奈 良 百 遊 山(5)



宇陀高原エリア(1)   

40 烏塒屋山(659m) B <2000.11.23>

 
(からすのとややま)榛原から南へ吉野に向かうと、正面に鋭い円錐形の美しい山が見えてくる。山頂は宇陀市大宇陀区と吉野町を分ける。宇陀は神武東征にちなんだ伝説の多い地で、榛原区に八咫烏神社がある。八咫烏は神武天皇が熊野から大和に入るときに、アマテラスオオミカミから使わされ道案内をした神で、烏塒屋山にも八咫烏伝説が残されている。山名の「烏」は「八咫烏」のことで、「塒屋」はねぐらの意味である。
 この山の北にある大蔵寺は、寺伝によると聖徳太子の創建。、空海が真言宗最初の道場と定めたことから「元高野」とも呼ばれた。

 2000年秋、下栗野の「老人憩いの家」に車を置き、土地の人に聞いた道を登った。里山の例にもれず道が錯綜して分かり難い。見通しの悪いヒノキ林の中を登り、尾根に出て左に折れる。頂上直下は伐採中で、倒木を迂回しながら急坂を登ると三角点にでた
(1時間)。小さい石碑と幾つかの山名板があった。北側だけが少し開けて伊那佐山の方が見え、南側は木の間から龍門ヶ岳や津風呂湖がチラホラ見える程度だった。今は伐採が終わり、状況も変わっていると思われる。


41 都介野岳(631m)  A  <1989.05.03>

 
(つげのたけ)奈良市都祁(つげ)南之庄町。大和高原にある低山ながら美しい円錐形の山容で、都介野富士とも呼ばれている。都祁は「闘鶏、竹谿」とも表記されたが、語源は櫛の材料で知られる「黄楊(つげ)」というのが通説である。都祁村の辺りは、大和朝廷以前に「都祁国」が栄えたところで、都介野岳はその神山として信仰の対象であった。北側からの登山口南之庄の近くに柏峰と呼ばれる丘のヒノキ林中に磐座(いわくら) がある。また、都介野岳の頂上にも磐座がある。古代中国の圓丘、方丘という考え方から、この頂上が圓丘で天の神を祀り、柏峰のものは地の神を祀ったのではないかという小川光三の考究がある。
 頂上磐座横に龍王神社がある。「りゅうおうさん」と呼ばれ、最近まで近在の人が雨乞いの行事を行っていたという。頂上からは北西側の展望のみが得られる。
 西南山麓に都祁山口神社がある。この辺りが都祁国の中心であったところで、各所にツゲが自生している。社の裏山にも「都祁直(つげのあたい)霊石」という磐座が祀られている。また、南之庄に三陵墓がある。直径40mの円墳で、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)の墓という伝承が残る。北西一qほどの友田には都祁水分(つげみくまり)神社があり、境内に「山辺の御井」、近くに、朝命で都介野を開拓した小治田安万呂(おはりだのやすまろ)の墓がある。

 南之庄から南へ行くと分岐があり、どちらからも山頂に至る。私たちは柏峰へ立ち寄るために右側から登った。
頂上まで約30分だった。


42 貝ヶ平山(822m) B <1976.05.16>

 
(かいがひらやま)奈良県櫻井市、奈良市都祁吐山町、宇陀市榛原区の三市境にまたがる、額井(ぬかい)火山群の最高峰である。南側から見る山容は鋭いが、西側から見ると横に長いゆったりした姿である。大和郡山市や矢田丘陵からも、大和平野の東に並ぶ山々の奥にくっきり見える。南山麓に海産貝の化石が採取された跡があり、この辺りが太古(約二千万年前)には海底であったことが分かる。山名はそれから来ている。貝ヶ平山頂から東へは香酔山から香酔峠に稜線が伸びている。 また北には真平山があり、山腹に「神ノ石」という大岩の重なったところがある。

 数度登っているが、北側の常福寺(集落名)からは林道を行き、神ノ石を経て40分で峠手前にある左の踏み跡を登ると約15分で頂上。南の榛原区玉立(とうたち)からは青龍寺を経て1時間15分。2001年にはスズラン自生地の吐山から香酔山を越えて登った。倒木や笹藪こぎ続きで吐山から2時間近くかかった。かつては大展望を誇った9年ぶりの山頂は、今は樹木が繁茂して僅かに東方を望むだけだった。2005年正月には鳥見山から縦走した。虎ロープが張ってある岩混じりの急登箇所もあり、樹氷が美しかった。
鳥見山から約45分で貝ヶ平山頂。


43 鳥見山(735m) A <1976.05.16>

 
(とみやま)貝ヶ平山から南西に伸びる稜線上にある。 『和州旧跡幽考』に「神武天皇長随彦(ながすねひこ)と闘ひ給ひしとき、金色の霊鵄(れいし)(トビ)飛来たり皇弓の弭(ゆはず)にとどまれり。其鵄光かがやくこと流電の如し。かかりければ長随彦軍破れたり。鵄の瑞を得給ひしより鵄邑と名づけり。今、鳥見というは訛り」の記述がある。
 山中に、神武天皇が皇祖の天神を祀った『日本書紀』という「鳥見山中霊畤址(やまなかまつりのにわあと)」の石碑が建つ。

 榛原駅から北西へ西峠から尾根を登る。ツツジの名所の鳥見山公園(前述の霊畤碑もここにある)を経て、
約1時間30分で樹木に囲まれた鳥見山の山頂に立つ


44 額井岳(822m) A <1983.12.04>    別称 大和富士

 
(ぬかいだけ)奈良市都祁吐山町とと宇陀市榛原区の境。大和高原の南端に位置するこの山を中心に、西にある貝ヶ平山(かいがひらやま)、香酔山(こうずいやま)、東の戒場山(かいばやま)などを額井(ぬかい)火山群と呼ぶが、その主峰である。
 別称の通り
富士山型の秀麗な山容を持ち、南の榛原や室生ダムからは、左右に支峰を従えた「山」の字形に見える。南の山麓を東海自然歩道が通っている。
 この山も大和に多い雨乞いの山で、頂上に水神の祠がある。近年、頂上台地の南側が切り開かれて展望台が設けられた。龍門山系を初め、遠く大峰、大台の山々が望まれ、榛原や大宇陀の町並みは眼下である。また頂上北側からは西方に鳥見山、貝ヶ平山と見事な展望が開ける。
 「額井」の名については、『大和志』宇陀郡の「村里」の項に見られるが、「山川」の項に「額井岳」の記載がない。一方、香酔峠を挟んだ西の香酔山(こうずいやま)(800m)については「香水山。赤瀬村の西北に在り、城上山辺の二郡に跨る。山巓に竜王祠有り。旱(ひでり)の年に雨を祷(いの)る」とある。香酔峠の近くにはスズラン自生の南限地、吐山(はやま)があり、山と峠の名はこの花の芳香からきている。 
 額井山麓の十八(いそは)神社は、今は廃寺となった極楽寺の鎮護社であり、春日作りの神殿が建つ境内からは、室生の山並みが一望できる。

 近鉄榛原駅からバスで天満台西4丁目へ。そこから徒歩30分の十八(いそは)神社横に登山口がある。
神社から山頂まで約1時間。香酔峠のやや北からも登路があり、同じく1時間ほど。額井岳から戒場山へは、尾根路を辿り約1時間で達する。


45 城山(526m) B <2006.09.21>  別名・岳山

(しろやま)櫻井市と宇陀市榛原区の境にあり、長谷寺から正面に大きく見える山で、2万5千図には山名も山頂への道も記されていない。城山という名の山は、名阪国道近く(別名・椿尾塁)、大和高原の馬場、白石、吐山、室生の竜口などにもある。いずれも山城が築かれていたことから付いた山名である。この山は戦国時代に宇陀三将の一人、秋山氏の出城があったところと考えられる。

 新陽明門院笠間山陵右手の道を北へ登る。15分ほど登ると鉄塔の下に出て、しっかりした踏み跡が左から延びてきている。さらに20分登るとNHK宇陀中継所のTV塔のある平坦地。東西に延びる稜線上のT字路で、宇陀松山の出城のあった場所と思われる。西へ100m程、深いクマザサを漕いでいくと、草の茂みの中に山名板と三角点があった(笠間山稜から45分)。下山は分岐から稜線の道を直進。スギ林の山道、草に覆われた道、ヌタ場の繰り返しで峠状の十字路にきて、右に下ると山間の畑地を経て笠間山稜に帰った。


46 伊那佐山(637m) B <2002.11.19>

 
(いなさやま)奈良県宇陀市榛原(はいばら)区一帯はもとの伊那佐郷である。その南の郊外にあり、『大和志』には「一名山路山、山路村の上方にあり」と記されている。
 
記紀にも登場する古くから知られた山で、『日本書紀』神武天皇即位前紀に、吉野から宇陀に入ろうとした神武軍が連戦に疲れたとき、天皇が墨坂で「御謡(みうた)を為(つく)りて将卒(いくさびと)の心を慰(やす)めたまふ」として「楯並(な)めて伊那瑳(いなさ)の山の 木の間(このま)ゆも い行き瞻(まも)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」の歌を載せている。
 今、伊那佐文化センターの前にこの歌碑がある。
 榛原区比布(ぴふ)から芳野川沿いに東に進み、伊那佐文化センターを経て橋を渡り左折。山頂まで十八丁を示す江戸期の石標に導かれて、スギやヒノキの植林の中を登る。古来、日照りが続くと「だけのぼり」と称して、降雨祈願に登った道である。山頂には式内社の都賀那岐(つがなぎ)神社が建ち、三角点は社殿裏にある。
 山頂から北へ尾根道を辿ると、1時間ほどで井足(いたり)岳(551m)に達する。また、 伊那佐山から南西の稜線上、標高約525mピーク(城山)に沢城址がある。14世紀後半に宇陀地方の將、沢氏により築城され、後のキリシタン大名高山右近が幼時を過ごしたところである。


47 高峰山(802m) A <2004.02.05>

 宇陀市榛原区高井の仏隆寺の北、大平山から東西に走る稜線上にある山。私たちは大平山から高峰山を経て唐戸峠へ歩いた。何度か急登降や岩稜もあり
距離の割に登りごたえがあったが、これといった特徴のない山である。
 仏隆寺は嘉祥三年(850)、堅恵(けんね)の創建と伝えられる真言密教の古刹である。堅恵は空海の高弟で、師が唐から持ち帰った茶の種をこの寺内に播いたのが、日本での茶栽培の始まりと伝えられている。また門前の望月桜(もちづきさくら)は県最古の巨樹といわれ、県天然記念物である。
 
 仏隆寺から車道を下り、井戸杉の手前で林道・室生ダム開路線に入る。100m程で大平山への登山口がある。マツやヒノキの林を登り、苔蒸した石がごろごろする涸沢からヒノキ林の急登で稜線上の峠に出る。痩せ尾根を過ぎ、ピークを一つ越すと胸を突く急坂で大平山頂(711.5m)に立つ。急坂を下り、やや顕著な岩稜を少し登り、尾根上の倒木を避けて右の山腹を捲いていくと高峰山。
山頂は深い樹林の中でまったく展望はない。急坂を下り、ヒノキ林の中の758.8m四等三角点を過ぎる。「明治百年記念造林」の碑が立つ峠から南に下ると、役行者像が祀られた唐戸峠にでた。
 【参考タイム】仏隆寺10:30…登山口10:55…稜線上の峠11:20…大平山11:30〜40…高峰山12:25〜28…758.8mP12:37…カラト峠13:00…仏隆寺13:15 (04.02.05)


48 三郎ヶ岳(879m) B <1986.12.07>

 
(さぶろうがたけ)奈良県宇陀市榛原区。曽爾村にある倶留尊山を太郎山、曽爾村と宇陀市の境の住塚山を次郎山、この山を三郎ヶ岳と呼び、古くは佐武良ヶ岳とも記した。
 遠望すると頂上部はなだらかな円形で、
室生火山帯の山らしい優美な姿である。稜線伝いに西に隣りあう山を高城山(たかぎやま)(810m)という。高城山は赤埴山(あかはにやま)の別称をもち、神武天皇の国見伝説が残る。どちらの山頂からも展望はよく、住塚・国見などの曽爾山群、高見山など台高北部の山々を望むことが出来る。
 これらの山の北山麓を室生寺に通じる室生古道、南麓には伊勢参りで賑わった伊勢本街道が通っている。旧室生街道(室生古道)は室生寺への参詣道で、高井宿で伊勢街道と分かれ、仏隆寺、唐戸(からと)峠を経て室生寺に至る。また、伊勢本街道は高井宿から諸木野(もろきの)関、石割峠を越えて伊勢へ続いている。難波と伊勢を結ぶ伊勢街道は、他に阿保越と呼ばれる北街道、高見越と呼ばれる南街道があるが、本街道と呼ばれるこの道はその中間を通る。
 
 最短コースは伊勢本街道石割峠からだが、高井から仏隆寺、高城山を経て三郎ヶ岳へ登り、石割峠へ下るのが一般的である。高井までは近鉄大阪線榛原から5q。
高井から三郎ヶ岳山頂へ約2時間山頂から石割峠を経て伊勢本街道の諸木野へ1時間15分。


49 室生山(621m) A <1982.04.18>

 
(むろうさん) かなり前(78年5月)になるが、仏隆寺から室生寺まで室生古道を歩いたことがある。カラト池の峠に来ると、室生川を隔てて緑の室生山が姿を現した。それまで退屈な広い道を歩いてきただけに、この眺めは強く印象に残っている。この峠はカラミタ峠と呼ばれ、空海が室生山を開くとき、この峠からの景色を「唐(カラ)を見たようだ」と絶賛した所という。
 室生山は東西二峰あり、東の焼山(652m)の方が標高が高いが、普通は
室生寺奥の院のある如意輪山を指していう。奥の院への参道途中にはシダの大群落があり、「室生山暖地性シダ群落」として天然記念物に指定されている。山頂は深い樹林の中で、無展望である。
 室生寺は、寺伝によると役行者の開山、空海の再興とされ、「女人高野」として名高い真言宗の古刹である。国宝五重塔をはじめ、本堂、金堂(いずれも国宝)はじめ重要な建築物が多い。また境内にシャクナゲが多い花の寺でもある。北西の室生ダムに続く竜鎮渓谷の竜鎮神社や、南東1キロに室生竜穴神社など、周辺には室生開山に竜神が関係することを示す旧跡が残る。

 室生寺境内から奥の院へ向う。シダの群落は無明橋のかかる谷間周辺にある。400段の長い石段を登ると奥の院。山頂へは、はっきりした道はなく、薄い踏み跡を探して登る。


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