奈 良 百 遊 山(9)



大峯山系エリア(2)   

86 稲村ヶ岳(1726m) C <1975.06.07>

(いなむらがたけ)山上ヶ岳から西に延びる支脈上にある。古くから女人禁制ではなかったが、大峰山(山上ヶ岳)との峰続きのため女性の登山は忌まれていた。「女人大峰」として正式に禁制が解かれたのは戦後のことである。
 かって「稲村嶽」と呼ばれたのは現在の大日岳で、1726m最高峰とはキレットで隔てられている。
『和州吉野郡群山記』に
「稲村嶽は、高山の上に直立せる奇峯にして、遠くよりながむれば、山上嶽の西に細く尖りて、山上嶽と相並びたり。かかる聳えたる山は、近国にはまれなり。近くして山体を見れば、南西の方、山半ばより土なく、大なる巌石なり。……(頂上近くは)坂極めて急にして、梯をたてたるがごとし。木の根を取らへて登る。」と記され、山頂に大日如来を祀る祠がある。

洞川から法力峠を経て登る現在の登山道は、昭和初年に赤井五代松が独力で開いた登りやすい道である。途中に彼の偉業をしのぶ名を残す「五代松鍾乳洞」がある。小屋やトイレのある山上辻で山上ヶ岳への道を分けると大日キレットで、周辺と稲村ヶ岳南斜面にかけてシャクナゲが群生している。山頂には展望台があり、目前の山上ヶ岳をはじめ大峰山脈北部を中心とした大展望が得られる。

初めて訪れたときは、五代松鍾乳洞を見学後、山上辻にでて南面のシャクナゲ鑑賞路から登頂。稲村小屋に一泊して翌日、山上ヶ岳へ登った。78年は10歳と8歳の子供たちと洞川の蟷螂窟前にテントを張りピストン。シャクナゲ鑑賞路は鎖場やトラバースがあるのに子供たちも頑張ったものだ。下山後、ローソクを灯した子供の案内で蟷螂窟を見学した。その後も何度か登ったが、五代松鍾乳洞か母公堂経由の道ばかりである。清浄大橋からレンゲ谷を詰める道は、一度下りに使った。


87 大普賢岳(1780m) C <1994.05.14>

(だいふげんたけ) 大峯奥駆道は山上ヶ岳から東へ約2キロの小笹宿で女人禁制区間を終わる。次いで阿弥陀ヶ森近くで南へ方向を転じて、3キロで大普賢岳に至る。奥駆道は山頂を西側の山腹を捲いているが、5分ほどで達する頂上からは山上ガ岳の宿坊まではっきりと望める。さらに稲村ヶ岳の間には金剛・葛城の山々、南には奥駈道上の行者還岳、弥山、八経ヶ岳、行仙岳、笠捨山…と見飽きることがない。奥駆行所(第六三番普賢岳)の勤行は本峰北にある小普賢岳で行われている。普賢岳の名は、ここでの礼拝対象の普賢菩薩からきている。

大普賢岳山頂から東に延びる尾根は笙ノ窟尾根といわれ、伯母峰峠に続く。笙ノ窟尾根の山腹には、鷲ノ窟、笙ノ窟、朝日窟、指弾ノ窟などが連続しているが、中でも笙ノ窟は平安時代から冬籠り修行の場として知られる。『吉野郡群山記』に
「窟の内広き事、二十畳ばかり。水湧き出る処有り。修行の僧、九月九日山止りの節より、飯菜等を用意し、来年四月八日まで籠るを、冬籠りの行と云ふ。冬に至れば、巌谷の外は白雪積りて、往来なしがたし。…」とある笙ノ窟は六二番靡(行所)である。

これまでに5度(♀ペンは3度)登ったが、2度は奥駆山行の途中である。他3度は和佐又ヒュッテから笙ノ窟、石ノ鼻(岩頭の展望台)を経て登った。この登山道は年々、整備が進められて鉄梯子や桟道が増えているが、かえって登り辛く危険な気がする。


88 和佐又山(1344m) B <1994.05.14>

(わさまたやま) 吉野郡上北山村。大普賢岳から笙ノ窟を通り南西に延びる尾根上にある。大台ケ原ドライブウェイから大普賢岳手前に見える、整った三角形の山である。山麓の和佐又高原には和佐又ヒュッテや和佐又スキー場があり、夏の林間学校、冬のスキー客で賑わう。国道169号線の新伯母峰トンネルを出たところから、高原に向かって谷沿いに林道が走っている。この谷が和佐又谷で、「天然ワサビを産することからワサビ又谷の転訛したものだといわれる(大和青垣の山々)」

車でヒュッテまで林道を登ると、あとは標高差約200m、わずか30分ほどで山頂である。山頂からは弥山、大普賢、孔雀岳などを望むことができる。私たちは大普賢への途中に、一度立ち寄ったに過ぎない。


89 七曜岳(1584m) C <2004.09.25>

(しちようだけ) 天川村と上北山村との境に位置する奥駆道の通る山である。大普賢岳を過ぎて水太覗(みずふとのぞき)の絶壁を過ぎると、しばらく笹原の平坦地を行く。やがて弥勒岳(六一番)があり、ここから「内侍落とし」「薩摩ころび(薩摩こけ)」の岩場の難所を通る。急斜面を下った稚児泊から国見岳、七つ池(山中の窪地)を過ぎて、岩場を登ると第五九番行所がある七曜岳山頂である。「国見七曜」とも呼ばれる通り、素晴らしい展望が得られる。特に西方の稲村ヶ岳やバリゴヤノ頭は絶景である。

2006年夏、和佐又ヒュッテから大普賢岳に登ったあと、七曜岳の少し先で奥駆道の通る稜線を離れ水太谷へ標高差600mを下った。降り立った谷の右岸に石灰岩にうがたれた上下二つの鍾乳洞「無双洞」がある。長さ100mにも達するといい、下の穴からは清らかな水がどうどうと湧き出ていた。高さ20mの水簾ノ滝の落ち口を対岸に渡り、水太谷源流部の涸れ谷から急な登りになる。急勾配の岩壁に鎖がつけられているが、適度に大きなホールドがあって鎖に頼るほどでもなく登り切ると「底なし井戸」があった。縦穴石灰洞窟で深さ30mあり、底には落ち込んで死んだ動物の白骨が散乱しているそうである(森澤義信氏「奈良80山」)。ブナの木が多い峠から水平道をうんざりするほど歩いて和佐又ヒュッテに帰り、名物のシカ肉やアマゴ料理にありついた。


90 行者還岳(1546m) B <1998.09.20>

(ぎょうじゃがえりたけ、又ぎょうじゃがえしたけ)
七曜岳から鞍部にくだった奥駆道が、次に登り返すのが行者還岳である。大台ヶ原から見ると烏帽子型の峰が南に倒れかかったような特異な姿で、である。山頂の南側が垂直の断崖となって落ち込んでいるためで、その険しさに役行者でさえ引き返したという言い伝えが山名の由来である。
西行の『山家集』に
「屏風にや心を立てておもひけむ行者はかへりちごはとまりぬ」の歌がある。この歌の前に「屏風立て」という地名がでてきて、この難所を思い悩むであろう「宿」として「ぎょうじゃかえり」と「ちごとまり」の名を記している。「屏風立て」は七曜岳から弥勒岳にかけての岩場を指すのだろうか。天川村と上北山村を結ぶ道は、かっては行者還岳を南に下った「北山越」(天川辻)で大峰山脈を越えていたが、現在は国道309号線がさらに南の「行者還トンネル」で両村に通じている。

1998年9月、天川村側の神童子谷と布引谷の合流点・大川口から関電巡視路を登った。吊橋を渡りヒノキ林の中を急登。ジグザグを繰り返して4つ目の鉄塔の立つ小さなコブの上にでる。少し尾根を登り、右に捲くように進む。また二つ鉄塔を見る。涸れた沢を三つほど越す。苔むした岩や倒木が多く、深山幽谷の趣。岩から水が滴っているところや、道が崩れてワイヤーが張ってあるところがある。危なっかしい桟道をいくつか通り、尾根を緩く登る。ブナやシャラの大木が散在する自然林の中に行者還小屋の青い屋根が見えた。大峰奥駆道(縦走路)に出るところにも、とどめのように鉄塔が建っていた。奥駆道を北へ行くと、すぐ岩盤に細い滝のかかる水場に出る。そに右の長短3つのハシゴを登り、笹原の急坂を登る。林に囲まれた小台地に三角点と大きな錫杖の形の山名板があった。
正面に弥山などが見える筈だが、この日は小雨模様で無展望だった。

奥駆山行のときも雨の中で、展望にはついていない山である。なお、行者還小屋は2002年に建て替えられた。


91 八経ヶ岳(1915m) 別名・八剣山、仏教ヶ岳   C   <1994.07.10> 

(はっきょうがたけ) 大峰山脈の中央部、弥山の南側にある。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰である。山頂に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっている。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されている。
八経ヶ岳は現在こそ登山者の人気が高いが、古くは弥山を中心とした「山上」の一高所で、弥山に比べるとそれほど重要視されていなかった。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、
「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけである。記述の中心はあくまでも「弥山」で、山の様子、宿の紹介、弁財天奥社、伝説まで詳細に記している。現在でも両山の位置関係などで、殆どの場合は弥山とあわせて登ることになる。

1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがある。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで来て引き返した。

94年はオオヤマレンゲを見るのが目的で、行者トンネル西口からふたりで登った。谷沿いの道から直登して奥駆道の通る稜線にでて、理源大師像の立つ聖宝ノ宿跡からは聖宝八丁と呼ばれる急な登り。弥山小屋前でしばらく休み、八経ヶ岳に向かった。清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せてくれた。幻の花を心行くまで鑑賞できた山行だった。

11年後の2005年秋、JACの山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡った。聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていた。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていた。ただ、山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものであった。


92 釈迦ヶ岳(1800m) C <1999.07.31>

(しゃかがたけ) 山頂にある釈迦如来の銅像で知られるように、古くから釈迦如来が祀られていた。昔は金の如来像が釈迦堂に安置されていたという。この山の南にある神仙ノ宿は修験道の重要な聖地で、これより北は蔵王権現の支配する金剛界、南は熊野権現の胎蔵界になぞらえた大峯の中心とされてきた。従ってこの山には、多くの靡き(行所)が点在している。

山頂からは富士山が見えるという記述が『吉野郡群山記』にある。 曰く
「釈迦嶽は大山にして、群峰の上に出る。南に大日嶽、千種嶽相並び、北に楊枝の大山有り。西に群れ、七面山有り。常に雲霧起り、晴日稀れなり。晴るれば、頂上より西に当りて、紀州の海・四国・九州を眼下に見る。南は、南海を過ぎる船の帆かすかに見え、熊野の諸山見ゆ。北は、大和国中の諸山、山城の山々、大峰通りの諸山、山上嶽は楊枝の山に支へられて見えず。その外は、大台山を始めとして、東は伊勢・尾張・駿河の海を望み、晴天のあした日未だ出でざる頃、駿河の富士山、海中に見ゆ。」
たしかに奈良県下第三の高峰だけに、期待に違わぬ素晴らしい展望が得られる。
釈迦ヶ岳の東南には三五番行所の大日岳が聳える。鎖のある一枚岩を登る修行場だが、捲き道もある。山頂には大日如来像が鎮座している。また、東山麓の前鬼には三重滝と呼ばれる裏行場がある。

釈迦ヶ岳へは三つの登山道が利用できる。最も簡単には十津川側からの旭ダム近く、不動小屋谷林道の登山口から登る。06年に登った時は登山口が以前より林道奥になり、立派なトイレや駐車場も設けられていた。ここからは尾根伝いに古田の森や千丈平を経て2時間強で頂上である。頂上北側のオオミネコザクラを見た後、大日岳にも登ってゆっくり往復できた。

逆峰(吉野から熊野へ)で奥駆けした折は、孔雀覗きから見た十六羅漢、五百羅漢などの岩峰群や、最低鞍部から見上げる鋭三角形の山容(上の写真)が見事だった。

最も印象に残るのは前鬼の宿坊・小仲坊に泊まり、両童子岩を見ながら太古ノ辻に登った時である。ちょうどシャクナゲの時期で、緑の山肌がピンクの模様で染め上げられた美しさは幻のようだった。


93 小峠山(1100m) C <2006.05.14>

(ことうげやま)大峰山系孔雀岳から東に派生した尾根上のピークである。大峰主脈上にないので、このページに記した他の山に比べ知名度が低い。しかし大普賢岳から南の主脈上の山々や五百羅漢の奇峰群を眺めるには絶好の展望台である。池原貯水池を見下ろしながら、短時間で登れるのもうれしい。

JAC例会で、一般参加も含め24人の大パーティで登った。池原ダム湖に臨む水尻集落から登り始め、樹林帯の急登で尾根に出る。傾斜が緩み、小さいコブを二つ三つ越していく。尾根道のあちこちにシャクナゲが美しく咲き、新緑の中にミツバツツジやアケボノツツジなどが美しいアクセントとなっていた。再び急な登りで926mピークに出る。左手眼下に幾重にも重なる山々に抱かれるようなダム湖が美しく望めた。小さなコルに下って登り返すと、左側は大きく開けた伐採地になる。ネット沿いに転石混じりの少し歩きにくい道を登る。山頂は三方が樹林に囲まれて西北側だけが開け、中央に釈迦ヶ岳、その左に大日岳の尖鋒が見える。5分ほど先にある中峰といわれる最高点…といっても僅か1mほど高いだけ…からは孔雀岳、釈迦ヶ岳、大日岳から続く大峰奥駈道が涅槃岳、行仙岳(頂上のアンテナもくっきり)、笠捨山…そしてずっと左に玉置山まで連なりを見せていた。登山口から僅か2時間、美しいシャクナゲに囲まれた頂きだった。


94 笠捨山(1352m) C 別名・千種岳、仙ヶ岳   <2005.06.11>

(かさすてやま)
三角点のある西峰と、マイクロ反射板の立つ東峰からなる双耳峰である。「笠捨」の名は山の形状から来たものと想像していたが、「西行法師があまりの淋しさに笠を捨てて逃げた」ことが由来という十津川の昔話があるという(森澤義信氏『新日本山岳誌』)。また、『大和名所図会』には「千種岳に至る、一名仙嶽といふとぞ。また笠捨山ともなづく姥捨山に連なるをもって名とするなり」とあるが、姥捨山とは現在のどの山か、また「笠捨」とどう関連するのか、私にはよく分からない。

2005年梅雨入りの日にJAC奥駆山行で笠捨山を通過した。貸切バスで浦向から425号線を上って未舗装の四ノ川林道に入り、登山口に来る。行仙小屋への補給路となっているジグザグの山道を登ること50 分で稜線の行仙小屋に着き昼食。午後は何度かアップダウンを繰り返して笠捨山西峰に立つ。新しい神仏の石碑と二等三角点があった。行仙小屋から1時間半だった。この日は笠捨山から玉置山へ、さらに5時間雨中の縦走を続けた。

笠捨山から古屋宿間の奥駈道は江戸時代には現在の稜線通しの道でなく、笠捨山から熊谷ノ頭を経ていったん上葛川に下り、ここから古屋宿に登り返していた。(森澤氏『大峰奥駈道七十五靡』)06年11月、森澤氏をリーダーとするJAC例会でこの江戸道を登った。
 上葛川の民宿で一泊、葛川対岸の斜面に付けられた道を登る。支尾根にでて西側山腹をトラバースして稜線を東側に乗越す。展望が開け、熊谷ノ頭や蛇崩山が見える。1040mピークを越えて壊れた作業小屋のあるコルに下り、丈の低い笹原の斜面を右手の樹林帯に沿って直登すると熊谷ノ頭である。右に延びる尾根上の蛇崩山へ寄り道(往復45分)したあと、左の笠捨山へ。緩やかなアップダウンから傾斜が強まり、露岩の散らばるピークを越して行く。最後は笹原の中の胸を突くような急坂を登ると、笠捨山東峰の広場に飛び出した。釈迦ヶ岳から奥駈道が通る山々がこちらに向かって続き、七面山、中八人山も霞んでいた。狭い西峰から南へ。槍ヶ岳への登りにかかる手前の葛川辻で奥駈道を離れ、上葛川に向けて下った。


95 玉置山(1076m) 別名・沖見嶽、舟見山   A <1994.07.09> 

(たまきやま) 大峰山脈の最南部にある信仰の山である。別名の通り、山頂からは熊野灘を望むことができ、三角点横の祠に沖見地蔵が安置されている。また山頂から南東へ延びる尾根を約45分辿ると宝冠ノ森がある。ここは一時、南奥駈道最後の行所と言われていた。これは江戸後期に入って逆峰が一般的となり、玉置山から本宮までを歩かずに玉置山から竹筒に出て、北山川を舟で新宮に下ることが多くなったためである(森澤義信氏『大峰奥駈道七十五靡』)。(写真は山頂より宝冠ノ森)

山頂を南に下った山中の台地に、杉の大木に囲まれた玉置神社が鎮まっている。神社と山頂との間には山名の由来になったと考えられる玉石神社がある。玉置神社は十津川郷の総氏神であり、熊野権現の奥の院とされている。周辺の原生林は神域として伐採を禁じられてきたので、樹齢千年といわれる神代杉をはじめ巨大な老杉が残されている。十津川村折立から玉置神社へは古くから参詣道があった。現在は神社の駐車場まで林道を車で上ることができる。私たちも何度かこの道で安直に登った。駐車場から山頂までは30分強である。

2005年6月、奥駆山行最終回で玉置神社に泊めて頂いた。朝食後、井上宮司さんの説明で重要文化財の襖絵を見学させて頂く。狩野派の絵師による花鳥図は華麗で、よく保存されていて色鮮やかである。三柱神社で祝詞とお祓いを受けた後、杉林の中を玉置山山頂へ登る。熊野灘は見えなかったが、遠く雲海に浮かぶ山々、近くは濃緑の宝冠ノ森があるピークと、胸のすくような爽快な眺めであった。この日は大森山、五大尊岳、大黒天神岳を経て夕刻、熊野川の畔に下り、吉野から140qに及ぶ奥駈道山行を終えた。<奥駆道山行の詳細はこちらに>

2006年11月、宝冠ノ森を訪ねた。山頂からシャクナゲの林を下ると左は花折塚へ右は玉置神社への道を分ける十字路で、勧業山の碑と大きな案内図がある。直進してなだらかに登るとミズナラやアセビの茂る1064m峰で、これを下った鞍部から登り返して1057mピークに立つ。二股に分かれた道を左に行くと100mほどで見晴らしの良い絶壁の上にでた。中八人山から笠捨山、蛇崩山、西峰に続く山々が一望され、右下に目指す宝冠ノ森が紅葉の山肌を輝かせている。分岐を右に行くと急坂の下りになる。大きな一枚岩に鎖が下がっている処を下りきるとキレット状になり、少し登り返すと美しいブナやミズナラの林の中に入る。大きな岩の上に碑伝が打ってあるところが宝冠ノ森である。少しし先の断崖の上まからは先程見た山々と、蛇行する熊野川が望めた。行所に帰り、手を合わせ般若心経を唱えた。



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