奈 良 百 遊 山(10)



周遊吉野エリア   

71 栃原山(530m) B <2006.09.21>

(とちはらやま) この山と南に並ぶ銀峰山、櫃ヶ岳を吉野三山と呼ぶ。いづれも登山口から短時間で楽に登れる里山である。栃原山は『大和名所図会』に「黄金嵩(こがねだけ)栃原村にあり、奇峰高く聳え、山色蒼々たり」と記された山である。頂上には『大和志料』に「金ヶ岳の宮」と記された波比賣(はひめ)神社がある。社頭の説明板によると「天平2年11月11日に創建されたと伝えられおり、水の神・雨師の神である『弥都披比賣神』が祀られて」いる。

 下市から車を栃原へ走らせると、山頂に大きな鉄塔が立つ山が近づき、以前に櫃ヶ岳、栃ヶ山に登ったとき見覚えのある「一の鳥居」の前に出た。車道が鳥居を潜って続いているので、そのままもう少し上までと車を進めるうちに、NHK栃原中継所の建物と二本の高い鉄塔、見晴台などのある広場に着く。石段を登ると、すぐ波比賣神社の境内で、結局、歩かずに山頂まで来てしまった。
 三角点を探して境内や裏手の広場も歩くが見付からない。おそらく葛木神社のように神域周辺にあるのだろうが、あえて深入りはしない。展望台から大淀や五條の市街地、金剛・葛城の山並みを眺めて、「金の嶽」をあとにした。


72 銀峰山(614m) B <1977.03.17>

(ぎんぷさん)近在の人からは尊敬と親愛をこめて「岳さん」と呼ばれている。『大和青垣の山々』で「白銀岳・610m」と記された山である。『大和名所図会』にも「白銀岳。古田荘夜中村にあり。銀(しろがね)ヶ岳は南にして、金(こがね)ヶ岳は北にあり、吉野将軍の宮合戦ありしよし太平記に見えたり」とある。『太平記』には「銀嵩軍事云々。四月二十五日、宮之軍勢二百余騎、野伏三千人をめし具し賀名の奥銀嵩といふ山に打ちがり…」の記事がある。

山頂には古田荘12ケ村の氏神である波宝神社が建つ。『吉野郡群山記』に「御社、道の左に有り。鳥居は、額に神蔵(カンノクラ)大明神と記す。」と書かれている。
山麓の賀名生は吉野に侵攻された南朝が皇居を移したところで、藁葺の堀家住宅が皇居跡として今に残る。冠木門の扁額「賀名生皇居」は維新の志士・天誅組吉村寅太郎の筆によるものである。文久3年(1863)、高取城攻撃に失敗した天誅組は、白銀岳に本陣をかまえて追討軍に備えた。堀家には天誅組関係の資料も多数っている。賀名生は梅林としても有名で、急傾斜の斜面に一目一万本といわれる紅白の梅が咲き誇る。

77年、梅の時期に子どもたちも一緒に銀峰山に登った。十日市でバスを降りると山頂まで40分ほどで着いた。ほころび始めたウメの下で弁当を拡げた。雪を冠った大台や大峰の展望が良かった。杉林の中のダラダラ下りで賀名生に出て、少し早目の梅見をして帰った。
 2000初春に山頂近くの波宝(はほ)神社まで車で登った。写真はその時のもので、98年秋の台風の爪跡だろうか、山肌の樹木が無数に倒れ、または株だけを残して伐られた無惨な光景である。


73 櫃ヶ岳(781m) B <1998.03.26>

(ひつがたけ) 山名の通り、お櫃のような形で吉野町と五条市にまたがる里山である。 黄金岳、白銀岳の南にあり「銅岳」と呼ばれた。ここにも山頂に誉田別命を祀る八幡神社があり、里人の信仰を集めた。
 下市の黒木からの道や、十日市から尾根伝いに登る道があるというが、私たちは森林公園「やすらぎ村」に車を置いて登った。山腹を登っていくと貝原地区各戸案内図と橿ヶ岳への標識があり、かなり上まで民家が点在して、何軒かは空き家になっていることが分かる。最後の民家を過ぎると舗装が切れ林道らしくなる。
見晴らしよい丘の上に「あずまや」があり、行く手に橿ヶ岳の頂が見え、振り返ると丹生川を挟んで銀峰山から吉野の方の山々が見える。左手遠くには金剛・葛城の峰々。ここから林道の両側はワラビの群生帯がずっと続く。林道を離れて鳥居をくぐり、ヒノキ林の中の急坂を少し登りヤプコウジの群落を抜けて、植ヶ岳神社の拝殿前にでる。社の後ろの小高い所に小さい祠とケルンがあり、山名板がぶら下がっていたが三角点は見つからなかった。東側の木の開から、思いがけぬ近さに行者還岳から大普賢岳に続く峰々、疎らに雪を付けた爾山の大きな山容が正面に見えた。
(参考タイム)やすらぎ村く300m〉9:45…あずまやく600m〉10:45〜11:00…櫃ヶ岳く781m〉11:15


74 乗鞍岳(993m) B  <1997.08.16>

(のりくらたけ)五条市西吉野町と天川村の境にあり標高993m、二等三角点がある。馬の背に似て小さい起伏があるのが山名の由来か。『日本山名辞典』では、義経が熊野に逃れるとき、ここに愛馬を捨てたことにより山名が生じたという。孫引きになるが「宮本常一先生の吉野西奥民俗探訪緑に、むかし、源義経が白馬に乗って、キツネ40匹と天狗47人を連れてここに落ち延びてきたとある。そしてこの山頂に白馬を乗り捨てて天に上がったという。またこの山にいるキツネは、いまも人を化かしたりはしないという。」と奈良山岳会編『大和青垣の山々』にある。
 この山の西南にある天辻は幕末、天誅組決戦の場となったところである。私たちは国道168号線が新天辻トンネルを抜けたところに車を置いて、旧道(林道)を登った。旧天辻トンネル近くから山仕事の道を登り稜線上の天辻峠に出る。「富貴辻」の説明板と、左面に「右五條、下市、左ふきはし本」、正面に「二の声は何国の華そほととぎす武蔵坊南岳」と記された石柱があった。林道は三つに分かれ、左端の未舗装のものを行くと正面に乗鞍岳が見えてきた。短い急登を二度、最後はクマザサの中を登るとあっけなく頂上三角点に着く。周囲を樹木に囲まれ、木の枝越しにチラチラと遠くの山や町が見えるだけで、『大和青垣の山々』の「そこからのながめは実に見事である…つい長居をしたくなる」という記述に惹かれてきただけにがっかりした。ブリキ板に『ここがご案内の「乗鞍岳」頂上で「海抜九九三米」周囲杉、檜山となり眺望が悪るいですが、「記念写真」でも撮して頂上征服の気分を満きつしてください』と手書きの文字があった。
(天辻から休憩を除き1時間20分
*現在は道の駅「吉野路大塔」に車を置ける。


75 高城山(1111m) B <2007.05.20>

(たかしろやま)乗鞍岳から東へ、西吉野町と天川村を北と南に分ける稜線は国道309号線の通る新川合トンネルの上に達する。この大峰支稜はさらに東の大天井岳へと続いている。乗鞍岳から新川合トンネルの間には西から武士ヶ峰、高城山、武士ヶ峰と曰くありげな名の三つの山が並んでいる。高城山は私たちにとって『奈良百遊山』の中で唯一登り残していて、気になっていた山である。
 2007年5月、山友二人が一緒してくれることになり、天川村川合から県道を天ノ川沿いに西南へ走る。当初は一台を西之谷に配置して、五色谷から天狗倉山を経て周回するつもりでいたが、今にも降り出しそうな空模様でもあり、西之谷林道を登れるところまで登ってピストンすることになる。道は谷に沿って北へ向かい、ぐんぐん高度をあげてやや広くなった処で舗装が切れると、真新しい切り開きで稜線を横切る峠に着いた。
 車を降りると北風が吹き過ぎ、初夏とは思えぬ肌寒さである。正面に金剛・葛城、五條市街、ずっと右手に音羽三山など、曇り空ながら展望はまずまず。峠の標高はすでに約915m。高城山までは標高差約200mだが、途中大小のコブを三つ、四つ越していく。最後のピークは霧に包まれて神秘的な雰囲気だった。滑り落ちそうな急坂を登って、二等三角点の埋まる高城山頂に着く。1973年発行の奈良山岳会編『大和青垣の山々』では「北部大峰の連山が手に取るように見える。大峰の前衛の山にふさわしい展望台である。」と記されているが、残念ながら成長した
樹木に覆われて全くの無展望である。峠から僅か40分、あっけない「百遊山」最後の山であった。しばらく休んで元の道を峠に引き返し、武士ヶ岳に向かった。


76 護摩壇山(1372m) A <1982.08.21>

(ごまだんざん)この山から伯母子山へ十津川と野迫川の村境となる山稜が続いている。山名は次の伝説による。源平屋島の戦いで敗れた平維盛は、西国に落ちた一門と別れて高野山に隠れたあと、滝口入道に導かれ熊野に向かう。この山頂で護摩を焚き行く末を占うが、煙が空に昇らず谷に下るを見て平家の運命を知る。そして那智に至り熊野の海に入水した。一説には、護摩を焚いて一門の将来を占ったのは清盛ともいう。
 山頂近くまで高野竜神スカイラインが通り、駐車場と護摩木を積み上げたユニークな形の展望塔「ごまさんスカイタワー」がある。塔の横から広い階段状の
遊歩道を登ると、10分程で山頂に着く。休憩舎と「和歌山県朝陽夕陽100選」の標識があるが、展望は殆どない。護摩壇を象った大きな山名板に和歌山県最高峰の表示があるとおり、山頂は奈良、和歌山両県にまたがっている。

最初に登ったのは、まだ幼い子供たちとだったが、最近では2004年6月に訪ねた。タワー横まで車で入り、護摩壇山頂上を経て東の稜線伝いに耳取山 (標高は10m高い)に向かう。山頂にはNHKのTV無線中継塔があり、三角点名は丸山。ここは展望にすぐれ、眼下に深い谷に沿って龍神へ続くスカイライン、その左にこれから向かう1304mピークなどの山、その左に鉾尖山の鋭峰、正面遠くには果無山脈などがよく見える。本峰に引き返して、休憩舎横を左に折れ南側の尾根を下る。スカイラインを横切ると「森林公園ワイルドライフ」の大きな広場である。ここから自然観察路に入り、山頂休憩舎にくると、タワーから護摩壇山、耳取山とつづく稜線が正面に見えた。



97 荒神岳(1280m) B <2004.11.10>

(こうじんたけ)野迫川村立里。三角点峰は立里(たちり)荒神社を祀る北の峰(1240m)の南、600mの地点にあり、立里荒神社の奥の院にあたる峯で「古荒神」と呼ばれる。立里荒神への舗装林道から見ると、整った三角錐の美しい山容である。
荒神社は「かまど」の火を守る火産霊神(ほむすびのみこと)を祀り、「立里の荒神さん」として信仰されている。縁起では弘法大師空海が高野山を開山する際に勧請したと伝える古刹である。


 駐車場に車を置き、古い鳥居の並ぶ急な石段道を登る。10分近くで参詣道はほぼ直角に左に折れるが、その角が広場になりベンチも置いてある。スギ林の向こうに目指す荒神岳が見えるが、まずは三宝荒神社本殿に参詣する。本殿はこの北峰山頂に位置し、稜線伝いに最高峰の荒神岳に行けそうだが、一帯は社地の囲いがあって入ることができない。先の広場に降り、ヒノキ植林の踏み跡を下ってみる。勾配が弱まるところで山腹を捲く道があり、植林の中を辿るとジグザグの登りで稜線にでて、あとはだらだらと緩やかな道になる。クヌギ、ナラ、カエデなどの落ち葉を踏んで行く。広葉樹林に大きなブナやヒメシャラが混じるようになり、少し傾斜が強まると三等三角点のある山頂だった。展望はないがミヤコザサに囲まれた明るい感じの頂上である。帰りは荒神社のあるピークを正面に見ながら下る。右手に延びる尾根のピークに電波塔、その下に駐車場の建物が見える。往路で稜線にでたところの手前に、右に山腹を捲いて下る道を辿る。一部、崩壊して細いところもあるが間もなく車道に飛び出して、3分ほど下ると駐車場だった。
【コースタイム】立里荒神駐車場11:00…荒神社11:15〜11:25…荒神岳11:57〜11:20(昼食)… 立里荒神駐車場12:50


98 伯母子岳(1344m)  B <1997.07.22>

(おばこたけ) 高野山から東南20キロほど、吉野郡十津川村と野迫川村の境にある展望の良い山。山頂の東に伯母子峠があり、熊野古道・小辺路が越えている。かっては南高野街道ともいわれ、高野山と熊野を結ぶ重要な峠越え道で、二つの霊場に詣でる人々で賑わった。この峠はまた、昭和5年4月初旬、郡山中学(現郡山高校)生二名と教諭一名が遭難した悲劇の舞台でもある。 


護摩壇山の手前で「十津川温泉へ40キロ」の標識がある(奥千丈)林道に入る。登山口から整備された「護摩壇山伯母子岳遊歩道」を尾根通しに行く。口千丈山から標高差80mほどガラガラの急坂の下り。ついで1322mピークを越す。二、三のアップダウンで分岐があり「伯母子岳登山道。800m」という標識からやっと山道になり、標高差わずか100mの急坂を登る。最後は灌木帯を抜けミヤコザサの中を登ると草地の頂上についた。一面のカヤトの原で、東に遠く大峰の山々、特徴ある行者還、大普賢、八経ヶ岳…。南の果無山脈、今辿ってきた尾根道の向こうに護摩壇山が見える。登山口から5キロ、1時間45分だった。
 9年後の2006年3月、高野山から小辺路を歩く途中、大股から杉林の中を小一時間登って、小広い平地になっている萱小屋跡に来る。道は自然林の中を行くようになり、ふわふわの落ち葉を踏んで行く。檜峠は「弘法大師が捨てた箸が檜になった」という伝説の残るところである。平坦な道になって夏虫山分岐を過ぎると、目指す伯母子岳のなだらかな山容が近づいてくる。「護摩壇山遊歩道」の標識を直進して、10分あまりで「小辺路での最高点・伯母子岳山頂」に着いた。
大股から2時間30分


99 冷水山(1262m) B <2005.03.27> 

(ひやみずやま)奈良と和歌山の県境を東西に走る果無山脈の最高点である。山脈を代表する山として果無山とも、この山で山脈が南西に曲がるために最西とみなして果無西山とも呼ばれる。かっては和歌山側の竜神(田辺市)からも、奈良側の十津川からの登路も長く苦労する山だったが、現在は広域林道「龍神本宮線」によって短時間でアプローチできるようになった。



私たちも果無山脈縦走の折、丹生ノ川沿いの「ヤマセミの郷」で一泊。翌朝、この広域林道を利用した。ところどころに落石がある安堵山の山腹を絡み、黒尾山との鞍部、登山道に出会ったところで車を降りる。すでに標高1000m、ひんやりとした冷気が体を包む。真っ青な空の下に大塔山系の峰々がずらりと並んでいる。木の階段を少し上った小広い展望所から、背丈を超すスズタケを切り開いた道になる。少しの急登で笹原を抜けると1222mピークを越え、ブナやリョウブの自然林の中を行く。ふわふわの土を踏んで疎らに雪が残っている道を行き、黒尾山頂(1235m)に立つ。いったん下って登り返すと、一等三角点が埋まり「果無山脈最高峰」の山名板がある山頂である。南北が開け、和州、紀州両側の重畳たる山並みを望むことができた。
車を降りてから山頂まで1時間だった。


100 牛廻山(1262m) B <1997.05.10>

(うしまわしやま)奈良県吉野郡十津川村永井から西川沿いに東へ、国道425号線が和歌山県田辺市の竜神温泉に通じている。この「十津川往来」が両県境を越すところを「牛廻越え」という。また十津川村平谷からは上湯川に沿って龍神村丹生ノ庄に抜ける道がある。この道が両県境を越える辺りは「引牛越え」と呼ばれる。いずれも、両村の間で成牛、仔牛などの交易が行われた名残りという。牛だけでなく、紀州と和州物資交流の道、高野山と熊野を結ぶ信仰の道でもあった。牛廻山はこの二つの峠の間にある。
 大峠経由の登山口となる小又川口から425号線を行くと、津越に「天誅倉」がある。文久3年、討幕に失敗した八人の志士が自首した末、幽閉された蔵の跡という(復元されたもの)。

私たちが登ったのは丑年で、「干支の山」にちなんで登った。十津川から425号線を西に25キロ、十津川村最奥の迫西川の集落を過ぎて県境が近くなる辺りが「牛廻越え」、峠の地蔵が立つところが蟻ノ越である。大峰南部から熊野に続く山々が紫に霞んでいる。急勾配の林道を南に歩く。牛廻山はこの尾根とほぼ直角に交わる別の尾根(蟻ノ越からさらに北へ続く県境尾根)との交点のすぐ西の隆起である。尾根上の古い登山道に登り、山腹を捲くと1177mピーク。ここが二つの尾根の交差点で登山道は右(西)に直角に折れる。のんびり尾根道を歩き、ゆるく下ったコルがヒヨキノタワで小さな石の導き地蔵さんが立っている。しばらく先で左に小径を辿ると、あっけなく展望のない頂上に着いた。
(蟻ノ越<760m>10:45 … ヒヨキノタワ<1145M>11:10 … 牛廻山<1206.8m>11:25)
 ここから竜神へは踏み跡に近い道になる。イバラのからむ植林帯を抜け大峠山を越す。密集した丈の高いヤブを漕いでいくとミノ又山である。南斜面の倒木帯を過ぎるとなだらかな大久保山。ここから林道と登山道が何度か複雑に交差する。赤テープに助けられながら植林帯の急坂を下り、小又川に架かる橋を見たときは、間違いなく目的地に着けたと正直ほっとした。
(牛廻山 12:30 … 大クボ山<905m>14:05〜14:15… 小又川 15:30)



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