。信じられないほどの大量虐殺をした人間が罪を償う事なく逃げ仰せ、おそらくベッドの上で一生を終えたと知った後味の悪さ。人が人にふるう暴力の数々。権力を持つ人間の疑心暗鬼。それに伴う粛正。観賞後の後味の悪さはかなりのもので、人間って何なのだろうという問いが頭の中に渦巻き始め・・・見終わった後、誰かと話さずにはいられないような映画でした。


◆3月24日◆PLAY◆ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ@IMPホール◆

 私にとってこの作品は舞台ではなく映画であり、 演じるのは他の誰でもなく、ジョン・キャメロン・ミッチェルである。

 山本耕史。私にとってこの役者は、大河ドラマ『新選組!』 の土方であり、歌が歌えてギターも弾けて、手品も上手く、 非常に器用な遊び人。そして、30代になった今、自分の進む道を 模索し、土方以来ターニングポイントとなるような役に巡り合わず、 ある意味悩みを抱えている役者と認識している。

 この二つを組合わせるとどうなるのか。この『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』 という作品は山本耕史が変化していく為のステップになるのか否か。 今回、彼は自分の殻を破るためにこの役に挑んだのではないかという期待も 少々持ちながら、劇場に足を運びました。

 私は三上博版のヘドウィグを観ていないので、彼との比較をすることは 出来ませんが、山本耕史版は驚くほど映画の通りであり、JCMのコピーを試みたとしか思えない世界が舞台の上には出来上がっていました。
 原作通り英語で歌われる歌。ほぼ映画と同じ衣装。歌唱力はあるので、どの歌もちゃんと歌えていますが、何かがずっと欠けている。
映画を観た時に衝撃的だったこと。それは魂の叫びと心の機微がダイレクトに伝わってくる歌と、JCM自身のチャーミングさでした。役者本人のギフトというものは、人それぞれ違うものであり、努力しても手に入るものではないので、それをどうこう言う気はありませんが、 ヘドウィグを演じるにあたり、彼が自分の中で一度その役を取り込み咀嚼し、
自分なりのヘドウィグを作り上げるという作業をしたとは、残念ながら私には感じる事は出来ませんでした。

 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』が何故人を魅了しているのか。それは奇抜なスタイルでも設定でもなく(その要素もありますが)、自分と、そして人と向き合い、それを受け入れる物語であるからです。そしてそこには、内から湧き上がってくる激しい感情の爆発とぶつかり合いが間違いなく存在しています。それは決してコピーできるものではなく、内から湧き上がってくる物を演じる本人が自分の中に感じない限り、表現する事は出来ないものだと思います。
 という訳で、山本版『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観て、「彼のヘドウィグはこうなのか!」という彼独自の役の構築を期待したにも関わらず、「彼は器用だなあ」という、テクニック的な完成のみの印象しか残らない、この作品の本質的なところに触れる事が出来ない残念な舞台に終わってしまいました。

 演じている自分を見ている自分が山本耕史という役者の中から消え去る日を期待して、率直な評をここに残したいと思います。


◆3月22日◆MOVIE◆今宵、フィッツジェラルド劇場で◆

 ハリウッド映画でハリウッド批判をやってのけた映画監督。反骨精神を持つ巨匠ロバート・アルトマンの遺作となったのが、この『今宵、フィッツジェラルド劇場で』です。  ミネソタ州セントポールズのフィッツジェラルド劇場。ラジオショーの長寿番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」(何と実在しているそうで、現在も放送中)の最後の公開録音の夜がこの物語の舞台です。

 この劇場に集まる人々はアルトマン作品の常で極めて個性的。どこか普通じゃない人勢揃いです。そしてメンバーは非常に豪華。私立探偵気取りの用心棒ノワールを演じるのは、ケヴィン・クライン。ショーの司会はこの映画の原案、脚本も手がけたギャリソン・キーラ。歌ってしゃべって書いて。この人、本当に芸達者です。
 そして、姉妹のカントリーシンガーを演じたのは、何とメリル・ストリープとリリー・トムソン。メリル・ストリープがこんなに歌えるとは思いませんでした。歳をとったな〜と最初はそっちの方に気を取られていましたが(笑)歌いだした瞬間、その堂々たる歌いっぷりにびっくり仰天。『ドリームガールズ』のエディ・マーフィーと同じく、役者としての懐の深さというか幅広さに脱帽です。
 その娘を演じるのはリンジー・ローハン。役者ですがアルバムも出しているそうで、彼女もちゃんと歌えます。アメリカの俳優は本当に演じられて歌えて当たり前みたいですね。そのほかにも決して売れてるとは言えない年季の入ったカントリー歌手が色々出てくるのですが、全員それなりに本物に見えるという器用さ。アルトマンの作品だけに役者陣が豪華です。

 物語は舞台と楽屋を行ったり来たりしながら、長寿番組特有のスタッフたちのファミリー感と、緊張感の無さ、そして物事の終焉を描いていきます。そんな現実的な世界に紛れ込んだ一人の非現実的な金髪の美女。トレンチコートにヒールを履いた彼女は一見ごくごく普通の女性に見えますが、彼女の姿が見える人と見えない人が居るという不思議な存在なのです(これ以上はネタバレになるので書きませんが)。
その美女を演じるのはヴァージニア・マドセン。彼女はアルトマンの最後のミューズだったのでしょうか。

 全編を通して気になったのは、常に漂う死の匂い。アルトマンはこの映画を撮っていた時にはもう、自分の命が長くない事をおそらく知っていたのでしょう。終焉と死を彼特有のユーモアを交えなが淡々と描いた物語。それを支えるベテラン俳優たち。
 最後の最後に彼が辿り着いた作品というには、意外なほどさりげない作品。そして観賞後に残る、何とも言えない寂しさ。

 劇場からの帰り道、人間死ぬ前には出来るだけ思い残す事が無いようにしたいと思うだろうと考え、そんなに彼はカントリーミュージックが好きだったのかしらとぼんやりと思い、彼が最後に会いたい美女はヴァージニア・マドセンだったのかしらと考えながら、駅への道を歩いて行きました。

 


◆3月3日◆MOVEIE◆ドリームガールズ◆

 とにかく、ジェニファー・ハドソンの歌が凄い。と評判の映画『ドリームガールズ』。新人とは思えない、素晴らしい、彼女の歌が聴けただけで満足だ、という絶賛につぐ絶賛のコメントをテレビで幾度と無く聞かされながら映画館に足を運びました。

 この作品。元は大ヒットしたブロードウェイミュージカルで、モデルはいわずと知れた「シュープリームス」。ダイアナ・ロスを中心としたモータウンサウンドを代表する女性3人グループです。私はモータウンサウンドにかなり馴染みがあり、ダイアナ・ロスは演技も歌もいまいち(笑)と思っているので、シュープリームスそのものには興味が無いのですが、話題のジェニファーを観てみようかと思い、また映画館で観た予告がなかなか良かったので興味を持った訳です。

 結論から言うと、非常に楽しめる良く出来た映画でした。話題のジェニファーの歌は、確かに新人離れしているかもしれませんが、私に言わせればまだまだ経験不足というか力が入り過ぎ。それを監督から求められていたのかもしれませんが、常にMAXで歌っている感が否めません。力の抜きどころ、入れどころがもっと身についてくれば、もっともっとこの人は伸びていくだろうと思います。
 そんな話題のジェニファーよりも、私が今回驚かされたのは、エディ・マーフィーでした。あんなに歌えて踊れる人だったとは。彼の役者としての底力を見せられた感じです。
 そして、書いておくべきもう一人は、ヒロイン、ディーナ役のビヨンセです。はっきり言って、この映画は最初から最後までジェニファー・ハドソンが演じたエフィーの物語であり、ビヨンセは誰が見たってこの物語の主役ではありません。完璧に脇役です。
 でも、ビヨンセという名前が「主役」なのです。映画の中のディーナは、ルックスの良さでグループのリードボーカルに抜擢されます。歌唱力が無い事を彼女自身知っていますが、世間は歌よりもルックスを重視し、彼女はスターになっていきます。ディーナは常に、私の外見ではなく中味を見てと訴え続けているのですが、そのディーナの魂の叫びと、この映画の中のビヨンセの扱われ方とビヨンセの気持ちが私には重なって見え、ディーナがその思いを歌にぶつけるシーンにビヨンセの意地を見たような気がして、この映画での評判を一度も聞いた事が無い彼女も、とても頑張っているじゃないか!と、逆にジェニファーよりも強く印象に残りました。
また、アカデミー授賞式で歌ったビヨンセが、血管が切れるんじゃないかと思う程(笑)の熱唱を聞かせてくれたのも、私が主役よ!という叫びのようにも見え、何だか切ないというか、彼女の意地を見たような気になり、もうちょっと彼女にも注目してあげたらいいのにと思いました。この映画の為に苦手なダイエットをしたらしい彼女は、作品に必要とされる美しさを十分に発揮しています。彼女のこの華がなければ、この映画に説得力は生まれてきません。この役に求められる物は全てクリアーしていると思います。しかし、いかんせんこのディーナという役は、主役ではなく脇役です(笑)ここに辛さがあるのです。

 「白人」の監督と作曲家が、ところどころに黒人の公民権運動のシーンを入れ、時代の流れを上手く折り込みながらバランス良く描いたブラックミュージック、モータウンサウンドの世界。
 ジェニファー・ハドソンという新しいスターの誕生を見にいくのもよし、ベテラン俳優エディ・マーフィーの役者としての幅の広さに驚きにいくのもよし、ビヨンセの美しさを楽しみにいくのもよし。これは実に良く出来たミュージカル映画です。でも、DVDを買って何度も見たい映画かと言われると、他の私のお気に入りなミュージカル映画とは違ってそういう気持ちにはなりません。それはきっと、歌がメインで目を見張るようなダンスシーンは登場しない映画だからなのでしょう。シュープリームスがモデルだけに、歌だけでなくダンスもというのは土台無理な話し。
という訳で、良く出来ているのに中毒性を持たない、私にとっては珍しいミュージカル映画でした。


<February>

PLAY・朧の森に棲む鬼/MOVIE・善き人のためのソナタ


◆2月17日◆MOVEIE◆善き人のためのソナタ◆

 この映画を観てからひと月近い時間が経過しているが、この映画について何と述べれば良いのか、未だ考えあぐねている。
 それは恐らく絶望と救い、この二つが同時に存在しているからなのだろう。そして、痛みと癒し、感動と憤りが混ざりあっているからだろう。

 この映画の舞台は東ドイツ。ベルリンの壁が崩壊する5年前の1984年から物語は始まる。 当時の東ドイツで人々を恐怖に陥れていた国家保安省(シュタージ)がどんな組織であったのか。物語の冒頭から我々は非人道的な尋問を知り、東ドイツがどれほど腐敗した恐怖統治国家だったのかを知る。
 東ドイツの人々は、ベルリンの壁の崩壊までナチス時代のゲシュタポに比較されるシュタージという強大な監視システムの元、盗聴そして密告の恐怖を感じながら日々を過ごしていた。
 このシュタージの中でのエリート。冷酷で人の感情を持っていないかのような男ヴィスラー大尉は、ある日女優クリスタとその恋人であり脚本家であるドライマンを盗聴するよう命じられる。ドライマンが反体制的な発言をしないか調べろという事なのだが、本当の目的はクリスタを気に入った大臣が彼女を手に入れる為の汚い策略だった。
 ドライマンの家に盗聴器を取り付け、彼等の生活を一部始終記録に残すヴィスラー。一人暮しで楽しみなど無いような殺伐とした日々を送っているヴィスラーだったが、彼等の生活を盗聴するうちに、音楽、文学、恋人たちの愛に触れるようになり、氷のような彼の心が次第に溶け出して行き、彼は次第に彼等を愛するようになる・・・

 本作を観て最初に思った事。それは、人間とは何だろうという事だった。人は体制に翻弄される。しかしどんなに体制が人間を拘束しようとしても、人の心は拘束する事は出来ない。そして、音楽や文学はどんな状況下に於いても人を感動させ、大事な物を思い出させる。あるいは発見させる力を持っている。非人道的で不条理な体制に巻かれ、利用し、腐敗していくのも人間なら、それに抗い体制に押し潰されそうになっても生き抜く力を持つのも人間であり、そのまま押し潰されてしまうのも人間なのだ。
 国家に運命を握られ、命を落とした人は戦後ナチの統治が終わった後も東ドイツには多数存在していた。シュタージに盗聴、密告されていた人の数は膨大であり、現にヴィスラーを演じた俳優ミューエ自身、妻に十数年に渡りシュタージに密告されていたという過去がある。

 『善き人のためのソナタ』という映画は、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツを知るという歴史的側面も持ちながら、芸術が、愛が人間に与える影響について考え、感動させてくれる非常に叙情的な作品である。これは非常に切ないラブストーリー。そして、人の心の闇について我々の心に問いかけて来る物語。
 フィルムの中で演奏させる『善き人のためのソナタ』のピアノの音が耳に残り、ドイツ人劇作家であり詩人であったブレヒトの詩が心に残る。まず、観て欲しい。私にはその言葉しか無い。

  追記:  この作品は、2007年アカデミー賞外国語映画賞を受賞しました。


◆2月10日◆PLAY◆朧の森に棲む鬼@大阪松竹座◆

 歌舞伎を観る醍醐味に「悪党」がある。そして「悪党」を粋に演じられてこそ歌舞伎役者とも言える。劇団新感線の「いのうえひでのり」が生み出す「いのうえ歌舞伎」五作目の「朧の森に棲む鬼」には、実に魅力的な悪党が棲んでいた。

 主役のライを演じるのは市川染五郎。人気歌舞伎役者の一人だが久々に観た染五郎は三十路になり、相変わらず梨園の若様という雰囲気は持ちつつも、坊ちゃん坊ちゃんした部分が無くなり、経験を積んできた役者が持つ落ち着きと遊び心を持った、幅のあるいい演技をするようになっていた。
マクベスを連想させる3人の婆が棲む朧の森で、命と引き換えに力を手に入れるライ。その弟分で、頭は足りないが腕には自信のあるキンタ。そのキンタを演じる阿部サダヲが実に秀逸である。
兄貴、兄貴とライを慕う頭の弱いキンタの持つ人としてのかわいらしさ、一途さ、そしてかわいそうなぐらい自分を良く知っているいじらしさ。その全てが阿部サダヲの演技には揃っている。
 新感線の定番の劇中歌も、『グループ魂』でボーカルをやっている彼にとってはお手の物で、茶目っ気たっぷりに客席に下りて歌い盛り上げる。そして演技ではアドリブも入れながら笑いもしっかり取った上で、ライの裏切りが決定的になるシーンでは思わず目頭が熱くなるほどホロリとさせてくれるのである。と書くと、主役を完全に食ってしまっているのではないかと思えてくるが、彼はあくまでも主役を引き立てながら自分も光っているという希有な存在なのである。これが名脇役阿部サダヲの凄いところである。そして、そんな彼に負けない染五郎は主役ならではの輝きを持っていて、彼のカリスマ性も凄いと言える。

 この二人の間で起こっている化学反応がこの物語を魅力的なものにしてくれている。忠誠心の厚いかわいい弟分、キンタを踏みにじるライという構図は、キンタがかわいければかわいいほど、ライの悪党ぶりにより一層の磨きをかけてくれるのである。
 キンタあっての悪党ライ、という事でこの二人のキャスティングが成功している 時点ですでにこの作品の土台はゆるぎなくなっているのだが、そこに個性的な役者が豊富にキャスティングされている。
新感線の看板役者、古田新太、高田聖子。いまさら言うまでもないがとにかく、舞台を知り尽くしている。間といい、笑いといい、感情表現といい、期待通りの芝居を繰り出してくれる。
 新感線以外の役者では、ベテラン秋山菜津子も魅力的で、今回は女性の武将ツナを凛々しく演じつつ、女性の弱さも表現していた。
彼女と同様にゲスト出演では、蔑ろにされている事を受け入れているかわいそうなイチノオオキミ(王)を演じていた田山涼成もかわいらしさと哀愁をちょうど良いさじ加減で見せてくれた。その他にも、新感線定番の粟根まこと、小須田康人、河野まさと、礒野慎吾といったベテラン勢がしっかりと脇を固めている。

 そしてその役者達をのせる舞台そのものがまたまた面白い。森の中の滝にはもちろん本当の水を使っているし、雨も降るし霧も出る。そして新感線の名物の照明。こだわりの照明は、今回も森の怪しさと神秘を表す空間を生み出していた。そして衣装。着ている方は重たくて大変かもしれないが、素材も形も美しく良く映えている。
 特に、終盤ライが悪巧みにより次々に位があがっていくというのを端的に表現してくれるのは衣装である。着替えるだけでも疲れそうなほど、ライの衣装は変わっていく。そして立派な衣装になればなる程、ライの顔は悪人に変わって行くのだ。この物語の醍醐味は、悪徳が悪党のまま己を貫き通すところにある。
水も血のりも、ライが語るせりふの言い回しも歌舞伎の流れをもろに受け継いでいるが、そこにロックな魂が入り込み「いのうえ歌舞伎」になっている。

 というところで、漸く「いのうえひでのり」である。今まで新感線の舞台はいくつか観ているのだが、数年前の私にとってはどれも面白いのだが、正直あともう一歩・・・という感じだった。
 しかし去年と今回、ここ最近観た2本はどれも本当に観てよかったと思える、 観劇後幸福感が残る作品になっている。更に私の中の彼の認識を変えた作品がある。それは『天保12年のシェイクスピア』である。これは蜷川版を舞台で観た後、友人に貸してもらったDVDで観たのだが、いのうえ版には観ているだけではしゃぎたくなるような勢いがあった。これは間違いなく若さの差である。
蜷川版を観た時には、脚本家いのうえひさしの力技に凄い!とその才能にうならされたが、いのうえひでのり版を観た時には、いのうえひでのりの勢いにうならされた。というのは、この勢いこそこの作品に必要なものなのではないかと思ったからだ。いのうえ版は、蜷川版とは明らかに違っている。
 DVDを観た日から、いのうえひさしが若い頃に書いた戯曲にとって、どちらが ぴったりくる演出だったかというと、いのうえ版なのではないかと思うようになった。これは別にどちらが優れているのかという話しではない。どちらが作者がイメージしたであろうテンポや勢いに近いのかという事である。
 最近のいのうえひでのり演出作を観ていて感じる事。それは「勢い」と「表現」のバランスが非常に良い状態であるという事である。「鮮度」を保ちつつ経験に裏打ちされた「表現力」を持っている。そのバランスが今まさに一番良い状態にあるのではないかと観る度に思わされる。それは、彼一人で成せる事ではなく、劇団の俳優達の充実であったり、興業的な成功による制作費のかけられ方だったり色々な事があいまっての結果であるとも思うが、間違いなく彼は今、演出家として充実した状態にあり、目が離せない状態である。

 最後に、小屋についてふれておきたい。
松竹座という歌舞伎を上演する為に作られた小屋は「いのうえ歌舞伎」にぴったりの大きさで、これ以上でもこれ以下でもこの作品には合わない気にさせられた。 花道に役者が登場する度に聞こえる、花道と裏を仕切っている幕を上げる「シャッ」という音は、何度聞いてもわくわくさせてくれるし、客席にずらっと並んだ赤い提灯も特別な空間を生み出してくれている。そして舞台と客席の近さが、時に互いの掛け合いを生み出してくれるのである。
 「歌舞伎」本来の敷居の「低さ」を味あわせてくれる「松竹座」と「いのうえ歌舞伎」。これぞ観劇の醍醐味と言える空間が出来上がっていた。

 生の舞台でしか味わう事が出来ない「日常」とは切り離された場所、そして世界観。この空間でこの役者で、この演出家でこの美術で、舞台の醍醐味を味わえた事に感謝しつつ、更なる「魅力的な悪党」の出現を期待して、私は劇場を後にした。


<January>

MOVIE・ダーウィンの悪夢/MOVIE・それでも僕はやってない


◆1月27日◆MOVIE◆それでも僕はやってない◆

 一言で言うなら、後味の悪い映画である。別の言い方をするなら、もって行き場の無い憤りを感じさせられる作品である。
この、法治国家であり一応平和であると思われている日本で一度犯罪を犯したと疑われたら一体どうなってしまうのか。予想される一つのケースを我々はこの映画を通して見る事になる。

この映画の主人公は、就職の面接を受ける為に朝の満員電車に乗っていたとある青年である。
彼はドアに挟まってしまったスーツの裾を抜き取ろうとしていた所、隣で痴漢にあっていた女子高生に犯人と間違われて下車時に袖をひっぱられてしまう。そして、彼女の「痴漢したでしょ」という言葉が発せられた瞬間から彼はその容疑を晴らす為の長い長い闘いを始める事になるのだ。

 99.9%。この限りなく100%に近い数字が日本の刑事事件で起訴された場合のの有罪率である。本当に痴漢をしても、警察で謝罪し罰金(映画の中では確か5万円だったと思う)を支払えば、前科はつくがその日のうちに釈放される。しかし冤罪であると主張し裁判を始めると、保釈金や弁護費用といった個人にとって大変な費用がかかるだけでなく、年単位の時間も費やす事になる。
 先日見たドキュメントでは、痴漢の容疑をかけられた男性が無実を勝ち取るまで、2年の月日がかかっていた。しかも、その闘いに勝つ可能性は0.1%と、限りなく0に近い。
という訳でもし冤罪だった場合――これが殺人事件なら選択の余地はなく裁判になるが――それが軽犯罪だった時、徹底的に闘うのか、身に覚えの無い汚名を受け入れ罰金というお金で時間を買うのか、どちらを選択するのかを今の日本では迫られる事になる。

 この映画の主人公は我々と同じ逮捕された経験のない普通の一般市民である。故に警察に連行されてからも、自分にどんな権利があるのかわからない。身に覚えがないから当然無罪を主張しているとどんどん事態は複雑になって行き、警察に促されるがままに調書にサインをさせられ、それが後の裁判に影響してくる。彼が国選弁護士を呼んでもらえると知ったのは、散々尋問を受けて留置所に入ってからのこと。
 詐欺師で常習犯の留置所に居た主のような男が彼に留置所ライフのあれこれを教えてくれて初めて、彼は今の自分に何が出来るのか、どんな権利があるのかを知る。その後、親や友達の協力を得て彼は裁判を闘っていくのだが、ここで明らかになるのは、状況証拠があっても、証言者が出てきても、一度容疑をかけられたらどうアタックしてもその容疑はちょっとやそっとの事では 突き崩せないという事である。
 法廷という場のマスターは、とにかく裁判官である。弁護士も、検察も、証人も、被告も、全て裁判官に対して彼らは訴え、裁判官は注意深く時には意地悪と思えるような質問もしながら 「自分の法廷」で「自分の判断」を行っていく。裁判官という「人」が「人」を裁く。人が人を裁く事の難しさと、裁かれる人にとっての重さが観客には重くのしかかってくる。
 我々はフィクションでありながらも緻密な調査を行い限りなく現実に近いと思われるこの物語を通して、事件の発生から一審までを粒さに疑似体験する事になるのだ。

 さて、周防監督である。前作から何と11年ぶりの新作がこの「それでも僕はやってない」だった。今まで彼の作品はいわば素人が「寺」だったり「相撲」だったり「社交ダンス」だったりと、非日常的な世界に飛び込んである程度の成果をあげるまでを描いた達成感のある物語だったが、今回は過去の作品と一線を画している。
 「満員電車」という日常から始まり「拘置所」そして「法廷」と次々に事態は大事になって行き、最後には憤りが待っている。彼は何度も語っているが、今までの映画は「撮りたい映画」で、今回の作品は「撮らなければならない映画」だったそうだ。
 日本の裁判制度に彼自身が驚き、フィルムメーカーとしてこの事実を世間に知らせる使命を感じて撮った作品だという事なのだが、そこは周防監督。(内容が深刻なだけに私はこの言葉を使いたくはないのだが)本作は裁判物にも関わらず「エンターテイメント」な作品に仕上がっている。しかしマスコミが言うほど「エンタメ」感は存在しない。なぜなら、そこには重い現実があるからであり、またキャスティングが絶妙でこの物語に真実味がにじみ出ているからである。

 まず、主役の加瀬亮。やられキャラを演じたらピカ一である。作品毎に違う彼を見ていると、職人肌の役者だなと思わされる。
 それに対する裁判官を演じたのは小日向文世。この人はつれっと嫌な人間を演じさせたら天下一品である。さんざん被害者に思い入れを募らせて来た観客にとってこの裁判官は、敵に等しい存在となる。その敵役とも言える役を彼は冷たい人物に作り上げ、観客の期待に十分すぎるほど「立ちはだかる壁」として存在している。

 またこの作品は二人に限らず、脇もかなり個性的な役者をそろえている。
被告人の母を演じるのはもたいまさこ。どの作品に出てきても彼女は「その作品になじむもたいまさこ」として存在しているという、まあ稀有な存在なのだが、今回もごくごく自然に「加瀬君の母親もたいまさこ」がこの作品に住んでいた。どれぐらい自然かというと、息子の無罪の鍵を握る証人を探すため、駅で必死に呼びかけるもたいまさこをスクリーンで見た加瀬が泣きそうになったぐらい自然なのである。「母さん、あんなことまでして僕を助けようとしてくれたんだ」と思ったらしい。
 次に友達の無罪を勝ち取るために奔走する真の親友を演じた山本耕史。出てきた途端、土方さんこんなところで!と思ったのは思いっきり余談だが、友達の為にここまで熱くなれる男を山本耕史が演じる説得力。「熱さ」に対して存在だけで既に説得力があるというのが面白い。
 そして周防映画の定番の人たち。筆頭は弁護士の役所広司だが、竹中直人も大家さんで一応登場。久々の新作だけに、いつもの顔がちょっとでも登場する度、何だか同窓会のような気にすらなってくる。

 というようなキャストが約2時間半をかけて、裁判の一審までを演じていくのである。時には観客から笑いが起こる事もあるが、スクリーンに映っているのは、無罪を証明するために奔走する人々とそれを阻む様々な壁。

 映画館の客席に座っている全員で事件の発生から一審までを見守る2時間半。そして劇場の明かりがついた途端聞こえるため息と、思わず出てくる様々なつぶやき。
 頭に渦巻くのは「なぜ?」という言葉。そして「もし自分がこれに似た状況に陥ったら?」という恐れと自分自身への問いかけ。

 「それでも僕はやってない」この一言が持つ意味。この一言がもたらす恐るべき事態。現在の司法制度を問いかけるという意味でこの作品は間違いなく成功している。
何故なら彼と共に裁判というものを疑似体験した我々は全員ある種のやりきれなさを感じながら 映画館という空間を後にする事になるのだから。


◆1月13日◆MOVIE◆ダーウィンの悪夢◆

 ナイルパーチ。肉食魚の一種。アフリカ、タンザニアのヴィクトリア湖に放たれた外来魚。タンザニアの貴重な輸出品この魚は、ヨーロッパだけでなく、日本にも輸出されている。

 『ダーウィンの悪夢』は、タンザニアをはじめ世界中で論争を引き起こしているドキュメンタリーフィルムである。そして、激しい抗議の対象となっているという派手な報じられ方とは裏腹に、製作者の目は極めて穏やかで、淡々と事実を切り取っている。つまり、国家レベルで問題視されるほど力を持っているフィルムなのだが、その語り口調にはある種の静寂を感じてしまうほど「動」よりも「静」の印象を受けるという意外な作品なのだ。
 そして本作は結論を出さず、あくまでも問題を提起するに留まっている。つまり、極めてメッセージ色が濃く一つの結論に突き進んでいくマイケル・ムーアの作品(彼の作品が純然たるドキュメンタリーかどうかで既に意見が別れるところだが)等とは間逆のようなフィルムなのである。

 自然が奇跡的に残っている為「ダーウィンの箱庭」と言われていたヴィクトリア 湖。そこに放たれた外来魚ナイルパーチ。その外来魚が異常繁殖し、凄まじい勢いで在来魚を絶滅へと導いている。
 一方、タンザニアの人々にとっては、捕っても捕っても尽きる事がなく食用として輸出出来る魚はゴールドラッシュのような活気を人々にもたらした。
 このフィルムに登場するのは、ヴィクトリア湖のナイルパーチはもちろんの事、それを捕る漁師、加工工場のオーナー、従業員、その周辺に住む娼婦、ストリートチルドレン、魚を運ぶ飛行機、そしてパイロットといった、ヴィクトリア湖周辺で生活をしている人々である。この人達の発言を聞いていると、ヨーロッパとアフリカ、ヨーロッパとロシアの関係についてもっと深く知らなければならないのではないかと思うようになってくる。また、現在はゴールドラッシュのように沸いているナイルパーチの輸出だが、肉食魚である為そのうちにヴィクトリア湖の生物を食い尽くし、ナイルパーチもまた死滅していくだろうという結末が頭をよぎる。
 再生無き消費の後の無の到来。そして思い至るのだ。焼き畑農業しかり、森林伐採しかり、ダーウィンの悪夢は世界中で起こっているという事を。そして私の頭の中には「文明の後には砂漠が残る」という記憶の中にある言葉が蘇って来る。

 『ダーウィンの悪夢』で描かれるヴィクトリ湖の現状は、世界の縮図にすぎない。世界のあちこちで同様の現象が起きていると考えるとき、この映画はより一層重みを持って我々にのしかかってくる。
 我々の生活を支えている物質。その物質が我々の手元に来るまでの経緯。その背景。私達は何も考えずにただそれらを消費しているが、時代はそれを考えざるを得ないところまで来ているのではないだろうか。

 エネルギーや食料といった生きていく上で必要不可欠なもの。その中で一番先に不足するといわれているのが食料である。根本的解決をしない限り、事態は悪化の一途を辿っていく。しかし根本的解決があるのか、という事すら私には分からない。でもこれだけは間違いないだろう。現実を知ること、一人一人が問題意識を持つこと。それが様々な破壊の速度を少しだけでも緩めて行くに違いない。そして、わずかながらも地球に住む人々の格差を縮めてくれるのかもしれない。

 地球の時間を種の絶滅する数でカウントした時、1日あたり約137種類の生物が消えていると言われている現代は、恐竜の居た時代の何と5000万倍の速度で進んでいるという説がある。その速度で我々は地球を消費して行っているのかもしれない。
 繰り返すようだが『ダーウィンの悪夢』はタンザニアだけの話しではない。地球で何が起こっているのか。自分が住むこの場所で何が起こっているのか。我々はそれをまず知る所から始めなければならないのではないだろうか。


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