奈 良 百 遊 山(3)



大和平野エリア(2)
   

22 高峰山(633m) A <2000.05.05>

(たかみねやま) 奈良県天理市福住町にある。大和高原にある一峰で、国道25号(名阪国道)の天理東インターチェンジ付近から正面に見える山である。西側は春日山断層崖と呼ばれて急激に奈良盆地に落ち込んでいるが、東側は割合になだらかな地形である。

 頂上に向かって山を捲くように南北二つの林道が延びている。福住町下入田から、鉄塔の見えるピークを目標に左折して南側の林道を行くと、右手に頂上へ通じる小径の分岐がある。下入田から約45分。
頂上には2基の電波塔と三角点があるが、 ヒノキ林の中で展望は得られない。奈良盆地からよく見える赤白まだらの鉄塔(高峰中継所)が建つ別のピークは、小さい谷を隔てて三角点ピークの北側にあり、別の林道が頂上まで通じている。中継所横から、城山や春日の芳山が望める。


23 大国見(498m) 別称 大岳・国見山 A <1987.05.04> 

(おおくにみ)
 奈良県天理市の東にあり、頂上が尖って山容が整っているので、天理市街からもよく識別される。山名は、平城京のあった大和国原を望む山という意味である。
 山頂に神名を刻んだ石と小祠があり、山腹にも巨岩が点在している。頂上近くのものは、磐座として古代祭祀の対象であったと考えられている。 山麓の桃尾滝(とうおのたき)は落差20m。『大和名所図会』では滝と記され、「桃尾滝ともいふ」と書き添えられている。古くからの行場であり、今も滝に打たれる人が絶えない。1qほど上に竜福寺址があり、今は礎石を残すだけだが、かって真言密教の道場として栄えたことが偲ばれる。現在、阿弥陀堂址に桃尾山大親寺がある。

 天理市滝本町滝本上から大親寺の参道を進む。桃尾滝から急坂を登ると大親寺。ここから、杉林の尾根を約1qで頂上に達する(滝本上から45分)。眼下に天理市街と奈良盆地が開け、西に矢田丘陵の向こうに生駒山から信貴山に続く山並み、北は奈良奥山方面にかけてを望むことができる。


24 竜王山(586m) B <1979.04.29>

(りゅうおうざん) 奈良県天理市と櫻井市の境にあり、国内に数多い同名の山と同じように、雨乞いのための龍神信仰に基づく山名である。頂上近くには、それぞれの登り口の地名を冠した「藤井竜王社」と「柳本竜王社」がある。
 万葉歌人・柿本人麻呂が亡妻を偲んで詠んだ
 
衾道(ふすまじ)を引手(ひきで)の山に妹(いも)を置きて 山路をいけば 生けりともなし
の「引手の山」は、この辺りで最も高いこの山とするのが通説である。
 西山腹に円墳、横穴墳各300基を数える竜王山古墳群がある他、周辺には数多くの古墳が点在している。 西山麓には我が国最古とされる「山辺(やまのべ)の道」が通り、道沿いの古刹・長岳寺は「釜口(かまのくち)の御大師さん」と呼ばれ、弘法大師の霊地として親しまれてきた。山門前に、黒塚古墳の模型や天理市の文化財を展示する天理トレイルセンターがある。
  この山は奈良盆地と大和高原を扼する要衝にあり、天文年間に土地の豪族・十市遠忠が山城を築いたが、永禄11年(1568)、松永久秀に攻められ落城した。三角点のある山頂はその南城跡で、今は公園風に整備され、 大和平野を見下ろし、竜門山系や金剛、葛城、生駒の山並みを望むことができる。やや離れた標高521mピークにある北城跡には、土塁や石垣、竪堀などが残っている。

 近鉄田原本線柳本駅より、長岳寺を経て山頂まで1時間45分。北側からは、天理ダムから藤井川沿いに南へ歩き、藤井への分岐から北城址へ登る。1時間強。他に南側の巻向山からの道がある。
車の場合は長岳寺山門横に駐車場がある。近くの天理市トレイルセンターでは黒塚古墳からの出土品など、文化財の展示が見られる。


25 三輪山(467m) A  <1988.01.17>    別称 三諸(みもろ)山、神並(かむなみ)山

(みわやま) 奈良県櫻井市にある。大和平野の東を区切る山の連なりの南端に位置し、円錐形のなだらかな曲線を描く美しい山容を持つ。山体を構成する斑糲岩が浸食に強い性質のため、太古からその形を維持してきたと考えられる。
 三輪の名については、『日本書紀(崇神紀)』に次のような地名起源説話が記されている。「容姿端正のイクタマヨリヒメ に夜ごと通ってくる男があった。身ごもった美女(おとめ)を問いつめた両親が、男の正体を知るために、糸をつけた針を男の衣のすそに刺させる。翌朝見れば、糸は戸の鍵穴を抜けて三勾(みわ)だけが残った。糸を尋ねていくと美和山の神社に留まったので、男が神であったと知った」
  この山は形が美しいことに加え、大和平野から見て太陽が昇る方角にあることから、神が降臨する神奈備山として、古く(おそらく弥生時代)から土着民の信仰対象とされていたようである。大和朝廷成立後は、大物主(おおものぬし)神(大国主神)を祭神とする
大神(おおみわ)神社の神体山として尊崇されるようになる。
  『古事記』では三輪山の神を「御諸山の上に坐(ま)す神なり」として、土地の美しい娘・ヤマトトトヒモモソヒメを娶り、後に神武天皇の后となる イスケヨリヒメをなしたと記している。また、『古事記(雄略紀)』には、天皇がチイサコベノムラジ・スガルに、この神をとらえてくることを命じる話がある。このことは土着の素朴な信仰が、大和朝廷の勢力拡大とともに、次第にその宗教的支配下に組み込まれていく過程を示していると考えられて興味深い。
  『万葉集』には、天智天皇が近江に遷都するとき、その心を額田王が代作した歌とされる
 
三輪山を 全(しか)も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
を初め、この山が数多く詠われている。
 山麓に鎮座する大神神社は日本最古の神社とされ、奈良では大和一の宮、俗に三輪明神として、また全国の醸造業者からは酒造りの神として尊崇されている。 山そのものが神体とされるので神殿はなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居が珍しい。
 この先は古来、禁足地とされた祭祀の場所であり、付近からは多数の勾玉や須恵器などを出土している。山中に入るとスギやヒノキの大木が鬱蒼と茂り森厳な雰囲気で、中腹二カ所と山頂に 磐座(いわくら)がある。これら巨石群は、前述の天から神が降臨し滞在するところとされた古代祭祀の遺跡である。山頂には摂社・高宮(高峰 )神社の祠がある。

 JR三輪駅より松並木の参道を徒歩10分で大神神社。登山口は北側の摂社・狭井神社境内にある。社務所で入山初穂料を収め、白襷を借りる。写真撮影は禁止されているのでカメラは預ける。山頂までジグザグの登り約45分。 三角点は祠のやや東にあり、北方の若草山や奈良市街を、少し下からは大和三山や金剛・葛城などを望むことができる。現在、参道以外は歩行できないので元の道を下山する。二万五千分の一地形図に示された巻向山側からの入山は禁止されている。 また正月三が日など、
年間数日の大祭・中祭日には登山できないので注意を要する。


26 巻向山(567m) B  <1988.01.17>  別称 纏向山(まきむくやま)

(まきむくやま) 奈良県櫻井市に位置し、三輪山の北東、初瀬山との間にある、ほぼ同じ高さの二峰からなる。南側の山に三角点がある。柿本人麻呂が
 
あし引の 山河の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳(ゆづきがたけ)に雲立ち渡る
 と詠ったのは、この巻向山のことといわれている。
 『大和志』も「三輪山ノ東ノ北ニ在リ。纏向渓ノ上方ノ峯ヲ弓月カ岳トイフ」と記しているが、弓月ヶ岳については龍王山を充てるなどの異説もある。
 北山麓に巻向川が流れ、西山麓に「山辺の道」が通っている。
周辺には、三輪の神・大物主命と孝元天皇の妹・ヤマトトトモモソヒメの神婚伝説で知られる箸墓があり、 古代宮地の伝承跡や、巻向の檜原(ひばら)、穴師の山など万葉に詠われた故地も多い。山麓の奥不動寺近くに屯鶴峰のミニ版のような白山があり、ここから尾根道が山頂に通じている。

 JR桜井線巻向駅より県道を渡り、巻向川沿いに東へ3qほどで、右手から合する谷沿いの林道を奥不動寺へ向かう。寺からは舗装された林道を登る。 三角点は峠の右手、高台にある。すぐ近くに三輪山を見下ろし、大和盆地に浮かぶ畝傍山、その向こうに二上山から葛城山へ続く山並みが望まれる。巻向駅から2時間強。


27 初瀬山(548m) A <2004.09.23>

(はせやま) 桜井市、長谷寺の裏にある。万葉集で「こもりくの」の枕詞で詠われる泊瀬山は、この辺り一帯の山をさすようである。
『万葉集』  
 隠口の泊瀬の山の山ぎはに いざよう雲は妹にかもあらん (人麻呂)
 こもりくの泊瀬の山は色つきぬ 時雨の雨は降りにけらしも(坂上郎女) 
『和州旧跡幽考』 には 「泊瀬山(はつせやま) 八雲御抄曰 海士小舟(あまおふね)泊瀬山といへり。とませ山ともいへり。泊瀬又は長谷。…此処は山之口より入て奥深き故に籠口(こもりく)の初瀬といふ」とある。

 長谷寺参道から登るのが普通。私たちは、都祁に向かう県道途中にある初瀬浄水所の前から登った(04年9月)。草の生い茂る道から、スギなどの植林帯の尾根道となり、最後は笹原の中を漕いで山頂に立つ(1時間弱)。展望はほとんどなく、周りを囲む木の間から南に音羽三山、東に貝ヶ平山、鳥見山らしき山がちらちら見えた。



28 天神山(455m) A  <2004.10.13>  別名・与喜山

(てんじんやま) 長谷寺から初瀬川を挟んで対岸にある。山麓の与喜天満宮は菅原道真を祀る鎌倉初期以来の古い社で、秋の祭礼は長谷寺の年中行事に入るなど長谷寺との関係が深い。
 この山は昔から長谷寺の寺領として伐採が禁じられてきたので、原生林が鬱蒼と茂り、
「与喜山暖帯林」として天然記念物に指定されている。山中に夫婦岩と呼ばれる磐座(いわくら)がある。古代、天の神を祀った自然信仰の場所で、中世からの天神(道真)信仰との結びつきを暗示しているのかも知れない。

 
天神橋で初瀬川を渡り、与喜天満宮の社殿横から山道を登る。夫婦岩からは急登になり、時には木の根や岩角を掴んで登る。木の開から巻向山、初瀬山を望みながら標石のあるピークに立つ。天神山へは更に小さなピークを二度越していく。山頂には三等三角点と山名板が幾つかあるが、展望はまったくなかった。山頂まで1時間。下りは北へ向かう尾根をとり、40分ほどで「まほろば湖」の畔へ降り立った。


29 外鎌山(293m) A <2001.03.03>

(とかまやま) 桜井市。大和朝倉駅南東にある。万葉に「忍坂のやま」と歌われ、形がよいので朝倉富士、磯城富士とも呼ばれる。北山麓の朝倉台には、4基の古墳群からなる史跡公園がある。ここから見る外鎌山は、やや崩れた富士山型である。山裾まで押し寄せる住宅群、とりわけ左肩に見える巨大な青色の給水タンクは、私には美しいこの山の「染み」のように思える。 『万葉集 巻十三』に
 
こもりくの 泊瀬(はつせ)の山 青旗の 忍坂(おさか)の山は 走り出の 宣(よろ)しき山 出で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも
 万葉の昔にも環境破壊があったようで、よくよく運の悪い山だ。南朝の「忠臣」玉井西阿の最後の砦があったという頂上からは、木の間隠れだが大和三山、 桜井市街、三輪山、音羽三山とまずまずの展望が得られた。

 北側の朝倉台から登るのが一般的.。給水塔の北東にあるガスタンク横にある登山口から約20分。私たちは南側の「忍坂道伝承地」石碑から登った。石位寺の前を北へ、舒明天皇陵を過ぎたところから(ここまで15分)踏み跡をたどった。道はすぐに不明瞭になり、背丈を越す密生したスズタケを30分以上にわたって強引に漕いで小さなピークに立つ。さらに潅木の生い茂る尾根を30分近く登ると狭い頂上に着いた。帰りは細いがはっきりした道で、舒明陵の少し先の大伴皇女墓の横に出た(20分)。



30 耳成山(140m) A <1986.02.23> 別称 天神山

(みみなしやま) 大和三山の一。奈良県橿原市にある。火山の残丘と考えられる低い山だが、平坦地に孤立しているので、意外に高く美しい円錐状の山容を見せている。
 
みみなしの山のくちなし得てし哉おもひの色のしたぞめにせむ
という歌が『古今集』にあり、かつては梔(くちなし) の木が多かったので「梔子(くちなし)山」とも呼ばれたという記述が、『大和名所図会』にある。 『万葉集』で青菅山というのもこの山である。
 また、俗に天神山といわれたのは、頂上近くに耳成山口神社があるためである。 この社は明治まで天神社と呼ばれ、雨乞いの神事が行われたことが記録されている。現在、山裾まで住宅地が迫っているが、 一歩、山へ入ると古代そのままの神さびた静けさが漂う。三角点のある山頂は樹木が生い茂って、北方の一部を除いて展望は得られない。

 近鉄大阪線耳成駅から西へ10分で、 耳成山公園の前に登山口がある。他に周辺4カ所から道があり、いずれも山腹を巻く緩い登りである。公園から頂上まで20分。


31 畝傍山(199m) A  <1986.02.23>

(うねびやま)奈良県橿原市の、神武天皇橿原宮跡と想定された橿原神宮の北西にある。中腹までがなだらかで、上部が急な形のトロイデ式火山で、 下部は花崗岩、中腹から上は斜長流紋岩(火山岩)より成る。明治以降、御料地(現在は国有林)として保護され、樹木の伐採が禁止されてきた。山腹はアラカシ、シロカシ、サカキなどの緑に覆われ、林床の草本類も種類が豊富である。
  大和三山の中で最も高い。
頂上小広場には畝火山口神社社殿跡と三角点がある。ここに立つと、眼下に広がる街並の中に耳成山と香久山が浮かんで見える。これら三つの山は、ほぼ3qずつの間隔で三角形に位置し、 その中に持統8年(694)から平城京へ遷都する和銅3年(710)年までの間、藤原京が営まれた。
 『万葉集』巻一に「中大兄(なかのおおえ)の三山の歌」がある。
 
香具山は 畝傍雄男志(うねびおおし)と 耳成と 相争ひき 神代よりかくにあるらし 古(いにしえ)も然(しか) にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
(反歌)
香具山と耳成山と戦(あ)ひし時 立ちて見に来こし印南(いなみ)国原
 『万葉集』では、他に畝火・雲根火・雲飛とも表記されている。
 畝傍山の周辺には古墳が多く、曽我、忌部などの地名が残っていることから古代豪族の居住地であったことがうかがわれる。

  近鉄橿原線橿原神宮前駅より西へ、10分で橿原神宮本殿。広大な境内を北神門へ抜けると、西山麓側の登山口標識がある。山腹を捲く道を登り、北端で右に折れてやや急な尾根道を行くと頂上小広場に着く。登山口から約30分。 東麓からは橿原森林公苑の中に緩急二つの道がある。


 
32 天香具山(152) A  <1986.02.23> 別称 香具山、香久山

(あまのかぐやま) 奈良県橿原市にあって、藤原京址の東に位置する小丘陵。大和三山の一。他の二山が火山であるのと異なり、花崗岩と斑糲岩などの複合岩類から成る丘陵の一部が、 風化浸食から残ったものである。
 山名は、
この山が天から降ってきたという伝承による。『伊予国風土記逸文』に「天山(あまやま)と名づくる由(ゆえ) は、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降(あまくだ)り、 片端はこの土(くに・伊予国伊予郡)に天降りき。因(よ)りて天山といふ、本(ことのもと)なり」とある。『古事記』の 「天照大神(あまてらすおおみかみ)、天石屋戸(あまのいわやど)にこもり給ふ」の神話を初め、記紀や万葉に数多く登場する。
  この山の土には霊力があるとされ、神武東征伝説として、埴土(はにつち)で巌甕(いっぺ )を作り戦勝を祈願したことが残っている。 かつて土地の老人から「白埴山の土で作った土器は白く、赤埴山の物は赤い」と聞いたが、天香山神社の前に、赤埴聖地址の碑が立っている。 この神社は、『日本書紀』の「香具山の牡鹿の肩骨を朱桜(ははか)の木の皮で焼き、吉凶を占った」故地とされている。 300mほど南、万葉碑横に白埴聖地の碑がある。
 万葉集には、他の二山を圧して多くの歌が記されている。 中でも持統天皇の
 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり あめのかぐ山  
や、柿本人麻呂の
 
久かたの 天の香具山 この夕へ 霞たなびく 春立つらしも
はよく知られている。
 頂上には国常立(くにとこたち)神社が建つ。「雨の龍王」と言われ雨乞いの神でもあった。 ここは樹林に囲まれ展望はないが、西側中腹の「天皇登香具山望国之時御製歌」碑(前述万葉碑)からは、耳成、畝傍、藤原京址、さらに二上山から金剛・葛城が遠望され、まさに国見の壮大さを味わうことができる。 舒明天皇の歌は
 
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
 北側山麓に前述の天香山神社、南の山裾に天岩戸神社がある。

 近鉄橿原線畝傍御陵前駅を東へ、飛鳥川を渡り南浦町の天岩戸神社を目指す(約45分)。 神社から北へ15分で頂上。他に北側の天香山神社、西側・木之本町側、東側・万葉の森自然公園からそれぞれ道がある。

金剛・葛城エリア    大和平野エリア(1)   大和平野エリア(3)  宇陀高原エリア(1) 

宇陀高原エリア(2)  台高山系エリア      大峯山系エリア(1)  大峯山系エリア(2)

周遊吉野エリア