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Movie・大奥/Movie・瞳の奥の秘密/Movie・ミックマック


◆10月6日◆Movie◆ミックマック◆

私がジャン=ピエール・ジュネの作品を初めてみたのは、ケーブルテレビで放送されていた「ロストチルドレン」だった。 ブラウン管に映し出された不思議の世界は、ちょっと怖くて、時に哀しく、そして美しかった。

 彼の作品で一番知られているのは恐らく日本でも大ヒットした「アメリ」だろう。 アメリは彼の作品の中では随分口当たりが良くて、まあそれも良いのだが、ロスチルファン としては何か物足りない。そんな作品だった。
その後ハリウッドでエイリアンシリーズを撮るいう仕事もあり、しばらく彼の作品は見ていないなと 思っていたところ久々に現れたのがこの「ミックマック」だった。

 この映画の感想を一言でと言われたら「ジュネが描く反戦映画はこんな風なんだなぁ」に尽きる。 地雷に父を奪われ、自分はギャングの流れ弾が頭に入ったまま奇跡的に生きているという青年バジル。 ある事がきっかけで彼は自分の父親の命を奪った武器製造会社と、自分の頭に入ったままになっている 銃弾を作った武器製造会社の所在地を知る。この二つの会社は向かい合わせに社屋を構え、ライバルとして いがみ合っていた。そして彼の思いを込めた「ミックマック」(いたずら)が始まる。 とにかく、父を、自分を苦しめた武器をこの世に生み出した彼らを懲らしめる、これが彼の目的。 果たしてその運命は?

 というのがこの作品のあらすじである。そして、その物語は言うまでもなくジュネワールドで紡がれる。 故に大道具も小道具も、いつの時代なのか良く分からない。不思議な色合いの街、不思議な場所に 住む不思議な人々、そして奇妙な趣味を持つ人たち。病的な行動に病的な感覚の登場人物。 そこには国籍も時代もほとんど関係ない。 が、しかし!今回ははっきりこの作品の時代設定が「今」だと分かる。なぜなら(ネタバレになるので読みたくない 人は読まないで欲しいのだが)ミックマックの仕上げは「YOU TUBE」での画像配信なのだ。 武器製造会社の社長たち、二人が懲らしめられている映像を世界に配信する。その影響力は恐るべしである。 YOU TUBEの登場で、「おーっ。時代設定は現代だったのか!」と驚くと同時に、この物語の誕生の瞬間は 「ネット配信する」というのが起点だったのかもしれないと思ったのだが、とにかくジュネも現代に生きる人だったんだなぁと 当たり前のことに感心した。

 この作品のテーマは「反暴力」であり、それは非常に重い。しかしジュネ監督は、彼特有のセンスとウィットで そのテーマを大人のお伽噺にアレンジしてみせた。
 ミックマックには、ジュネ作品でお馴染みのキャストもちらほらいる。久々に彼らに会ったなぁと思いながら 次回作でもまた会いましょうと思いながら家路についた。


◆10月6日◆Movie◆瞳の奥の秘密◆

 知人が「今年一番の映画だった」と絶賛して帰ってきたのが、この「瞳の奥の秘密」である。
年間200本以上観る知人に「この映画を見てから次の映画に行く気がしなくて」とまで言わせる映画とは 一体どれぐらい凄いのか?と思ったのだが、あえて下調べせずに観にいった。とはいえ、本作がアカデミー外国語映画賞を取ったことは知っていたし、TVで映画評論家が「好きな映画10本に入る」とも言っているのも聞いた。故に気にはなっていたが、より徹底的に情報をシャットアウトし、上映時間だけをチェックして劇場に向かった。

 本作は一見ある殺人事件をめぐるスリラー映画に見えるのだが、実は事件ではなく人の心を描いた物語である。人は25年思い続ける事が出来るのか。人は人を許せるのか。人は人を裁けるのか。25年という年月と人の心というものを、我々は改めて考えさせられることになる。

 出演者は誰一人知らない人々。監督の名前も知らない。そして、言語はスペイン語なので途中までスペイン映画かと思っていたが、途中で「ブエノスアイレスに居る」という台詞があり、そこで初めてアルゼンチンの映画だったと分かった。主役は定年を迎えた警察官。その彼が過去に自分が扱った、そして生活のベースを変えざるを得ないほどの影響をもたらした事件を小説にしようとしているところから始まる。故に物語は現在と過去の回想、そしてその回想は彼の書いている小説の再現でもあるので、時にフィクション、あるいは主人公というフィルターを通した過去も入り込んでくる。
25年前にあった、女性教師殺害事件。その事件に人生を変えられた、彼女の夫、担当した主人公である警官、その部下、そして彼の上司である女判事。そして彼らが追った犯人。

 私自身の経験でもあるのだが、自分の記憶を頼りに過去を書き出してみると、眠っていた扉が開き、次々に記憶が蘇ってくる。文字にするという作業は、無意識下にあった記憶を呼び覚ます作業であり、頭の中から別の媒体に移すという作業は、客観的に事実を見つめる事になる。
 25年前の事件をずっと心の中に閉じ込めていた彼が書くという方法でその記憶を表に出した時、ある事に気付く。この設定が実に上手い。

 25年前に封印した、上司である魅力的な女性への想い。25年前に毎日犯人を捜して駅に座り続けていた被害者の夫の思い。そして、思い出した彼の発言と、新たな疑問。それらが書くという行為により、「今」の彼の背中を押し始め、25年という時を経て彼は動き出す。

 どこをとっても、大人の映画。そして実に魅力的な主役リカルド・ダリンと主演女優ソレダ・ビジャミル。私はソレア・ビジャミルを見ながら、ファニー・アルダンを思い出した。「目は口ほどに物を言う」というが、彼らの瞳の奥にはどんな秘密が隠されているのか。

 人を想うこと、人を罰すること、そして人の心に時間がもたらすもの。この監督と脚本家、そしてキャストが出ている作品をもっと見て観たいと思う一本だった。


◆10月2日◆Movie◆大奥◆

 2005年、よしながふみの「大奥」が発売された日。この作品を手に取った時には、映画化のことなど全く予想していませんでした。それから5年。途中発表されたキャストに「えーっ!」とか「ほ〜っ」とか言いながら公開の日を迎えました。

 まず、一言で言うなら「レディースデーなら全然OK!!」これに尽きます。まあ、全体にちょっと盛り込みすぎ、すらりとした水野を演じるのがニ宮君なので、ビジュアル的にあちこちで、あ、違う・・・と思ってしまうなど色々な理由により「レディースデー」ですね。。。
 水野のビジュアルが違うというと、ニ宮ファンからは「失礼な!」と言われるかもしれませんが、待ってください。責任は彼にではなく、キャスティングした磯山Pにありますから(笑)ニノ本人も一度断ったという経緯もあるし、原作の水野とのビジュアルの相違は最初から分かっていたこと。でも気になるのです!!あちこちで(笑)

 私が見たのは公開二日目で、初日を見た人たちのレビューが色々出た後でした。辛い評価を読んだ上で映画を見た私と友達の共通見解は「言うほど悪くない。1800円だとちょっと考えちゃうけどレディースデーならいいよね」というものでした。という事を前置きして、正直な感想をネタバレありで、うだうだと長々と書きます。読みたくない人はスルーしてください(笑)

 まず、この映画の製作発表段階で私が抱えた懸念。それは(繰り返しになりますが。笑)水野役にしてはニノの身長は足りないし、イメージと違うという事。まあ、江戸っ子キャラは水野との共通点でそこは合ってるんですけどね。では誰が良いかと聞かれたら、まあ向井理とかかなぁと正直思いました。すらっとした、が必要なキャラだと思うので。例の裃を着るシーンは、やっぱり見上げる感じが欲しいかと。
 次の懸念は金子監督。彼のドラマは大好きですが、木更津キャッツアイの映画を見た時金子さんの画はスクリーンサイズじゃなくてテレビサイズでした。この人、映画じゃちょっと辛いなぁという印象が強かったのでどうだろうと。そして吉宗。イメージでは切れ長の細い目、そして見るからに強く落ち着いた女性なので、柴咲コウじゃ目は大きいし、若すぎるのでは?と。でも吉宗に関してはビジュアルが出た段階で、なかなか良いではないか!(上から目線ですね。笑)と考えを改めました。原作者自身の希望でもあったと聞き、ますます納得。この懸念は払拭されましたが、とにかく期待したいけど期待しすぎるとがっかりするかもと自分に言い聞かせる事数ヶ月。

 さて、そんな懸念を抱えながらいざ劇場へ。噂通り、確かに音楽がちょっとうるさい・・・でもまあ、思ったより画は映画らしくなっていて安堵します。基本的には原作にそった作りですが、男子減少の原因、赤麺疱瘡がよりクローズアップされています。町の様子が説明的に入る事も多いし。そして前半、水野が大奥に行くまでが原作より長くて少々もたつく印象が。恐らく「お信」と「水野」の間柄を原作より丁寧に描きたいという意図があるのだと思いますが、原作では水野の母が婿入りを持ち出した時既に大奥行きを彼は決めているのに、映画では「婿入りは断ったけど、これからどうしよう」と悩みます。お信との恋愛部分を強調したかったんでしょうね。 それから冒頭近くに長屋住まいの子供が欲しい女性と水野のベッドシーンがあります。恐らくニ宮初のベッドシーンで、ファンには結構驚いた人が多かったかもしれませんね。作品の初めの部分でこういう状況の江戸ですよ、と印象つけたかったのでしょう。作品全体の時間を考えると、結構冒頭に時間をかけた印象がありました。
 それにしても、仕方ないけどお信と水野の背が同じぐらいなんですよね〜。あの大奥に上がるときの別れのキス。原作では不意に水野がお信を抱きしめてお信の顔を上から見下ろしてキスする、あの見下ろし包み込むように抱きしめるのが印象的なシーン。水野の男らしさが感じられる結構好きな場面なんですけど、残念ながら同じぐらいの背丈の為、少々包容力に欠け(笑)「達者でな」という台詞も少しウェットな解釈になっていました。でも、お信が可愛かったからまあ良いです(笑)

 大奥に入ってすぐのシーンで、今回気付いた事が一つ。それは袴って結構うるさいんだって事でした。玉木宏演じる松島が、紫色の袴で登場するのですが、歩く度に衣擦れの音が結構大きくて、「江戸城に袴の人が勢ぞろいしたらさぞかしうるさかったんだろうなぁ」と思いました。衣裳はこだわって本当に正絹で作ったそうで、この音も録りたかったそうなので、これがリアルに近い音だと思います。袴も着物の裾が長いのも面白い文化ですよね。松島の袴の裾を水野が「踏んでおる」は再現してましたが、そりゃ踏むよね、っていうぐらい長い。長袴は現代に生きる私からすると不自然(笑)人間の「贅」に対する考え方って面白いなぁと思います。

 さて、ちょんまげと羽織の水野。何だか目が慣れない〜と思いましたが、青い作業着の着物になった途端、しっくりきた!と思ったのは私だけ?(笑)
 阿部サダヲとニノは背丈もお揃いのようにぴったりで、かわいらしいったらありゃしないし。江戸っ子らしい水野の啖呵の切り方は地で演じてるっていうぐらい板についてますが、皆の憧れ「水野さま」には小柄で可愛らしすぎるような。佐々木蔵之介、玉木宏、大倉忠義って大きいんだと再認識ですよ。本当に。
 ニノの背が一番気になったのは、垣添が水模の裃を渡しに来て、お礼を頂けるなら「思い出を」というシーン。垣添演じる中村君、相当腰を深く折ってました。中村君の顔立ちは、確かに垣添に合ってると思いますが、如何せんこっちは水野に対して背が高すぎる。中村君単体ならかわいいのに、水野と垣添が並ぶと、急に垣添大きい〜となっちゃうんですよね。故に原作のかわいらしさがあるのに100%生かせないという・・・でもそれなりにかわいいんですけどね。

 ところで、もう原作そのものと感じたのは和久井映美演じる久通。やっぱり思ったとおりの久通でした。素晴らしい。素敵です。いい味です。シリーズ化するとなると久通と吉宗は通しで出る事になるので本当重要な役ですよね。和久井さんがキャスティングされて本当に良かったです。
 そして柴咲コウの吉宗。これがまた良い感じでした。正直映画を見終えると、主人公は水野ではなく吉宗だったんじゃないかと思えました(笑)水野が江戸の町に戻るところで終ってれば主人公は水野だと思うのですが、結構吉宗エピソードが続くんですよね。
そして吉宗がらみで、この脚本面白いな〜と思った事が一つ。映画の最初のシーンは総ぶれなので、初登場シーンではないのですが、先の将軍の崩御があり、次期将軍に決まったという場面で登場する吉宗は、赤い着物で白馬に乗っているという登場の仕方・・・これって、あの・・・かの有名な暴れん坊将軍のオープニング、白馬に乗るマツケンへのオマージュというか、パロディに見えなくもなかったんですけど!!!更に、お庭番と江戸の町に出る将軍様。これ、本当に「暴れん坊将軍」だなって(笑)少なくとも原作では乗馬はないし、水野編で将軍が町に出かけるシーンは無いです。でもお付きの三郎佐がいい感じだったので良かったけど(笑) 大岡越前も原作よりずっと若くて、聡明そうで良かったけど。

 男の太夫が出てきたり、河川敷で隔離されている赤面疱瘡にかかっている病人達が出てきたり。案外時間が割かれた江戸の町は、将軍がこの国をどうにかせねば!と思うという事の裏づけには良いのですが、短い時間に断片がいっぱい詰め込まれていて、ちょっと盛りだくさんすぎる!!と正直思いました。原作では水野の話しとは分けられている大奥リストラ50人まで盛り込んでましたからね。それ故、ますます水野より吉宗が主役に見えてしまうという・・・

 話しは遡り、鶴岡演じる大倉君。原作とは違う結末を迎えますが、それを見ながら「刀で切られるってどれぐらい痛いのか、誰に聞いても分からないって言うんですよ」って話していたのを思い出し「ああ、だから知りたかったんだ!!」と、合点が行きました(笑)そりゃさぞかし知りたかったんだろうと納得。でも聞かれた方も困るのにも納得(笑)前髪のある侍姿、似合ってました。

 さてさて、話題の松島こと玉木宏。私にとってはのだめの千秋先輩ですが、大奥男子出演者の間で一番人気の松島様は、確かにすらっとしてて美しいけど、私的にはちょっと額が面白い。ふふふ。
金子監督も語ってましたが、大奥男性陣は皆「松島かっこいい〜」と思っていたそうです。男惚れされる人なんですね。撮影初日が佐々木蔵之介演じる藤波とのラブシーンだったそうですが、騒がれるほどの大胆さはなく(笑)そうそう。この松島、原作の松島と柏木を足したような設定でした。残念ながら、水野編で失脚でございます。

 そして佐々木蔵之介演じる藤波さま。原作はぽっちゃりふくよかな方ですが、まあ、蔵さんですから背が高くて骨っぽい藤波さまでした。貫禄を出すために声は低め。悪代官みたいな雰囲気も必要と思ってでしょうが喋り方に特徴あり(笑)殿っぽく、時にいやらしく(笑)でも蔵さん!みたいな感じでしたね。

 そして杉下を演じる阿部サダヲ。これもまた原作イメージからは遠いのですが、ニノとセットでかわいらしい(笑)この人上手いですからね。舞台でも、ドラマでも良く見てますが、押さえた演技を要求された今回、クリクリとした目が一層かわいらしく見えました(笑)不幸な身の上を聞いた後、水野と共に昇進が決まった瞬間、「良かったねえ、杉下!!」と嬉しく思いましたから、やはり阿部さんは上手いんですよね。心にするするっと入ってくるというか。杉下も通しで出てくるキャラクターですから、続編が出来た時には再登場です。今度は御中臈なので、着物も贅沢になって登場ですよね。ちょっと別の意味で楽しみです(笑)

 とまあ、誰が読むんだ?というぐらい長くなりましたが、原作を知らずこの映画を見た人がどういう印象を受けるのか、これだけぐちゃぐちゃ考えて見ていた私には全く分かりません(笑)でもこれだけは言えます。時々出てくる江戸城本丸・・・あのとってつけた感は何?というのは全員感じる事でしょう(苦笑)びっくりする位「絵」に見えたんですけど。

 まあとにかくシリーズ化を見据えての吉宗押しだと思いますが、沢山盛り込んでいました。とにかく、評判よりは良い出来で、映画館にリピートするほどには出来てない。でもWOWOWで放送されたら録画する、そんな感じの大奥でした。(正直すぎるだろう。笑)2作目はあるのか?!多分あります(笑)


<September>

Art・束芋〜断面の世代〜

◆9月11日◆Art◆束芋〜断面の世代〜◆

 友人から彼女の名前を聞いてから数年。漸く「束芋」の個展に行く機会に恵まれました。関西出身のアーティストですが地元での個展は私が知ってからは今回が初めてでした。

 朝日新聞の連載小説『悪人』の挿絵を担当していた時、数回彼女の絵を見た事があり、またNHKの情報番組で彼女の初期の作品を見た事もあり、どんな作風かは知った上で訪れた個展。実は久々の美術館で、何だか新鮮な気分で展示室に入りました。そして突然現れた暗闇。最初の展示は真っ暗な部屋の天上に作品が映し出されていて、鑑賞者は皆床に置かれたクッションに頭を置いて寝転んでいます。しかも暗いので目が慣れるまで人が寝転んでいる事に気付かず、また気付いたら気付いたで大勢の人が居ることに少しばかりの驚きを覚えました。そして横たわった床に置かれていたクッションの微妙な体の沈み具合。面白い!!
天井では『団地層』という作品が展開しています。10号の団地の断面が映し出され、家財道具が崩れ落ち、それが終ると逆再生のように戻り、そして何事もなかったかのように10号棟の外観に戻る。見上げるアングルというのがこの作品を見るのに実に適した方法だと感じたのですが、横浜では普通に正面の壁に映し出されていたそうです。ちょっと残念ですね。

 暗い部屋からまた暗い部屋へ。今度は壁床壁三面を上からのぞくようなアングルで見る『団段』。先ほどはモノトーンでしたが、今度はカラーの作品です。CG作品なのですが、その色調は浮世絵のようで、ペイントしたというよりは木版画、ばらんで色を刷りだした感じです。作品は鳥が団地の窓から部屋に入ってくるところから始まるのですが、その部屋は事件性があるようでもあり・・・不思議な風景が次々に起こり、日常からするとぎょっとするような事、たとえばトイレの水で顔を洗う人、洗濯機に入り回っている人、お風呂の中で水死しているかもしれない女性、冷蔵庫の中に部屋に入るように入っていく裸の男性など、日常空間の中で行われる非日常的な行動が次々に映し出されて行きます。
この作品も、平面一つではなく3面がなければ表現不可能であり、この表現方法に強く納得の行く作品です。作者にとって作品を作る時は、表現する内容だけでなく表現する形態をも含めてのインスピレーションなんだろうなと感じ始めた2作目でした。

 続く作品は小説『悪人』の連作。壁に彼女の描いた絵が絵巻物のように連なっています。白い紙にペンで書かれたであろう絵が、数メートル続いています。白と黒だけの世界で描き出される世界は、どの作品にも共通する髪、水、指、足、巻きつくもの、滴るもの、暫く見ていると見えてくる潜んでいるものが色々と形を変えて描かれています。面白いと思うのが、彼女の作品にはじめっとしたもの、ぬめっとしたもの、水を含んでいるものが多く描かれているのですが、その作品から受ける質感は濡れていないという事です。私だけがそう感じているのかもしれませんがCG作品であれ手書きの作品であれ、湿気を体感することはないのです。
悪夢にも見える挿絵の連作を見ながら、原作を読んでいないのでよく分かりませんが、もしかするとこの視点は連続殺人犯らしい主人公の視点なのかもしれないと思ったり。それと同時にどんな文章を読んでこの絵が出て来たのか。束芋という人が物語りの何処に響いて、何処を描いたのかが気になりはじめました。
挿絵の途中で現れた小部屋で上映されている「油断髪」。ここでも髪と指というモチーフが軸になっています。
見ながら、どこをとっても女性からしか出てこない作品だという確信が深まります。
部屋の外には、「油断髪」と内容が重なった部分の挿絵がライトに背後から照らされ色もつけて映し出されていました。
そしてまた紙の白とペンの黒の世界へ。それにして、朝刊にこの物語と絵を連載し続けた朝日新聞はなかなかチャレンジャーだなと思ったり。

 悪人の連作を抜けると狭い通路の奥に置かれた「ちぎれぎちれ」へ。床と天上に張られた鏡に裸体の男性と雲が映し出されます。
床の上には筒型のものがあり、そこに裸体の男性が映し出されているのですが、その映像が刻々と姿を変えていきます。ハイヒール、血管、あばら骨から生まれ出た蝶。あるいは蛾。羽根を持った虫。CGとプロジェクターを使った作品ですが、その立体性から彫刻にカテゴライズされるようなそんな印象を受けました。

 そして最後の作品は『BLOW』。花、植物がモチーフです。壁にとりつけられたモニターに映る白黒の花。ペン画のようなモノトーンの蘭、薔薇、百合などが1つのモニターに1種類づつ映し出されています。その前にベンチがあり多くの人が座っていました。
じっとパネルを見ていると時々変化が起こります。その隣の部屋では同じモチーフの植物がカラーになり、向かい合わせの壁2面と床に映し出されていました。

 我々が立つ床の下に泡が現れ、気がつくと片方の壁に植物が現れる。そしてもう一方の壁にも植物が。茎とも血管とも、骨ともとれるものたちと花、実、泡・・・作品の中に自分が入り込んでいるこの感覚。この場に居なければ鑑賞出来ない作品の面白さに再び心が揺さぶられます。一度見ただけでは作品全体を見ることは出来ず、立ち位置によっても違って見えます。先ほどは壁と書きましたが正確には床からアールがついて緩やかなU字型になっている部屋で、故に直線は存在せずつなぎ目はありません。その面一の形状がより作品の中に入っている感覚を強めてきます。ごぼごぼと生まれてくる泡の中に立ち、しばらくこの不思議な沼に立っていたい気持ちにさせられます。決して美しい世界ではないのですが。。。

 終始暗い展示室を抜け表に出ると、そこは来た時と同じ光に満ちた空間で。ほんの1時間弱のトリップでしたが、床に横たわった瞬間から束芋ワールドに入り込んでいたのだなと感じます。本格的なインスタレーション作品を見たのは初めての経験でしたが、作者の表現したいものと表現手段の揺ぎ無い融合、これ以外は考えられない表現スタイルにとにかく納得した時間でした。何年も昔の美術作品を見ることが多かった私にとっては、現代の表現手段の多様性に感慨深いものを感じた時となりました。


<August>

MOVIE・インセプション

◆8月3日◆MOVIE◆インセプション◆

 クリストファー・ノーランの最新作と聞いた時から、観ることを決めた「インセプション」。彼の作品との出会いは「メメント」で、その後彼はハリウッドの大作を撮る映画監督へとなっていった。人々の記憶に新しいのは、恐らく「ダークナイト」だろう。バットマンシリーズではあるものの、ジョーカーを主役におき、人間のダークな面を描きながらエンターテイメントとして成立しているという驚くべき作品である。主演のヒース・レジャーの早すぎる死という衝撃とも合わさって、この作品は忘れられない作品となった。あの「ダークナイト」の後、彼が生み出した初めての作品。それが「インセプション」である。

 本作では他人の夢に入り込み、アイディアを盗む「抜き取り屋」という人々が登場する。通常彼らが行うのは「抜き取り」なのだが、主人公は今回「抜き取り」ではなく相手の考え方を変えてしまうという、「インセプション」つまり「うえ込み」を依頼される。この物語を観る時、観客はまずノーランが生み出した「世界」を理解しなければならない。
今後この作品を観る予定があり、内容を一切知らずにいたいという方は、ここから読まないで欲しい。

 レオナルド・ディカプリオ演ずるコブは、人の夢に入り込み相手のアイディアを抜き取る事を生業としている。相手の夢に入り込む事は本作の中では異例なこととして扱われていない。その証拠にそれなりのポジションにいる人間は、抜き取りに会っても対処できるように訓練を受けているらしい。
 渡辺謙演じる企業家サイトーは、仕事とプライベートの両方で問題を抱えるコブにある仕事を依頼する。その依頼とは、抜き取りではなく、インセプションだった。ライバル会社を弱体化させるべく、次期社長になるらしい社長の息子の夢に入り込み、会社の解体を促したいという。その代償にコブが受け取るのは、法的に切り裂かれた子供達との生活だった。

 というのがこの物語のあらすじなのだが、重心が置かれているのは「インセプション」の成功ではなく、コブの心の中である。この物語は「話しの軸」が複数存在しているという事と、「夢」の「あり方」がどうやら私の中にひっかかりを生んだらしい。2時間半という長時間、映画を飽きることなく観たのだから、面白かったと言い切れる作品である。でも、何かがひっかかっているのだ。

 この物語を面白く、そして複雑にしているのは「夢」である。「夢」と「現実」が一つのテーマなのだが、本作は「夢」の性質を上手く利用したノーランが緻密に作り上げた世界で物語は進んで行く。
 映画「マトリックス」ではネオが電話回線を利用して「もう一つの世界」に入り込んだ。「インプレッション」ではその世界が4倍になる。現実の世界とインセプションの為深く深く作りこまざるを得なかった夢は3層。そして、その先にももう一つの世界が繋がる。仕事を行うにあたり、夢に入り込んだのは6人+ターゲットである次期社長の御曹司。そして彼らは色々なトラブルに巻き込まれ、各層に点在することになる。つまり、現実と夢の3層、合計4層同時進行で話しが進む場面も出てくるのだ。
 更に、この夢の3層は時間経過も違っている。我々が夢を観る時、ほんの1分眠っただけなのに夢の中では1時間ぐらいの時の流れを感じることがないだろうか。ノーランはそこを利用して、夢の層の時間経過を巧みにずらしている。夢が深くなるほど時間の経過は遅くなる。そこがクライマックスに上手く機能していくのだが、マトリックスで既に訳が分からなくなっていた人にとっては、「もう一つの世界」が4倍になってやってくるのだから恐らくお手上げだろう。分からない状態で2時間半座っているのは拷問に近い。こんなに面白いのに、何故こんなにトイレに立つ人が多いのだろうと思いながらみていたのだが、もしかすると退屈していたのかもしれない。

 物語は一つのミッションにグループで挑むというものなのだが、その提示がありながらも主軸はコブの心の中に住む亡くなった妻との決別である。そして夢の中では「インセプション」を阻止しようとする勢力も出現し、結構激しいアクション映画の要素も持っている。という訳で、よく言えば盛りだくさんなのだが、鑑賞後改めて考えると、ちょっと欲張りすぎた物語とも感じる。そしてそこが恐らく私の中のひっかかりの一つになったのだろう。2時間半という時間は、これだけの物語を詰め込むには必要な時間だったのだろうが、もう少し焦点をしぼって2時間ぐらいのサイズにしても、良い作品が出来たように思える。また、とても緻密に組み立てられている「夢」の世界、というところが私のもう一つのひっかかりを生んだように思える。
 夢は本来奇想天外でつじつまが合わないものとも言えるのだが、ノーランは非常に彼らしい「緻密な夢」を織り上げた。もちろん、ミッションの為には緻密に練り上げた「夢」が必要なので、そうある事になんら問題は無いのだが、この緻密さが「夢」の性質とのズレを感じさせ、ひっかかりとなったのではないだろうか。もし私がこの夢の世界に入り込んだら、余りに良く出来た作りこまれた夢に自分が生み出した夢ではなく、これは他人が作り出したものなのではないかという疑問を感じて目覚めてしまう気がする。

 ラストシーンは実にノーランらしく、それが夢なのか現実なのかは観客の判断にゆだねられる。コブは現実に戻ったのか、それとも夢の中にまだいるのか、どっちなのか。夢の中でまわりつづけるコマがラストシーンでは勢いよくまわった後、ゆらぎはじめる。そして気付くのだ。ノーランが我々に「インセプション」したという事を。
本作を観た人の多くは、この物語を反芻し、自分なりの解釈を出した後で、本作を観たという周囲の人と結末はどう解釈したのかを話し合うことだろう。

 完璧な作品であるとは言えないが、非常に良く出来た驚くべき作品である事は間違いない。興味のある人はぜひノーランの織り上げた世界を体験してみる事をおすすめする。


<May>

MOVIE・プレシャス

◆5月14日◆MOVIE◆プレシャス◆

 今年からアカデミー作品賞ノミネートが従来の5作品から10作品に増やされ、インディーズ系作品も選ばれるようになった、というニュースとセットになって聞えてきたのがこの「プレシャス」と「第9地区」でした。
 という訳で、普通ならノミネートされないであろうと言われていた作品にも関わらず、プレシャスの母親役を演じたモニークが助演女優賞を受賞。オスカー作品となったのは、記憶に新しいと思います。

 物語は、80年代のハーレムを舞台に展開します。主人公は性的虐待により実の父親の子供を身ごもっているティーンエイジャーのプレシャス。しかも彼女が父親の子供を身ごもるのはこれで2回目。一人目はダウン症の女の子が生まれ、今はプレシャスの祖母が引き取って育てています。母親は娘を庇うどころか、自分から父親をとったと嫉妬しプレシャスに虐待を繰り返すという普通では考えられない状況です。そんな八方塞の中、プレシャスは憧れの自分を空想することで正気を保ち日々を過ごしています。
 というようにハードな内容なのですが、覚悟して見に行った程には重い作品ではありませんでした。それは彼女の空想の世界が挟まれている事と、彼女に差し出される救いの手の多いからでしょう。
彼女が出会った教師、友達、そして彼女自身の前向きな生き方。HIVという要素は必要だったのかどうか疑問が残りますが、とにかく、どんな逆境が来ても前向きに生きていく。それがプレシャスです。そして、私には、この前向きなところが「アメリカ映画的」に思えました。

 きっと世の中にはこんな境遇の人が沢山いるのでしょう。きっと似たような境遇で命を落とす人も多いのではないかと思います。でも彼女は素敵な人たちに出会えて、命も落とさず、前向きに生きていきます。嫌な言い方をすれば、絶望だけの話しでは映画になりませんから、彼女には色々な光がさしてきます。
この物語はプレシャスを知る物語であると同時に、彼女の母親を知る物語でもあります。何故彼女は娘を虐待し、何に腹を立て、何に傷ついているのか。そこがクライマックスにもなっていて、故にモニークにオスカーが授与されたのだと思いますが、何でしょう、この鑑賞後の腑に落ちない感じは。

 映画は、未青年でまだ学校に通っていて、生活保護を受けて生活していてしかもHIVに感染している未来の極めて不透明なプレシャスが、漸く母親の呪縛から解き放たれ、ダウン症の子供と赤ん坊を抱えて「これからは3人で生きていくんだ」と決心し、ソーシャルワーカーの事務所から出て行くというシーンで終ります。一応ハッピーエンドの雰囲気を漂わせています。でもこのラスとを見て「良かったね」と言うのは、ちょっと無責任なのではないかと思わずにはいられないのです。
 そこはかとなく漂ってくるこの映画の楽観主義的な空気がかもしだす居心地の悪さ。私が言うまでもなく、現実はもっと厳しい。だからこの映画を見て、うーん・・・とうなってしまうのです。こんな逆境の中にあっても前向きに生きていくプレシャスに感動したという感想をいくつか耳にしましたが、私の中では正直そう簡単に納得できる作品ではありませんでした。問題を深く描いているように見えて、何かそうでもないような気がする。実際彼女のような境遇の人は多いのでしょうが、色々問題を詰め込みすぎた感もぬぐえない。この微妙なあり方が気になる作品でもありました


<April>

MOVIE・第9地区/MOVIE・アリス・イン・ワンダーランド

◆4月23日◆MOVIE◆アリス・イン・ワンダーランド◆

 思い起こせば数年前。ティムとデップで私が好きな「不思議の国のアリス」を映画化する、という情報に胸躍ったあの日。まさかこんな作品になろうとは・・・かけらも思っていませんでした。
 うーん。何だろう、この「ディズニー」チックな作品は。(いや、ディズニー映画なんだから当たり前なんだけれども)しかも、何でしょう。この手際の悪さは。アリスが穴に落ちたあたりから早くももたつきが気になり、あっという間に睡魔との闘いに。。。確かに睡眠不足でしたけど、それだけが理由ではないはず。
出てくるチェシャ猫もオリジナルキャラのモンスターも、「モンスターズインク」に出てきそうなフカフカ加減。これが私にとっては致命傷でした。アリスの世界にぬいぐるみが出て来た!!みたいな。テイストが物凄い違和感。
そして、演技派が揃っているのに彼らが下手に見えるというこのミラクル。デップに至っては、次第に不憫に思えてくるという。ピークはあのダンスですね。仕上げでした。

 スウィニートッドぐらいからティム・バートンに疑問を感じ始めている私ですが、今回の作品はティム云々より、どれぐらい彼の意見が生き残ったんだろう??という疑問の渦に。勝手な想像ですがディズニーの幹部達に色々口を出さされ続けた結果だったりする・・・むしろそうであってくれぐらいの状況です。
 3Dで見ましたが、目と首の疲労を考えると普通の2Dで見ればよかったかなぁと。後悔先に立たずと言いますが、言葉通りの結果に。本作の興行収入の金額を見ながら、ティム×デップブランドなのか、ディズニーブランドなのか、アリスブランドなのか、きっとトータルなんでしょうが、色々残念な結果が出たなぁとため息が出るのでした。アリスを知らず、ディズニー大好きな人なら楽しめた・・・のかもしれません。なんだかなぁ・・・でもとりあえず、前売りについてた「卓上カレンダー」まだ愛用してます(笑)


◆4月21日◆MOVIE◆第9地区◆

 どうも面白いらしい。という評判が私の耳にもちらほら聞えてくる頃にはアカデミー作品賞にノミネートされていた映画。それが「第9地区」です。試写で観た知人は「いや、面白かったよ!」と語り、日経エンタの作品紹介でもどちらかというと賞賛系・・・しかもピーター・ジャクソンが一枚かんでいる。
そして、宇宙人が写っているらしい写真の部分にはモザイクが!!!怪しい・・・怪しすぎる!!
という訳で、これは見に行かねばなるまいと、レディースデーに出動。そして、驚愕の世界を垣間見ることになったのでした。

 まず、この作品。モザイクといい「エイリアン立入り禁止」の貼り紙といい、なかなか遊び心が感じられるのですが、映画館の女性用トイレの個室一つ一つに「エイリアン立入り禁止」貼り紙が貼られていたのには、流石に徹底してる!!と感心しました。
 さて客層ですが女性が少ない・・・レディースデーなのに男性の方が多いという客席。やっぱり女性向きじゃないのかなと思いつつ上映開始。そしてそれはエイリアンの登場と共に、ああ、女性向きじゃない(笑)と確信に変りました。実際に、私の目の前の女性はビジュアルに耐えられなかったのか、始まった途端隣の男性に何かを訴えはじめ、見事途中退場(笑)そこまで気持ち悪いかなぁ・・・と思いながら、こんなに面白いのに!と私は満足モードへ。

 物語はドキュメンタリータッチで進んでいきます。この構成がね。本当に良く出来てるなと思いますよ。BBC制作の海外ドキュメンタリー番組を彷彿とさせる描き方。主人公の母という人がインタビューに答え「こんなことになるなんて!」と涙ぐむシーンでは、「おーっやってくれるじゃないか!!」と思わず笑ってしまいました。映画の冒頭、出てくる人、出てくる人、宇宙人の存在する世界が長年続いててもう特別なことじゃないという話しと、何かが起こった事を示唆するコメントばかりで・・・上手いんですよ。
小気味が良いほど「ドキュメンタリータッチ」というシステムが、物語をスピーディーかつ分かり易く展開させていきます。掴みは上手く、展開も速く、目が離せないノンストップの約2時間。でもこれは決してエイリアンが出てくるバカ映画ではなく、色々なことを考えさせられる作品でした。では、ここから先は更にネタバラシになるので読みたくない人はやめてください。

 南アフリカ上空に20年前突然現れた宇宙船。そしてその中に居た宇宙人たちは、いわば難破船状態で悲惨な状態である事を確認。どうみても宇宙からの難民です。南ア政府は仕方ないので「第9地区」に宇宙人を移住させることにします。しかし諸事情により、もっと人間の生活圏から離れた場所に彼らを移住させたいと考えた政府は、ある民間企業にその作業を委託して・・・というのがこの物語の導入部。ここでポイントになるのは、南アという設定です。明らかにこれはアパルトヘイトを暗示してます。具体的には出てきませんが、人権(正確人は宇宙人権)を振りかざす団体あり、それ故に立ち退き前にはサインを一軒一軒もらわねばならず・・・この「サインください」の滑稽な事。人間の文字が読めないエイリアン相手に英語の書類をかざして、時に命がけでサインを集めるのです。でもこれ、笑い事ではなく、これに近い事が実際に行われていたと知人が後で教えてくれました。アパルトヘイトがまだ存在していた頃、実際に文字が読めない人々に南ア政府はサインを集めに周っていたそうです。
というように、最初は何だかヘンテコな映画だなと思うのですが、次第にこれは移民問題、人権問題、感染するという事、様々な原因による偏見、暴力、そしてお金の為なら手段を選ばないという人間のエゴなど、我々が住む社会が抱えている問題を描いているという事が分かってきます。

 「エビ」と呼ばれる宇宙人のビジュアルはすこぶる気持ち悪く、そこが女性向でない理由の一つなのですが、この悪いビジュアルこそ考えられた仕掛けとも言える重要なポイントです。人は見た目が悪いものに対して、偏見や憎悪を覚えるものです。たとえばゴキブリ。基本的に皆嫌いですよね。そして退治しようとする。そこに躊躇はありません。それと同じように見た目が醜悪な宇宙人は酷い扱いをしても良いという意識が人々には生まれがちです。実際彼らは暴力的で、話しが出来るような状態ではない生命体です。ですが、中には知的な宇宙人も存在していて。。。というより、考えてみれば宇宙を旅して地球にたどり着いた彼らの方が進んだ文明の持ち主なのです。でも、ビジュアルや大勢の宇宙人の行動パターンから一般的な「宇宙人像」が出来上がってしまった観客は、知的な宇宙人の登場に「へ〜宇宙人でも賢い人が居るんだ」と思わされます。見た目が悪いものにたいして、何をしても良い、見た目の悪いものが賢いわけが無いと思い込む。人が持つそういう「偏見」をこの作品は突いてきます 。

 さて、ある事件がきっかけで主人公は徐々に宇宙人化していきます。とある液体をかかってしまったがために、とんでもない事になっていき・・・と、これは今世界中で起こっている「感染」ですよね。そして、いわゆる「新種」である彼にお金の匂いを嗅ぎ取った企業が取った彼への扱い。感染した彼にはもはや人権はなく、「金になる検体」という認識しかされなくなってしまいます。そして、変異は、嫌悪、偏見も生み出すのです。
 この「お金になる検体」ですが、実際に「新たな新型インフルエンザ」に感染した患者が出た後進国が、そのウィルスを国際的な機関から提供を求められ、無償ではなく売却を申し出たというのをニュースで聞きました。 宇宙人化した彼の体を金のなる木のように血眼になって探す企業を見ながら、この実際にあったニュースが頭を過ぎったのは私だけではないと思います。
 宇宙人が持つ破壊力抜群な武器を操ることが出来る唯一の人間となった主人公。その変異した秘密を探れば、今まで謎だった武器との関係を解き明かし、人間もその武器が使えるようになるかもしれない。という訳で、彼は一気に貴重な存在となり、「お金に換わる生物」になった途端、人間ではなく物のように扱われていきます。ここにまた我々は人間の怖さを見るのです。

 醜いもの、邪魔なものを暴力で排除していこうとする人間と、醜いながら心を持ち主人公と友情のようなものを育み高度な技術を持つ宇宙人。この分かりやすい対比を見ているうちに、野蛮だと思っていた宇宙人の印象が変容を遂げ、人間の方がよっぽど野蛮に見えてくるという皮肉。(まあ、そんな宇宙人は2人しか出てこないんですけどね)

 「第9地区」はエイリアン映画であって、エイリアン映画にあらず。実に様々な要素が盛り込まれたジャンルわけ不可能な不思議な映画。体力が無い日に観てしまったら、そのパワーに圧倒されてしまうかもしれませんが、あのビジュアルに耐えられる人には、きっと多くの問題を投げかけ考えさせられる、印象深い一本になることでしょう。


<February>

MOVIE・アバター3D

◆2月21日◆MOVIE◆アバター3D◆

 ジェイムス・キャメロン監督は好きじゃないし、CGで作られたパンドラに住む部族、ナヴィの顔は爬虫類系で抵抗があるしで、全く見に行く予定はなかった「アバター」ですが、周囲の人が余りに3Dが凄い、凄いというので、そしてTOHOのポイントが貯まっていて3D料金300円を払えば見られるという事もあり、遂に見に行って来ました。「アバター3D」を。

 恐らく今後アカデミー賞でいくつかの賞を受賞して物凄いロングラン上映になる作品だと思うので、これから見る人の為に物語はあえて語りませんが、とにかく「映画」というより「アミューズメント」、「見た」というより「体験した」という作品でした。そして、3Dメガネは重いんですよ、本当に。約3時間。あのメガネをかけ、斜めになるとちょっと画像が良くなくなるので真っ直ぐ向きながら見ているうちに、首が〜首が〜痛いよ〜、疲れるよ〜となりました。とはいえ、次々に繰り出される映像には飽きることがなく、案外あっという間の3時間でした。

 しかし、見終わってみると・・・3Dについて考える事が色々出てきました。まずこれ、メガネをかけている人の場合メガネONメガネで相当見づらい。そして、恐らく目の疲労度は高いと思います。3Dを成立させるため、脳と視神経が調整をし続けているんだろうなぁと思いながら見ていました。なぜなら、見始めより時間が経つほど立体が自然に感じてきたからです。
 そこまでは物理的な話しですが、それ以外にも感じる事が多々ありました。まず、3D作品は、アバターのヒットもあり、映画会社にとってはますます重視されていくだろうと思われます。DVDが普及する中、映画館に足を運ばなければ体験出来ないという付加価値を見出せたのですから。また、海賊版対策としても完璧です。現に中国での収益がもの凄く伸びているそうです。という事は、今後3Dにより多くの予算が流れていく事でしょう。となると、3D向けの映画の企画が通り易くなる。つまり、SFやファンタジー、アクションといった映像重視の作品です。そして描かれる「世界」が狭くなって行く。

 はっきり言って、今回の「アバター」は面白い映像を見せてくれていれば、物語そのものは大して重要なものではないように感じられました。映像を楽しむためには、かえって単純なストーリーの方が良いぐらいです。情報を盛り込みすぎると観客は混乱するという読みが製作者たちにはあったのではないでしょうか。映像の情報量が圧倒的に増えた分、物語はよりシンプルになり、映像に目を奪われているが故に、観客はそのことに気付きにくいように思います。
 従来の2D映像で物語重視の作品は今後も作られていくでしょうし、そうしてもらいたいのですが、気になるのは資金の分配です。 3Dが1ジャンルとして存在するのは良いのですが、アバターが巨費を投じて作られたように、3Dは非常にお金のかかる性質のものと思われます。となると、自然の流れとして今までの映画産業の資金の流れが変っていくのではないかと危惧せざるを得ない。アバターが稼ぎ出した収益は、また第二の「アバター」に注ぎ込まれて行くことでしょう。簡単に海賊版が作れない3D映像は映画業界にとってかなりメリットがあるようです。という訳で、いわゆる文芸作品、物語重視の作品は今後も作られていくでしょうが、3Dの登場により、企画が通り難くなる作品の数が増えていくような気がします。

 今回初めて映画館で3D作品を見て、「大きな変化」を、もっと大げさに言うと「映画界の一つのターニングポイント」を感じました。今後技術が発達し、メガネの軽量化が進めばますます普及していくことでしょう。今年は3Dテレビも発売されます。より鮮やかに、より臨場感のある画像を、とテクノロジーが発達すればするほど、我々は視覚により刺激の強いものに囲まれていくようになります。
確かに3Dは凄い技術ですし、今まで見た事のない世界に連れて行ってくれます。ですが、よりクリエイター達にイニシアチブを取られる、視聴がより受動的な行為になっていくような、手放しでは喜べない感覚が後に残りました。3Dがこれからより普及していくのか、それとも廃れていくのか。どちらになるにせよ、ますます過剰になっていく情報の渦の中で、自分にとって何が本当に面白いと感じ、必要であるのかを見失わないように舵取りをしていく事の必要性と難しさを感じる出来事でもありました。

 それにしても、慣れというのは凄いもので、見ているうちに爬虫類系のナヴィの顔が綺麗に見えてきたのには驚きました。一番凄いのは、やはり人間の柔軟性なのかもしれません。


<January>

MOVIE・かいじゅうたちのいるところ/BOOK・のだめカンタービレ/

MOVIE・かいじゅうたちのいるところ


◆1月29日◆MOVIE◆Drパルナサスの鏡◆

 この作品の監督がテリー・ギリアムだと知った時から、好きか嫌いかはっきり二つに分かれる映画だろうと思った。そして、そんなにヒットすることは無いだろうと予想した。
 そしてそして多分私は好きだろなと思いながら劇場に足を運んだのだが、思った以上に楽しかったし、私好みな映画だった。どれぐらい好きかというと、観ているうちに、にやっと微笑んでしまったぐらい好きだ。好きなんだ、この作品が!!わけが分からない人が沢山いたって、そんなことは知ったこっちゃない。だってこの作品は面白いんだから!!!

 という訳で、ここからは読みたい人だけ読んで頂きたいし、ネタバレがいやな人は読まないで欲しい。

 まず、何故にPG12だったのか観た後も謎だったのだが、よくよく考えてみると何度も首をくくるシーンが出てくるからなのだろう。故ヒース・レジャーの遺作である本作。しかも撮影途中で彼が急死した為、完成も危ぶまれたのだが、彼の役をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが演じるという奇跡的な展開を見せ無事完成するに至ったという、そんないわく付きの作品である。因みに、代役を買って出ようとしたトム・クルーズは監督に断れたらしい。英断です!(ファンの方には申し訳ない。笑)

 さて、ヒースの登場シーンは橋の下で首を吊られているというものだった。遺作だけに、一瞬悪趣味というか、象徴的というか、うーん・・・と思ったのだが、彼がこの後急死するとは誰も予測してなかったので、この登場シーンは偶然である。が、やはり驚かされた。

 スクリーンで観る彼は魅力的な表情を見せ、その声音や動きに、映画だけでなく舞台でも成功しそうだなぁと感じ、改めて、ああ本当に惜しい人を失ったと悔やまれてならなかった。
物語は、悪魔と、悪魔と取引したDrパルナサスのエンドレスゲームについて、である。悪魔とパルナサス、そしてそれに巻き込まれる人々。独特の映像美とジョークで進んでいくのだが、ギリアムの世界観に同調できない人にとっては何が何だか分からない代物だと思う。分かりやすいハリウッド映画に慣れた人にとっては、未知との遭遇かもしれない。そんなまか不思議な世界は、Drパルナサスのイマジナリウム(邦題では「鏡」と訳していますが)の中で展開していく。

   撮影は恐らく鏡の外の世界から進めていったのだろう。外の世界に居るトニーはヒースが演じ、鏡の中のトニーをジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが演じていく。この撮影が鏡の外と内を混ぜて撮影していたら、本作は完成を見なかったかもしれない。
 鏡の世界はパルナサス博士の頭の中であり、入った人のイマジネーションの世界でもあるので、鏡の世界に入り込んだ人の容姿は自在に変化する。という訳で、1つの役を4人で演じても何等違和感がないどころか、最初からそういう設定だったように思えるのだ。もちろん、ヒース一人で演じていても面白い物語になっていたと思うが、4人の魅力的な俳優の共演はまた面白い結果を生み出していた。ヒースからジョニー・デップに変わった瞬間、やはり魅力的な人だなと胸がちょっとトキめいたし、ジュード・ロウはいい加減な雰囲気を上手くだしているなぁと感じ、やっぱり一番の悪役はコリン・ファレルかと納得。三者三様の「存在」を楽しめた。

 というように、トニー役は勿論注目なのだが、この映画には他にも魅力的な俳優が次々に出てくる。パルナサスの娘、ヴァレンティナのリリー・コールには、間違いなく人を惑わせる魅力がある。彼女を想うアントンを演じたアンドリュー・カーフィールドも役どころをしっかり把握し、好青年を丁寧に演じていた。先が楽しみな俳優である。
 そして味わい深いDr.パルナサスを演じたクリストファー・ブラマー。彼は映画、サウンドオブ・ミュージックのトラップ大佐だが、言われないと気付かないぐらい年齢的な理由を差し引いても別人だった。年を重ねた役者ならではの味わいと哀愁がある。
 そして、Mrニックである。ここぞという時に必ず現れる悪魔、ニックを演じたのはトム・ウェイツ。この人の他の演技も見て観たいと思わせる飄々とした味のある人物なのだが、何とグラミー賞を受賞したこともあるミュージシャンらしい。どんな音楽を生み出すのか一度聴いてみたいものだ。そして、思わずその登場が嬉しくなってしまったのはアラビアのロレンスことピーター・オトゥールだった。

 モンティ・パイソンが好きな人はぜひ観て欲しい。テリー・ギリアムはかの番組に関わっていたし、あのオープニングのアニメを作った人である。そしてアメリカ人にも関わらず、モンティ・パイソン流の英国的な笑いが随所に感じられる、ブリティッシュな作品だ。
 テリーおじさんの魅力的なホラ話しは、波長の合う人間には異空間への旅を、イマジネーションの世界で遊ぶ時間を提供してくれる。ここではないどこか。そして、有無を言わせぬ力技。当たりと出るか、ハズレとでるか。どちらにしても、たまには万人に受けない作品を観てみるのも良いのではないだろうか。

追記
 この作品、思ったよりヒットしているようで、パンフレットが売り切れ入荷待ちになっていたし、映画興行ランキングにランクインした。3人の助っ人のおかげなのか?


◆1月15日◆BOOK◆のだめカンタービレ 全23巻◆

それは数年前のある月曜日の夜。テレビ画面の中で踊るマングースの着ぐるみに、この動物何だろうと思いながらドラマの初回を見て、次回もとりあえず見てみようと思ったのが、私の「初のだめ」だった。
その数年後。NHKのBSまんが夜話の再放送を2009年暮れ、深夜偶然途中から見てしまったのだが、日頃ダメ出しが多い「いしかわじゅん」氏が褒めていた。何の作品かというと「のだめカンタービレ」。残念ながら「夏目の目」が終ってから見始めたので、夏目氏の意見は余り聞けなかったのだが、夢枕獏氏も含め全員賞賛モードに入っている。友人が原作を読んでいて、最終巻が12月に出たという情報は持っていた。そしてまんが夜話の人たちが褒めている。そして、ドラマは面白かった。しかも、私は曲がりなりにも音楽教員免許を持っている程度のピアノ弾き。こ、これは・・・23巻大人買い?大人買いなの?!!!!!

 と、時はクリスマスシーズン。大人買いすべきか否か悩んでいた矢先、思いっきり身近な人からクリスマスのプレゼントとして貰えることになり、遂に23冊入手したわけである。子供な大人買い・・・唱えてると夢って叶うんだね。←小さいなぁ・・・(笑)

 さて、本題である。23冊Amaznoから届いた箱を開封し、綺麗に23冊順番に並べて読み始めた。私はドラマから入ったので、頭の中では俳優陣が動くかと思っていたが、巻を追うごとに原作は原作、ドラマはドラマの千秋とのだめが丁度良い距離を持って存在していった。
 原作の千秋はドラマより若さを感じるし、のだめはスケールの大きさを感じる。そして、一見そっけなく見える絵が、次第に生き生きと動き出し、欲しい時に欲しいタイミングで音や高揚感が飛び込んでくるようになって来た。特筆すべきは演奏シーンだ。紙という媒体で音を表現する。感覚的なものを表現するのがニノ宮氏は実に上手い。時折五線に書かれた音が紙面に登場するが、マンガにありがちな擬音はほとんど存在しない。音の響きや強弱を巧みに絵だけで表現していく。それは光だったり、花だったり、回想シーンだったりするのだが、実に的確、かつ明確に描き出される。上手いなぁと感心することが何度もあった。

 たとえば、クラッシックの楽曲は、その旋律が一つのモチーフを持って色々と悩んだ挙句解決に向ってトーンと抜ける瞬間がある。この音楽の高揚感と開放感をどう伝えるのか。非常に難しいところだと思うが、本作ではその抜けた瞬間、画面がパーっと一気に白くなった。通常画面が白くなるというのは、画面の力が弱まるリスクを背負うと思うのだが、光明をあらわした白ははっきりと、確信を持った輪郭を映し出し、いつもより太い線で描かれた絵が曲の昂りを実に上手く、動的に表していた。
 正直、物凄く絵が上手い人ではないと思う。しかし、マンガという媒体を使って物語を伝える、という事については素晴らしいものを持っている。そう、ニノ宮氏自身がのだめなのではないかと思うほどに。

 私が音楽を大学で学んでいた時、度々思うことが二つあった。一つは、中途半端な才能なら要らない。逆に不幸かもしれないという事と、ピアノという楽器は孤独であるという事だった。ピアノに限った話しではないが、ピアノは非常に孤独である。
 母校の某教授によると、テクニックがつくのは19歳まで。後は表現力が成長していくのみだという。私は早い段階で自分の才能に見切りをつけたので、いかに自分が楽しむかにシフトしたのだが、プロとして活躍して行けるのは、本当に一握りの天才しか居ないし、その才能は神様から選ばれた人にしか無い。
 天才にも努力は必要で、プロになった人たちの練習量は並大抵ではないと思うが、彼らは努力では手に入れられないギフトをまず持っている。本人が望まなくてもそれは贈られている。本作でのだめは楽しく弾いていたいだけなのに、と様々な壁にぶつかる。彼女の才能に気付いた人たちは彼女を野放しにはしてしておけないと様々なアプローチをしてくる。その周囲と自分、自分と自分の才能との葛藤が全編に渡って描かれている。

 そして、そのギフトを貰った人が歩き続けなければならないのは、孤独な道だ。本作で何度ものだめがつぶやく台詞に、ピアノはオーケストラに入れない、というのがあるが、ピアノは実に自己完結型楽器であり、より孤独を感じるようになっている。ピアノは連弾やアンサンブル、そしてコンチェルト以外は常に一人である。普通プロでもなければコンチェルトを弾く機会はなかなか無いから、一人で演奏するスタイルが基本になる。一方、声楽や他の楽器、ピアノ以外の楽器には、少なくとも基本的にピアノを中心とした伴奏がついている。(もちろん無伴奏の曲もあるが)
 しかし、ピアノはたった一人で板の上にのらなければならない。一人で闘い、一人で帰ってくる。他人の伴奏で出来の良し悪しが左右されるような事がない変わりに、調子が悪いからといって、ひっぱりあげてくる伴奏者もついていない。なかなかストイックな楽器なのだ。故にのだめが良く入りこんでいるように、ドツボにも入りやすい。そんな状態であるから連弾、2台のピアノの曲を弾いていると、通常では感じられない発見、音楽の素晴らしさ、楽しさ、心強さを感じる瞬間が訪れる。
「のだめカンタービレ」では、のだめにとって重要な局面で、千秋との2台のピアノの演奏が出てくる。何故こんなにピアノ弾きの心理が分かるんだろうという絶妙さで2台のピアノ曲が登場するのだ。

 ドラマを見ていた時に感じたのは、千秋の華々しさだったが、原作を読んで感じたのは、やはり主役はその題名にあるとおり「のだめ」こと野田恵だという事だった。こんなに「変態」と言われ続けるヒロインは未だかつて存在していなかったが(笑)時にかわいく、時に想像以上に強く、大人でスケールの大きさを感じさせるヒロインも新しい存在だった。最初は天才千秋を追いかけるのだめという形が、いつの間にかのだめについて行くのに必死になる千秋、と関係が変化していくのも非常に面白い。
恋愛ものであり、コメディものでもあり、成長の物語であり、才能の物語である。そして世の人々にクラッシック音楽を発見、あるいは再発見させた物語「のだめカンタービレ」。この千秋とのだめ、二人のこれからの活躍をまた読める機会がある事を祈るばかりである。

※2010年1月現在、既に雑誌では、千秋メインと思われるオペラ編の連載が始まっています。


◆1月13日◆MOVIE◆かいじゅうたちのいるところ◆

私にとって2010年初映画が「かいじゅうたちのいるところ」でした。原作の絵本を読んでいないので、「映画化」についての感想は無いのですが、主人公の男の子のかわいらしいこと。また、かいじゅうたちの表情、質感がとても温かい映画でした。が、物凄く眠かったんです(笑)私にとっては「かいじゅうたちと睡魔のいるところ」になってました(苦笑)
40Pぐらいの絵本を2時間近くの長さに引き伸ばしたところに「睡魔」が居ついてしまったんでしょうかねぇ。。。

 でも、久々に全部CGではなく着ぐるみで撮影された手作り感あふれる実写映画を見て満足でした。砂漠のシーンとか、森のシーン、海のシーン、とにかくビジュアルが素晴らしい。かいじゅうが作り出した巣のような家とか、模型とかもとてもよかったです。そして、何といってもかいじゅうの顔とか触ってみたいし、折り重なって眠ったらさぞかし気持ちよいんだろうなぁと思いました。あの・・・押しつぶされなければ(笑)そして、主役のマックス君のほっぺを触ってみたい・・・とにかく手触りが楽しい映画でした。

 この物語は、他者と生きていくことについて描いた話しだと思うのですが、何でしょう。あの時間の流れ方のせいでしょうか。描き方が原因なのか。かいじゅうとマックスの関係の描き方が希薄というか、いつの間に繋がったの?!と不思議があちこちで発生してしまいました。故に、私の中に残ったのは言葉になるようなメッセージではなく、触ってみたいという感覚的なものでした。

それにしても、かいじゅうの中に入ってた人。さぞかし大変だったでしょうね・・・



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