奈 良 百 遊 山(6)



宇陀高原エリア(2)   

50 住塚山(1009m) B <1970.12.13>

(すみつかやま)  奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境界にあり、室生火山帯に属している。『大和名所図会』では、屏風嶽として「今井村にあり。山形峭壁し林木叢茂す。屏風の如し。因って名とす」と記されている。今、屏風岩と呼ばれる所は山頂から東に延びる尾根で、南側が鋭く切れ落ち、高さ100〜200m、長さ1.5qにわたる大岩壁となって続いている。断層活動により生じたもので、石英安山岩より成る柱状節理を示し、国の天然記念物に指定されている。周辺は屏風岩公苑として整備され、桜の名所でもあり花の時期は賑わう。

 屏風岩公苑へは曽爾村長野から約1時間。山頂へは公苑を横切るように屏風岩の裾を西に辿り、ヒノキ林の中を急登して尾根に出て、「一ノ峰」コルから頂上に至る。山頂からは国見山、鎧岳、兜岳、倶留尊山、古光山などの曽爾の山々を初め、高見山、三峰山などが遠望できる。
公苑から山頂まで45分。山頂から北へ向かう稜線は、ゼニヤタワと呼ぶ鞍部に下る。登り返せば露岩もある痩せた尾根になり、国見山(1016m)に至る。ゼニヤタワから左の谷を下れば、室生と曽爾を結ぶ東海自然歩道に出る(山頂から45分)。ここから室生寺へは約1時間30分。一般に、住塚山はゼニヤタワから急登20分ほどの所にある国見山とあわせて登られることが多い。

 1970年、72年は長野から歩き始め屏風岩、住塚山を経てゼニヤタワから国見山を往復、宇野川橋へ出て室生寺まで歩いている。77年は国見山からクマタワに下りているが、ブッシュが多くて子供達は手こずっている。 90年は屏風岩公苑まで車で入れるようになって便利になった。しかし屏風岩の稜線はブッシュがひどく歩けなかった。2005年秋、 屏風岩公苑に車を置いて住塚山、国見山、松ノ山、クマタワ、林道川根線をへて若宮峠へ。ここから一ノ峰へ稜線を辿って、屏風岩公苑へと一周した。屏風岩上を通る道は、注意すれば危険なく歩けるようになっている。


51 国見山(1419m) B  <1970.12.13>

(くにみやま) 奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境にある。全国に散在するこの名称の山は、為政者が登って自分の勢力範囲を見渡したことから付けられたものと思われる。
 『大和志料』に「神武帝ノ八十梟師(やそたける)ヲ誅シ給ヒシ国見丘ハ則チ此処ナリと云フ」とあるのは、『日本書紀』神武記に「天皇、彼の莵田の高倉山の巓(いただき)に登りて、域(くに)の中を瞻望(おせ)りたまふ。ときに国見岳の上に則ち八十梟師(やそたける)有り。……先ず八十梟師(やそたける)を国見丘(くにみのおか)に撃ちて、破り切りつ」という記述を指す。しかし日本書紀の国見岳、国見丘を現在の国見山と見なすには、前後の記述から地理的な無理がある。(1899年刊飯田武郷『日本書紀通釈』では高倉山を高見山、国見丘を龍門山塊の音羽山ではないかという説を述べている)
 『大和名所図会』には「国見嶽。伊賀見村にあり。勢・伊の二州に跨(またが)る。山勢高く聳えて巉々(ざんざん)(高く嶮しい)たり」とある。確かに
国見の名にふさわしく、頂上からの展望は雄大である。倶留尊山、古光山など曽爾の山々を初め、台高、大峰、吉野の山々なども遠望することが出来る。

 住塚山と一緒に登られることが多い。住塚山山頂から北へ尾根道を進むと、いったんゼニヤタワの鞍部へ下る。ここから痩せた岩稜を登ると国見山である
(住塚山から45分)。更に北へ進むとと松ノ山のピークを越えて東海自然歩道の通るクマタワに下る。左を取れば室生、右は曽爾へ通じている。曽爾への途中にある済浄坊渓谷は、隠れた名勝地である。(上の住塚山とあわせてご覧ください)


52 兜 岳(920m) B <1962.10.21>

(かぶとだけ)  奈良県宇陀郡曽爾村にある室生火山群の一峰。東隣に並ぶ鎧岳を雄嶽と称したのに対して、雌嶽と呼ばれた。鎧、兜の名称は、形状を武具に見立てたものである。どちらも青蓮寺川に面した南側に大岩壁を露わにして偉容を誇っている。青蓮寺川沿いには柱状節理の岩が多いが、1000万年前の室生火山の爆発によるマグマの痕跡という。鎧・兜に屏風岩を加えて「曽爾三山」と呼び、1934年、国の天然記念物に指定されている。兜岳、鎧岳とも、急峻な東側に反して西側は比較的緩やかで雑木に覆われている。
 兜岳の西側を、県道784号が走っている。かつての今井林道、更に古くは椿井越えといわれ、曽爾と名張を結ぶ重要な道であった。今井から北に登ると、何段にも分かれて兜岳の岩裾を洗う「長走りの滝」がある。名張、曽爾の市村境が赤目出合茶屋で滝川が流れている。川沿いに西へ下ると名勝・赤目四十八滝で、大小の滝が約4qにわたって続き、オオサンショウウオの棲息地として知られる。また、出合茶屋を東へ進むと小笹峠を越えて青蓮寺川沿いの落合に出る。青蓮寺川の両岸には、この辺りから北へ6qにわたって、柱状節理の大岩壁や奇岩が続き、香落渓と呼ばれる名勝となっている。

 曽爾村横輪から赤目掛線を北へ45分で、目無し地蔵がある。ここが登山口で、右へ露岩混じりの急坂を登る。途中に大岩があり右側の展望が開けるが、頂上は雑木林の中で無展望である。
頂上まで目無し地蔵から45分。


53 鎧 岳(894m) B <1962.10.21>

(よろいだけ)  奈良県宇陀郡曽爾村にある。隣り合う兜岳より標高は低いが、やや背を傾げて屹立する姿はよく目立ち、兜岳の雌岳に対し雄岳と呼ばれた。『大和名所図会』に「雄嶽。葛(かつら)村にあり。一名鎧嶽という」とある。露出した柱状節理の岩肌を鎧のくさずりに見立てた名称である。岩壁は南に面して三段からなり、この辺りに多い柱状節理の中でも屈指の大岩壁で、特に青蓮寺川沿いの岳見橋から仰ぐと、鎧をまとった偉丈夫を思わせる堂々たる姿である。
 西側の兜岳との間が峰坂峠である。この峠を北に越すと布引谷に出合う。谷を左に遡ると落差30mに近い布引滝がある。また右(北東)に下ると、県道81号の通る落合にでる。ここから1q弱南にある小太郎岩は、幅約700m、高さ約200mの垂直の岩壁。「小太郎落とし」の伝説が残り、かつては岩登りのゲレンデとしても有名であった。
 
 曽爾村葛から逢坂峠に至り、右に折れてヒノキ林の中を登る。頂上東側の切り開きから倶留尊山、古光山が望める。頂上から北に延びる稜線を辿ると清水山に達する。途中のコルに北東側から林道を経て登る道が来ているので、これを登っても良い。
 
 
兜岳と鎧岳を結ぶ道は、1962年(昭和37)にはヤブ漕ぎとルート探しにかなり苦労して、なんとか尾根通しに歩くことができた。 96年11月に34年ぶりに登ったときには、稜線にしっかりした踏み跡があった。3度目の2005年5月には登山道の随所に立派な道標が設置され、道も広くなって歩きやすくなっていた。


54 倶留尊岳(1038m) B <1969.05,25>

(くろそやま)  奈良三重県境に連なる室生火山群の主峰で、山の西側は奈良県宇陀郡曽爾村、東側は三重県一志郡美杉町にある。奈良側はなだらかな地形だが、三重側からは荒々しい岩壁の様相を見せる。亀山峠から倶留尊山へ急な尾根道を登ると「二本ボソ山」(996m)に達する。頂上東側の鰯ノ口展望台に下ると、その地形の一端を窺うことができる。また池の平を見下ろし、正面に尼ヶ岳、大洞山、さらに局ヶ岳、学能堂山と見飽きることがない眺望が得られる。 倶留尊山山頂は広く開けた台地だが、展望は二本ボソに劣る。
 倶留尊山の名は、自然信仰の名残と思われる倶留尊石仏から来ている。草原が緑もえる春も良いが、やはり曽爾高原のススキが銀色に波うつ秋が登山の好季である。(現在、この山に登るには入山管理料 500円が必要である)。


 
名張駅からバスで太良路(たろうじ)または「少年自然の家」下車。1時間で曽爾高原入口に着くお亀池を横に見て、ススキの中に付けられた道を亀山峠に登る。左に折れて開けた尾根道を登り、樹林帯になると入山協力費を徴収する小屋がある。さらに登ると二本ボソからは、いったん岩稜を標高差80mほど下り、鞍部から樹林帯の中を登り返す。上り下りともロープの張ってある急坂である。高原入口から山頂まで1時間15分。


55 亀 山(849m) B <1969.05.25>

(かめやま)上記、亀山峠の南にある草原状の山である。形状がカメに似ているので名付けられたと聞いたことがあるが、定かではない。山頂からは眼下に「お亀池」を抱いた曽爾高原が広がり、正面に屏風岩の岩峰や、住塚、国見、鎧、兜と続く山々の展望が素晴らしい。南には後古光山から古光山への稜線、遠く高見山の鋭鋒も望むことができる。
 亀山峠はかって太郎越とも呼ばれ、太良路(太郎生への道が通る意)から三重県美杉村太郎生(タロウ)に通じている。
峠を南に木の階段道を下ると三重県側への車道が通る長尾峠で、さらに古光山へ稜線を縦走することができる。
 瓢箪形をした「お亀池」には人魚伝説や大蛇伝説が残っている。周囲は800mほどあるが水深は約1mと浅く、低層湿原特有の植性が見られる。池の中にこれらの植物が枯れて推積してできた浮島がある。

 登路は「倶留尊山」の項参照。また曽爾高原入口に
有料駐車場がある。ここから約30分


56 古光山(953m) B <1997.03.04>

(こごやま) 奈良県曽爾村と御杖村にまたがる六つの峰から成る。太良路の集落が終わる辺りから「少年自然の家」へ向う広い道を見送り、右に折れる。登りきった峠がフカタワで、左の後古光山(892m)と古光山に挟まれているので、かって「はさみ岳峠」と呼ばれたという。
 右に滑
り落ちそうな急坂を登ると古光山に立つ。山頂は灌木に囲まれた狭い空き地で、三等三角点が埋まり、わずかに木の間から倶留尊山が見える。展望は、さらに南に厳しいアップダウンを繰り返した南峰の方が優れている。四峰と南峰(五峰)の間は短いが鋭い岩尾根を通過する。五峰からの展望は 、南東に三峰山のどっしりした山容、高見山。その右手遠くに大峰の山々が青く霞んでいる。東に住塚、国見山。その右の鎧、兜は、ここからだとあの怪異な姿に見えず平凡な形である。
 古光山は「ぬるべ山」とも呼ばれた。「ぬるべ」は「漆部」で、古代「漆部造(ぬりべのみやつこ)」が置かれたことから曽爾を「漆部の郷」という。山麓の塩井には「漆部」にまつわる伝説が残っている。

 太良路や塩井からの道があるが、私たちは大峠から登った。この峠を「みつえ高原牧場」へ通じる林道が越えている。登山口は「ふきあげ斎場」敷地内にあって、そこから杉林の中を頭上に見えるピーク目指して一直線の急登だった。 ここからも急な登下降の連続で山頂に立った。


57 学能堂山(1022m) B <1990.06.03>

(がくのどうやま) 奈良県御杖村と三重県美杉町にまたがる。三峰山から北に延びる支稜上にあり、楽能堂とも岳の洞とも書かれる、二等三角点の山である。ドーム型の山頂部はススキや笹で覆われて樹木が少なく、胸のすくような素晴らしい展望が開ける。北に倶留尊山と大洞山、尼ヶ岳、古光山。南には伊勢の局ヶ岳と高見山を東西に従えた三峰山が大きい。
 学能堂の名は、かって山頂に文殊菩薩を祭る祠があったことから、学芸上達を祈願する人たちの思いを偲ばせる。「御杖村史」には、
昔、能楽が催された山と記されている。三重側の美杉町で「岳の洞」と呼ぶのは「大の洞」(大洞山)と同様である。
 昭和48年刊の「大和青垣の山々」では、「大和最東端の山」として、「山頂に至る道らしい道が開かれていない」と記されているが、今は奈良県、三重県の両側からいくつかの登山道がある。

 私たちはかって杉平から水谷林道を経て県境尾根を登る道、神末から小須磨峠、白土山を経て登る道を、また2006年12月には神末から小須磨山(850m)、小須磨峠を経る道を登った。最後はカヤトの原の中、かなりの急登である
(いずれも1時間半〜2時間)。他にも払戸、笹峠から登る道があると聞く。 


58 黒石山(915m) C <1997.08.28>

(くろいしやま)御杖村にある。高見山で大きな高まりを見せた台高山脈は、さらに北へ延びて高見山北東1キロの地点で東と北に分かれる。北へ続く稜線は、天狗山(993m)、船峯山(938m)、黒石山(916m)、高山(893m)と次第に高度を下げながら差杉峠(西杉峠)に至る。黒石山は、この高見山北方稜線上の三角点峰のひとつである。
 頂上には三等三角点があるが、灌木に囲まれて無展望である。わずかに木の間から高見山が望見された。

  桃俣から西杉自然遊園を経て登る道がある(自然遊園から1時間半)が、踏み跡に近く藪漕ぎが必要かも知れない。私たちは天狗山経由で登った(次項参照)。


59 天狗山(993m) B <1997.08.28>

(てんぐやま)上記、黒石山と並ぶ高見山北方稜線上のピークである。登山口にあたる高角神社から南へ進み、急登で「小烏の尾」という尾根道に出ると、屏風岩から鎧・兜、倶留尊山、尼ヶ岳、大洞山と曽爾火山群の展望が開ける。尾根の左側は切れ落ちた絶壁になっている。山腹を直登して山頂にでる。ここも木立に囲まれ展望は期待できない。
 V字に折り返す形で北に向かうと、大天狗岩の下に出る。岩屑が崩れやすい急斜面を岩稜と灌木の根や枝の間をよじ登ると、中間のテラスがある。足元はオーバーハング気味の絶壁で、三峰山から高見山に続く稜線がすぐ前に見える。ここから見る高見山の北面は、見慣れた鋭鋒の姿と異なり、ゆったりした山容である。
大天狗岩の頂(933m)は灌木が茂り無展望。
 天狗山は、この岩の名前に由来すると思われる。いかにも天狗が好みそうな岩峰である。北へ稜線をたどると約1時間で黒石山に達する。
 
【参考コースタイム】高角神社<600m>8:20 …720m峰8:45…天狗山<993m>9:45〜9:55…大天狗岩<933m>10:25〜10:35 …船峰山<938m>10:45…黒石山<915m>11:30


 

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