奈 良 百 遊 山(1)



金剛・葛城エリア
                    

01 生駒山(642m) A  <?>

(いこまやま) 大阪平野と奈良盆地を区切って南北に走る生駒金剛山地の北半、生駒山地の主峰であり、古くから河内・大和の人々に朝夕、親しまれてきた。戦中の小学5年生の時から70年代初めまでこの山系の中腹に住んでいた私にとっては、実に思い出深い山である。
 近畿中央部の低地に突出しているので、遠方からも格好の目印となり、また
古くから軍事・交通の要衝として、暗峠、鳴川峠、十三峠などの峠越しに多くの人や物資が運ばれてきた。今は近鉄電車が生駒トンネルを走り抜け、阪奈道路、第二阪奈道路が大阪・奈良間の動脈の役割を果たしている。
 山頂付近はTVやマイクロウエーブの中継アンテナが立ち並び、また宇宙科学館や遊園地もあるリクレーションの場となっている。
三角点は遊園地のSL軌道内にあるが、登山者は断って無料で入場できる。
 山腹や山麓には伊古麻都比古神社(生駒大宮)、鳴川千光寺(元山上)、宝山寺など有名な古社寺や旧跡が多い。とくに宝山寺は「生駒の聖天さん」として 関西商人を中心に多くの参拝客で賑う。生駒は宝山寺の門前町として、日本最初のケーブル開通と相まって栄えたといえる。

子供の頃から何度となく登ったが、2007年にはドライブウェイに駐車して孫と登った。登山路として
大阪側からは近鉄枚岡駅より大原山、暗峠コース(2時間)、石切駅から辻子谷コース(1時間30分)、額田駅から額田谷コース(1時間20分)、 同じく額田から枚岡公園を経て登るコース(1時間20分)などがある。奈良側では、近鉄南生駒駅より車道を暗峠へ登り、スカイライン沿いに北へ(1時間30分半)。 元山上駅から千光寺、鳴川峠、暗峠を経て3時間弱。生駒駅からは宝山寺への参道を行き、寺からケーブル横の急坂を登る(約1時間40分)。  


02 大原山(523m) B  <1976.03.07>
 
 
おおはらやま) 生駒山から大阪・奈良の府県境沿いに信貴生駒スカイライン(有料道路)が通っている。登山道は何度かこの道路と離合しながら、暗(くらがり)峠、鳴川峠、十三峠を経て高安山に向う。暗峠の500mほど南にある高まりが大原山である。かっては地肌を見せていたので土地の人からは「赤はげ山」、さらに昔は「小椋山」と呼ばれていた山である。『河内名所図会』に「世に暗峠という者非ならん‥(中略)‥生駒の山脈続て小椋山という。故尓(に)椋ケ根の名あり、一説尓は此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいう。」と記されている。
 現在の山頂は気持ちのいい草地で、眼下に河内平野が一望され、その向こうに大阪湾、六甲連山、北摂の山々を見る絶好の展望地である。北東にドライブウェイ駐車場の道標に従って100mほど下った所に、
新しい514mの4等三角点があり、周辺は三角点広場と呼ばれている。西(大阪)側一帯は「大阪府民の森」の一部で「なるかわ園地」と名付けられ、ここからも展望が良い。

 
76年、初めて近鉄生駒線元山上口駅より登った。千光寺、鳴川峠を経て約2時間30分。08年3月、新しい三角点を確認しようと同じコースを歩いて枚岡梅林に下った。三角点広場の標識にはなぜか「標高522m」と記されていた。


03 高安山(488m) B <1998.01.07>

(たかやすやま) 生駒山地の南端、大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町の境に位置している。山頂近くに大阪管区気象台の高安山気象レーダー観測所があり、白いドームは河内平野からもよく見える。 西麓から敷設されているケーブルカーは、大阪側からの信貴山参詣に利用されてきた。また山頂近くを生駒山から信貴生駒スカイラインが通じている。
 
『日本書紀』に、天智天皇六年(667)この山に「高安城(たかやすのき)」を築いたことが記されている。白村江の戦い(663年)に敗れた大和朝廷が、唐・新羅の侵攻を防護するために、 対馬の金田城、讃岐の屋島城とともに作ったものである。従来は烽火台か見張所程度の規模と考えられていたが、近年、倉庫址の礎石が発見され、1999年に城壁と思われる長大な石垣と櫓址が見つかったことから、 強固な防御陣地としての山城があったことが実証された。

 
1998年信貴山から登る。信貴山城址を奥の院の方へ下り、分岐を左へ行く。スカイラインを越すと山頂少し北の縦走路に出た。 左へ少し行った斜面を短い梯子で登る。笹原の中をわずか進むと灌木に囲まれた狭い高安山の頂上だった。木の間越しの展望は、南に白いレーダードーム、西に陽を浴びた東大阪の町並。北に小山があり、頂上の注連縄を張った二つの巨岩に続く長い石段が見える。その向こうに生駒山。 信貴山頂空鉢堂から30分足らずだった。下りは信貴山奥の院経由で近鉄生駒線勢野北口へ下る。翌1999年,2008年、2011年は信貴山から奥の院を経て登った。


04 信貴山(437m) A  <1998.01.07>

(しぎさん) 
奈良県生駒郡平群町にある。大阪府と奈良県の府県境をなす生駒山脈の南端、高安山から東に派生した尾根上にある双耳形の小火山である。中腹に庶民信仰の朝護孫子寺がある。聖徳太子が物部守屋との戦いに敗れてこの山に逃げ込み、昆沙門天に祈願して勝利を得たので創建したと伝えられる。毘沙門天出現の奇瑞があったという寅年、寅の月、寅の日は特に賑わう。
中興の祖・命蓮上人の奇瑞を描いた国宝・信貴山絵巻は鳥羽僧正筆と伝えられ、日本四大絵巻の一として名高い。
 山名はこの寺の山号であるが、聖徳太子が勝利の後、毘沙門天を祀り、
「信ずべき山、貴ぶべき山」と賛嘆したことが起源という。 この地は河内と大和を結ぶ政治的・戦略的要地であり、古代から何度も山城が造られた。戦国時代、松永秀久が大和攻略の拠点として、近世城郭の先駆的形態を備えた居城を構えた(永禄2年・1559)が、天正5年(1577)織田信長により落城した。
 山頂にある空鉢(くうはち) 護法堂は、信貴山城主郭に取り込まれた形で、周囲に高櫓(後の天守閣)跡が残る。三角点はお堂敷地内にあるのか探し当らなかった。
 空鉢堂前の舞台からは、南に二上、葛城、金剛、岩湧、和泉葛城に続く山並み、その左に吉野から大峰への連山。南東には大和平野に浮かぶ大和三山、その上に竜門山群。三輪山の右奥には高見山が青く霞む。東には竜王山、国見、貝ヶ平山など、南から東にかけての眺めが素晴らしい。

 98年、近鉄生駒線勢野北口駅より登る。駅から山頂空鉢堂まで約1時間30分。この年は寅年、しかも偶然に初寅の日で大勢の参詣客で賑わっていた。99年には朝護孫子寺山門下まで車で登り、駐車場をスタート地点とする。三重塔の横から空鉢堂へは、朱色の木の鳥居、石の鳥居が並ぶつづら折れの急坂である(山門まで30分)。 いずれの年も高安山と合わせて歩いた。


05 明神山(274m) A  <2004.08.03>

(みょうじんやま) 大阪と奈良の府県境をなす、生駒山脈と金剛山脈の間のくびれた所を大和川が流れている。亀ノ瀬の辺りは古代から交通や戦略上の要衝となってきた所で、現在も国道25号線、JR大和路線が大和川に平行して走っている。その南側、つまり金剛山脈の最北端にあるのが明神山である。晴れれば明石大橋も見える見通しのよい所で、昔は大阪堂島の米相場旗振り山であった。標高274.9m(三等三角点、点名・西山)。

 「明神山参道・これより西1770m」の標識がある赤い大鳥居を潜り、住宅地の中の坂道を登る。ハイキングというより散歩道といった感じである。笹原へ下る分岐があり、「頂上へ460m」の道標と「右大坂、さかい」の石標がある。国道を走る車の音が聞こえてくる。ここから僅かで広い山頂部に着いた。水神社(明神山太神宮)と、その回り三箇所に大きな展望台がある。王寺
町の人の憩いの場になっているらしく、顔馴染みの皆さんが談笑している。超低山だが頂上からの展望は意外にも大きかった。大鳥居の登山口から山頂まで、ちょうど30分だった。

06 屯鶴峰(150m) A <1975.07.13>

(どんずるぼう)奈良県香芝市にある。二上山の北側、穴虫峠の東から約1qの間、松林の緑の中に灰白色の岩層がうねるように続く。第三紀末(約1500〜2000万年前)に起こった二上山の火山活動で噴出した火砕流や火山灰などが、当時あった湖の底に堆積して凝灰岩となり、隆起したのちに風化・侵食作用によって現在の特異な景観を形成した。白い鶴が屯しているように見えるので、この名がある。1941年に天然記念物として県の指定を受けている。
 この白色凝灰岩は柔らかく加工しやすいので、大和の古墳に石棺や石郭などの材料として使われている。また穴虫峠付近から産出する柘榴石は細片を玉石の研磨に使用し、今も金剛砂としてサンドペーパーやグラインダー砥石などの研磨剤原料となっている。
 
屯鶴峰入口(穴虫峠近く)を起点として、二上山、金剛山、葛城山、岩湧山を経て槙尾山まで、延長45キロに及ぶ縦走路は、ダイアモンドトレール(正式には金剛葛城自然歩道)と呼ばれ、よく整備されている。 二上山駅より165号を西へ分岐で線路沿いの通称大坂道に入ると、穴虫峠手前に登山口がある。


07 二上山(雄岳・517m) A  <1971.11.28>

(にじょうざん) 大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市の境にあり、雄岳と雌岳(474m)の二峰から成るトロイデ式火山である。
 二上山の方角は、河内からは「日出(いず) る山」、大和からは「日没する山」にあたる。特に大和国中(くんなか)の古代人からは、神聖な「ふたかみやま」として崇敬された。
 飛鳥の奥津城と考えられた西南麓には、古墳群と呼ばれる多くの墳墓が築かれている。 雄岳山頂には、葛城二上神社(岳の権現)に並んで、政争の末に謀反人として葬られた大津皇子(おおつのみこ)墓がある。皇子を悼んで姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌は、あまりにも有名である。

 
うつそみの 人なる我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と我(あ)が見む。
  二上山の三角点は雌岳にあり、周辺は自然公園「万葉の森」として整備されて展望も良く、河内平野の彼方に大阪湾が光り、大和側には大和三山、正面には金剛山が大きく見える。

 20回ほど登っているが、二上山駅からは畑の町並みを抜けて専称寺、春日神社を過ぎたところで国道165号線を渡る。ここから急な尾根道を登り雄岳を目指す(1時間強)。頂上は杉など樹木が多く、展望は大津皇子陵の裏側から得られる。雄岳頂上には入山料が必要である。
 当麻寺駅からは参道を行き當麻寺北門から山に向かう。山口神社、傘堂(珍しい一本足の建築物)、山麓公園を過ぎ、祐泉寺山門に着く。道は二分し、左は岩屋峠に通じる。直進するとジグザグの急坂を登って、ベンチのある馬ノ背のコルに出る(駅から1時間15分)。右はガラガラの岩屑道を雄岳へ、左は遊歩道で雌岳へ通じる。いずれも15分ほどで達する。
 近頃はマイカーを山麓において登ることが多い。道の駅「ふたかみパーク当麻」において周遊したり、當麻寺奥の院近くの「ふれあい広場」駐車場から登る。また山口神社横にもおける。2007年2月、馬ノ背から雄岳往復後、雌岳から岩屋峠、竹ノ内峠を経て大阪側登山口に下り、登り返した。この道は、日本最古の石造十三重塔で有名な鹿谷寺跡を通り、眼下に河内平野を見下ろすミニロックガーデン的な岩尾根もあって楽しかった。大阪側からは30分ほどで岩屋峠に帰った。


08 岩橋山(659m) B  <1999.01.30>

(いわはしやま) 葛城山と二上山のほぼ中間点にあって、やや尖った頭をもたげる山。
 山名は
「久米の岩橋」と呼ばれる大岩があることに由来する。『日本名勝地誌』河内國葛城山の項に「有名なる岩橋は峰続きの北半里(白木村大字平石より東南二〇町)の処に在り。橋の長さ七尺、幅五尺ばかりにして橋上に板を架したるがごときもの四、その両端はやや隆(たこ)うして欄基の容(かたち)を為し、形勢は南峰に及んとして其南端欠け落ちたるものの如し、俗に伝えて言う太古 一言主(ひとことぬし)ノ神夜間此橋を造り工半ばに至らずして止みしものなり…」とある。
 『大和名所図会』などにも「役行者が葛城から大峰へ通う橋を架けることを諸神に命じたが、容貌の醜い一言主が昼間働かなかったので完成しなかった。行者は神を呪縛して深谷に押し籠めた」という伝説を載せている。 他にも山中に巨石が多い。西山麓登山口の平石には、南朝方の武将平岩茂幸が足利軍と戦った時に拠った平石城址がある。

 奈良側からこの山に登るには普通、竹内から兵家浄水場を目印に進み、急坂を登り岩橋峠を目指すと1時間30分程で頂上である。私たちは1999年1月に弥宮ノ丘公園と廃村・伏越の分岐に車を置いて登った。沢沿いの急登で、最後の水場から山腹を捲くようになるとすぐ岩橋峠だった(分岐から1時間)。あとは標高差100m足らずの木の階段登り。急登だが気持ちの良い登りを15分ほどで頂上。展望は木の間からチラチラと河内・大和両平野、葛城山などが見えるだけ。同じ年の6月今度は大阪側から登った。平石の集落の外れで右に林道が分岐する。 林道に入ってすぐの分岐を左に入り、尾根道の踏跡を登ると岩橋に通じる。近くに鍋釜石、鉾立石もある。岩橋から少し登ると頂上のすぐ南側に出た。この道は分かり難く、結構時間がかかった。岩橋へは、林道を少し歩いた先の分岐から岩橋峠経由で頂上に登った後で、下って行く方がよいようだ。


09 大和葛城山(960m) B <1962.05.13>

(やまとかつらぎざん) 御所市の西に大きくそびえる、古くから役行者の伝説で知られる信仰の山である。同じ名の山が和泉山脈にもあるので(和泉葛城山と南葛城山)、区別するために大和葛城山と呼ばれることが多い(まれに北葛城山ともいう)。山頂部はなだらかな斜面で、芝草とススキに覆われている。また山頂の南には花の季節に山を紅に染めるツツジの大群落がある。元来、葛城山(葛木山)は、二上山から葛城山、金剛山にかけての山域全体の総称であり、現在の葛城山は古くは戒那山と呼ばれていた。
『大和名所図会』に「南遊紀行に曰く」として、「葛城の北にある大山(おおやま)をかいなが嶽といふ。河内にては此を篠峯(しのがみね)と号す。篠峯を葛城山といふはあやまりなり。葛城は金剛山の峯なり。」とある。今、東山麓のロープウエー登山口駅前にある不動寺は、空海が不動尊を刻んで堂を建て戒那山安位寺と称した所で、室町後期の不動石仏で名高い。付近には戒那千坊という地名が残っている。 『大和志料』には「戒那山・葛城山ノ支峰ニシテ一ニ天神山ト称ス、山中ニ瀑布アリ」と記されている。天神山の名は、現在のロープウエー山頂駅近くに天神ノ森、天神社があることが起源と思われる。
 葛城の地名(元の読みはカズラキ)については、
『日本書記』に「高尾張邑(たかをはりのむら)に土蜘蛛あり。その為人(ひととなり)、身短くして手足長し。(中略)皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城という」という神武東征説話がある。また古代神道で葛の蔓を結んで神籬としたことが、謡曲『葛城』に「標(しめし)を結いたる葛なるを、この葛城山の名に寄せたり」と謡われている。『大和名所図会』には「金剛山土産(こんごうせんどさん)」として、「防巳藤(ふじかづら)。物を束(つか)ねて結(ゆ)ふに縄に代る。かつらぎの名義ここに起る」の記述がある。今も奈良側から水越峠に登る車道周辺を始め、藤や葛の植生が多い。
 水越峠は葛城山と金剛山の間にあり、大阪と奈良の府県境でもある。江戸時代に大和側の山麓の名柄の少年、上田角之進が、河内側の谷水を土嚢を積んで大和側に落とすようにして以来、近年まで文字通り水が峠を越えていたのである。元禄時代にはこの水を巡り、大和と河内で激しい水争いがあったという。

この山は、私達夫婦にとってはホームグラウンドともいえる山で80回ほど登っている。いくつもの登山路があるが、代表的な3コースを記す。
ジョウモンノ谷(深谷)道 ロープウエー登山口駅横を直進して山道に入り、櫛羅(くじら)の滝、行者の滝を経てヒノキや杉の植林の中を登る。尾根道から谷の源流部になると、涸れ谷の左岸を行く。ツツジ園に登る道を分け、少し先で右に分岐する道を登れば天神ノ森。ここから北斜面を約一時間で一周する自然観察路がある。左に広い道を行くと白樺食堂前に出る。右へ数分でなだらかな草原の山頂。大和・河内平野を見下ろし、すぐ近くの金剛山から右に紀泉高原の山々、左に台高、大峰などの大展望が得られる(1時間45分)。 青崩(あおげ)(天狗谷)道 青崩の集落を抜け谷沿いの道を行く。細くなった流れを離れ、急坂のジグザグを繰り返して、尾根上のベンチのある所にでる。右に折れて少し登ると勾配が弱まり、雑木林の山腹を捲くほぼ水平な道を行く。弘川寺からの道と合し、直角に右に登る。緑に苔むした杉林の木の根道で、間もなく頂上すぐ下のキャンプ場に着く(1時間45分)。 水越峠からは短い急坂を登り、樹林帯に入り石畳道を登る。二度ほど急な木の階段道があり、笹原から杉林の中に入る。左右に河内、大和平野を見下ろす開けた所から雑木林に入り、それを抜けるとツツジ園の下に出る。左へ捲き道で国民宿舎前。右はツツジの中の直登で、時間的に大差なく山頂に通じている(1時間15分)。   

10 金剛山(1,125m) B  <1951.1.25>
 
(こんごうさん) 大阪・奈良府県境の金剛山地主峰。古くは葛木山と呼ばれ役行者開基といわれる修験道の聖地であった。
 山頂に葛木神社、転法輪寺、国見城址などが残る。また大阪側の千早には、南北朝時代に後醍醐天皇の皇位継承に伴い足利氏と戦った楠正成の拠点とした千早城址がある。大阪側にロープウェーもかかり、大勢の登山者で賑わう。特に冬季・霧氷の時期には学校などの集団登山も盛んである。また、山頂社務所前の登山回数表示板で知られる回数印を楽しみに
毎日登る人も多い。1万回も山頂に立った人がいるのに、私たちは過去50回ほどに過ぎない。

登山路は西の大阪側、東の奈良側から合わせて30以上のコースがある。私たちが登ったのは、大阪側では千早本道(1時間40分)、ロープウェイ前から伏見峠経由(1時間45分)など、また奈良側では郵便道(3時間。昭和10年に山頂の葛城神社が今の建物になってから終戦直後まで、郵便屋さんが奈良側から社務所に郵便物を運んだルート)、 石ブテ尾根(3時間。金剛山北面のバリエーションルートの一つ、豪快な登りで一気に高度を上げて大日岳に達する)、北尾根(2時間30分。奈良側の一般的なルートで下山路として使われることも多い)、パノラマ道(ダイアモンドトレール。 2時間30分。水越峠からの一般的な登路だが、以前に比べて樹木が茂りかなり展望が悪くなって、名前には少しそぐわない気もする。)太尾(2時間10分。国道309号水越トンネル近くの石筆橋から太尾塞、大日岳経由で山頂社務所へ)などである。 



11 神福山(792m) B  <1959.01.25>

(じんぷくざん)
 屯鶴峰から槙尾山までの間はダイアモンドトレールと呼ばれる、全長45kmに及ぶ自然歩道として整備されている。このうち金剛山と紀見峠の間15kmは、金剛山南尾根と呼ばれる独立した縦走コースとして人気が高い。
 普通は南海高野線の紀見峠駅から北上することが多く、紀見峠を過ぎた山の神でダイヤモンドトレールに入りタンボ山、行者杉峠、千早峠、高谷山、中葛城山、久留野峠、伏見峠、…といくつも峠やピークを辿っていく。
 神福山は、このコース上の行者杉峠から北へ約700m、足元を金剛山トンネルが通り抜けるところから木の階段道を登りつめたところにある。山頂は縦走路から少し細い道を登った小広場で、大澤寺奥の院と笹尾(高天佐太尾神社)神社の祠がある。ここには楠正成の笹尾塞があったといわれている。なお、神福山は大澤寺の山号である。

 この山だけを目的に登ったことはない。金剛山南尾根縦走中に、何度か通過しただけである。


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