奈 良 百 遊 山(8)



大峯山系エリア(1)   

76 百貝岳(860m) B <1998.02.18>

(ひゃくかいたけ)桜で名高い吉野山奥千本の西南にあって、奈良県吉野郡黒滝村に位置する山。名称には次の伝説がある。役行者が大峰山を開いて200年ほど後、山中に大蛇が棲み、村人や参詣人に危害を加えたので信仰は途絶え山は荒廃した。宇多天皇の勅命を受けた理源大師が先達(せんだち)の「餅飯殿(もちいどの)」箱屋勘兵衛を伴い、法力により大蛇を退治した。その時、大法螺貝(ほらがい)を吹き祈祷したが、其の音は百の法螺貝を一時に吹き鳴らしたようであったという。その後、大峰修験道は復興し、理源大師は中興の祖とされている。
 大師ゆかりの百螺山鳳閣寺は、寛平七年(895)建立と伝えられる。花崗岩作りの理源大師廟塔は国重要文化財で、台座の浮き彫りの亀に吉野朝時代の正平二四年(1369)の銘がある。

 吉野郡黒滝村寺戸から川沿いに東へ脇川に向かう。ここから県道48号を地蔵トンネル手前まで行き、左の谷沿いの道を地蔵峠に登る。峠からは東に林道を歩く。鳥住集落の林道終点から坂道を登ると鳳閣寺(寺戸から1時間30分)。本堂横から松林の中の廟塔を経て踏跡を登るとTV塔の立つ尾根に出る。急坂を登り詰めると如意輪観音の祠がある百貝岳頂上。樹木に囲まれ無展望である。
 吉野山からは、奥千本から大峰奥駆道への分岐、西行庵への分岐を経て山腹をからむ道を行く。45分ほどで左手の斜面に山頂への踏み跡の分岐がある。直進しても鳳閣寺からの登路に合する。


77 柏原山(943m) C <2004.09.09>

(かしはらやま)吉野郡黒滝村。四寸岩山から西に派生した尾根末端にある三等三角点のピーク。
奈良山岳会『大和青垣の山々』に「新茶屋からの尾根道の他に、北方の槇尾からと、南方の赤滝からそれぞれ登る道がある…」。昭文社の山と高原地図「大峰山脈」では中戸からの尾根道、赤岩から迫ノ谷に沿う道が記載されている。私たちは森沢義信氏の『奈良80山』に記された柏原谷からの登路を登った。車を置いた「きららの森赤岩」から2時間ほどだった。
 登山口には地名通りに川の中には赤い岩が点在し、その間を澄み切った水が渦を巻いて流れていく。対岸に前登志夫の
「みなそこに 赤岩敷ける 恋ほしめば 丹生川上に 注ぎゆく水」の歌碑がある。上平のバス停前で橋を渡ったところが登山口。このルートは、登山口から頂上近くまで、道標はおろかテープ標識も殆どない。このときは沢から稜線に出たところで林道の工事が行われていて、尾根道が分断されていた。その先で、はっきりした登山路が続いていて「柏原山」の大きな標識があった。この標識は上中戸への下山路では要所で何カ所か設置されていた。山頂直下で踏み跡に変わり、稜線の一角に出て数分で山頂に着いた。植林の中で展望は全くない。東へ関電巡視路を少し行くと、関電鉄塔下の広場からすぐ目の前の四寸岩山から大天井に続く稜線、その左遠くに稲村ヶ岳などが展望された。


78 扇形山(1053m) B <1999.09.03>

吉野から洞川への昔からの道は小南峠を越える。そこから西に延びる尾根上に標高1053mのこの山がある。稲村ヶ岳の方から見ると扇を拡げたような美しい形をしている。尾根が峠から東、さらに東南に回り込むと大天井岳に至る。

私たちは大天井岳に登るついでに、小南峠に車を置いて往復した。トンネルの上を通る尾根の中腹を捲いて黒滝川沿いの集落を見下ろしながら緩く登り、15分で送電線鉄塔の下に来る。左手には稲村ヶ岳と大日岳が見えた。コルに降り、しばらくはヒノキ林の中、殆ど水平の道を進む。やや登りになると笹原の中に立つ2本の送電鉄塔の下を通る。少し急坂を登ると扇形山の頂上だった。2等三角点があるが樹木に囲まれて展望は全くなかった。


79 天和山(1285m) C <2002.11.14>

(てんわさん)大峰山系支脈、栃尾山から西南に延びる尾根上にある一ピーク。山頂を西に下った川瀬峠を天川和田と篠原を結ぶ道が通る。
 南側の篠原からは、沢沿いに岩屋滝などを見ながら約50分で川瀬峠に登る。私たちは北側の和田から尾根道を登った。和田発電所の前から支流にかかる小さな橋を渡るとすぐ山道になり、四度、送電線鉄塔に出会いながら細い踏み跡を登る。1時間30分ほどで川瀬峠に着くと、南へは広い道が篠原に向かって下っていた。天和山山頂までさらに40分かかった。
 山頂は雑木林の中で展望はよくない。東側(栃尾山寄り)に少し下った笹原からは、大峰山脈北部の素晴らしい眺望が遮るものなく展開する。大日岳、稲村ヶ岳の右に頂仙岳、弥山、八経ヶ岳、さらに釈迦ヶ岳へと続く稜線が見渡せた。


80 栃尾山(1257m) A <2006.09.24> 

 (とちおやま)天川坪内から栃尾辻、頂仙岳、狼平を経て弥山に登る道の途中、栃尾辻から西に派生する尾根上にあるが、2万5千地形図には山名の記載はない。
 山頂は灌木に囲まれて無展望。少し手前の大岩のところから展望が得られる。西は送電線の並ぶ尾根上の1287mピークとその右の天和山。遠く陣ヶ峰、水ヶ峰が霞む。北には天狗倉山の右に金剛・葛城の山々が遠望された。(写真は大岩から天和山方面)
 登山口に近い天河神社(天河大弁財天社)は、江ノ島や竹生島とともに「日本三弁天」として有名な神社で、弥山頂上にあるのはこの奥宮である。社伝では、天武天皇の創建、役行者の大峰開山に先立つ拠点であり、弘法大師・空海もここで修業したという。

 天川の天河神社から林道坪内谷線をめざし、弥山への標識がある登山口から登った。栃尾辻手前の分岐で尾根に出て鋭角に折り返す。尾根には町村界標が並び、はっきりした踏み跡が続いている。痩尾根を通過したあと、何度か緩いアップダウンで背の低い笹原になり、林の中に三等三角点があった。尾根道は天和山に続いている。 

81 七面山(1624m) C <2003.05.29> 

(しちめんざん) 五条市と十津川村の市村境にある。『大和名所図会』に「七峰相連なりて蓮華の如し」という記事があり、山名もこれに関連があると思われる。『吉野郡群山誌』には、この山に天狗が棲むという次の記述がある。
「楊枝山(現在の楊枝宿付近の山の総称)の西少し北に当たり七面山あり。黒く樹木生ひ茂り、その南半腹に、七面の倉と云ふ巌有り。高さ百五十尋、石茸多し。峯は平にして池あり。舟川荘に属す。この山上に登れば魔ありて(金六と云ふ天狗を云ふ)道を迷はさるると(七日迷)云ふ。十津川小川の枝郷迫村より登る道あり。楊枝山より見れば、南北に峯ありて中は平なり。南の峯高く、舟川の篠原村の南にして、少し東によれり。世俗の説に、七面山高さ千間と云ふ。『輿地通志』に日く。「七面山七峯連聳、宛如蓮華」と云ふは、伝聞の誤りなり。この山七つの峯なし。」
私たちは、大塔村役場前から林道で峠(高野辻)を越して谷沿いに奥へ入り、七面谷が地獄谷に名前を変えるところから歩き始めた。この先は王子製紙の私有林道となり標高差330m、1時間で登山口。杉林の中を急登して、下辻山へ続く長い尾根上の七面尾から次第に痩せてくる尾根を登る。道の両側、谷を見下ろす斜面、行く手の岩の上…シャクナゲの花、花、花だった。低い笹原で疎らになった樹の間をジグザグに登ると西峰の頂上。東峰は右手の岩峰で、狭い岩頭に立つと眼下は絶壁で、木の間から大峰の稜線が見える。西に延びる槍ノ尾を緩く下ると、広々と拡がるミヤコザサの斜面、アケボノ平にでる。正面に七面山東峰が聳え、その右に仏生ヶ岳、さらに南へ孔雀岳と、奥駆道の通る大峰の山々が連なっていた。シャクナゲのトンネルを抜けると、壊れた小屋の裏手に三角点標と「槍ノ尾」の山名板があった。元の道を帰り、休憩を含め7時間の充実した山行だった。


82 青根ヶ峰(858m) B <1978.03.21>

(あおねがみね)吉野郡吉野町と川上村の境にある。桜で名高い吉野山の最高峰である。頂上近くには、「従是女人結界」の文字の両側に「左・蜻蛉瀧、右・大峰山上」を示す大峯奥駆道の結界石とお地蔵さんが立っている。この結界石は慶応元年のものだが、第二次大戦後の1970年に結界の位置が五番関に後退するまで、長らくここから先が大峯山の女人禁制区域だった。ここから木の階段道を登ると青根ヶ峰の三等三角点があるが、樹木の中で展望は得られない。
 この石標の少し手前、金峰神社を過ぎたところに
「峰入りや一里遅るる小山伏」の句碑がある。ここの辺りが大峰七五靡き(なびき)の第七十番「愛染(あいぜん)宿」跡であるが、この地名は明治初年の廃仏毀釈まで安禅寺の愛染宝塔があったためという。
 ここで奥駆道と離れ、奥千本に向かうと「西行庵」がある。西行が隠棲した桜の名所で、
「吉野山やがていでしと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」と詠んだところ。芭蕉の「露とくとく試みに浮世すすがばや」の句で知られる苔清水が滴り落ちている。

 近鉄吉野駅より上千本を経て2時間30分。川上村大滝からは、林道沿いに2時間。途中には落差30mの「蜻蛉(せいれい)の滝」がある。音無川沿いに登り、愛染宿跡とは反対側の車道にでると鉄階段で山頂に登る。


83 四寸岩山(1236m) B <2004.05.15>

(しすんいわやま)大峯奥駆道は、青根ヶ峰から林道吉野大峰線を少し歩いた四寸岩山登山口で、新旧の二道に分かれる。尾根通しに四寸岩山の頂上を通る古道は、江戸時代から明治末まで歩かれた奥駈道で「大天井越え」と呼ばれた。その後は廃れていたが、林道開通後に金峯山寺が復旧した。山名のいわれは、かっては四寸しかない岩の隙間を通ったからだそうだが、この岩も今は山道脇にある平凡な石に過ぎない。二等三角点の頂上はこの石から少し登ったところにあり、山頂からは目指す大天井岳が高く、その左に山上ヶ岳が微かに望めた。 この山の東山麓の集落・高原は「木地師の村」として知られている。

 私たちは大峯奥駆道をたどった。青根ヶ峰下の大滝分岐から一里茶屋跡、心見茶屋跡、守屋ノ茶屋跡、新茶屋分岐を経て1時間30分。他の道としては中戸から(柏原山経由で3時間30分)、高原から高原山経由の道などがある。


84 大天井岳(1439m) B <1999.09.03>

(おおてんじょうだけ)五番関トンネル横の急坂を登って、稜線に出ると女人結界門がある。右に門をくぐると山上ヶ岳への道で、左へは大天井への登路と吉野へ山腹を捲く水平道に別れる。昔は頂上を通っていて「山上参りの難所」で知られた。山名の「大天井」も「非常に高いところ」を表しているようである。
 『和州吉野郡群山記』には
「杉その外、諸木の根の蟠れるを道として、その上を越え行く。吉野より参諸多きゆゑ、この処道中広くなれり。いづれも蟠根の上を行くなり。大天井嶺有り」「洞辻よりこの辺まで、樹木生ひ茂り、日光を見ざる所多し」と記載されている
頂上からの展望は北側が開け、四寸岩山から百貝岳に延びる尾根の上に青根ヶ峰、遠く金剛葛城の山々が見える。
 五番関近くの御番石茶屋跡には大石、碁磐石がある。『群山記』には「
この辺に石多く、四方なり。紫色にて、白く糸のごとき筋有り。碁盤の目のごとく十文字をなせり」とあるが、五番関の五番の意味は、御番だろうか碁盤だろうか?

 99年に二人で五番関から登った。山腹を貫く五番関トンネルの西口から1時間15分ほどで山頂に立てた。04年はJAC関西支部の奥駆山行で、青根ヶ峰から四寸岩山、大天井岳を経由して五番関に下った。他に洞川から尾根道を大原山を経て登る道もある。


85 観音峰(1347m) B <1997.11.04>

(かんのんみね)山名は後村上天皇が観音の夢告げで難を逃れたことに由来する。南朝の後醍醐天皇が吉野行宮で崩御のあと、大塔宮護良親王、後村上天皇、長慶天皇らは天川郷を南朝最後の砦として潜行した。この峰は南朝守護の観音信仰の場所であったという。
 観音峰展望台からの眺めはまさに360度。東南には大日岳、稲村ヶ岳からバリゴヤ谷の頭に続く岩稜、さらに鉄山、弥山、八経ヶ岳、頂仙岳と大峰の山々が続く。西には天狗倉山と高城山、その左に双耳峰の武士ヶ岳。遠くは護摩壇山、荒神山、生石ヶ峰、陣ヶ峰、そして高野三山、龍門山…数えきれぬ山々の饗宴である。
02年、07年と5年間に3度登ったが、その度に登山道の整備が進んでいる。虻峠近くの登山口から展望台までは遊歩道になっていて、途中の観音平休憩所まで6か所に「南朝物語」の説明板がある。休憩所からは林の中の急登、水平道、ジグザグの急登で観音峰展望台(1208m)に着く。一帯は初夏には緑の笹原にベニバナヤマシャクヤクが紅を点じ、秋にはススキが銀色の穂をなびかせる楽園である。目の前の1285m峰へ急登して尾根道を行くと、展望台から1時間で観音峰に着く。ここは灌木に囲まれて展望は全くない。
 私たちの下山路は、法力峠から洞川(どろがわ)への周遊コースである。稜線の最高点・三ツ塚(1380m)を通り、左手が開ける岩稜帯はザイルもついている。急降下で法力峠に下ったあとは、母公堂へ降りてもいいし、五代松鍾乳洞を通って行くのも面白い。洞川には日帰り温泉がある。虻峠の登山口へは「みたらい渓谷遊歩道」を辿る。 


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