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<September>

PLAY・兵士の物語/MOVIE・南極料理人/BOOK・1Q84


◆9月21日◆PLAY◆兵士の物語◆

 「兵士の物語」を初めて見たのはイリ・キリアン振り付けのNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)の映像だった。それから長い年月を経て、まさかロイヤル版を、しかもこのメンバーでの来日公演で見る日が来るとは思わなかった。

 さて、東京公演の期間中、友達から感想のメールが色々舞い込んで来た。賛否両論あり、賛の方が多かったのだが、とにかくフラットな気持ちで観に行こうと、あえて事前にあらすじを読んだり、アダムとウィル以外のダンサーのプロフィールを調べたりはせずに当日を迎えた。

 大阪公演で使われたのは芸術ホールという小さく古い劇場。前回この劇場を訪れたのは劇団新感線の舞台だったと思うのだが、会場に足を踏み入れた途端、レズのセットに感動すら覚えた。ここまで雰囲気が変わるものなのか!!と。

 日本人が作ったセットしかこの劇場では見た事が無かったのだが、レズ・ブラザーストーンの魔法だろう。足を一歩踏み入れた途端、そこはヨーロッパのダークで夜の香りが漂う空間に変身していた。ステージに設置されたシェル型の灯り、効果的に使われたえんじ色。コンパクトに作られたオーケストラボックス。そして、左右に設置されたゲスト用の小さな丸テーブル。左奥には楽屋がある。そして正面に作られた小さなステージにはデビルが描かれた緞帳(あえてそう言いたい)が下ろされていた。紛れも無く大人の空間、紛れもなくヨーロッパ。ああ、忘れかけていた感覚が戻ってくる。素晴らしい。

 さて、舞台の開始が近づき左右のテーブルには女性客が入ってきた。東京の公演ではどうだったのか分からないが、9月21日の公演ではドレスコードがあるように感じられた。全て女性客でスカートあるいはワンピース。ストールを巻いている人もいて、明らかに夜の雰囲気である。そしてコンダクター、ウィル、アダムが入ってきた。

 久々に見るアダムは相変わらず顔が小さく、思ったよりも痩せていた。最近聞えてくる彼は、体重が重くなり、踊りが重いと言われ、ミュージカル「ZORO」では事実上の降板となり、「踊る大ニューユーク」での来日はキャンセルされと、正直残念なニュースが続いていた。彼がロイヤルを辞め、マシュー・ボーンの作品にも出なくなり、ミュージカルを始めた頃。正直この人は何処に進んでいくのだろうと、その来日ミュージカル公演を見て更に首をかしげることになったものだ。
 もしあの時、ロイヤルを辞めずにプリンシパルとして踏みとどまっていたら。もしあのままロイヤルでバレエを続けていたら。マクミランものを得意とする、屈指のバレリーノになっていたのではないかという思いを、未だにどうしても消し去る事が出来ない。
 一つ一つの積み重ねが結実していく素晴らしさをマニュエル・ルグリを筆頭として私は幾度と無くこの目で見てきた。どれだけの才能があろうとも、日々の積み重ねをスキップできる人は恐らく居ないのだろう。という訳で、友人たちが考えるよりも恐らく冷めた目で、私は今の彼を見届けるつもりで劇場に出向いた。一体今の彼はどうなっているのか、である。

 さて、次の注目はウィル・ケンプ。ウィルが可愛くクールである事が証明されたGAPのCM。私はこのCMが彼の人生に大きく影響したと思っている。なぜなら、ハリウッド映画からオファーが来るきっかっけがこのCMだったからだ。ウィルはアダムと違い、ロイヤルバレエ学校を卒業しただけで、英国ロイヤルバレエ団に籍を置いた事はない。卒業後マシューのカンパニーに入り、マシューの秘蔵っ子とも言える役割を担っていた。そして、GAP、それに続くハリウッドといつしか彼には新しい道が出来て行った。
「ヴァンヘルシング」が一番大きな作品だったと思うが、その後数本の映画に出演したものの、現在では米国ではなく英国で活躍している。
 映画に出た後、久々にマシューの作品に戻った彼を見て感じたのは、マシューの秘蔵っ子はいつの間にか彼の作品に馴染まなくなっているという事だった。いつの間にか方向が違ってしまったと感じたのである。本人もそうだったのだろう。それ以来彼はマシュー作品に出ていない。
 という訳で、アダムと同じく、今のウィル・ケンプはどんな感じなのだろうか、というのが私の注目ポイントとなった。

   さて、舞台にさりげなく出て来た出演者たちが舞台上のゲストをいじっているうちに、婚約者&王女役のゼネイダも出て来た。コンダクターは何故か「?島屋」の紙袋をぶら下げている。出る直前にプレゼントでも貰ったのだろうか?彼も一出演者として存在しているのが面白い。オケピに入る入り方が芝居がかっていて、しかも自然だったのでコンダクターでは無く役者かと思うほどだった。

 そして物語が始まった。MC役のウィルの声が劇場に響く。ウィルの声を余り聞いたことが無いから新鮮だったと前日に舞台を観た友人が語っていたのだが、たしかに劇場に響く彼の声は思ったよりも素敵な響きを持っていた。なるほど。彼は「役者」なのだと思った。この人は多分ダンスより演技の方に魅かれていったのだ。恐らく声を使って表現する事に魅力を感じたから、違う道を進み始めたのだ。表情豊かな声と体の動きが心地良い。なるほど。これなら今の彼が納得出来ると思った。

 そしてアダムの台詞。その発声、その声音。彼の台詞を聞いて思ったのは、やはり彼はダンサーであるという事だった。
 今回の役はしがない兵士で、世の中の人が強烈に持っているSwan Lakeの「ストレンジャー/ザ・スワン」とは似ても似つかない役である。よれよれの軍服。汚しのメイク。間違っても冴えているとは言えないキャラクター。キリアンの「兵士」を見ても、誰が印象に残るかというと悪魔であり、兵士はタイトルになっているのだが案外その印象は薄い。なぜなら、兵士は主人公であって主人公でなく、ある意味兵士はそれを見ている「私たち」でもあるからなのだろう。
 そんな設定の兵士を踊るアダムは、立っているだけでオーラが感じられる存在ではなく、悪魔に翻弄されるしがない兵士だった。痩せたとは言え、動きに重さが見えるところもしばしばあるし、彼から目が離せない!と困るような事もなかったが、この物語を語るには十分な役割を担っている。
 ある種の朴訥さ、不器用さがこの兵士には必要なのだ。そこでふと思い出した。マシュー作品の彼が我々の中ではすっかりスタンダードになっているが、英国ロイヤルバレエの頃の彼は、案外地味な存在だった事を。三人姉妹も、マイヤリングも、どちらかというと控えめな彼が映像に残っている。その頃の彼と今の彼は違うと言えば違うのだが、でもこの物語の1キャラクターとして存在している彼を観ていると、その頃の彼を思い出してしまうのだ。例えるなら、何を踊っていても「ギエムはギエム」の「真逆をいくアダム」とでもいうのだろうか。まあよく言えば、調和がとれた存在。悪く言えば物語に埋没した存在。「スター、アダム」ではなく、一演技者として存在している彼が舞台には居た。主役がそれでいいのかと言われると何とも答えようがないが、今の彼は一兵士であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 今回、この舞台を観た人が一番目を奪われたのは、悪魔役を演じたマシュー・ハートではないだろうか。まるで水を得た魚のように彼は舞台を生き生きと動き回っていた。こんなダンサーが居るとは、英国はやっぱり層が厚いなと思いつつ、「オン・ユア・トゥズ」に出てたっけ?と失礼な事を思ってしまった。役柄はやはり大事なのだ。
 ある時は老人、ある時は老婆。ある時は謎の紳士。そして最後には本性のまま、悪魔として登場する。
彼の演じる老女を見ながら、ロイヤル版「眠れる森の美女」の「カラボス」が観たい!と思った。さぞかし上手いに違いない。役者でありダンサーである彼の存在なくしては、この舞台は成り立たないと思える悪魔だった。

 そして、婚約者と王女役のゼネイダ。彼女も上手い。婚約者の時には地味な女性。王女の時には少々ぶっとんだ女性。ウィル演じる王と絶妙なコンビネーションを見せてくれる。3つの舞曲のシーンでは、長いキセルを持ってアダムと踊り、シド・チャリシーとジーン・ケリーの「雨に唄えば」の名場面のパロディを見せてくれた。彼女のコメディエンヌとしての才能はかなりのものだと思う。そしてロイヤルではプリンシパルなのだから、もっと凄い。彼女の古典ものを観てみたいと思わせる役者っぷりだった。ただし、クラッシックバレエの世界ではかなり大柄に見えるだろうけど。

 この作品は音楽がストラビン・スキーである事からも分かるように、本当はロシアものなのだが、レズの美術とタケットの振り付け、演出によって極めて英国的な作品に仕上がっている。ある種のグロテスクさも含めて非常に英国的なのだ。物語の最後があっけないという人が多いようだが、この潔さを感じるラストがこの作品の良いところでもあると思う。

 色々と書いたが、ロイヤル版「兵士の物語」は、役者とスタッフが揃ってこそ出来る非常に良く出来た作品だった。これほど中味の濃い1時間15分にはなかなかお目にかかれない。

 良くぞこの作品を日本に持ってきてくれた、しかも大阪公演までしてくれたと、プロモートした全ての方に感謝したい。そして、役柄を選ぶタイプが多いと思われる出演者達に、今後またこのような作品との出会いが数多くある事を祈るばかりである。


◆9月4日◆MOVIE◆南極料理人◆

 以前、TBS「情熱大陸」で堺雅人を追っていた時、丁度この映画を撮っていた。この物語は、タイトル通り南極調査隊の料理人の話しである。本当にその仕事をした人のエッセイをもとに映画化されたらしい。
南極と言えば昭和基地を思い出すが、彼が派遣されたのはもっと奥地の、ペンギンが居ないどころか、菌類も生息できないほどの奥地。そこに8人の男が1年半?調査の為に言ってみれば缶詰にされる。

 まずこの映画を見て思った事。これは、形の違った刑務所のようなものだという事。何せ、どこにも行けないのだから。水は雪を溶かして作るのだが、それ故貴重品となり、使いすぎると怒られる。食料は全て冷凍保存の解凍。部屋は何故か本当に狭いし、トイレは開放的すぎて落ち着かない。そして、国際電話はバカ高い。一度ここに行くと調査が終るまで帰る事は許されない。さて、そんな厳しい状況に追い込まれたらどうなるのか?

人間、それは、食べる楽しみしか残らない!(笑)というわけで、料理人は大変なのだ。伊勢海老の冷凍保存が見つかったときには、残りの7人から「エビフライ」とプレッシャーをかけられ、勝手にラーメンを食べ進んで無くなって泣いている隊長の為に、科学者の知恵を借りながら自ら麺を打つ!
見ながら思ったのは、料理人の腕で調査隊の幸せ度が物凄く左右されるという事。そして、人間って何て麺好きなんだろうという事。オーロラよりもラーメンだ!!というシーンがあるのだが、妙に納得してしまった。うどん、そば、ラーメン、パスタ、とにかく麺類は人の心をしっかり掴んでいる。

 それにして、南極での調査ってどれぐらい重要な任務なんだろう・・・っと無知だからこそ言える元も子もない疑問を抱えつつ、堺さんの料理人&父親ぶりに、ああ、この人いい感じで年を重ねてるな〜とほんわりして帰宅したのだった。


◆9月4日◆BOOK◆1Q84 Book1&2 村上春樹著◆

 村上春樹の作品を最初に読んだのは「ノルウェーの森」だった。その時にも世の中ではブームが起こっていたが、今回の「1Q84」も書籍がなかなか売れない世の中にあって、現象と言っても良いぐらいの売れ行きを見せ、一時は店頭から消えるほどの騒ぎとなった。
村上がノーベル文学賞を貰うだろう、という噂はここ数年ずっと囁かれているし、カフカ文学賞を受賞したのも記憶に新しい。日本でも、世界的にも彼はメジャーな作家なのだ。

 学生の頃数冊彼の作品を読んだあと、数年前に「ねじまき鳥クリニクル」と「海辺のカフカ」、二つの長編をある日突然私は読んだ。ノルウェーを読んだ時、もう彼の作品は読まないだろうと思っていたのだが、何故かある日唐突に、今、村上を読んでみようと思ったのだ。その時に感じていたのは、「今、村上なんじゃないか」という漠然とした、でも確信にも近い感覚。今考えると、彼の作品が持つ時代性を感じてのことだったのかと思うが、とにかく長編を読み始めた。

 私が読んだ彼の長編小説には共通点がある。それは、同時進行で複数の世界がパラレルに描かれて物語が進んでいくという事と、それが適切な表現ではないかもしれないが、その世界には必ず「異空間」が存在しているという事である。
ねじまき鳥で異空間への入り口となった井戸は、1Q84では高速道路から地上へと続く非難口と言える。ねじ巻き鳥のマルタ、カフカの中田の存在は1Q84のフカエリに受け継がれているような気がする。
 四角四面に読んだら村上ワールドは、オカルト的な要素を含んでいる事が多々見られるのだが、そのあり方は「源氏物語」の六条御息所の生霊がオカルトに感じられないのと同じように、まるで作者と読者の共通認識であるかのように、するりと違和感なく入り込んでくる。そして、これは何のメタファーなのだろうと探りながら読み進めていたりするのだ。

 さて、1Q84である。2冊読み終えて思ったのは、「2冊かけて序章だったのか?!」という事だった。話の風呂敷は広げられ、2冊を読み終えてもそれはまだ畳まれていない。恐らく、BOOK3、そしてBOOK4も後々出版されるだろう。
物語は「天吾」と「青豆」二人の話しが交互に描かれ進んでいく。最初はこの話しが何処に進んでいくのかと思うのだが、次第に何を取り上げているのかがはっきり分かってくる。ネタバレになるので読みたくない人は読まないで欲しいが、BOOK1とBOOK2で語られるのは、学生運動(赤軍派?)→ヤマギシ→オウムをモデルにしている。そこにエホヴァの商人も入っている。集団、宗教についての物語なのだ。
 私が読んだ他の2本の長編小説と本書は違っていると感じるのは、恐らくこの実生活に存在するものを、イコールではないが固有名詞で特定できるぐらいはっきりと描いている点にあるのだろう。また、非常に読みやすく、エンターテイメント性も増している。

 この物語が何処に着地するのかは現段階ではまだ分からない。また、続きが出版されるのかも私は知らないし、恐らくそのことについてはまだ何も発表されていないと思う。もしこのままBOOK3が出されなかったら。それは本書の軸となる「くうきさなぎ」と同じく、提示に終ってしまい、1Q84がイコールくうきさなぎだという事になってしまう。

 話しの途中で物語を評価することは出来ないが、続きが出たら間違いなく手にする事になるだろう。という事だけを記しておこうと思う。


<July>

MOVIE・ディア・ドクター/BOOK・きょうの猫村さんq


◆7月14日◆MOVIE◆ディア・ドクター◆

 私には、日本人監督で新作が出来るのを心待ちにしている人が数名いる。その中の一人が西川美和監督である。彼女の「ゆれる」。それは驚きに満ちた作品だった。何という洞察力、何という表現力。まだ若い女性が脚本を書き、撮った作品とは思えない出来だった。その時から次回作を心待ちにする日々がスタートし、漸く発表されたのがこの「ディア ドクター」である。

 場所は、田舎のとある村。無医村だった所に一人の医師、井野(鶴瓶)がやって来たのは数年前。物語はその医師が失踪するところから始まる。彼に何があったのか。彼は何者だったのか。物語は失踪から始まり、送り込まれた警官二人(岩松了、松重豊)が研修医(瑛太)や看護婦(余貴美子)、そして村長(笹野)をはじめとする村人たちへ聞き込みを行うという形をとりながら、事の次第を語っていくのである。

 率直に感想を述べると、この二つに尽きる。私はやはり彼女の作品が好きだという事と、キャスティングが素晴らしいという事。
 彼女は状況、そして心情の説明が実に上手い。受け手が説明されていると気づかないうちに多くの情報を伝えてくるのだ。例えばこんな風である。

 物語の始まりで、村にやって来た新人研修医は目的地である診療所を目指してい車を運転している時に交通事故未遂をおこしてしまう。その後彼は気絶し、気づくと病院の診察用ベッドの上に居る。何が起こったのか把握出来ない彼が初めて目にした村の診療所は、お年よりばかり。しかも首や腰の牽引をしている人ばかりで、まるで整形外科のようだ。そして、医師の声のする診察室をのぞいてみると、何と犬が診察を受けているではないか。たった数秒の間に我々は、村にはお年よりが多いこと、恐らく内科なのに何でも屋である事を求められていること、それどころか犬の健康まで相談される存在がこの村の医者である事を知る。犬に笑う観客は、気づかないうちに物語りの土台を頭の中に作られていくのだ。
 また何気ない一つの画が、何かを示唆しているという事も多い。例えば、刑事が失踪者を追跡するために村人から貰った写真。我々は失踪した医師がどんな風貌なのかを、刑事と同じく写真を通して初めて知る事になるのだが、この写真の映し方が象徴的だ。
 笑っている彼の背景は色々な意味を暗示しているのだろう。真っ黒なのだ。診療所の玄関で撮影された、のどかな集合写真で彼は微笑んでいるにも関わらず、その背景には闇が広がっている。団体から個人へとクローズアップされるその画像から、我々は彼の抱える闇を冒頭で早々と感じ取らされる事になる。

 さて、キャスティングである。謎の医師を演じた鶴瓶がとにかく良い。以前から、彼の演技は知っていたが、この医者は秀逸である。鶴瓶なしにはこの物語は成立しなかったんじゃないかというぐらい素晴らしい。落語で色々な登場人物を演じてきた彼が到達した演技というのだろうか。実にいい表情、実に的確な表情を次々に見せてくれるのだ。

 そして、そんな彼の元に研修医として送り込まれた若き医師を演じる瑛太。いまどきの若者が、医師を必要とする人たちと触れ合うにつれて変化を遂げていく姿を彼は演じているのだが、若者特有の初々しさ、心のみずみずしさ、柔軟さを上手く体現していると思う。 また、ベテラン看護婦を演じる余貴美子と、出入りの製薬会社の営業を演じる香川照之も上手い。何だろう。この人たちの説得力は。そして、八千草薫である。いくつになっても彼女には可憐さがあるんだなと驚かされる。医師と彼女の間には、確実に心の中にある種の繋がりが生まれるのだが、それがとても良い感じなのだ。

 他にも、刑事役の岩松、松重両名も出て来ただけで、おっ!と嬉しくなってしまうキャスティングだったし、途中友情出演なのだろう。勘三郎が出て来た時には、あ〜西川監督大人気だな!と笑ってしまった。笹野さんも実に自然な村長さんであるし、八千草薫の役の三女を演じた井川遥も魅力的だった。そして、この村の風景もキャストの一つといって良いぐらい印象に残る。特に田園風景が美しいのだ。

 さて、この物語は大きくわけて2つの事を我々に考えさせる。一つは失踪した医者の謎。もう一つは医療といのちの話しである。
 忽然と姿を消した医師は何故嘘をついていたのか。失踪に至った理由は何なのか。それを紐解くのがこの映画の軸である。そして、そこから副産物といっては適切ではないのだけれど、主人公の職業の設定から派生して出て来たのが「医療」と「治療」の話しである。ここでいう「医療」は都市型の病院で受けることになるシステマティックな検査や投薬で、「治療」は患者や家族の望みにこたえていくという事のように私には思えた。そして、そこから都市に住む我々は「医療」について考えさせられるのだ。幸せな死とは何だろうか。治療というのは何だろうかと。

 前作の「ゆれる」が非常に高い評価を受けただけに、その次の作品を発表するのは並たいていのプレッシャーではなかったと思われる。だが、私が信じていた通り彼女はその期待にちゃんと答えていた。
 監督本人が、この映画は私です。私は偽者なんです、と某番組で語っていたようだが、彼女の実力が偽者ではない事を、彼女の作品は証明している。相変わらずの視点の鋭さとストーリーテイラーとしての才能。更に今回は成長というか、歳を少しばかり重ねたことによるある種の丸みが作品に加わった感じもする。

 西川美和監督はこんな作品を作るとは思えないぐらい小柄でかわいらしい人である。しかし彼女のテーマは「人の心の中に住む闇」が多い。
 そして前作に引き続き出演した香川照之がこう言っていた。「見かけに惑わされるなって本当に思いますよ。彼女が一人で喫茶店とかで本を読んでたら、何も知らない人みたいに見えるじゃないですか。でも彼女、中は真っ黒です!」それを聞いて思わず笑ってしまった。そうなのだ。作品の端々にそれは感じられる。そして、こんな感覚を持っている人は、色々な事が見えすぎてしまって疲れないのかしらと私などは思うのだ。いや、彼女はきっと疲れないのだろう。「ゆれる」の時、主演のオダギリジョーは「監督、中味はおっさんですよ」と言っていた。色々な意味でタフらしい。とにかく、彼女は見かけと中味の乖離が激しい人のようである。

さて、次はどんな作品を書き、映像化するのか。今から次回作が楽しみである。


◆7月15日◆きょうの猫村さん ほしよりこ著◆

 通勤電車で会社の人に偶然会い、「これ面白いよ」と貸してもらったのが「きょうの猫村さん」です。ご存知でない方の為に少し説明を。これは漫画で、猫の家政婦さんの話しです。そして、鉛筆書き?と思われるタッチの絵で描かれていて、文字も全て手書き。コマ割は物凄く大きいし、何というか、物凄く個性的な漫画なんです(笑)漫画のセオリーを崩しまくっているというか。

 一番面白いのは、猫が喋って家政婦してる事に誰も突っ込まない、疑問をもたないこと。もちろん猫村さん本人も、適当に猫でありながら普通に生活しています。この匙加減がまた絶妙です。
普通じゃないことを疑問視しないワールドといえば、ゴマちゃんこと赤ちゃんゴマフアザラシを抱えて生活している小学生、「少年アシベ」とか、まあ日本にはそういう文化?が昔からありますが、猫村さんワールドもたいがい不思議なのに物凄く自然に成立しています。また、「家政婦」っていうのがレトロでしょ。この世界観、面白すぎます。そして、読んでいるうちに「猫村さんのマッサージうけてみたい!」とか「猫村さんのご飯ってどんな味なんだろう」って思っちゃうんですよね。
とにかく、ちょっとレトロで、でもある意味新しい猫村ワールド。あなたも体験してみてはいかがでしょうか?


<June>

PLAY・R2C2


◆6月5日◆R2C2@シアターBRAVA!◆

 久々のクドカンワールドである。タイトルからして「R2D2」ならぬ「R2C2」で、クドカン世代周辺の人のツボを押してしまってるし、サイボーグという字は踊っているし、ロックだというからグループ魂入ってるし、絶対に阿部サダヲは歌うだろうし!と、テンション高めを予想しての劇場入り。  まさか龍平が(御法度でデビューした時から知っているので、思わず呼び捨て。笑)R2C2役だったとは!!という冒頭。しかもミックジャガーの物まねをマニアックにインストールされてるロボットって(笑)しかも、そんなタイトルにもなっているサイボーグを演じている龍平に、友達が龍平だと気づかないミラクルまでおまけについてきたが(これは思いっきり余談である)、ある意味上手い設定である。何故なら、サイボーグなので特殊な音声に変わる時もあり、マイクで音が拾える。いや、発声が出来てないとは言わない。というか、どうなのか良く分からない(笑)そして、全員インカムがついていたので、彼だけがマイクで音を拾っていたのではない。が、たとえボソボソしゃべったとしても、サイボーグだからね〜と思える役であった。あのテンション低め?な龍平にサイボーグ仕様の衣裳を着せることによって、彼は別人に生まれ変われる。故に、「恥ずかしい」は相当押さえられる。そして、日頃の彼を知っている観客は「龍平がミックジャガーの真似をしている」「龍平が、YES!高須クリニック!と叫んでいる」だけで、おかしい。それに気づいたとき、クドカン、上手い設定にしたな〜と思った。が、今回ガツンとやられたのは、久々に生で聞くロックの音と、森山未来だった。

 最初に断っておく。この舞台のストーリーは私にとって、かなりどうでも良い(笑)いや、久々に小劇場系のこの手の舞台を観て、気楽な楽しさを堪能させえもらったので、それでもう十分なのだ。色々メッセージを読み取った人、舞台なんだから物語をどう感じたかを語らなきゃだめだろうという人、色々居ると思うが、今回の私はそこをどうこういうつもりはない。物語としては「戦争、暴力」も扱っているが、松尾スズキのブレヒトそっくりな「キレイ」と比較しようなどとは全く思わないし、してもらっても・・・とクドカンも思うだろう。

 さて、久々の生ロック。とはいえ、クドカンのロックなのだが。それでも、生で聞くドラム、エレキギター、ベース、シャウトするボーカルは久々にテンションが上がった。やっぱり音楽って凄いのだ。歌詞がどれだけ笑えようとも、おっ!!!となる。かつてロックコンサートに行っていた頃がグワっと蘇ってしまった。グループ魂がますます気になってしまうではないか・・・と焦るほど、久々にロック聴きたいなぁと思わされた瞬間だった。

 そして、次のガツン、は森山未来だった。実は彼を舞台で最初に見たのは松尾スズキの「キャバレー」だった。これはもう、松尾スズキが好きな人に反感を買うのを承知で言わせてもらうと、私の中でワーストな舞台だった。松尾スズキがキャバレーという作品をはきちがえているとしか思えない演出だったのだが、その舞台に森山未来が出ていた。テレビでもちらっと見た事はあったが、この舞台の彼からはどこが良いのか正直言って全く伝わって来ない状態だった。が、しかし!今回の彼は私にとって、発見、衝撃、驚き!の存在だった。元々ダンサーだと聞いた覚えがあるのだが、本作で彼は歌って、踊って、芝居をして、はじけて、一番忙しく、一番生き生きと動きまわっていた。驚くべき身体能力。十分な歌唱力。そして、気持ちよいぐらいのはじけっぷり。私は彼から目が離せなくなり、バックで踊るシーンで、映画上映の度に流れる「No More 映画泥棒!」の真似っこダンスまでチェックしてしまってるし!(笑)

 と、いう発見もありつつ、やはり凄いな〜大人計画である。芸達者な人が多い。先日漸く見た映画「クライマーズハイ」で憎らしい男を演じていた皆川猿時しかり、いうまでもなく阿部サダヲしかり。何でも出来るな〜である。脚本書いて役者で出て、相変わらず薄い体でギターを弾いてるクドカンもたいがい凄い。本当、何でも出来るんだな!である。関西弁バリバリの平岩紙ちゃんも前から好きだったが、良い役者だと改めて感じさせられた。演技の幅が出てきたように感じた。そして、大人計画ではないが片桐さんも相変わらずの怪演で実に得がたい。自動販売機を着ておかしくない女優はなかなか居ないだろう。

 今回の舞台がどう評価されているか私は知らない。だが、ノンストップの約130分、飽きることなく楽しめたのは事実だ。それ以上でもそれ以下でもなく、森山未来の発見というオマケもついて、それは楽しい夜だった。


<May>

MOVIE・スラムドッグ$ミリオネア


◆5月23日◆スラムドッグ$ミリオネア◆

 これは、良く出来た物語である。簡単に説明すると、インドのスラム街出身の男性が、初恋の人の為にクイズ「ミリオネア」に出場し、自分の夢を勝ち取るという話しである。ポイントは、そんな学の無い人間が何故このクイズの答えを答えられたのかなのだが、良くも悪くも非常に良く出来た物語なのだ。ここからはネタバレに近いことも書くので、知りたくない人は読まないで欲しい。

 まず良い方は、物語の構成の妙で最後まで観客は飽きる事なくこの物語に引き込まれていくことである。物語は無学な青年がクイズに答えられるわけがない、という理由で警察で拷問とも言える尋問を受けているところから始まる。主人公がクイズに答えていく様子をただ辿るだけでは飽きてしまうが、容疑者として扱われている、というところに不安と緊張が生まれる。そして、尋問イコール「クイズの一問一問を辿っていくこと」になる。そしてそれはイコール彼の生い立ちを辿る旅にもなっているのだ。というように、実に良く出来た構成になっている。が、しかしである。これを言ってしまうと元も子もないのだが、現実にはそんな、彼の人生に即した問題ばかりが出るわけは無い。故に、見ている時には物語りに引き込まれていて気にならないのだが、見終わった後暫くたつと、こんな事ってありえないなぁと思うのだ。綺麗におさまりすぎている。良く出来すぎている。それが悪いほうである。こんな事って・・・やっぱり大人の御伽噺だよねと思ってしまうのだ。

 映画は映画。最初からフィクションだとうたっているのだから、綺麗におさまった良く出来た物語というのは、どこも悪くない。悪くないのだが、この映画の中で垣間見えるカオスのようなインドスラム街の現実が余りに印象的なので、その雑多性と綺麗に納まる物語のギャップが、私の心の中では小さなひっかかりとして残った。しかも、この映画はアカデミーで8冠を取ったという大きな大きな冠が掛けられた映画である。更に、本作に出演したスラム街に住む子供たちの家は先日政府により一斉撤去され、主役を演じた子供もホームレスになってしまったと聞くし、子供時代のヒロインを演じた少女は父親に売られかけたというニュースまであり、映画以上の現実の厳しさを認識させられたという事実もある。故に、単純に娯楽作品としてこの映画を見ようにも、いくつかの取り外す事の出来ないフィルターが本作にはついてしまっているのだ。

 監督であるダニー・ボイルがインドロケを熱く語っているが、この映画で強く印象に残るのはストーリーもさることながら、インドスラム街、街とそこに住む子供たちの生き生きとした目である。どこまでも続くあばら屋の集合体。スラムを空から撮っているシーンがあるのだが、今にも崩れそうな家がどこまでも、どこまでも、果てしなくギリギリのバランスで連なって広がっている。この廃墟のような迷宮を子供たちは迷うことなく闊歩しているのだと思うと本当に凄い。 一軒が倒れたら全てが崩れるのではないかという状態の中で、彼らは力強く生きているのだ。貧しいだけでなく、時には宗教上の争いにまで巻き込まれ、余りに人の命が安く扱われる社会で必死に生きて行こうとする。この作品を見た後心に残るのは、物語の結末もさることながら、何といっても柔軟に、時には老人のように静かに運命を受け入れながら、強くたくましく生きて行こうとする、子供たちの姿である。

 この物語りは綺麗にまとまりすぎていると書いたが、それに気づかないぐらいの力をこの映画は持っているのも紛れも無い事実だ。まず彼が現地ロケを選んだ事、物語の場所をインドにしたことは正解だと思う。そして、最後にボリウッドムービーのようなエンドクレジットをつけたのも、この物語はフィクションであるという事とインドで撮ったというのを良い匙加減で伝えているという事で正解である。この映画がアカデミーの力で世の中に広く知られ、インドという国を世界中の人が垣間見るきっかけになったのも正解。そして、何といっても現地の普通の子供達をキャスティングしたのは大正解である。つまり、沢山の正解の上にこの映画は存在している。そしてこの映画自体が正解を重ねたことによって、「ミリオネア」ではないが、2008年度の映画の中で勝利を勝ち取ったのだ。

 本当のインドはこんなのではないという人はいるだろう。私のようにインドのもっと過酷な現実が頭の中にあって、ハッピーエンドでも手放しには喜べないものを感じてしまう人もいるだろう。でも、「スラムドッグ$ミリオネア」はダニー・ボイル渾身の作品であり、一度見始めたら目が離せなくなるのは間違いない。そして、どうにかして生き延びようとする、生きようとする子供たちの目。この生命力にあふれた目には、ぜひ出会って欲しいと思う。


<April>

BOOK・赤めだか


◆4月25日◆PLAY◆蜻蛉峠@梅田芸術劇場◆

劇団☆新感線の作品には、「いのうえ歌舞伎」というカテゴリーがある。この「いのうえ歌舞伎」が注目を集めるようになって久しく、知る人も多いと思う。
 私が実際に見た演目はその一部で、第一弾の「阿修羅城の瞳」に始まり、「吉原御免状」「朧の森に棲む鬼」「IZO」そして今回の「蜻蛉峠」の5作品のみである。残念ながら「アテルイ」も「髑髏城の七人」も見ていない。という訳で、「これがいのうえ歌舞伎だ」と言える程には観ておらず、これから書く事はあくまで私の感想であり、違う!と言われる可能性が多いにある事を断った上で、蜻蛉峠の感想を書きたいと思う。

 今回脚本は大人計画の宮藤官九郎の書き下ろしで、演出はもちろん、いのうえひでのり。古田さんのあだ名に因んだ(?)姿での登場と、グラサン軍鶏の意外な配役でしょっぱなから飛ばしてくれたが、それはともかく率直な感想は、「これは果たしていのうえ歌舞伎なんだろうか?」というものであった。

 実は「IZO」の時が一番顕著だったのだが、この2作品を見ていて感じるのは「かぶいていない」という事だった。魅力的な悪党が思う存分かぶく。ここに醍醐味があると思うのだが、最近の作品は何かが違う。登場人物たちが突き動かされる「何か」が欠けているというか、疾走感が弱まっているというか・・・見ていて面白いのは面白い。いきなり橋本じゅんをふくむ男性3人による異色Perfumeが登場しちゃったりするのももちろん、新感線の醍醐味でOK!である。が、話しのスケールが小さくなったというか、無理が通れば道理が引っ込む的なパワーがちょっとダウンしたというか、闇のパワーが弱まっているというか・・・
脚本がクドカンだからではないかと思われるが、蜻蛉峠にはそこはかとなく必殺仕事人などのTV時代劇のテイストがある。もっと大きなスケールを期待していたのに、何だかミニマムなのだ。

 とはいえ、友達が「もう、堤さんの殺陣で全てOK!」と言ったのも事実で、実際私もあの殺陣を観て、観に来て良かったと思った。キャスティングも全体によかったと思う。
 だが、だがしかし!である。やはり観たいのは、語りたくなるような悪党、あやかしが跋扈(ばっこ)する夜の闇、もっていきようのないせつなさ、人の業なのだ。次回作のチケットが入手できるかどうかは分からないが、ぜひ「かぶいている」と思う作品を見せて欲しいと思う。


◆4月19日◆BOOK◆赤めだか 立川談春著◆

 昨今、と言ってももう数年前からなのだが落語がちょっとしたブームになっている。そのきっかけとなったのが、ドラマ「タイガー&ドラゴン」だったのか、「ちりとてちん」だったのか、はたまた別のものなのか私は知らない。しかし、大阪には定席、天満天繁昌亭が出来、プロフェッショナルや情熱太陸のような密着ドキュメンタリー番組では落語家がしばしば取り上げられる。テレビを見れば、笑福亭鶴瓶、立川志の輔といった落語家がMCを務めているし、ドラマに落語家が役者として出るのもしばしばである。

 私が落語を初めて聞いたのは、赤ん坊の頃だった。母親の生まれが東京浅草だったのが関係しているのか、叔父が熱心な落語ファンで、子供の頃から良く落語のレコードやテープを我が家に送って来ていたのだ。幼稚園の頃には、桂枝雀と三遊亭金馬がいいな〜。桂米朝の地獄八景は面白いな、と思っていたのだが、落語は子供の私でも十分楽しめる世界だった。

 さて、「赤めだか」である。落語にちょっと興味があり、少しは落語の世界を知っていて、でも寄席に行くほどではない私が何故この本を手にしたのか。それには二つ理由がある。
 一つ目は、情熱大陸である。先日番組で立川談春を取り上げていた。残念ながら番組の終る5分前ぐらいにかけたので、どんな内容だったのかは分からないが、テレビから談春の「芝浜」が聞こえて来た。画面を見ていない母が「あ、芝浜だ。艶っぽくて、いい落語家だってすぐ分かるね。芝浜は色っぽくなきゃね。久々にいい芝浜を聞いた」と、ほんの数分聞いただけで絶賛に近い感想を述べたのだ。ラテ欄を見ると「立川談春」とある。最初から見なかった事が悔やまれた。そこでまず、立川談春に興味を持った。
 そしてもう一つは、中村勘三郎が物凄く面白いと言ったと聞いたからだった。芸事の人が芸事の人を絶賛しているなら、面白いに違いない。という訳で、「赤めだか」を手に取ることとなった。

 落語に詳しくない人でも、立川談志ぐらいは知っているだろう。談春は談志の弟子である。この本は、彼が入門してから真打となるまでのエピソードの数々が書かれている。言うまでもなく、出世魚の話しは面白いに決まっている。だが、この出世魚、芸人らしく一筋縄ではいかない。ましてやあの談志の弟子である。山のようなエピソードが詰まっている。
 上手くいったり、いかなかったりに読者は読んでいる間中、ハラハラしたり喜んだり、思わず笑ってしまったり、とかく忙しい。兄弟子、弟弟子との関係、落語協会を脱退した師匠の弟子であるという事、二つ目、真打といった落語界の階級の話し。実名で落語家や芸能人が出てくるので、これもまたああ、あの人だったらこうだろうなとか、こんな風なんだとか、面白いことこの上ない。そして、この話しはさほど昔の話しでもないのに、正しく落語の世界なのだ。それは、全編を通して、師匠と弟子が語られているからなのだろう。
 今の世の中、師匠を持つことはなかなかない。そして、同じ先生に習っていても、兄弟子、弟弟子という関係は恐らく存在しない。この話しは、談志という天才に惚れ込んだ男たちが沢山出てくる。芸に惚れる。人に惚れる。噺に惚れる。そして、読み終わる頃、談春が惚れ込んだ芸、人、噺がとても気になってくるのだ。落語に興味がない人も、この本を読むと落語が急に気になりだすだろう。という訳で、私はまず、談春の落語を聞く事からはじめてみようかと思う。

蛇足
 この本の最後に、人間国宝桂米朝と柳家小さんの話しが出てくる。このくだりだけでも読んで欲しい。実に面白かった。


<March>

MOVIE・オーストラリア


◆3月17日◆MOVIE◆オーストラリア◆

 監督がバズ・ラーマンで、主演がヒュー・ジャックマンとニコール・キッドマンなので、作品が長すぎだろうが、まとまりに欠くと感じようが、ストーリー的に単純だろうが、夫を亡くしたばかりの妻がすぐに恋に落ちようが、ALL OKで許します!(笑)

 と、最初に言ってしまうと元も子もなく、それで終ってしまうのですが、まあ良いのです。個人的にバズもニコールもヒューも好きなので何があっても許せます。払ったのは1000円だったし(笑)って、これまた元も子もない物言いですね。

 とにかくアカデミーにノミネートされるような出来ではなく、2時間半という長さが必要かというと、あちこちカットできると思う作品でしたが、でも、あちこちに魅力があるんですよね。この、一瞬の輝きの積み重ね、集合体がバズの作品らしいところなのですが。ヒューもニコールも本当、素晴らしくフォトジェニックですよ。あのスタイルは同じ人間とは思えない。。。(笑)そして、オーストラリアという国の自然も垣間見ることが出来ました。本当、広いですよね。そして牛を追うって大変な仕事なのだというのも良く分かりました。

 と、ビジュアル中心で語ってきましたが、この作品で特筆すべきは、アボリジニを取り上げた作品だったという事です。オーストラリアの先住民族であるアボリジニについて語られた映画がどれぐらいあるのか知りませんが、彼らがいかに虐げられて来たかを本作は伝えています。それは垣間見程度のものかもしれませんが、彼らの生き方、彼らの扱われ方を知るきっかけとなった事は確かです。
 長い作品ですが飽きるという事はなく、でも見終わった後に物凄く良い映画を見たという満足感に満ちあふれることはない作品ですが、主演の二人のファンもしくはバズのファンには、おそらく見て損はない作品でした。アカデミー賞&トニー賞授賞式のMCで、ヒュー・ジャックマンにちょっと興味を持った方は見てみて下さい。彼のオールマイティーぶりに更に驚くこと間違い無しです。


<February>

MOVIE・英国王給仕人に乾杯!


◆2月14日◆MOVIE◆英国王給仕人に乾杯!◆

 この物語の側面だけを見て、一言で言い表すなら、本作はチェコのある給仕人の人生を描いた作品である。しかし、この物語において主人公ヤンは主人公であって、主人公ではない。彼はチェコの現代史を我々に伝える「介在人」とも、チェコの「メタファー」とも言える存在で、我々は彼を通して遠く離れたチェコという国の変遷を見る事になる。つまり、主人公はチェコという国だったというのが、この映画を見終わった後、私が辿り着いた答えだった。

 小柄なヤンは最初、駅で物売りをしているところからスタートする。彼はお金が大好きで、一見利にさといように見えるが、「お金」という物の力を知っており、時々それを試してみては笑っている男でもある。具体的にどうするのかというと、人の居るところで小銭をばらまくのである。どんな裕福な人でも、小銭をまくと皆ひざまずいて小銭を拾う。その姿を見ては密かに笑うのが彼の楽しみの一つとなっている。所詮人間なんてこんなものさと思いながら、彼は繰り返しこの行為を繰り返すのだ。
 彼はお金を愛しているが、小銭をばらまいてみたり、後々に財産である切手を空にばらまいてみたりする事から分かるように、実のところ執着は無い。実は彼にとって、お金は必要不可欠のものではないらしい。その証拠に、彼は共産主義国家になったチェコで投獄され、のちに解放された後、何もない辺境の地で暮らす事を強いられるのだが、何不自由なく生活しているのである。つまり、どこでも適応して暮らして行ける人間なのだ。

  ところで、チェコの歴史は侵略される歴史であり、苦難の歴史と言えるのだが、それなのに、なのかそれ故になのか分からないが、その国に住む人々は非常に柔軟に思える。この映画の中に出てくる英国王に給仕したと言う給仕長は、実に語学に堪能である。さすが給仕長とも言えるのだが、しかしプラハに行ってみるとある事に気付く。数年前プラハを旅した時に驚いたのは、サービス業に携わる人たちが、相手に「何人ですか?」とは聞かず、「こんにちは」という挨拶の言葉を数カ国語で話しかけ、相手が反応した言葉で認識していくという事だった。他の国でこんな事は一度も無かったので、それは非常に印象的な事だった。とても人間的で素敵な事に思えたのだ。
 また、プラハの街には信号が少ないのだが、基本的に歩行者が優先で、歩いていれば車は止まって横断するのを待っている。地元民と一緒でないと、命がけの道路横断になるローマとは天と地の差を感じた出来事であった。こんなに大変な歴史を背負っている国なら、もっと殺伐としていてもおかしくないのに、というぐらいプラハという街には人間的な印象を受けたのだ。そこには「受け入れる弱さ」ではなく「受け入れる強さ」や「柔軟さ」が感じられた。そして、こうして彼らは生き抜いて来たのかという驚きがあった。

 この映画の中で、主人公ヤンは主義思想は無く、流されて流されて、批判されても流されて、そして不幸が降り掛かってもそれはそれとして受け入れて生きて行く。一見ツキがある男のように見えるし、人生を達観して上手く生きているようにも見えるが、実は人に翻弄され、時代に翻弄され、そして本人は気付いていないかもしれないが、大変な人生を送っている。そして我々は、そんなヤンが、彼が住むチェコが気になり始めるのだ。

 ロボットという言葉を生み出したカレル・チャぺックを生み、「変身」を書いたカフカを生み、そして「存在の絶えられない軽さ」を書いたクンデラを生んだ国、チェコ。そして、クンデラが絶賛した作家、フラバルが書いた小説「私は英国王に給仕した」をチェコを代表する監督メンツェルが映画化したのが本作である。
 この映画は何も考えず、ただ物語の筋を追っているだけでも楽しめるだろう。しかし、それが実は何を表しているのかに気付いた時、この物語はまた別の姿を我々の目の前に現してくる。という訳で、私のチェコに対する関心は、まだまだ終わりそうにない。


<January>

MOVIE・永遠のこどもたち


◆1日月24日◆MOVIE◆永遠のこどもたち◆

 感想を求められて、その答えにつまる事は余りないのだが、この「永遠のこどもたち」は暫く考えてしまうような作品だ。この作品の中で語られるのは、怨念、執念、母性愛、復讐、超常現象、そして子供の心。救いは有るような、無いような、どちらとも言えず、後には混沌が残る。どんな映画なのかと問われれば、「パンズラビリス」の系譜であるとしか答えようがない。

 舞台はある孤児院。そこで育った主人公は養子縁組が決まり、この孤児院を出て行く予定があるというところから話は始まる。そして数十年後。売りに出されたこの孤児院を彼女が買い戻し、医師の夫と養子の息子3人で戻ってくる所から、彼女が去った後この孤児院で繰り広げられた悲劇を紐解く事になるのだ。

 この映画の始まりは、日本でいう「だるまさんがころんだ」に興じる子供たちの姿なのだが、目を閉じ、後ろを振り返り、一人ずつフレームの中に増えてくる様は、既に何かを暗示しており不安な気持ちにさせられる。と同時に、スペインでもこの遊びがあるのかという事にも驚かされた。
 そして続くタイトルを含むキャスト紹介。これは壁紙を破くと文字が出てくるというものなのだが、映画を見た後になって、象徴的な演出だったことが分かってくる。

 息子シモンが目に見えない友達が居ると言っているうちに神隠しにあう。彼が居なくなった事が分かった瞬間から、全身全霊をかけて探し始めるヒロインの母性愛の強さには感動すら覚える。恐怖に打ち勝ち、知恵を使い、息子を助ける為に彼女は闘い続けるのだ。

 この作品をまだ見ていない人の為に具体的な結末を書くことはしないが、この作品が独特な後味を残すのは、死が生に打ち勝ってしまうという痛みを伴う虚しさによるものだろう。

「パンズ・ラビリンス」の監督ギレルモ・デル・トロが製作として関わったこの作品は、パヨナ監督の作品であり、パンズラビリンスとは別個の物である。しかし両作品は、異空間、死、子ども、家族を描くという共通点を持ち、主人公にとって望んでいた物が漸く手に入る場所が「死」であるという共通の着地点を持つ。

 スペイン人の死生観が違うのか、このギレルモ・デル・トロやその仲間の死生観が独特なのか。良く分からないが、言える事は死をもって安らぎを得るという絶望の中の幸福に、心が痛むという事である。約2時間、飽きさせる事なく見せたパヨナ監督の次回作も期待したい。


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