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大和平野エリア(3) |
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33 貝吹山(210m) A <2004.09.14> ![]() 近鉄飛鳥駅から踏切を西へ渡り、右手に岩屋山古墳を見て直進、広い農免道路にでたら右折して西へ向う。30分ほどの飛鳥病院手前十字路を右へ、「貝吹山城址と乾城古墳」の説明板の先に登山口がある。雑木林や竹藪の中を登ると、20分ほどで頂上に着く。 |
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34 高取山(584m) B <1976.12.05> ![]() この山の天嶮を利用して南北朝時代に越智氏(南朝方)が城を築いた。のち戦国時代の本多氏を経て、江戸時代寛永年間に植村氏が大改修を行い、明治の廃藩置県まで高取藩二万五千石の居城であった。今は壺坂寺から頂上への道に、大手門や二の丸などの建物跡や石垣が残っている。 三角点のある広場が本丸跡で、周辺にはサクラの大木が多い。ここから西に金剛・葛城、南には吉野・大峰の山並が望まれる。また、登山路の途中には、壺坂寺奥の院・香高山(こうこうざん)の五百羅漢石仏群や、二の門跡の猿石など、特異な石造物が見られる。 壺阪寺(南法華寺)は大宝三年(703年)弁基上人の開山。『枕草子』に「寺は壷阪、笠置、法輪」と記されている。古くから眼病に効験があるとされた観音信仰の寺で、浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台として名高い。近年はインド渡来の大観音石像、涅槃像などや、障害者への配慮、支援活動で知られている。 近鉄吉野線壺坂山駅から3.5q、45分で壺阪寺。しばらく車道を歩き、五百羅漢への分岐から尾根道を1時間強で頂上。下山は北側へ15分で猿石。近鉄壺坂山駅へは元高取藩家老屋敷・植村邸を経て、猿石から徒歩1時間。2008年3月、久しぶりに壺坂寺に車を置いて登った。山上城跡は整備され展望方位板などが設置されている。三角点は天守跡の石囲みの上にあった。 |
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35 御破裂山(610m) A <2000.01.23>![]() 談山神社は、藤原鎌足の長男・定恵が摂津にあった鎌足の墓を移し、十三重塔を造立したのが始まりで、明治の神仏分離令までは多武峰寺であった。県下一と言われる紅葉の名所であり、十一月に行われる古式豊かな蹴鞠でも知られる。十三重塔は現存する唯一の木造で重文に指定されている。 談山神社境内の十三重塔横から小さな川沿いに登ると、ヒノキ林の中に木の階段が続く山道になる。中大兄皇子と鎌足が大化改新を相談した所とされる談山(かたらいやま)を右に分け、250mで頂上。神社から約20分。頂上最高点は鎌足の廟所の中で入れないが、北側に展望台があり、眼下に大和平野に浮かぶ大和三山、藤原京址、正面に二上山などを望むことができる。 神社西門近くの集落・西口から冬野川沿いの道が飛鳥・石舞台古墳に通じている。また、西門から南すれば冬野を経て竜在峠、細峠に至る。壬申の乱に大海人皇子も通ったと想定されている、大和から吉野に越える重要な峠である。細峠は標高700m。「雲雀より 空にやすらふ 峠かな」の松尾芭蕉の句碑がある(竜在峠を経て1時間強)。峠から県道を北に行くと約40分で談山神社山門に帰ることができる。 |
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36 音羽山(852m)、37 経ヶ塚山(889m)、38 熊ヶ岳(904m) B <1978.11.23> ![]() 多武峰談山神社(とうのみねたんざんじんじゃ)から見ると、東側の谷(寺川)を隔てて南北に連なる竜門山地が見えるが、北から音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳(859m)の三山を音羽三山と呼ぶ。 『万葉集』に詠われた倉橋山(くらはしやま)は、この音羽山一帯の山塊を指すと考えられる。 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出でくる月の 光とぼしき 音羽山の中腹には天平勝宝元年(749)創建の音羽山善法寺(俗に音羽観音)があり、山名の由来となっている。 ここから急坂を登り着く音羽山頂は、無展望である。南に続く稜線が、次の高まりをみせるのが経ヶ塚山で、平坦な草地の頂上には笠石のついた経塚があり、経文が埋められているという。 いったん下って登り返したこの稜線の最高点、無線塔の立つピークが熊ヶ岳である。 山名の「熊」は「嵎」、太陽が昇る東方にある山の意味であろうか。稜線の道はさらに大峠(770m)から竜門ヶ岳へと続いている。大峠手前のピークから初めて曽爾の山々などの展望が開ける。 大峠は神武東征の時、ここに女軍を配して八十梟師(やそたける)と戦った、と『日本書紀』に記された「女坂」伝承地であり、その碑が立つている。また、墨坂峠とも呼ばれ、古くから飛鳥と宇陀を結ぶ重要な峠であった。ここから針道を通り不動橋へ下れることができる。 櫻井市南音羽から丁石に導かれて急坂を登り、音羽観音へ。寺の右手から沢伝いに稜線に登る。右に折れると音羽山で南音羽から1時間半。大峠へは稜線を南へ1時間半。 |
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39 竜門岳(904m) B <1968.11.17> ![]() 『大和志』に「竜門荘(りゅうもんのしょう)山口村の上方(かみつかた)にあり。山林遠く望めば蔚然(いぜん)(草木の茂るさま)として青々たり」と記されている。 南山麓の竜門荘(現吉野町)山口、柳、西谷には、旧暦三月に当番の家が餅を搗いて、山頂の嶽神社に参る「ダケノボリ」の風習が、今も残っている。 登山口にある吉野山口神社は徳川家光寄進の石灯籠や、天然記念物のツルマンリョウ自生地として知られる。並んで建つ高鉾神社は、もと竜門岳山頂にあったことが『大和名所図会』で分かる。共に延喜式内社である。 しばらく登ると竜門寺址がある。平安から室町にかけて栄え、宇多上皇や藤原道長も参詣したと『懐風藻』に記されている。近くの竜門滝は落差25m。元禄元年(1688)、吉野を訪ねた芭蕉が立ち寄り、「竜門の 花や上戸の 土産(つと)にせん」の句を残している。文政元年(1818)、竜門郷14カ村の百姓が代官所を襲う一揆が起こった。いわゆる竜門騒動である。長らく旱魃に苦しんできたこの土地に、1951年、灌漑用ダムとして津風呂湖が造られ、新しい観光資源ともなっている。 吉野町山口から竜門寺址、竜門滝を経て山頂まで約2時間。嶽神社祠前に三角点があるが、スギやヒノキに囲まれて展望は殆ど得られない。 |
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