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2008年映画ベスト10・Byなつむ


・2007年映画ベスト10・Byなつむ

ダークナイト
ぐるりのこと。
落下の王国
デトロイトメタルシティ
5
カンフーパンダ
6
その名にちなんで
7
つぐない
8
潜水服は蝶の夢をみる
9
歩いても歩いても
10
君のためなら千回でも

●MEMO●

 正直な話しをすると、今年は私の中ではベスト1が無い年でした。ゆえに、今回の10本というのは通常なら5位前後になりそうな作品ばかり。それをあえて10本選んで1〜10に割り振ってみました。諸事情により見た本数が少なかったという事もあります。 その中で選んだこと、それから極めて個人的な理由で選んでますので、間違いなく偏っている事を先に言わせて頂きます!

では・・・

 今年のラインナップを見ると、「テロ」「暴力」「欝」「民族」がキーワードかなぁと思います。当然ながら映画って現実社会を映し出しているんですよね。と、同時にそんな時代だからこそ、気楽に笑えるエンタメ映画もランクイン!です。

 まず、1位のダークナイト。暴力とそれに脅かされる社会、そして狂気が私の気持ちに擦り傷を作った作品でした。ヒースの狂気と合わせて、今年はやっぱりこれかなと思います。重いテーマでありながら、エンタメとしても成立している。ノーラン監督のバランス感覚にも驚かされました。
 ぐるりのことは、私の注目している橋本亮輔監督の6年ぶりの作品という事で待ちわびた思いを込めての1位です。日々ニュースで流れる事件が余りにも多く、陰惨な事件が瞬く間に風化していく現代社会は、社会全体が一種の鬱病にかかっているように感じます。その社会的欝の時代をどう生きて行くのか。この映画では我々の記憶に残るような実際に起きた大きな事件をモデルにした裁判と、ある夫婦の日常が平行して描かれています。人は人によって傷つけられるけど、人は人によって救われる。二人が最後にたどり着いたのは希望が感じられる場所。生きる事は容易ではないけれど、それでも生きて行こう、生きていけるよという橋口監督の出した答えが、この映画を見終わった後、ふんわり包んでくれる作品でした。

 さて、3位。まず落下の王国は久々にCGを使わない映画で、映像美にハッとさせられる作品でした。監督がインド人、デザイナーが日本人、そしてハリウッド映画という事で、製作段階で既に文化の融合が行われ、そこから生まれた作品は異空間へ連れて行ってくれるものでした。次々に登場する世界文化遺産の素晴らしさは、それを生み出した人間の凄さを感じさせてくれます。DVDで映画を見る事が多くなった今、映画館で観てこその映像美体験のこの映画は貴重だと思います。
 同点のデトロイト・メタル・シティ(DMC)は賛否両論あると思いますが、松山ケンイチを見てて、これぞ役者!と思ったのと、映画に誘った友達にもお礼を言われたぐらい楽しかったので3位にランクインです。映画を見ながら何だこれ!楽しいっ!!って思える映画っていいですよね。見終わって爽快でした。
 最近、岡田准一、二宮和也といったカテゴリーとしては「アイドル」が役者としても高い評価を受けていますが、二宮曰く自分は役者じゃなくアイドルだと言ってる意味が、松山ケンイチを見ていると良く分かります。芝居の出来るアイドルと、役者一筋の役者には言葉にするのは難しいのですが、歴然とした違いがあります。松山ケンイチ、今の20代男優の中でも特異な存在ですよね。この人凄いな〜とクラウザーさんを見ながら楽しくなっちゃった作品でした。大森さんの脚本も良かったです。

 さて、5位のカンフーパンダ。これはもう、夏休みに物凄く楽しそうに笑う親子の笑い声に包まれた幸せな映画館で、自分も思いっきり笑ったという理由から5位です。映画館ならではの醍醐味を今年一番味わえた映画でした。

 6位のその名にちなんでは、柔軟に生きる主人公の女性のその強さと美しさ、しなやかさを評価して。原作者のジュンパ・ラヒリは元々好きな作家ですが、この作品にも彼女の色がちゃんと残っていました。

 7位つぐないは、とても映画らしい映画でした。時間軸と視点を巧みに操っている作品です。ヒロインの恋人役を演じているジェームズ・マカヴォイを見ながら、この人の出ている作品って今のところ見て損をしたという作品はないなぁ・・・と漠然と思っていました。

 8位の潜水服は蝶の夢をみる。これは非常に重い内容です。雑誌ELLEの編集長が病気で全身麻痺になり、瞬きだけで書いた自伝を元に作られた作品です。人間の想像力と生き方を考えされられる内容でしたが、一番衝撃だったのは、映画の冒頭、麻痺してしまった主人公本人のビジョンで物語が綴られて行くシーン。これは全身が麻痺することの疑似体験でした。患者からはこう見えるという事の再現は、深く深く記憶に残りました。それにしても、死というのはその人の人生の集大成ですね。どう生きるのか、どう生きたのか、どう死んでいくのか。誰もがいずれは迎える死とそこに至るまでについて考えさせられる作品でした。

 9位は歩いても、歩いても。良く出来た映画です。そして細々としたディテールから状況や心情を描いてみせる是枝監督って、上手いと思いつつ、細かいな〜とか、怖いな〜とか、結構感覚がフェミニンだな〜とか色々思って見ていました。この作品を見て、やっぱりこの人は、「ゆれる」の西川監督の師匠だったんだと初めて納得しましたね。それにしても、姑役の希木さん世代の女性が映画館の殆どを埋め尽くし、嫁に対する姑の発言でどっと受けていたのは、なかなかにそこはかとない意地の悪さも感じつつ(笑)、怖い空間でした。

 10位。これは迷いました。おくりびとにするのか、これにするのか、ライラの冒険にするのか。アフター・スクールという選択肢もありました。おくりびとは、ラストを劇的に作り込みすぎた点、ライラは長大な物語を映画の尺に削る事の困難さは分かりますが、時間内に納めるのが精一杯で物語りの哲学的な深みが無くなってしまった点がマイナスになりました。アフター・スクールは今となってはそれがどの部分だったのか忘れてしまいましたが、設定の中に一つ説明不足というか、小さな穴があり、ミステリーとも言える作品なのでそこがマイナスでした。
 君のためなら千回でもにした決め手は、この作品を見た人はアフガンについて考え、もっと知ろうとする「きっかけ」という役割を果たしたということです。アフガンの描き方、テロ集団からの脱出など、実際はもっと違う、描き方が甘い等々色々あるでしょうが、国を追われるという事、テロが頻繁に起こる国に生きるという事、民族、宗教について考えさせられたという事で、今年の一本にあげたいと思いました。

 最後に。今年見た作品の中で、やられた!と思ったはNHKBSで放送された黒澤の「用心棒」でした。今年公開されたわけではないのでランキングには入れられませんでしたが、正直しびれました。何だこれは!!という感じでした。
 脚本といい、役者といい、美術、撮影、音楽、全てが斬新で、驚くべき作品でした。面白い画が次々に出てきて、黒澤がいかに視覚的に優れた人であったかが良く分かりました。こんなに時間が経っているのに画も音も新しいのです。作品から才能が溢れ出ている。やはり絶頂期の黒澤は凄かったんだと実感させられました。
 そして見ていて思ったのは、今年やたらと黒澤のリメイク作品が作られましたが、こんな完成された物に手を出そうとする方が間違っているという事でした。やはり黒澤は凄かったです。


<August>

MOVIE・カンフー・パンダ/MOVIE・ダーク・ナイト


◆8月9日◆MOVIE◆カンフー・パンダ◆

 夏休みといえばアニメ映画という事で、今年も数々のアニメ作品が上映されているが、その中で見逃せなかったのがこの「カンフーパンダ」である。
 理由は二つあって、一つはドリームワークスの作品であること。もう一つは友人がこの映画の広報を手掛けていたからだ。その映画フリークな友人が、仕事は関係なく本当に面白いと言う。「シュレック」が好きな私は当然見ねばなるまい。という訳で映画館へ足を運ぶことと相成った。
 とここで一つ問題が発生した。英語字幕で見るか、吹き替え版で見るのか。それは一番詳しい人に聞くに限ると友人へメール。英語版の声優のファンでなければ吹き替えもお勧めとの事。では上映回数も多く都合の良い吹き替え版にしようとそちらをチョイス。そしてそれは、賢い選択だった。

 まず、映画を映画館で観る醍醐味は知らない人たちとは言え、大人数で同じ作品を見る事でもある。当然の事ながら日本語吹き替え版の劇場は親子連れが殆ど。しかもなぜかお父さんと息子の組み合わせが多い。皆子供もちゃんと見えるように劇場が用意したクッションを持って入場してくる。上映前のおしゃべりを聞きながら、映画が始まったら静かになるのかな?と様子を見ていると、開始からすぐに皆映画の世界に引き込まれて行く。そして、絶妙のタイミングで笑い声が起こる。楽しい!

 物語は実にシンプル。中国のある村にカンフーの総本山のようなところがあり、4人のヒーローとも言えるカンフー・マスターとその師匠が住んでいた。そんな彼らに憧れるラーメン屋のせがれがパンダのポー。太っちょの彼はカンフーオタクで日々彼らに憧れ夢見ている。そんなある日、極悪の犯罪者が脱獄するだろうというお告げがあり、「龍の戦士」を探す必要が出てきた。さて、その龍の戦士は誰なのか?

 という話しなのだが、この中で人間は一切出てこない。カンフーマスターは虎、鶴、カマキリ、蛇。そして主人公ポーはパンダだが、父親は何故か鳥である。そしてポーにカンフーを教えるシーフー導師はスターウォーズのヨーダのように極端に小さい。彼が何の動物なのかは良く分からないが、私にはフェネギーに見える。そして師匠の師匠は亀。そして牢獄を守る部隊はサイである。 とまあ、様々な動物が登場するが一番の謎は間違いなくこれだ。何故パンダであるポーの父親が鳥なのか。この話しはまた続編となって出てくるような気がする。

 さて、キャラクターの愛くるしさや画面の美しさは流石のドリームワークスなのだが、今回これは凄いと思ったのがスピードと殺陣の構成である。格闘シーンの構成が実にしっかりしていて、スリルと笑いが絶妙なタイミングでやってくる。それ故、子供たちはドっと笑い、付き添いで来たであろう親もいつの間にかお腹を抱えて笑っている。そして私も笑い過ぎで涙が出て来た。
 私は基本的にドリームワークスの笑いが好きなので、実際に見た方にそれほど面白いか?と言われてしまうと何も言えないのだが、終盤にかけて真剣勝負のシーンでこそ笑いが次々に繰り出されてくる。そしてその笑いに拍車をかけるのが、劇場中から聞えてくる楽しくて仕方ない!という子供たちの屈託のない笑い声だ。

 説教臭くならずにメッセージを伝え、ドリームワークスらしくおよそヒーローには見えない主人公が大活躍する。
 この夏、単純に楽しめる映画を見たいと思ったら、アニメだと犬猿せずにこの作品も候補の一つに上げて欲しい。大人も子供も楽しめるエンターテイメント作品としてかなりのクォリティーを持っている。そしてぜひとも子供たちの笑い声というオプション付きで楽しんで頂きたい。


◆8月9日◆MOVIE◆ダーク・ナイト◆

 クリストファー・ノーランといえば、映画「メメント」というミニシアター系の映画で大ヒットを飛ばし、日本でも知られる存在となった監督である。低予算で面白い作品を撮る監督、という印象を持っていた彼が「バットマン ビギンズ」を撮ると聞いた時、ああ、この監督もハリウッドのメジャーな映画を撮る人になったんだなと少々感慨深くなった。過去において、ミニシアター系で馴染みのあったアン・リーやピーター・ジャクソン、ブライアン・シンガーといった監督が次々とハリウッドデビューを果たして行ったのと同じ道を進んで行くのか、と嬉しくもあり、寂しくもありという感じだった。
そして彼が作るハリウッド映画とはどんな作品になるのかと興味を持った。にもかかわらず、何故か「ビギンズ」は気になりつつも見逃している。

 さて、今回の「ダークナイト」はバットマンシリーズであり、「ビギンズ」に続いてノーランの手掛けるシリーズの二作目に当たるのだが、これは続編というよりも独立した作品として存在している。「ビギンズ」を見ていない私が見て、鑑賞に全く問題がなかった事からも押して知るべしである。
 故にタイトルから「バットマン」の文字も消えているのだろう。この作品の主役は単純に、「バットマン」であるとは言えない。その証拠に、この作品を見た人全てがバットマンではなくジョーカーから目を離せなくなるはずだ。

 ジョーカー。そのキャラクターを知ったのはティム・バートンのバットマンでジャック・ニコルソンが演じた時だったが、ヒース・レジャーのジョーカーほどの狂気を私は見たことがない。彼の演じるジョーカーは、演技と現実の境界線を見失っているかのごときリアリティを持って我々の中に入り込む。白塗りの顔に赤く裂けた口。目の周りが真っ黒でどこから見ても常軌を逸している顔のジョーカーはおぞましい存在であるにもかかわらず、我々は目をそむけるどころか彼から目を離す事が出来ない。

 金品を要求する訳ではなく、命を落とす事を何とも思っていない相手を前にして、我々は何をもって対峙する事が出来るのか。911が深く記憶に刻まれている我々にとって、それはスクリーンの中の話しではなく、誰もが感じたことのある恐怖であり、現実なのである。

 ジョーカーはバットマンが自分を追い詰め捕らえたとしても、彼自身のモラルが邪魔をして自分を殺す事が出来ないのを知っている。そしてバットマンというヒーローが居るからこそ対抗勢力としての自分が世間の注目を集める事も知っているので、ジョーカーも相手の命を奪うことは絶対にせず、次々に攻撃を仕掛けてくる。

 この物語の中で、ジョーカーは自分が子供の時に父親から虐待を受け、口をナイフで裂かれたという話しを何度もする。幼児期に虐待されて受けた身体的な傷と心の傷が今の彼を作り上げているのだが、その闇のあまりの深さに、人は同情するのではなくすくんでしまうのだ。

 この作品のタイトル「ダーク・ナイト」は「夜の闇」ではなく「闇の騎士」である。常人の理解を超えるテロの横行する社会を守る闇の騎士。タブー無き相手を敵にして、人間は精神的なバランスを崩さず何が正義かを見失わず、正しき道を踏み外さずに進む事は出来るのだろうか?何が正義なのか、間違わずに判断する事はできるのだろうか?そして、絶望的な世界はヒーローを必要とするものだが、ヒーローに選ばれた者は、パブリックとプライベート、理想と現実の間でどう生きていくのか?
この物語は、架空都市の話しでありながらリアリティを持って簡単には答えのでない問いを次々に投げかけてくる。

 「ダーク・ナイト」はハリウッド映画でありながら、イギリス人の監督と、オーストラリア人俳優のヒース・レジャー(ジョーカー)、イギリス人のクリスチャン・ベール(バットマン)により作られている。そして架空都市だったゴッサムシティは限りなくアメリカの大都市に似た街になり、より身近に感じられるようになっている。
 ジョーカーの存在に我々が見ているのは、自国における無差別テロとも言えるのだが、ハリウッド映画である事を考えるなら自爆テロを行い続ける過激派のイスラム教組織であり、バットマンサイドにはアメリカを見ている。それをアメリカ人以外の人間がハリウッドで撮った映画が「ダーク・ナイト」なのだ。そしてこの映画は多くのアメリカ人に受け入れられ、その証拠にタイタニックを凌ぐほどの記録的な動員数を樹立した。

 本作はバットマンのシュチュエーションを用いながら、コミックやドラマで描かれたのとは全く別の次元の物語を生み出している。そのテーマは重く暗く、しかしエンターテイメントとしても存在している。そして特筆すべきは、人々の記憶に強烈な印象を残すヒース・レジャー演じるジョーカーを生み出したという事だろう。あのジョーカーが居る限り、この映画はこれから先何年も、多くの人に繰り返し見られる映画となっていくだろう。
 ヒース・レジャーのジョーカー。彼の狂気は映画史に残るものだと思う。常人の考えられる範囲を突き抜けた狂気は、我々を飲み込むだけでなく、それを生み出したヒース自身までを飲み込んでしまったのか。私にはこの作品を考える時、彼の死を切り離して考えられなくなっている。他の誰にもこのジョーカーは演じる事は出来ないだろう。とにかく、ヒースの死は、映画界の損失である事は間違いない。

 これからノーランの描くバッドマンは一体何処へ進むのか。次回作が生み出される事を期待せずにはいられない。


<April>

MOVIE・アフタースクール/MOVIE・アイム・ノット・ゼア


◆4月26日◆MOVIE◆アイム・ノット・ゼア◆

 ボブ・ディランを私は知らない。リアルタイムでヒット曲を聴いた世代ではないし、彼の過去を紐解く事もした事がない。彼の息子をMTVで観たことはあるが、父親をMTVで観た記憶はない。グラミー賞で観た覚えはあるし、TVで「風に吹かれて」のドキュメントを観たことはあるが、彼が私の身近な存在になった事は今まで一度も無い。

 しかし彼の名前も、彼の顔も記憶しているし、具体的なところは分からないが彼がかつて社会に対して影響力を持っていたことは認識している。

 ボブ・ディラン。彼は何者なのか。『アイム・ノット・ゼア』は決して彼の「伝記」ではなく、彼の内側を描こうとした作品である。

 まず、監督トッド・へインズは「彼」の要素を6人の俳優に振り分けた。その6人は誰も「ボブ・ディラン」という名を持たないし、事実と記憶、記録に基づく「彼」そのものの行動をとる訳ではないが、彼らは紛れも無くトッド・へインズが思う「彼」であり、6人は「彼」を演じている。へインズ監督を有名にした作品『ベルベッド・ゴールドマイン』で彼は、デヴィッド・ボウイ(グラムロック)を描いた。その中で彼は「カリスマ」と「スター」、「上昇」と「下降」そして方向の「転換」を描いてみせた。

 デヴィッド・ボウイとボブ・ディランは決して相容れない存在なのだが、トッド・へインズというクリエーターの中で二つの映画は結びついており、この『アイム・ノット・ゼア』は『ベルベッド・ゴールドマイン』が進化した形のように私には思えた。それは、「物語ることについての進化」である。

 6人が演じるボブ・ディランは、6つのエピソードが順番に出て来て繋いでいくのではなく、同時進行的に6人の世界を壊すことなく進んでいく。大人の寓話的な要素もあれば、リアルな要素も存在している。その6人が複雑に混ざり合い、不思議なことに融合している。監督の絶妙なバランス感覚によって。

 ボブ・ディランが単純明快な人物で無いように、この映画も物語があって、メッセージが明確にあってというシンプルなものでは決してない。スクリーンに映し出される魅力的な役者たちの動きと言葉を元に、我々はトッド・へインズが「彼」をどう見て、どう解釈しているのかを探り続けることになる。

 ハリウッド的な明快さが売りの映画作品が主流を占めている中、たまにはこんな「感覚の目」で見る映画に出あうのもいい。実に魅力的なケイト・ブランシェットに会うことも出来るのだから。


◆4月23日◆MOVIE◆アフタースクール◆

 皆さんは自分が中学の頃のクラスメイトって覚えていますか?アフタースクールに登場するのは、中学時代の同級生。一人は母校の教師になり、ひとりはエリートサラリーマンへ。もう一人は大人のおもちゃ屋と探偵を生業としている。。。それを、大泉洋、堺雅人、佐々木蔵之助が演じます。

 今回ご招待してもらったので、公開前にこの映画を観る事が出来ました。正直なところ、私は大泉洋が苦手なのでどうかな・・・と思ったのですが、後の二人、佐々木&堺の二人は好きなので、やはり見に行く事に決め、大泉洋舞台挨拶付き試写会へ。ファンの方、すみません。

 結論を言ってしまうと、見に行ってよかったです。エンタメとして楽しめ、かつ爽快感がありました。そして全編にちりばめられた笑いの数々。話の筋はさほど目新しいものではないのですが、最後まで飽きることなくぐいぐい引っ張ってくれるのは、この物語の構造です。物語る順番や見せ方により非常に面白い作品になっています。そう。形の違ったユージュアル・サスペクツみたいに。これは正しく構成の勝利です。

 それ故具体的な事は言えませんが、それぞれの役者本人の持ち味を上手く引き出しながら手際よく話しを語っていきます。物語の最後でどんどん断片が繋がっていく爽快感!まとまりの良さとユーモア、俳優陣の層の厚さなどなど、映画としてのエンタメの条件をクリアーしています。ただ一つだけ、物語に私としてはひっかかりはあるのですが、それはまあ、目を瞑ってもいいかと思わせる勢いがこの作品にはありました。私は基本的に、映画の中に矛盾があっても、他の力でカバーできるなら、それはそれでいいと思っている、というよりむしろその勢いを買いたい方なので、そういう意味でもこの作品は楽しめました。

公開は2008年5月24日から。彼らと一緒にちょっと人探し、2時間弱のショートトリップを楽しむのはいかがでしょうか?


<March>

MOVIE・潜水服は蝶の夢を見る/MOVIE・ライラの冒険 黄金の羅針盤


◆3月8日◆MOVIE◆ライラの冒険 黄金の羅針盤◆

 ライラの冒険が映画になる。そのニュースを聞いた時、とっさに原作の世界観が壊されてしまうのではないかということを心配しましたが、「映画化」された作品が原作を超える事はなく、むしろがっかりする事が多いというパターンに慣れてきた今、まぁ多少のことは仕方ないと、妥協体質が出来上がってしまっている事に驚き待つこと数年。
とはいえ、映画館で予告ポスターを見てイオレク・バーニソン(白熊)にまたがるライラの姿にトキメキながら公開の日を待つこと数ヶ月。途中、この映画の製作が「ロードオブザリング」の「ニューラインシネマ」だという事や、コールター夫人にニコール・キッドマンがキャスティングされたことなどを知り、これは期待してもいいかもしれないと浮上すること数回。そしていよいよスクリーンに映し出されるライラの世界をこの目で見る日がやって来ました。

 と、長々と書きましたが一言で言えば「楽しみにしていた映画がやっと観られた」とそういう事です(笑)

 さて、感想を一言と言われれば「あの長編小説を2時間の枠に収めると、早い展開と問題の簡単解決は仕方がない」というところでしょうか。大変なことが起こる割には時間の関係でサクっと解決していきますし、物語の展開は極めてスピーディーで、細切れになっているように感じられる部分もあり、そこはちょっと残念でした。

 ここで少し物語りの説明をしますと・・・
ライラの世界では人とダイモン(魂のような存在)が対になって存在しています。子供のダイモンは子供を守る為、その状況に合わせて子供を守るのに最適と思われる姿、鳥や猫、ねずみや犬といった様々な動物に変身することが出来ますが、大人になるとダイモンの姿は固定され、一つの動物から変化することはなくなります。ダイモンはその人の一部であり、鏡ですから、狡猾な金の猿、立派な豹といった人間のキャラクターに合った姿になり、いつも人間の側に居ます。
 このダイモンと人間が対になって存在しているという世界観がまず、なかなか分かりにくいと思うのですが、映画は初めてこの物語に出会う人にも分かるように、手際よく説明していました。
 言うまでもなく、スクリーンの中に広がるライラの世界はCGが多用されています。 カテゴリーとしてはファンタジーなのであえて魔法にかかった気分でその画像をそのまま 受け入れればいいのですが、ついついCGの出来やどこまでが実写なのかを探してしまう というこの哀しい体質。。。
 そんな画像チェックの中、良く出来ていると関心させられたのはライラのダイモン、パンタライモンの変身のスムーズさでした。しかもそのパンの声は、ネバーランドやチャーリーとチョコレート工場の秘密で有名な男の子、フレディ・ハイモアが演じていて、実に生き生きと存在しています。声だけの出演ですが、さすがの存在感ですね。

誰のダイモンもほとんどCGだと思うのですがなかなか上手く出来ています。 ダニエルクレイグ演じるアスリエル卿のヒョウは強く美しいですし、ニコールキッドマン演じる コールター夫人の猿もちゃんと狡猾で意地悪に見えました。あえて言うなら。もっと細い 猿かと思ったのですが・・・かなり太めでした(笑)これは驚きでしたね。

 驚きといえば、エンドロールで現れた「イアン・マッケラン」の文字。 その途端、えっ!!!何処に!?見落とした?とマッケラン好きの私は軽いパニックに なりましたが(大げさな。笑)私の大好きなイオレク・バーニソンの声がマッケランだったと 知り、おーっとパンフレットを読みながら驚きの声をあげてしまいました。実はマッケランの謎を解くためにパンフレットを購入したという・・・(笑)声優人も実に豪華です。

 さて、そんな作品でしたが欠点が無いかと言えばありますし、映画として良く出来ているかと言われると原作を読んでしまった私には判断不可能と答えるしかない状態でしたが、とにかくあの世界を映像にしてスクリーンで観られたというのは、わくわくする体験でした。
 キャスティングは吟味されており、画面に映るニコール・キッドマンもダニエル・クレイグも主役のライラを演じるダコタ・ブルー・リチャーズも魅力的です。どのキャラクターもイメージを壊すこと無く存在しています。
 黄金の羅針盤も美しいですし、雪の中をライラとイオレクが駆け抜けるシーンもCGであることが良く分かる場面だったとはいえ幻想的です。映画の中に登場する建築物や気球、飛行船などのデザインもこだわりを感じ、訪れてみたくなるような世界が広がっています。
 しかし私にとってこの作品は、ロードオブザリングの時のような、DVDを入手して何度もリピートしてみてみたいというものにはなりませんでした。これは単純に、オーランド・ブルームもヴィゴ・モーテンセンも出ていないから、という理由だけではない(笑)ようです。

 映画を観て感じたこと。それは原作の持つ奥行き、物語の厚みとハリウッド映画の表現方法が綺麗には混ざり合わなかった、波長のずれが生じているという事でした。

 限りなく英国に近いライラの世界は映像的には歴史を感じさせるものですが、映画全体から受ける印象はライトであり重厚さに欠けるような気がします。2時間という枠も起因しているのでしょうが、作品全体が物語りの表層をなぞるに留まった印象が残るのです。この物語に存在している闇の中に魔物が住むような暗さ、恐ろしさや凄みといったものはスクリーンを通しては余り感じられませんでした。

 ライラの冒険は、巻を進めるごとに長く、そしてより抽象的になって行きます。それをどう映像化していくのか。恐らくこの作品は残る2作も作られると思いますが、その目には見えない存在といったものをどう映像化していくのかで製作側は頭を悩ませることと思います。非常に難しい作業になると思いますが、その表現方法も含め、後の2作も楽しみにしたいと思います。


◆3月7日◆MOVIE◆潜水服は蝶の夢を見る◆

 先日、久々に歯の治療の必要が生じ麻酔を打たれた。それから完全に麻酔が切れるまで4時間近くを要したのだが、その間思った以上の不便が生じた。まず、口が上手くすすげない。口紅が上手く塗れない。左の頬から唇にかけて麻酔が効いていただけなのに、食事にも不便さを感じる。ストローでないと上手く飲み物が飲めないのだ。麻酔が切れるまでの数時間。それは日頃当たり前になっている正常な体の感覚のありがたさを感じた出来事だった。

 さて、本作「潜水服は蝶の夢を見る」は、雑誌ELLEの編集長だった男性が脳梗塞を起し、ロックト・イン・シンドロームという状態に陥り、それにも負けず一冊の本を書き上げた後、一生を終えるまでを描いた、実話に基づく物語である。

 ロックト・イン・シンドローム。これは、脳は正常のままで全身が麻痺するという症状である。正に自分の体の中に閉じ込められた状態をいう。この物語の主人公の場合、体の中で動かせるのは唯一左目だけ。しゃべれない、寝返りもうてない、そもそも体を動かすことが出来ない状態で、頭の中は倒れる前と同じという状況に主人公、ジャンは陥った。

先に書いたように、体のほんの一部が麻酔によって一時的な麻痺状態に陥っただけであれだけの不便を感じるのだから、それが全身ともなると想像を絶する事態である。

 映画の冒頭、幕か何かで遮られた場所から聞こえるような人の声とぼんやりとぼやけた映像が続き、観客は主人公の目から見た世界を疑似体験する事になる。これは非常に斬新ともいえる撮り方で、我々はジャンと共に不安ともどかしさを感じざるを得ない。今、自分は一体どうなっているのか。何が起こっているのか。第三者から観た姿が伏せられているだけに、不安がかき立てられる。視力に問題が生じているため、見える映像はぼんやりとしていて、自分が置かれている状況が良く把握出来ない。呼びかけに対して頭の中では答えられるが、唇も舌も、喋るのに必要な器官が全て麻痺しているので伝える事が出来ない。正に、潜水服を着せられ、深海に閉じ込められたような状態なのだ。人生が一変してしまった現実。その中にあって、彼はリハビリをし、左目の瞬きで自分の意思を伝えることが出来るようになり、一冊の本を書き上げたのだ。

 本作を観て感じた事は、精神的な生命力の大切さである。彼は思い通りにならない自分の体の中に閉じ込められたが、過去の記憶と想像力を基に、空想の世界で自由に羽ばたいている。幸せの記憶がなければ到底そんな事は出来なかっただろうと思うと、人間にとって楽しさや幸福を感じる心はいかに大切かがわかってくる。以前、教養とは一人でも楽しめる事であると言った人がいたが、そうとするなら、教養は心の生命力に直結しているとも言えるだろう。

人がどうしようも無い困難や絶望に陥った時、それに耐え抜く力は自分の中にしか存在しない。人生を楽しむこと。それは日頃我々が考える以上に大切な事であり、生きていく力になるのだと思う。

 ジャンは手厚い看護を受け、周囲の人に支えられて本を書き上げる事が出来た。昔なら助からなかった状態から、医療の発達で一命を取りとめられたが為に、彼はロックト・イン・シンドロームという大変な症状を経験する事になったが、自分が生きた証の一つを、本という形に残すことが出来たのだ。入院し、リハビリを続ける彼を見ながら改めて思ったことがある。

人にとって死とは、その人がどう生きたかの答えである。彼は42歳という若さでその生涯を閉じた。それは、年齢に関係なくある日突然死がやってくる事があるという現実を伝えてくる。どう生き、どう死ぬのか。それは遠い未来にあるものではなく、案外近いところにあるかもしれず、先延ばしにせず見つめていかなければならないと考えさせられる作品だった。


<February>

MOVIE・アメリカン・ギャングスター/PLAY・IZO


◆2月16日◆PLAY◆IZO 劇団☆新感線◆

 劇団☆新感線の定番の一つ、いのうえ歌舞伎の最新作はこの「IZO」。過去に「吉原」「朧」と2作を見ている私ですが、今回の作品には今までとは違うテイストを感じました。簡単に言ってしまえば、歌舞伎というにはリアリティがありすぎて、いのうえ歌舞伎にカウントされるのが果たして正しいのかどうか、その点で疑問が残りました。
「歌舞伎」というのは「かぶく」ものであり、悪党には悪党の美学が存在し現実を飛び越えた物語性が欲しいところですが、本作には悪の美は無く、描かれる物語は「リアル」であり、そこに存在するのは「哀しみ」でした。

 人斬り以蔵は実在する人物であり、この舞台を観る前からその名前だけは知っていましたが、今回この舞台を観る事によって初めて彼の全貌が明らかになりました。
 以蔵は土佐の生まれの下級武士。武士と呼べないぐらいの最下層と思われます。幕末彼は新選組が闊歩する京都に入り、人を斬って斬りまくる日々を送ります。この舞台全編を通して分かった事は、彼は利用されのたれ死んで行った哀れな男だったという事です。
その以蔵を森田剛が演じています。いわゆるアイドルの彼がどう演じるのか。台詞そのものはマイクを使っているので通らない、という問題は無く、まずは一安心。始まって数分で、アイドル森田剛を彼は完全に捨てている事が良く分かりました。こう言ってはファンに怒られそうですが、小さくて痩せている体は貧弱に見え、野良犬扱いされる以蔵を良く表現していました。ある意味痛いぐらいです。お前には頭がない、物事が分からないと言われ、避難されつつ、それ故利用されてしまう以蔵の哀しさがしっくり来すぎて、演じているというよりイコールで見えて来て気の毒なほどでした。それ故、歌舞伎というにはリアル過ぎ、また悲哀を感じてしまったのです。
 次回のいのうえ歌舞伎は、また大悪党が彼の美学で華麗に命を散らせるのを観たい気がします。


◆2月9日◆MOVIE◆アメリカン・ギャングスター◆

 オスカー俳優デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウがタッグを組み、監督リドリー・スコットが撮ればオスカーにノミネートされると思ったのでしょうが、今回のアカデミー賞では助演女優以外主要部門で完璧に無視されたのが(笑)この映画です。
 物語の舞台となったのは1970年代のニューヨークとニュージャージー。ドラッグに価格破壊を持ち込みのし上がった男とそれを追った警察官、二人の男の実話に基づく物語です。
この映画、3時間近くの長丁場でして、見ているだけで疲れるのですが、目が離せないという事もあり途中で脱落するような事はありませんでした。が、もう少し編集出来た気がするのも事実です。

 演技派二人を主人公にしていますが、映画を見終わって残るのは、当時のアメリカはこんなだったのかという事だけでした。ベトナム戦争の影響でドラッグが蔓延したアメリカ。まさに、ベトナム戦争は百害あって一利無しだったという事を再認識させられます。また、私が子供の頃、NYは危険な街だと言われていましたが、この映画を観るとその理由も自ずと分かってきます。という訳で、この映画は近代アメリカ史を垣間みるのには適した作品と言えます。ですが、映画の中の主人公たちに感情移入する、あるいは彼らの魅力に目を奪われるというような作品ではありません。
 本作で描かれた1970年代のアメリカ。このドラッグ汚染の問題は解決出来ずにこの後も、「トラフィック」などといった作品が作られています。そのバイヤーの勢力地図に変化はあっても、ドラッグの存在と中毒患者や命を落とす人がいるという現実は変化しません。本作はドラッグについて語る事はなく、それを売りさばいた男の栄枯盛衰を描くに留まっています。
今現在NYのドラッグ市場では誰が勢力を持っているのか。そんな事をぼんやり考えながら内容的にはドキュメンタリーフィルムを見た時のような、過去の事実を認識したに留まる3時間弱を過ごした劇場を後にしました。

追伸
 この日は大雪で帰宅は困難を極め、結局映画より大雪が印象に残る一日でした。。。


<January>

MOVIE・その名に因んで/MOVIE・スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師


◆1月26日◆MOVIE◆スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師◆

 スウィーニー・トッドと言えば、ロンドンの都市伝説と言われる猟奇的な物語であり、その名を聞いて連想するのは、スティーブン・ソンドハイムのミュージカルである。
この物語は妻子を奪われ、無実の罪で捕らえられた男の復讐劇なのだが、それだけで終わる物語ではなく、その先が普通の物語と一線を画す話しとなっている。彼は直接恨みがある人間以外をも殺す連続殺人犯となり、その死体は相棒のミセス・ラベットにより人肉パイにされ、彼女の店は大繁盛するのだ。
 シリアルキラーが主人公でカニバリズムな物語とくると、普通はミュージカルには向かないと思うのだが、何故かスティーブン・ソンドハイムはミュージカルとしてこの物語を成り立たせ、トニー賞も授賞している。

 さて、今回そんな「スウィーニー・トッド」をティム・バートンがジョニー・デップ主演で映画化すると聞いたのは数年前。当然の事ながら、ティムが映画化するというからには、恐らくミュージカル版では描かれていないエピソードを交え、物語を深く掘り下げてストレートプレイで描くのだろうと思っていた。しかし、公開が迫り露出が増える頃驚くべき情報が耳に入って来た。あのティムがジョニー・デップを使って、スティーブン・ソンドハイムの音楽をそのまま使ったミュージカルを撮った。それが、「スウィーニー・トッド」だと言うのだ。これこそまさしく、まさかの展開である。
 あの、ミュージカル俳優でもやっかいだと思われるソンドハイムの歌を彼等が歌う?大丈夫なのだろうか。吹き替えはあり得ない。でも、納得出来ないものを世に送り出す彼等ではないだろう。

 そんな不安を抱えながらいざ劇場へ。既にこの映画を見た人たちは、皆一様に流血が並大抵ではないと言う。映画のオープニングから流れる血。そしてミンチ。パイが出来上がって行く行程をCGで描いているのだが、このオープニングの手法は「チャーリーとチョコレート工場の秘密」に良く似ていて、そこに新しさと意外性は存在していない。CGで描かれた血やミンチは、グロテスクだが作り物である事を認識させる色合いに出来ており、この中に出て来る血は血のりですよ、というスタンスをティムはここで提示してくる。そして映し出されるジョニー・デップ。登場から歌っているのだが、その語りと歌の中間にある声は、まさしく俳優の歌だった。
ミュージカルと聞いた時、思い出したのはバズ・ラーマン監督の「ムーランルージュ」だったのだが、この作品では「俳優の歌」に歌手とは違う味わいを感じたので、そのテイストでティムも行くのだろうと思っていた。その予想通り、彼の歌は台詞であり、声の質よりもそこから読み取れる感情に重きがお置かれている。
 映し出されるロンドンの街。セントポールズが意図的に映されるのは、舞台は下街である事を明らかにする為だろう。画面は全体にグレーであり、カラー映像なのだが、重く暗い映像が続いていく。ロンドンの街にトッドが足を踏み入れ移動していく場面では、それこそ映画「ムーランルージュ」のパリ上陸を思わせるハイスピードな移動で一気にミセス・ラベットのパイ屋まで進んでしまう。このシーンは実に「ムーラン・ルージュ」に似ており、あれを意識したとしか思えない。更に、わざと作り出したであろう揺れが車酔いのような気分にさせてくれる。酔いやすい人はここで本当に気分が悪くなる事だろう。
 と、スタート時からいつもの、ティムのマジカルな映像や斬新な画像、彼特有の映像美が感じられず、あれ?という疑問がわき起こったのだが、それは全編を通して感じる事になる。
ソンドハイムの歌が枷になったのか、物語に問題があるのか、見れば見る程ティム・バートンがジョニー・デップでこの映画を作る意味がほとんど感じられないのだ。映画の出来としては悪くはない。しかし、ミュージカルとして舞台上で成り立っていた物語は、スクリーンという場所に移動した途端、その物語の薄さが目立つようになってしまった。
 スウィーニー・トッドがシリアルキラーになる動機が納得の域には達していないし、トッドの捕われている娘が言葉も交わした事がない水夫とかけおちしようというのも腑に落ちない。舞台版を見た時には、何の疑問も感じなかったのだがこれはどうした事だろう。普通ではあり得ない事が成り立ってしまう。これが舞台の魔法なのだろうか。いや、これこそ歌の魔力なのかもしれない。
 ジョニー・デップもヘレナ・ボナム=カーターも、歌えていないのかと言われれば、歌えている。この映画に出て来る人は皆それなりに歌えているのだが、それはマイクで拾ろわれた歌声であり、劇場では成り立たない歌声である。つまり、スクリーンから聞こえてくる歌は、彼等の感情と物語を伝えてくるに留まり、我々の心を揺さぶり、感動を与えて来るという歌ではない。ソンドハイムの歌は非常に難しくミュージカル俳優でも手こずると思われ、それを相手にしているのだから、この映画の俳優たちは良く健闘していると言える。だが、ミュージカルで歌われる歌に求めるられるのは、感情がダイレクトに伝わって来る、圧倒的な力を持った歌である。圧倒的な歌唱力に裏打ちされた歌である。心を揺さぶる歌が存在していれば、多少の物語の欠点は覆い隠せてしまうのだ。

 ソンドハイムという枠の中で、ティムらしさが薄れているとは言えど、それなりに彼のテイストは見て取れる。まず、トッドが殺した被害者を2階から地下へ落とす装置だが、舞台では当然足から下へ落ちていく。しかし、映画では椅子が後ろに倒れ、被害者は頭から地下へまっ逆さまに落ちていく。しかも、その一部始終をティムのカメラが追いかけていくのだ。ブラック好きなティムらしい映像である。
 また、思わず笑ってしまったキャスティングもある。トッドの元弟子で、第一の犠牲者となる男ピレリ。彼を演じたのは、知ってる人は少ないかもしれないが去年話題になった映画「ボラット」のボラット。サシャ・バロン・コーエンなのである。このキャスティングには本当に驚かされた。ユダヤ系イギリス人なのにカザフスタン人と偽りボラットを撮った彼に、イギリス人なのにイタリア人と偽るピレリを演じさせている。
 もう一つキャスティングで感じたのは、あえてのミスキャストというか、彼なりのひねりなのだろう。トッドの娘に一目惚れし、救出劇を繰り広げる水夫アンソニー・ホープを演じるジェイミー・キャンベルバウアーは細く、美しく、全くたくましくなく、およそ水夫には見えない。そして、トッドの娘ジョアンナを救出した後、彼女から、自由になれたからって、それでめでたしめでたしとはならない、というような覚めた事を言われてしまう。
 そして、何といってもティムらしいのは被害者をミンチにする映像へのこだわりだろう。映画ならではの画にもなる。ミュージカルでは描けなかったシーンである。そして、そこをリアルにする事で、グロテスクさをより強調している。

 2008年2月17日現在、ジョニー・デップはこの作品で、アカデミーの主演男優賞にノミネートされている。ゴールデングローブ賞は既に授賞しているので、もしかするとオスカーもこの役で貰えるのかもしれない。しかし、ここはあえて外して欲しい気がする。なぜなら、彼の俳優としての真骨頂がこの映画では感じられないのだ。彼自身は「歌」が必要とされた為、恐らく物凄い努力を求められただろうし、困難な作品であっただろうというは容易に予想出来る。しかし、彼の俳優としての力はこんなものではない。

 ソンドハイムの音楽が、不安と悲しみを表現する為に、盛り上がりをみせ音が上昇して行くにも関わらず、頂点に達する前に一歩手前で全ての音が上昇せずに下降して来るように、この作品自体もいつもは振り切れているティム・バートンの独創性が一歩手間で普通の映画に戻って来てしまう。これを、ティム・バートンも丸くなったと言うのか、面白くなくなったというのか、それはまだ分からない。しかし、これだけは言える。この映画に、リピートして観たいという場面が私には存在しなかった。ミセス・ラベットの妄想シーンですら、残念ながらティムの冴えは見られなかった。次回作に期待したい。


◆1月9日◆MOVIE◆その名にちなんで◆

 私たちは生まれた時に親、または親族など非常に近しい人から名前を授けられ、一生その名前で呼ばれ、認識され生きて行く。日頃意識はしていないが、その人のアイデンティティと名前は何かしらかの関係が生じているだろうし、自分の名前の由来を親に聞いてみた事がない人は恐らく居ないのではないかと思う。
 本作はインドとアメリカを舞台に描かれた物語で、主人公のインド系アメリカ人「ゴーゴリ」の名前が常に話題になりながら進んで行く。しかし、本作を観た後に残るのは、タイトルにある「その名にちなんで」という名前の物語ではなく、インドで生まれ、結婚し、アメリカに渡り、最後はまたインドに戻るゴーゴリの母、「アシマ」の美しさとしなやかさだった。

 ゴーゴリの父、アショケはある日列車事故にあい、九死に一生を得る。その後アメリカに留学し、学生でありながら母国インドで結婚し、異国に慣れない妻アシマとアメリカの地で子供を得る。あの事故の日、死んで当然だった電車の脱線事故から救出された時、アショケが手に握っていたのはゴーゴリの「外套」。彼は自分の息子にゴーゴリという名前をつけた。
物語はゴーゴリの父が列車事故にあった所から、ゴーゴリたちが独立し、彼の母がインドに帰るまでを描いている。その長い時間の中で、我々は祖国、異国、同国人のコミュニティー、アイデンティティについて考えさせられる事になる。
 これは、少し前に見た映画『君のためなら千回でも』でも描かれていた、祖国を離れた人々にとっての共通のテーマでもある。祖国、そして同国人のコミュニティー。日本に生まれ日本で暮らす我々は日頃意識する事はないが、祖国を離れた瞬間から誰もが国を意識し始め、意識せざるを得ない状況になるのかもしれない。
 以前日系アメリカ人と結婚した人の家族から話しを聞く機会があったのだが、アメリカの日系社会は彼らがアメリカに渡った時からある意味時間が止まっているように感じると聞いた。つまり、現在の日本に住む我々の感覚よりかなり旧式だというのだ。
また、英国人と結婚し、英国で暮らしていた過去を持つ友達は、祖国以外で生活をするのは非常にエネルギーのいる事であり、歳を重ねるごとに無理だと感じて結局一人日本に戻って来た。
 いわゆるグローバル化が進み、国境を超える事が多くなって来た現代であるが、進めば進むほど国やコミュニティーについて考える機会は増えて行くのかもしれない。

 ところで、私は数年前にアメリカに住むインド系の人々を描いた短編小説『停電の夜に』を読んで感銘を受けた事がある。作者のジュンパ・ラヒリのその感性と、今まで読んだ事がなかったアメリカに住むインド人の物語に初めて触れたというこの感覚が非常に新鮮でいつまでも記憶に残っていた。そして今回、この映画はあの小説と同じようなシュチュエーションだと思っていたら(観賞後知る事になったのだが)なんとこの映画の原作はそのジュンパ・ラヒリの手によるものだった。どうも彼女と私は波長があうらしい。

 「その名にちなんで」はインドという国の懐の深さを感じる物語でもある。シタールの音と歌、弔いの時にガンジス川で歌われる歌からは、哲学的な物を感じざるを得ない。また、タージマハルの美しさにゴーゴリと同じように私も心を奪われた。
 というようにインドという国を垣間みて、異文化を感じる物語であるのだが、それと同時に世界共通の親心を感じる物語でもある。親の心子知らずというのは、日本に限った話しではない事が本作を観ると良く分かる。また、親の心を子が理解出来る頃には、親が居なくなっているというのも世界共通のような気がする。国、親、コミュニティー、世代、アイデンティティ。この映画は静かにそれを描きながら我々に考えるきっかけを投げかけてくる。


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